1984〜87年、筆者は運輸省(現在の国土交通省)から科学技術庁(STA)海洋開発課(現在の文部科学省研究開発局海洋地球課)に出向し、最初の2年間はJAMSTEC予算を担当、残り1年半は地球規模の気候変動研究の立ち上げに取り組んでいた。この頃のJAMSTECといえば、半没水型双胴船「かいよう」の国庫債務負担行為約73億円の最終年度、50%もの大きな後年度負担をどうやって乗り越えられるかという大変な年であった。それをなんとか乗り越えたら、翌年からは300m飽和潜水技術開発「ニューシートピア計画」の開始、波力発電装置「海明」の第II期実験の開始、3000m無人探査機「ドルフィン3K」、「しんかい6500」と支援母船「よこすか」の建造着手など、まあ、とんでもない予算続きだった。深海調査は国としてやらざるを得ないとしても、それ以外の研究に対しては縮小を迫られ、将来性や既存の省庁との仕分けなどを問われるなど風当たりの強かった時期でもあった。
そんな時期に、JAMSTECで気候変動研究が芽吹いたのは、今から振り返れば、当然といえば当然。しかし、当時のJAMSTECでの海洋観測の規模・体制から考えれば思いもよらぬことだった。
すなわち、過去最大の被害を出した1982/83年のエルニーニョ現象のあと、世界の研究者のコミュニティーでは地球規模の気候変動研究への機運が大いに高まっていたに違いない。実際、NASA、NSF(全米科学財団)及びNOAAがESSC(Earth System Science Committee)を作り、"Earth System Science"の一大キャンペーンを行っていた。その中心となっていたのが"Mission to the Planet Earth"、すなわち、極軌道プラットフォームによる宇宙からの地球観測システムだった。
ジェームズ・ラブロックの「地球生命圏−ガイアの科学」が1984年に出版されたことも、少なからぬ影響を及ぼしたかもしれない。いわゆる「ガイア仮説」−生物がそれぞれ自分勝手に生存競争を繰り広げながら、生態系全体として生存しやすいように環境を制御し得るか?−という仮説を提唱したもの。地球を一つのシステムとして理解すべきことを分かりやすく紹介した本であるが、それよりも世界の環境保護運動に大きな影響を与えた本として有名となった。
1984 年に大ヒットした"We are the World"の影響も見逃せない。ハリー・ベラフォンテやマイケル・ジャクソンらが企画したアフリカ救済キャンペーンであり、スティービー・ワンダー、ポール・サイモン、ティナ・ターナー、ビリー・ジョエル、ダイアナ・ロス、ディオンヌ・ワーウィック、ボブ・デュラン、レイ・チャールズといったそうそうたるアーティストが参加し、サヘル地方の干ばつの深刻さを訴えた。
野口英世やシュバイツアーの伝記の世界だったアフリカが、準リアルタイムで世界に伝わり、遠くの国での災害が見近に感じられる時代となったおかげで、気候変動研究の重要性がずいぶん理解されやすくなったと言える。
JAMSTECの予算を担当していた私に気候変動が重要な問題であることを最初に教えてくれたのは、当時JAMSTEC海洋開発研究部(その後、海洋観測研究部)の宗山 敬研究主幹(現、JAMSTEC嘱託)だった。「エルニーニョって重要なんですよ」といくつかの資料を頂いた。その中に、1982〜83年のエルニーニョによる被害を紹介したパンフレットがあった。東大理学部の住 明正助教授(現、東京大学気候システム研究センター長)が作成されたものである。それによると、82/83年のエルニーニョによる経済的損害は、世界で1兆円に近い規模だったことが紹介されていた。TOGA(熱帯海洋全球大気国際共同研究計画)やWOCE(世界海洋大循環実験計画)という国際共同研究計画が検討されていることもその時に知った。また、"Earth System Science"に関するかなりの分量の英文資料も頂いた。
リモートセンシングとスーパーコンピュータによるシミュレーションの重要性を教えてくれたのは、同じく海洋開発研究部の佐々木保徳研究副主幹(現、防衛大学校地球海洋学科教授)だった。モデル研究者が海洋観測の戦略を立てるべきことと、衛星観測の可能性を何度も聞かされた。そして石井進一部長(元、地球フロンティア研究システム長特別補佐)の強力なリーダーシップがあった。スパコンを導入し、モデル研究と衛星観測と海洋観測と古環境研究が連携した気候変動研究を行うという基本コンセプトは、この頃、佐々木さんらとの議論の中から出来上がったものである。
ちょうどそんな頃、米地球流体力学研究所上級研究員の真鍋淑郎さん(元、地球フロンティア研究システム地球温暖化予測研究領域長)が来日された。真鍋先生は、スパコンと海洋大気結合モデルを駆使して、世界で初めて地球温暖化のシミュレーションを行ったことで有名であり、STA内でも講演されて、地球を一つのシステムとして捉えることの必要性と、数値地球研究所の必要性、モデル研究が観測戦略を決めるべき必要性を訴えられた。佐々木さんらと議論していた通りのことを世界的科学者の口から聞いて勇気付けられた。その時、真鍋さんにリーダーになってもらえれば適役だと淡い夢を描いたが、石井部長が10年後、本当にそれを実現してしまうことになる。
衛星リモートセンシングについては、その頃、1987年にNASDAが日本初の海洋観測衛星MOS-1「もも1号」を打ち上げた。だが、当然のことながらまだまだ研究者を満足させるものではなく、短命だったSEASAT衛星(1987年)のような高機能の各種マイクロ波センサーを搭載した極軌道衛星への期待が高まった。一方、通信総合研究所の畚野(ふごの)信義企画部長(現、国際電気通信基礎技術研究所(ATR)代表取締役社長)が大変な熱意を持って熱帯降雨観測衛星TRMMの計画を推し進めていた。極軌道による全球観測と、熱帯中心の観測のどちらが先になるべきかというシビアーな議論もこの頃行われていた。
また、この全体構想を外部有識者に検討してもらう場として、これまたどういう事情か、航空電子等技術審議会(航電審)に地球科学部会というのがあって、それを改組・拡充することになった。もし海洋開発審議会の下に設けることになっていたら、多数の関係省庁との調整が必要で身動きできなかったかもしれない。
部会の委員として、放送大学の奈須教授(元、東京大学海洋研究所所長、現、東京大学名誉教授)に部会長になってもらって、マスメディアからはNHK解説委員の伊藤和明さん(現、防災情報機構会長)と元日経サイエンス編集者の餌取(えとり)章男さん(現、江戸川大学社会学部教授)に入ってもらった。また、あえて、文部省の測地学審議会に影響力のある先生方のところを説明して回り、地球規模の気候変動研究の理念とSTAが果たそうとしている役割について理解してもらった。そうして、海洋研教授の浅井富雄教授(現、東京大学名誉教授)、東大地震研の上田誠也教授(現、理化学研究所地震国際フロンティア研究グループディレクター)、北大低温研の小野延雄教授(現、国立極地研究所名誉教授)、東大理学部の永田豊教授(現、日本水路協会海洋データ解析センター長)に委員になってもらった。当時、日本で地球規模の数値シミュレーションをしている数少ない研究者の一人である気象研の時岡達志さん(現、JAMSTEC地球環境フロンティア研究センター長)にも委員になってもらえた。
それまでSTAの中にあって、原子力、宇宙、材料、ライフサイエンスの順に並んで、海洋は一番の末席で冷遇されていた。そのSTAで初めて生え抜きの官房会計課長として平野拓也課長(現、JAMSTEC顧問)が、そして、河野洋平STA長官が着任(1985年)され、そのお二人には海洋開発や地球科学に深い理解を頂いた。
STAの庁議(各局の局長クラスの定例会議)で、STAが中心になって進めようとしている地球科学技術プロジェクトの構想と地球科学技術部会の委員名簿を説明した時、平野会計課長から、「ブイや観測船のようなあたりまえのものばかりで、革新的な技術があまりない。委員のメンバーも偉い先生かもしれないが、アイデア豊富な人があまりいないのではないか」と指摘された。測地学審議会を味方に付ける狙いから委員構成を考えたことと、地球科学がそもそも革新的な技術だけでは解決しないと考えていたので、平野課長からの指摘には少し意気消沈し、多少反発も感じたものである。
しかし、プロジェクト構想を手直しし、研究範囲を過去数億年にまで広げ、超高速スーパーコンピュータの開発と気候変動予測センターの設立、堆積物や氷床コアによる地球史の解明、地震波トモグラフィーや深海掘削船、超深層大陸掘削によるプレート駆動機構の解明、ソーラー・プレーンや空中実験・観測機の開発など、大風呂敷を広げた。
=ガイア・プロジェクト−目的と意義(TIFFファイル)
=ガイア・プロジェクト−構成(TIFFファイル)
=ガイア・プロジェクト−中長期計画(TIFFファイル)
それから14年経ってみて、観測船とブイについては「みらい」と「TRITON/TAOアレイ」と「ARGO計画」が実現しており、大風呂敷の方も、「地球シミュレータ」、「地球フロンティア研究システム」、「地球深部探査船」、国際大陸掘削計画(IODP)への参加、「固体地球統合フロンティア研究システム」など7割以上の的中率となっていることに驚かされる。
当時はジョイデス・レゾリューション号によるODP(国際深海掘削計画)が1985年にスタートしたばかりで、その後継船としては北極や南極の氷海域ぐらいしか掘る海域は残っていないだろうと思って、砕氷船+海底着座式ボーリングによる浅堀りを考えていた。奈須先生に「しんかい6500」の次は掘削船というのはどうですかと話したら、「それはとても大事なんですよ」と言われた。
ずっと後で教えてもらったが、ODPが決まる前に、グローマー・エクスプロラー号という排水量約5万トンのライザー式掘削船によるIPOD-II(又はFUSOD)計画が実現まであと一歩のところで断念させられたという。あの時、奈須先生の頭には浅堀りでなくライザー掘削船があった訳で、何年もの後、それを私自身がJAMSTECの職員になって予算要求する立場になるとは奇遇だった。
気候の研究は、そういう「投資」とは無縁のものと考えられがちであったが、82/83年のエルニーニョで1兆円に近い損害があったことから、気候変動の予測によってこうした経済的損失を避けることができれば、費用に見合う効果が達成できるはず。そのためのスパコンや観測システムなどの先端的技術開発や、インフラストラクチャーの構築・運用に伴う経済効果も地球規模で考えれば無視できないはず。特に、食料・資源・エネルギーの海外依存度の高い日本にとって、安全保障的観点も含めれば、十分な費用対効果が説明可能であるに違いないと考えるようになった。
当時、中曽根総理の方針として、日本主導による国際貢献大型科学プログラムを発足させることとなった。STA内では当初、"Human Frontier Science Program"の検討が先行していた。しかし、地球科学も同様に国際貢献大型科学プログラムになり得るとして、STA内のプロジェクトチームで積極的に検討して頂き、"Human and Earth Frontier Science Program"として取りまとめていただいた。
これについて、河野長官は「人間を取り巻く地球の理解もまた重要だ」と訴えられたが、残念ながら、中曽根総理は「気候変動はピンとこない」との反応だったそうで、結局、"Human "だけが採用され、サミットで表明された。その翌年(竹下総理に変わる)以降のサミットでは、毎回、地球環境問題が取り上げられるようになった。惜しくも、地球環境問題で日本が先鞭をとる機会を逃したことになる。
日本へのメリットや投資効果を常に考えるはずの大蔵省主計局の入江主査から「気候変動はこれから大きな問題になるんだから、しっかりした体制をちゃんと考えているのか」と励まされて、感激するともに、身が引き締まる思いがした。
JAMSTECには「なつしま」を「しんかい2000」の事前調査という重要な仕事から外して赤道太平洋に派遣するという思い切った意志決定をしてもらった。すなわち、予算上は「しんかい2000」の法定検査中に「なつしま」単独で曳航調査を行うことになっていた。「なつしま」をエルニーニョ調査に振り向けた場合、本来の曳航調査をどうするかという予算上の対処を考える必要があったのはもとより、そもそも、深海調査という重要な課題に対して、あまり大した実績もなかった海洋観測に「なつしま」を使うということについて、JAMSTEC内でおそらく大きな抵抗があったはずである。
また、検討当初、気象庁・気象研からは多忙で乗船できないとの連絡があり、すると複数機関という振興調整費緊急調査の条件を満足しなくなるため、運輸省官房技術安全課に乗り込んで直談判した結果、気象研地球化学研究部の井上研究官と気象庁予報研究部の森研究官が乗ることとなった。
そのほか、JAMSTECからは中埜さん(元、海洋観測研究部研究主幹)らが、大学からは北大の竹内教授(元、地球観測フロンティア研究システム気候変動観測研究領域長)に乗っていただいた。当時、計画段階では住助教授、深澤先生(現、地球環境観測研究センター長)も打ち合わせに参加されていた。
この航海で、初めて海洋観測の実況中継ができないかと考え、日本テレビから黒崎記者に乗船して貰った。また、衛星リモートセンシングと連携した海洋観測のデモンストレーションもしたくて、海洋開発研究部の浅沼研究員(現、宇宙開発事業団招聘研究員)に衛星画像の圧縮伝送システムを急遽完成してもらい、また、XBTなどの観測結果を3次元的に表示できるようしてもらって、随時、記者クラブに配付した。そこには、"Air and Sea Interaction Research Laboratory, JAMSTEC"と表示してもらった。浅沼さんには、こうした我が儘に、なんの文句も言わず徹夜続きで間に合わせてくれた。また、この航海は、観測の方針を立ててから2週間で予算が決まり、その後2週間で出港したが、XCTDなどの観測資材がこんな短期間で手配できるはずがない。そんな実現不可能なことを実現するため、当時の海洋開発研究部の皆さんは大変な苦労をされた。
当時は知らなかったが、そもそも、原子力船「むつ」は耐氷構造を持った原子力海洋観測船として計画され、1967年に特殊貨物船に仕様変更された際にも船型の修正が最小限に留められていた。そういう意味で、海洋観測船への改造は突飛でも何でもなかったと言える。
こうした当時のSTAでの地球科学に対するさまざまな検討状況を、衆議院科学技術委員長であった原田昇左右衆議院議員に説明に行った。その時、手を握られながら「つまり赤道に日の丸ブイを置くということだね。ぜひ頑張って下さい」と言われた。米仏が設置しているブイの増強程度にしか考えていなかったが、すかさず「はいっ」と答えた。まさかその後、TRITON/TAO arrayとして、日本が十数ヶ所以上のサイトに大型ブイを展開することになろうとは夢にも思わなかった。
赤道西太平洋での観測は、88年だけは東海大学の望星丸二世が使われ、その後は、「なつしま」が使われた。「ニューシートピア計画」が一段落した頃から、黒潮で使っていた「かいよう」を赤道西太平洋にも派遣するようになり、米国NOAAのATLASブイの設置を一部分担するようになった。
JAPACSの最終段階では、「かいよう」にNCAR(全米気象研究センター)のウィンド・プロファイラーを搭載したり、北大のドップラーレーダー2台を「なつしま」と「かいよう」でニューギニア島の北方にあるマヌス島に輸送・回収したりした。JAPACSは92年に終了し、その後はJAMSTECのプロジェクト研究(TOCS)に引き継がれた。この間、次々と新しい研究者がJAMSTECで採用された。
一方、海洋における物質循環の研究は、そもそも深海研究部で誕生し、その後、海洋観測研究部のプロジェクトとなった。
JAMSTECにミニ・スパコンのVAXが導入され、海洋大気結合モデルの研究者も採用されるようになった。
そうした取り組みと研究体制の充実が全ての基礎となって、TRITONブイ、海洋地球研究船「みらい」、地球フロンティア研究システム、地球シミュレータなどの各プロジェクトに繋がっていったのである。