(初出:2006/12)

美しい捕鯨ニッポン

 敗戦と同時に平和と民主主義を手に入れた日本でしたが、その後日本の政治はジリジリと少しずつ保守化の道をたどってきました。今世紀に入って、北朝鮮という外部要因に援けられたとはいえ、日本の右傾化路線は一段と強まった感があります。欧州が右に左に振れながらも中庸を保ってきたのに比べると、日本はまさに右肩上がり一直線の様相を呈しているといえそうです。9・11テロで新保守主義が一気に台頭した米国でさえ、先般の中間選挙の結果のとおり、あれだけの事件が起こっても国民は冷静で客観的な視座を失っていないことが示されました。この間もブッシュ政権への批判は決して封印されていたわけではなく、その意味でジャーナリズムの健全さが保たれ続けてきたといえます。
 翻って日本はというと、大新聞や公共放送の政権へのすり寄りがこのところずいぶん目立ってますねぇ。。検証せずにヨイショしてばっかりじゃ第四の権力の存在意義がないでしょーに。市民メディアの性質を持つネット上でも右サイドが声の大きさで圧倒している感。教育基本法改正などは、郵政民営化などよりはるかに国民の信を問うに価する重大な懸案だと思うんですが、あまりにもあっさりと通ってしまいましたし。しかも、ヤラセヨイショミーティングや、ほとんど一票を投じた有権者への詐欺としか思えない復党問題など、まともに考えれば政権失脚につながってもおかしくない状況で、ですよ? 最大野党が世論を気にして(?)なのか明確な対立軸を打ち出せず、単に権力争いがしたいだけの第二自民党化しているようじゃ無理もないですけど。その点は米国の民主党の方がはるかにマシにみえます。「これでいよいよ憲法改正への外堀が埋められた」なんて声も聞かれますが、9条を中心に世界にメッセージを発信できるユニークな憲法だったものが、どこにでも転がっているフツーの憲法に成り下がってしまわないかと非常に心配です。。
 核のタブーと天皇制のタブー、君が代を歌わない心の自由と靖国に参拝する心の自由、両方認めないか両方認めるんならバランスもとれるんだろうと、筆者なんかは思いますが、「右はヨイが左はダメ」というのはなんだか背筋が寒くなります。このままでは北朝鮮のような国になってしまうのではないかと正直不安を覚えます。そもそもあの国は、戦前の日本があのまま残っていたら(ありえない話ですけど)ああなっていただろうというような、醜いカリカチュアのように思えてなりません・・。アメリカでもヨーロッパでも、そしてアジアでも、日本のナショナリズムの昂揚に対する警戒感が強まっているのも無理のない話です。
 ちなみに筆者は、国民の3分の1を代表するはずの捕鯨反対を表明する政党が1つもないため、どの政党も支持してませんけど(--;
 では、いまの日本の姿はどこから来ているのか? 考えてみるに、自らの力で平和・人権思想も民主主義も獲得できなかった辺りにあるのではないでしょうか? 決してその芽がなかったわけではないはずなんですが・・。そしてまた、自分たちの伝統といったものを、客観的視点で外側からながめる作業を欠いたために、いつまでも自他の相違、劣等感と優越感に苛まれ続けているのではないでしょうか? このままでは、行き着く先はやっぱり北朝鮮になってしまいそうな気がします……。
 伝統そのものを俯瞰するなら、当然ながら日本の伝統と他国の伝統との間に"優劣の差"などあるはずがありません。国のみならず宗教・地域・民族その他いかなるカテゴリーにおいても。それらは現実の歴史において常に変化・変質し続けているものであり、異文化と混じり、影響し合い、消長を繰り返してきました。その主体が望むと望まざるとに関わらず。時代の流れによって、あるいは経済的動機で、私たちはそれらの重み付けを行い、自ら切り捨てたり、定義替えを行ったり、あるいは同じように尊重されるべき異文化を消し去ってしまったりということを、実際の歴史の中で繰り返してきたわけです。それが伝統というものです。異文化との差異、優位性ばかりに目を向け、強調していると、あの国は自意識過剰な思春期国家だと海外の人たちの目には映ってしまいそうです。。
 ナショナリズムというものは、アイデンティティを求める人間の欲求といえば聞こえはいいですが、群れに対する帰属意識という動物(ニンゲンという草原のサル)の感情に端を発するのではないかと筆者には思えます。それ故に、ナショナリズムがどこの国へ行っても普遍的なのでしょう。愛は間違いなく動物の感情ですし、命も動物そのものなんですから、別に卑下することはありません。ただ、国家というのは群れとしては規模が大きすぎるのではないかと・・。哺乳類の群れは信頼の絆で結ばれた個体間のものが基本です。いまのニンゲンの国家は、どちらかというと社会性昆虫の超個体的なイメージがありますね。仲間の屍を橋にして進軍するような・・。そういうものは、哺乳類の群れにはそぐわないのではないかという気がします。結局哺乳類でしかあり得ないニンゲンは、国家その他の組織・体制をあたかも情で結ばれた哺乳類的群れであるかのように装おうとするわけですが、どうしても綻びが出てしまうのでしょう。ニンゲンの戦争・紛争が動物の争いから逸脱した悲惨なものと化すのも、ひょっとしてそんな辺りからきてるんじゃないでしょうか? 近代国家というものは、税金の対価として公共的なインフラとサービスを提供する機関にすぎませんし、そうあるべきです。一方、郷土や社会集団に対する愛着は動物の感情として自然に発生するものです。「愛国心! 愛国心!」と叫ばなくても……。

 前置きが長くなりました──というよりほとんど前置きだけになってしまいましたが(細かいところは他章をご参照)。ことさらに"日本の伝統"として強調される捕鯨を、伝統文化というものを一歩外から客観的に眺めるための一つの演習問題としてぜひ捉えてみてはいかがでしょうか?

追記1:
 12月16日放映のNHKのETV特集、あまりの偏向ぶりに目を覆わんばかりの内容でした・・・
 自ら捨て去り、形骸化させてきたものが数知れない日本の文化の中でも、最も深い断絶を抱えているのが商業捕鯨の実態であり、先史時代の捕鯨と古式捕鯨と近代以降のノルウェー式捕鯨の間に連続性など何一つないにも関わらず、ただ「クジラを殺してきた」という単純な側面のみで伝統の一言で強引にひとくくりにしてしまう。重油を焚いて鋼鉄の船団をはるか遠洋に送り込む究極の不自然、自然と人間の切り離された関係の象徴というべきものに、ここまで視聴者に対して正反対のイメージを植え付けようとする番組の制作態度には、もはや脱帽するしかありません。当然の帰結であった乱獲に対する反省をモラトリアムの遵守という形で示すことすらできず、口先だけの持続利用を謳う。「カウントできる」などという素朴な理由で管理ができるのなら、そもそも"あの乱獲"は起こりえなかったのですよ、実習生さん。それが歴史であり、現実です。
 某研究所の研究者のコメントもふるってましたね。ヒトに最も近縁の(というよりヒトがそのカテゴリーに含まれるところの)動物を実験体として扱い、自然から切り離し、自由を奪い、最終的には命を奪うことをよしとする人らしい発想でした。。動物の感情を否定して自らを正当化しなくては続けられない仕事ですが。殺しに慣れることにより命に対する感覚を麻痺させる。そして、「その死は本当に必要なものなのか?」を問いかける姿勢を頭ごなしに否定する。「戦争で人を殺したことのない軍人以外のニンゲンに、平和を論じる資格はない」といわんばかりの暴論には、見識を疑います。子供たちをそのような方向へ導こうとする動きには背筋の凍りつく思いを禁じえません。
 ニンゲンは弱い動物であり、死というあまりにも耐えがたい現実を前に、感覚を鈍らせたり、宗教のような逃避の対象を設けることで凌いできました。しかし、ヒトを含めた動物の死を目の当たりにしてきた者としていわせてもらえば、"死"=命がなくなるということは、決して慣れることなどできないものです。ニンゲンは言語や抽象思考に特徴付けられる種としての個性をもった動物ですが、そのことだけなら尊い存在、万物の霊長などと自賛する資格はまったくありません。家族=絆で結ばれた群れの個体の生死を、家族以外の第三者、他の命に敷衍できる想像力こそが、人間の人間たる所以だと、唯一の尊さの証だと、筆者は思います。自らのツメとキバで命のやりとりをすることをやめ、自然の食物連鎖からあまりにもかけ離れた殺しを、まるで当然のように受け入れてしまっている時点で、残念ながらニンゲンはケダモノ未満の存在に成り果ててしまったということでしょう・・・
 日本人の命に対する向き合い方、食のあり方、そして水産業の抱える数々の問題にも触れながら、まさにその象徴たる商業捕鯨を、まるでオルタナティブであるかのように、その内容に目を向けることのないまま伝統のオブラートにくるんで礼賛してしまう。実に見事な手腕というべきか。。最後の抽象的なまとめはなんだかさっぱりわかりませんでしたね。「日本の文化の変容とアイデンティティの喪失、そしてニンゲンの自然からの逸脱は、もう無視できないけど、仕方がないよねえ。まあいいや。なんでもいいけど、ともかくクジラは食べよう、殺そうよ」という結論ですか?? 正反対のものを結び付けようとするから、そういう支離滅裂な締めになっちゃうんでしょ!?
 公海上の野生動物という多様な価値観を併せ持つところの存在を、一つの立場のみからしか取り上げることができないNHKに、上述の日本のジャーナリズムの未熟さをまざまざと見せつけられた思いがします。そういえば、同じETV特集でしたか、天皇の戦争責任を扱った番組で、事前に与党関係者にクレームを付けられたため、取材協力先への信義に反する形で最後の国際司法裁判所の判決シーンがカットされたことがありましたね。客観的な事実をただ淡々と報じ、解釈は視聴者に任せればすむ話なのに。右系オピニオンの論説まで無理やり割り込ませて。中立性がそんなに大事なのでしょうか(むしろそれに反する権力への追従にしか見えませんでしたけど)。その中立公正なNHKが、今回の番組ではなぜ捕鯨関係者・擁護者の意見・立場のみを一方的に延々と垂れ流すだけだったのでしょうか??
 ただ、今年IWCで捕鯨賛成票が過半数に達したのは、日本の水産ODAによる票買いの効果とはいえ、見過ごせる問題ではありません。環境・動物の命というテーマは、奴隷制や専制主義と同様、歴史の中で克服されていくであろう人類共通の課題だと思いますが、それでもやはり内発的なパラダイムシフトによらない外圧頼みには限界があることを示すものといえそうです。クジラたちにとっては不幸なことですが……。人権擁護という国際的な共通認識を北朝鮮にただ押し付けるだけでは、かの国における人権状況を改善する結果を得られないのと、ある意味似ているかもしれません。イラクやパレスチナ問題も然り。ニンゲンという動物の底の浅さ、不完全さを、改めて思い知らされます。
 侵略戦争に対するけじめをつけられないニッポン。乱獲に対するけじめをつけられない捕鯨。
 すべての事柄が、つながり合っていますね──。

追記2:
2006年末の記事。翌夏を過ぎて、日本にも少しはバランス感覚が働くことが海外に示せてよかったと思います・・。