■窓を眺めながら-夏島とその周辺-

by 山田 海人(かいと)

 海洋研究開発機構JAMSTEC横須賀本部がある横須賀市夏島周辺の名所・旧跡を紹介。

海人のビューポート
 
2004年2月19日オープン

1.夏島の歴史江戸の行楽地
 この辺りは、古い昔「布久良(ふくら)」と呼ばれ、中世には鎌倉の外港として安房・上総とを結ぶ重要な港でした。
 江戸時代には「金沢八景」と称され、多くの文人墨客が訪れる景勝の地として知られ、江戸落語「大山詣り」にもあるように、大山詣や江ノ島・鎌倉遊覧とあわせて訪ねる庶民の行楽地でもあり、瀬戸神社のあたりに「千代本」、「東屋」といった料亭や茶店が軒を並べていました。
 また、この海はシャコやハマグリなどの魚介類が豊富な浜辺でもあり、明治以降は、避暑避寒の別荘地としても知られています。

名前の由来
 正面に見える海抜52m周囲約1.1qの小山が当地の地名にもなっている「夏島」で、雪が降っても積もることがなかったので、こう名付けられたと伝えられています。
 もとは周囲3.4qあったこの島から1キロ隔てた対岸は、白砂青松の美しい追浜海岸で、源頼朝が名付けたといわれる高さ約10mの奇岩「烏帽子岩」や隣に浮かぶ「野島」とともに、安藤広重の浮世絵にも描かれています。

伊藤博文の別荘
 明治17年ヨーロッパの政情視察から帰国した維新の元勲伊藤博文は、この島の南側の平地を借りて別荘を建てました。その敷地跡は、ここから左手に約400mほどの日産自動車の工場内にあり、伊藤公の好きだったタブの木が残っています。
 別荘が移設された後の明治25年、夏島には東京湾の要塞として陸軍の砲台が築かれましたが、大正3年に撤収され土地は海軍に移管されました。

飛行場
 四季を通じて波の穏やかな追浜海岸は、水上飛行機の離発着に好適で、大正元年11月わが国初の水上機が飛行に成功しました。
 第一次世界大戦後の大正時代末期、海軍飛行場の拡張工事のため夏島の山麓を削って海が埋め立てられ、追浜と夏島とは地続きとなりました。以来、この地は、昭和20年の終戦まで一般の立ち入りができない軍用地の時代が続きました。

2.夏島の自然と生き物
 その昔の夏島は鬱蒼とした森に覆われていましたが、島を削って軍の施設が建設されたので、終戦当時は、山のかなりの部分が裸になっていました。したがって、いま生えている樹木は、ほとんどがそれ以降自然に生えたもので、クスノキ、シロダモなど常緑樹が多く、頂上部には潅木や薮、草叢もあります。
 動物は、トビ、ムクドリ、メジロ、アオダイショウ、マムシなどが住んでいます。タヌキも以前はよく姿を見せていましたが、今はどうしているのでしょうか。

3.考古学と夏島
世界最古級の夏島貝塚
 夏島の頂上に、貝塚があることが学界に知られるようになったのは、昭和16年でしたが、戦時中は海軍基地、戦後は占領軍の管理下にあったため調査ができず、昭和25年に明治大学の手により始めて発掘されました。

 この貝塚からの出土品の年代測定には、ミシガン大学の協力で、わが国の考古学史上はじめて炭素同位体(C14)法を導入したことで知られています。その結果、築かれた時期は、9450年プラス・マイナス400年と判定され、当時世界最古の貝塚ということで話題となりました。

 この時代は、いわゆる"縄文海進"以前で、海面は現在よりも低く、この島は陸続きであったと推定されます。この貝塚は、東西約17m、南北約14m、厚さ約1.5m三層の貝殻層からなっています。昭和30年の再調査後、埋め戻されました。なお、昭和47年に国の史跡に指定されています。

釣針と土器
 夏島貝塚からは、約1万年前のわが国最古の獣骨製の釣針が出土しており、いわば「本邦の魚釣り発祥の地」ともいえます。
 また、同時に、クロダイ、ボラ、マグロなどの魚類、イノシシ、シカなどの哺乳類、キジ、カモなど鳥類の骨、それに撚糸文系の土器である「夏島式土器」も出土しています。

4.憲法と夏島
 明治の17年、後に初代内閣総理大臣になった伊藤博文は、憲法制定のための調査で訪欧の際、プロシャの鉄血宰相ビスマルクなどと会談して帰朝後、夏島に建てた別荘に、井上毅、金子賢太郎、伊東巳代治らを集め「大日本帝国憲法」草案の起草に着手しました。

 この作業は、当初、金沢・瀬戸橋にあった料亭「東屋」で始められましたが、草稿の入ったカバンが盗難にあった事件を切っ掛けに、民権派の密偵の目が届かない無人島の夏島に移ったといわれています。

 この憲法は、明治22年2月11日に発布され、全文76条からなるわが国最初の近代的憲法であり、戦後の「日本国憲法」成立までは、「不磨の大典」としてわが国法制の頂点にあったものです。

 このことを記念する「明治憲法起草遺跡記念碑」は、大正15年に金子賢太郎、伊東巳代治らにより建てられましたが、現在は元の位置から200m北の夏島の麓の道路沿いに移設され、新憲法制定の担当大臣であった金森徳次郎の筆になる「明治憲法草案起草の跡」の石碑が建てられています。

5.夏島周辺と近代技術
技術立国日本のルーツ
 幕末の元治元年、幕府は、ここから東南4キロの地にフランスの技術で横須賀製鉄所を建設し、近代技術による製鉄と造船に着手しました。これが日本の近代工業技術のルーツの一つともいえましょう。

 これは、明治に入って横須賀造船所から横須賀海軍工廠へと改組発展し、呉、舞鶴、佐世保と並んで造船技術の中核となりました。この横須賀造船所には、明治8年(1875年)4月26日〜5月3日、近代の海洋研究の嚆矢として、大英帝国が派遣した海洋観測船<チャレンジャー>が4年間にわたる世界一周の大航海の途中、船体修理のため寄港しています。

 また、大正元年(1912年)11月2日、当センターのある追浜海岸で日本で初めての水上飛行機カーチス式(米国製)、次いで6日にはモーリス・ファルマン式(仏国製)がそれぞれ飛び立ちました。
 その後この地は、海軍航空隊の基地となり、海浜が埋め立てられて飛行場となり、当センターの敷地は飛行艇の基地として整備され、さらに、近くに航空技術の総合研究開発機関として航空技術廠が設置され、優秀な人材を集めて先端的な研究が行われました。
 ここでは、終戦直前の昭和20年7月に、わが国初のロケット戦闘機「秋水」の試験飛行が行われています。

 戦後、当地で育った多くの研究者・技術者は、自動車、鉄道、造船、航空、電子、海洋開発など平和な技術立国日本の礎を築く原動力となりました。


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