<『自然資本の経済』−「成長の限界」を突破する新産業革命−(原題:Natural Capitalism、日本経済新聞社発行、ポール・ホーケン、エイモリ・B・ロビンス、L・ハンター・ロビンス著、佐和隆光監訳、小幡すぎ子訳)が2001年10月より発売。>
●身近な環境問題
近年、ダイオキシン、環境ホルモン、酸性雨など大気や河川や海洋の汚染、省エネ・リサイクル、ごみ処理、森林伐採、絶滅危惧種の保護、河口堰問題、原発問題、オゾン層などに関する市民活動が根強いものとなっています。●環境問題の混乱ところが、このページでは、これら身近な環境問題は取り上げていません。有限の地球の中で人間活動が急激に拡大してきたことによって、否応なく直面せざるを得なくなる地球規模の諸問題の中でも、もっと分かり難く、生活にあまり身近ではない問題、しかし、自分の子どもたちの世代のためにぜひ取り組まなければならないことを扱っています。
それは今、必ずしも国内で顕在化しているわけではない、地球温暖化、人口爆発、土壌の劣化・喪失、食生活の変化を含む消費の爆発的増加、生物多様性の減少、自然災害に対する脆弱性の増大の問題など、地球規模の問題を乗り越えるうえで、重要な科学的基礎となる、気温、降水、土壌水分などの分布を予測することについてです。
はじめに掲げた身近な環境問題も含めて、これらの地球規模問題は、これまでの社会経済が環境に対するコストを支払うことなく大量消費型経済のもとに繁栄してきたことによって累積されてきました。今の社会経済を持続可能な社会へ、自然と共存しうる社会へと転換させていくために、私たちはどんなことを考えるべきなのでしょうか?それを考える前に、この地球は、大気、海洋、雪氷、生態系、地球内部などの間で壮大な相互作用を営みながら変動し変化してきました。この地球システムの変動・変化について、次の3つの異なるタイムスケールの違いをはっきり区別して理解しないと、現代文明が100mもの海面上昇に沈むとか、南極大陸に古代文明が存在したとか、いわゆるトンデモ本にあるような、誤った認識に陥りやすいので、注意が必要です。
(1)数年〜数十年にわたる地球温暖化などの気候変動の予測精度を向上させること
(2)数十年〜数千年の間に人間活動の急激な拡大が破局的な気候変動を招かないように、過去の氷期や間氷期に繰り返されてきた気候ジャンプのメカニズムを解明すること
(3)数十億年の過去にまで溯り、地球と生命の誕生と進化がどのような奇跡によって成し遂げられてきたかを理解し、人が宇宙の中で存在することの意味を問うこと
「環境問題」は、「地球温暖化防止」、「廃棄物問題」、「自然保護」、「環境汚染防止」、「核の管理・原発の安全性」など、人それぞれ、よって立つ価値観が異なります。そのせいで環境問題同士で解決策が相反するケースが出てきます。人間にとっての害獣の駆逐が生態系を損なってしまう逸話は有名です。この場合、「生物多様性の保護」という価値観はより汎用的かもしれません。
このほか間伐材を使う割り箸の例も有名ですね。地球温暖化対策としての原発については、原発と核燃料のライフサイクルやテロ問題が絡むのでなかなか社会的合意が得られません。
- ・生態系の保護と地球温暖化対策
- 大気中CO2を減らすには、せっせと木を切って紙や家具や建築材料に使い(廃棄時は埋没処理)、その後に植林していく方が、成長しきったままの森林よりもCO2を吸収する能力が高いし、林業が発達して森林の維持・拡大にも繋がります。しかし、それは自然のままの森を残すべきという価値観には反します。
紙や木材の使用を制限すると、林業が衰退し、林業からの撤退は森林を伐採して田畑や宅地に転換することとなるという話は大変切ないものです。
自然のままの森が日本の中にあるのか? 森林での働き手が減ってしまったために、森への手入れが困難となり、森が病気になってしまう場合もありますが、その病気自体も、人間にとって病気かもしれないが、森にとってはどうなのかよく分からないところがあります。
- ・廃棄物処分場問題と地球温暖化対策
- 紙、木材、プラスチックは、地球温暖化対策としては地中に埋めていくのがベストです。昔の「夢の島」のように海域を区切って埋め立てに使えば一石二鳥でしょう。将来、ゴミを資源として再利用するにも容易です。
日本海溝に投棄するのも効果的ですが将来の再利用には不適です。放射性廃棄物を日本海溝に投棄すれば、毎年数センチずつ沈み込むプレートとともにマントルに戻っていきます。
しかし、ゴミがやたらと発生するということはゴミ分別・収集・運搬・処分のための行政サービスコストが掛かり、処分地の確保には周辺住民との大変な調整が必要であり、公害防止のためのコストが掛かる。海を埋め立てる場合にも漁業者など様々な調整とコストが掛かる。
- ・「保護」と「環境への負荷の軽減」
- 「保護」という行為は、人間の価値観に左右される行為である限り、その結果がどういう影響を及ぼすか、好ましい結果なのか好ましくない結果なのかも、これまた人間の価値観によります。「人間の行為が及ぼす影響を予測できるようにする」ことは間違いなく重要でしょう。予測することが困難な場合、なるべく影響を与えない、つまり、環境への負荷を低減することは、「いずれにしても後悔しない施策」(No regret policy)であるかもしれません。
あるいは、もし地球が氷期に転落し始めた時、人類は積極的に環境に手を加えなければ、悲惨なことになるかもしれない。その場合でも、「環境への負荷を低減」という価値観はNo regret policyであり続けるのだろうか?磯焼け防止
温暖化にもメリットはある:上/下
世界人口
武田研究室>ダイオキシン/科学技術計画/屋根の太陽電池はみっともない/森林は二酸化炭素を吸収しない/知っていることだけで「正しい」(省エネは環境に悪い?)/石油は本当に無くなるのか?
単純に考えれば、原材料から加工した製品よりも、リサイクル製品の方が価格が安くなって当然と思いますね。ところが、実際にはなぜだか逆の場合が多いようです。そんな場合、その購入を促進することにはどういう意味があるのだろう? 「値段が高いのは輸送費、労力、消費電力等がかさむためで、省エネ・省資源にならない」と断言する前にちょっと考えてみよう。原材料を伐採・輸入して製品化するのと、古紙を回収しリサイクルするのとで、労力、郵送費を含む投入エネルギーの消費はどちらが多いのか? これにはいくつかの要因を考慮する必要があります。
1番目は、これまでの一次産品、二次産品には、資源はタダ、廃棄物処分もタダというかつての時代の影響を残していて、製造コストに環境コストが適正に織り込まれていないかもしれない。途上国が資源の再生産のことも考慮せずに資源を売り渡していれば、それにリサイクル製品が価格で勝つことはできないだろう。
2番目には、リサイクル製品の売上が量的に少ないせいでコスト高になっている場合もあるだろう。それなら、リサイクル製品の購入を促進することによってその価格は本来のエネルギー投入量の違いを反映したものになるだろう。
3番目は、リサイクルに伴う分別収集の労力について、各家庭のボランティアに依存してるのであれば、エネルギー投入量的に問題が少なそうである。かつて経済はタダの資源とタダの廃棄場所を利用してきた。これからの経済でタダの労働力を利用することを積極的に考えてもよさそうな気がする。
4番目は、リサイクルを謳うせいで、かえって消費の歯止めを外してしまってはいないだろうか。怪しげなリサイクルに比べ、リユース(紙の裏面を使うなど)やリデュース(紙の使用量を減らしたりペットボトルの肉厚を薄くするなど)の方が、環境への負荷は間違いなく少ない。
5番目は、そもそも原材料が森林のように再生可能なものの場合について、その消費を減らすことにどういう意味があるのかは、「環境問題の混乱」で述べたとおり。武田研究室>環境・リサイクル>紙のリサイクル・・・月給組と遺産組/リサイクルと循環型社会の矛盾/ペットボトルのリサイクル/ペットボトルとお茶碗/「ゴミため」に生きる/容器包装リサイクル法
氷期には、数千年のオーダーの頻度で急激な気候変動(ダンガード周期、ハインリッヒ・イベント)が襲っている。その時代の人類にとってどのようなものだったのだろうか?
グラハム・ハンコックの「神々の指紋」には、温暖な地域の食物を胃に残したマンモスが永久凍土から発掘されたことから、逃げる間もなく凍りつくほどの急激な寒冷化が起こったとしている。それを根拠に、映画「ザ・デイ・アフター・トゥモロー」には強烈な爆弾低気圧(スーパー・フリーズ)で地上が瞬間的に凍結するシーンが描かれている。ところが、実はマンモスの胃の中の食物は寒冷な地域にも見られる。このように本書にはハンコックの偏った解釈や引用の改竄が数多く見られるようだ。実際にどの程度急激なものだったのだろうか? グリーンランド氷床コアの研究によれば、数年で数度程度の急激な温暖化とそれよりも緩やかな寒冷化、つまりノコギリ状の非対称なものとされている。
天候の急変、寒暖の繰り返しとともに季節が移り変わり、いつもより暖かい冬、暑い夏が訪れ、あるいは、いつもより涼しい夏、厳しい冬が訪れる。昔は波打ち際だった場所がいつの間にか満潮時にも乾いていたり、あるいは、干潮時にも海没したままだったり、そんな感じで気候変動が進行していたのだろう。国境に縛られることなく放浪して狩猟・採取生活を送っていた当時の人類にとっては特段の問題はなかったのかもしれない。生物学的に特段優れているとは思われない人類が生存競争の中でその勢力を増やしていったのは、むしろ気候変動に対する適応能力だったのではないだろうか。人類の進化の歴史が常にアフリカの中央地溝帯から出発していることを考えると、そこには地の利があったのかもしれない。つまり、氷期でも温暖な低緯度地域であって、しかも貿易風によりコンスタントに降水が望める東岸に山岳地帯を持つ場所のうち、南北に移動可能な陸地を探してみよう。
ユーラシア大陸ではインドシナであり、氷期にこそ南北に移動可能となるものの、間氷期には移動が制限される。
南北アメリカ大陸がパナマ陸橋で陸続きとなったのは300万年前であり、また東岸に山岳地帯がない。
それに比べて、アフリカは東岸に山岳地帯を持ち、しかも赤道を挟んで南北に広がっているので、氷期・間氷期の気候変動による植生分布の変化に対して移動可能である。さて、定住農耕生活をベースとする現代において急激な気候変動が生じた場合、国境のせいでたちまち大量難民問題、つまり「日本沈没」に書かれたような民族大脱出(エクソダス)と離散民族(ディアスポラ)が生じるだろう。しかも、もし何十年前からどのような変動が襲うかを予測できたとしても、十分な対策が国境を越えて講じられるだろうか? もしそれが可能な国際社会システムとなったとして、土壌は森が何十年も掛けて造る。これまで痩せた土地で灌漑用水網を整備する試みがなされてきたが、塩害を悪化させる結果に終わっている例が多いという。地球温暖化で降水量が増加したからといって、簡単に肥沃な土地に生まれ変わるわけではない。
私は、「持続可能な社会の実現」という表現は、非常に人々を誤解に導きやすい不適当な訳語と考えている。省エネ、リサイクルで環境への負荷を減らす努力をしていれば、環境変動を防ぐことができるような錯覚を人々に与えかねない。
「Sustainable Society」の意味には、変わっていく地球環境に対して存続し得る社会をどうやって実現するのかという意味合いで考えるべきである。さて、地球規模問題の根源には、人口爆発、あるいは、生活水準の向上に伴う消費の爆発という問題がある。地球温暖化問題がサミット課題となり、国内では社会的に関心が高いのは省エネ・リサイクルのように見える。それに比べて人口爆発/消費の爆発については一時に比べ熱心でないように見える。グリーンピースが熱心なのはいくつかの人間好みの動物保護と環境汚染と原発問題のみのように見える。
人口爆発の問題解決には、教育、生活水準の向上、女性の地位向上であると言われている。その一方で、生活水準の向上あるいは欧米型文化の浸透は、食生活における肉嗜好、電化製品やマイカーの普及によるエネルギー消費の増大、生活空間の増大による土壌の喪失を招きかねない。
地球温暖化問題でも、途上国の工業化や自動車の普及が懸念されているが、これまで環境に配慮することなく繁栄を享受してきた先進国のエゴに過ぎないという途上国側の主張もまたもっともなものである。
こうして考えると、完新世の安定した環境を国際協調で維持し得ると考えるのはいささか甘すぎるようである。数十年のタイムスケールで環境が変わっていく。それを予想精度の向上によって国境を超えた投資をどう促進していくか、そこで最も困難なのは森林が造り出す土壌が減少していく一方で降水分布が変化していくという問題だろう。国境を越えた大量難民をいかに養うかについて、土壌に頼らない食糧生産というものは果たして可能なのだろうか?