■窓を眺めながら-横浜研究所とその周辺-

by 山田 海人(かいと)

 海洋研究開発機構JAMSTECの横浜研究所がある横浜市金沢区周辺の名所旧跡を紹介。

海人のビューポート
 
2004年2月19日オープン

1.我が国最初の図書館 金沢文庫

 鎌倉時代、北条実時が武蔵国久良岐郡六浦荘金沢(現、横浜市金沢区)の邸宅内に武家の文庫(金沢文庫)を造りました。
 我が国最初の本格的な図書館として知られる金沢文庫の蔵書の内容は政治・文学・歴史など多岐にわたるもので、収集の方針はその後も顕時・貞顕・貞将の三代にわたって受け継がれ、蔵書の充実が図られました。
 当時の武家社会における文庫の役割は、時の鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)を大学にたとえるなら、さしずめ金沢文庫は大学院の役目も負っていたと言えるでしょうか。当時貴重な書籍を膨大な部数13,000冊を集め、鎌倉時代の情報発信基地となっていました。
 現在、金沢文庫は称名寺の境内にあって以下の文化財が保管・展示されています。

【古 書】
 中国・宋代の木版印刷の集大成ともいえる「宋版一切経」(国重文)や、平安時代に書写された『文選集注』(国宝)をはじめ、歴史・政治・文学・宗教などの書籍約13,000冊を保管しています。そのなかには「金沢文庫」の蔵書印を押したものもあり、わが国の蔵書印としては最も古いものとされています。

【古文書】
 「金沢文庫文書」(国重文)として知られるもので、金沢北条氏一族や称名寺の僧侶たちが書いた手紙類など約4,000通が伝わっています。これらは鎌倉時代のひとびとの日常の暮らしぶりをうかがう貴重な資料です。

2.横浜は新聞発祥の地
 横浜の元居留地は、1864(元治元年)年6月28日、ジョセフ彦が「海外新聞」を発刊した居館の跡です。
 ジョセフ彦は、天保8年(1837)兵庫県播磨町古宮に生まれ、幼名を彦太郎といいました。
 嘉永3年(1850)、江戸見物を終え、故郷への帰り、遠州灘沖で突風で遭難し、太平洋を漂流すること50余日、彦太郎ら17名はアメリカの商船に救われ、翌嘉永4年2月にサンフランシスコに着きました。
 その後、彦はボルチモアのミッションスクールに入り、聖書・英語・算数などを学び、安政5年(1858)日本からの帰化第一号としてアメリカの市民権を得ています。

 安政6年(1859)21歳の青年紳士となった彦は、神奈川のアメリカ領事館通訳として、ハリスに伴われて開国した日本に帰ってきました。幕末外交界の第一線に登場した彦は、日米修好条約の実施、幕府の遣米使節の派遣などに奔放しました。
 しかし、攘夷浪人から外人としてねらわれ身辺が危くなったので、文久元年(1861)に三度日の渡米をしました。この渡米中に、彦はリンカーン大統領と会見しました。リンカーンは、大きな手を差し出して握手し、夜明け前の日本についてさまざまなことを尋ねたそうです。こうして彦は、リンカーン大統領と握手した唯一の日本人となりました。

 彦は、リンカーンの民主政治が勃興期の米国の新聞の力に負うところ大いと実感し、開国したばかりの祖国のために、日本最初の新聞を創刊し「童子にも読める新聞精神」を提唱しました。読みやすく判りやすい新聞をと、創世期の日本の新聞界に植えつけた新聞の父と言われています。
 さらに木戸孝充、伊藤博文、坂本竜馬など多くの人々に民主政治を伝えた彦は、民主主義の先駆者として、およそ新聞を読むほどの人々の心の奥に残る文化の恩人として名を残しました。

3.横浜は西洋文化発祥の地
 横浜は1859(安政6)年の開港以来、貿易港・西洋文明の窓口として発展し、外国との関係が深く、日本最大の外国人居留地があったところです。
 したがって、新聞をはじめ、鉄道、ガス灯、電話交換、テニス、西洋料理、西洋野菜、牛乳、アイスクリームなどはここ横浜から全国へ拡がっていったものです。

 鉄道創業の地として有名なのは桜木町で、 明治5年(1872)旧暦5月7日, この場所にあった横浜ステイションと 品川ステイションの間で開通し, その営業を開始しました。

 また、初めてガス灯が灯ったのも横浜で、街を明るく照らすガス灯に多くの見物人が出たの記載もあります。桜木町の駅に近い 本町小学校の正門前にある碑には『ガス灯記念碑』と書かれていて, 隣に 背の高いガス灯があります。

4.700年前(鎌倉時代)の庭園の復元
 金沢区の称名寺には、重要文化財で1323年(元 3年)に描かれた「称名寺絵図」が残されていて、鎌倉時代随一の浄土庭園の完成時の状況が詳細に記載されています。これを忠実に復元したのが現在の称名寺庭園です。
 この庭園は金堂の前池として、その荘巌のために設けられたもので、南の仁王門を入り、池を東西に二分するように中島に架かる反橋と平橋を渡って金堂に達するようになっています。
 平安時代中期以降に盛んになった浄土式庭園としては最後の遺跡となり、庭園史上極めて重要な庭園と位置付けられています。
 現存する浄土庭園としては、平泉の毛越寺(1150年頃)、いわき市の白水阿弥陀堂(1160年)奈良の円城寺(1153年)があります。

5.構内のメタセコイアは1〜2億年前の木
 横浜研究所の地球情報館脇にある高木は、生きた化石であるメタセコイアです。
 メタセコイアの名前は学名からきていますが、日本の三木茂博士が1941年に「最も最近のセコイア」という意味で命名しました。和名の「アケボノスギ」は昭和天皇が命名しています。英名は"Dawn Redwood"、学名は"Metasequoia glyptostroboides"です。
 スギ科の落葉針葉樹で、たいへん生長が早く30mを越える高木となります。

(1)メタセコイアは生きた化石
 メタセコイアは、恐竜たちが地球上をかっ歩していた1億年前(白亜紀の後期)に出現しました。
 温暖化の時代(暁新世〜始新世)には北極圏にまで分布しましたが、その後の気温の急激な低下(始新世〜鮮新世)によって日本だけに分布を狭め、約80万年前には絶滅したとされていました(日本の主な石炭材となっている)。
 しかし、1946年秋中国四川省磨刀渓で生きているメタセコイアが発見され世界中が驚きました、この発見には日本人の植物学者のメタセコイア属の論文(京都大学三木 茂)が大きく貢献しています。

(2)中国から贈られたメタセコイア
 横浜研究所の大きなメタセコイアは、1949年10センチほどの小枝で中国から「縁起の良い幸福の木」として頂いたもの(同じ時期に皇居に2本植えられものが日本で最初のメタセコイア)。これを神奈川県工業試験所初代所長(故北嶋三省氏)が公舎の庭へ植えて育て、工業試験所本館落成(昭和37年7月)の折、池の脇の現在の場所に記念樹として植えられたものです。

 現在、日本で多く見られるメタセコイアは、1950年東大植物学科へアメリカから初めて贈られた種子から芽生えたものや苗木で贈られたものですが、横浜研究所のメタセコイアは中国で発見された木から小枝の状態で移植されたため、発見されたメタセコイアのクローン(同じDNAをもついわば血統書付きの木)です。それと同時にこの木が我が国で最も樹齢が長いメタセコイアでもあります。

6.その他
(1)野口 英世
 野口英世は、北里柴三郎の伝染病研究所に22才で赴任したのですが、医師としての資格は有していたものの、学位がありませんでした。
 この時ペンシルベニア大学フレスキナー博士が日本に来て、偶然知りあったのですが、生計を立てる意味でも、現実的な仕事を得るため、横浜海港検疫所に検疫医官補として23才(1899)で赴任したようです。
 しかし当時の富岡界隈は、検疫所が出来るぐらい幽閉された環境で、十分なことは出来なかったようです(日常の業務に追われるといいますか・・・)。

 貴重なことに、ここでは海外の情報が集まるので、世界を見たくなったのだと 思います。翌年、単身、私財をなげうって(というか借金をして)ペンシルベニア大学に乗り込むわけですが、研究者としては、当時の事を思うと、よほどの決意が無いと出来な かったと思われます。
 資料もそうですが、野口がいた実験室がそのままの形で復元されており、100年前の研究をするスタイルの変遷を直で感じられる日本でも貴重な場所ではないでしょうか。

 結局、野口英世の名声は渡米したあと、アメリカで開花するのですが、名声を手にした人物の悶々とした時代を感じられる、面白い場所だと思います。
 検疫所前には、野口を世界に知らしめた、スピロヘータのらせん細胞構造を模したモニュメントの上に彼の肖像画が位置されています。
 現在の横浜検疫所長浜庁舎内 検疫資料館には、野口英世ゆかりの展示品、かつて当所で使われた用具や写真、著名な来訪者が書き残した書などが展示されています。

(2)直木賞
 直木賞で有名な直木三五は、昭和八年、横浜研究所の裏山に移り住んできました。
 当時の横浜研究所界隈は、文人・知識人の別荘が集合し、東京・横浜の保養地としての性格が強かったようです。東京湾を臨む風光明媚な土地は、創造性をかき立てるに十分な場所であったのでしょう。
 直木は、翌年、この富岡の地で最後を迎えるのですが、彼の大衆文学の礎は、新人作家の発掘という点で認知され、今日の直木賞につながるものがありました。
 直木三五の墓の側には、彼自身で設計した家があり、その邸の門前に、彼を愛する作家達によって、次のような感銘の深い碑を建てています。
 「芸術は短く 貧乏は長し

(3)富岡八幡宮(波除八幡)
 富岡八幡宮はおよそ八百年前、建久二年(1191)に源頼朝公が当郷鎮護のため、摂津の西宮の恵比寿様をお祀りしたのが始めで、後の安貞元年(1227)には八幡大神を併せ祀り、社名も八幡宮と改めました。
 鎌倉からは、ちょうど鬼門の方角に当たる海に面した小山に祀られていて、社も鬼門を向いており、鎌倉幕府の厄災防除の神としても祀られた神社です。
 また 八幡宮の山が応長(1311)の大津波から部落を守ったことから『波除八幡(なみよけはちまん)』とも称ばれ、広く江戸方面からも信仰を集め、後に江戸最大の八幡として知られる深川富岡八幡宮へ御分霊されたことは有名です。


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