(初出:2002/4/24)

クジラと環境
〜 クジラはカンキョウモンダイですか!? 〜

 日本ではどうも「クジラの問題」「環境問題」として認識されていない(あるいは故意にみなさない)向きがあるようです。1972年の国連人間環境会議(いわゆるストックホルム会議)において商業捕鯨禁止が提唱され、さらに1986年にはIWCの場においても商業捕鯨のモラトリアムが可決された裏には、政治的な陰謀があったと吹聴する人びとさえいます。
 では、そもそも、「環境問題」とは何でしょうか?
 いうまでもないことですが、私たち人間がこの地球という惑星の上で生きていけるのは、水や空気、食物など私たちが生きていくのにふさわしい条件がそろっているからですね。では、どうやってそれらの条件が整えられたのかといえば、それは生物が40億年という永い歳月をかけて環境に働きかけ、自律的な生物圏を築き上げてきたからです。自然は、私たちの生活の必要を満たす資源を産生する場であるとともに、物質・エネルギーの循環を通して大気・水質・土壌の浄化や保全、気候調節などの機能を担っているのです。例えば、私たちが宇宙から降り注ぐ放射線や有害な紫外線に遺伝子を傷つけられず地上で生きていけるのは、大昔の藻類が産み出した酸素が成層圏でオゾン層を形成してくれたおかげですし、地表の温度が金星のように鉛も溶けるほどの高温にならずにすんでいるのも、温室効果をもたらす二酸化炭素を森林やサンゴ礁が固定してくれているおかげです。そして、この自然の安定性をもたらしてきたのは、生物とそれを取り巻く無機的環境との相互作用に加え、数百万といわれる生物種が網の目のように結び付き、互いに影響を及ぼし合い、全体として調節が働く生態系の仕組みです。その証拠は、現に今ある自然の姿と永い進化の歴史によって何よりも雄弁に示されているでしょう。
 ところが、科学技術の発達と文明の進歩に伴い、人類の諸活動が次第に自然界のペースをかき乱し、不調和を産み出すようになりました。無数の化学物質の氾濫、乱獲や開発による生物種の減少、地球全体にまたがる気候変動など、人類の活動による影響は自然の許容範囲を越える質的・量的な変化をもたらし、その安定性を損ねています。それでも、人間が進化の過程で生まれてきた動物の一種であり、生態系の構成要素である以上、自然の支えなくして生きていけないのは自明のことです。「自然環境をなぜ守る必要があるのか?」といえば、それは自然が人類の存立基盤であり、私たちの社会も、経済活動も、その上に初めて成り立つからです。

■野生動物の絶滅の原因(単位:%)
──『Endangered Species Handbook 』(1983)より
絶滅因子 哺乳類 鳥 類 爬虫類 両生類
生息環境の悪化 19 20 5 100
乱獲 23 18 32 0
侵入種の影響 20 22 42 0
その他 2 3 0 0
不明 36 37 21 0
 ・・・と、ここまでは、「環境が大事だ」と思っている人なら誰でも共通認識として持っていることだと思います。では、具体的に自然を守るとはどういうことでしょうか? それは、私たちの生存基盤としての環境の調節機能を維持できるだけの"健全さ"を保つことに他なりません。すなわち、自然の"多様さ""豊かさ"を守ることです。多様性には、それぞれの生態系に含まれる「種の多様性」、また種の健全さを確保するための遺伝子のストックとしての「種内の地域個体群の多様性」、そして進化史の流れの中で地域ごとに独自に発展してきた、全体としての固有性を持つ「生物群集あるいは地域生態系の多様性」があります。つまり、熱帯林からツンドラ、あるいはサバンナから湿地、赤道直下のサンゴ礁から南極の海に至るまで、地球上にある自然の形態がバラエティに富んでいることこそ重要なのです。より自然度の高い、健全な生態系をより多く残すことが求められているのです。
 生態系が健全であるためには、その構成要素である種が絶滅しないのはもちろんのことですが、むしろそれぞれの生態系において十分な役割を果たし得る棲息数を保っているかどうか、種間関係とそのバランスが維持されているかどうかが問題だといえます。遺伝子資源としての農業・医薬・化学などの方面での有益性の観点からみれば、数がゼロにさえならなければ、施設で人工繁殖するなり、あるいはそれこそDNAを冷凍保存してしまえばよいのかもしれませんが、それは自然環境の保護とはいえません。
 もちろん、自然を守るということは、「自然をまったく利用するな」ということではありません。現代の文明を捨てて「野生に帰れ!」というのも無理な相談です。しかし、私たち自身の生存基盤がそこによりかかっている以上、自然を損ねないよう十分配慮する必要があります。何しろ、人類はこれまでトキやニホンオオカミなど多くの生物種を絶滅に追いやってきたという前科があるのです。たとえ絶滅を免れても、絶滅の瀬戸際まで追い詰められて未だにその淵をさ迷っている野生動物も数多くいますし(例えば、捕獲禁止後50年を経ても未だに回復のままならないシロナガスクジラのように・・)、種として一部が残っていても個体群を絶滅させられたものもあります(北大西洋のコククジラは近代以前の捕鯨によって絶滅されたとみられています。北太平洋西部:日本周辺の個体群(最近はニシガワコククジラとして亜種に格上げされてきてます・・)も事実上絶滅に近い状態にあります)。そうした種の中でも、とりわけ絶滅の危機に陥りやすく特別な注意を要するタイプの種があります。食物連鎖の階梯の上の方に位置し、おとなになるまで時間がかかり、こどもを産む数の少ないものがそうで、それらの種は汚染や生息地の破壊、乱獲の影響を非常に受けやすいデリケートなタイプなのです(生態学の用語ではこれらの種をK種と呼んでいます)。陸上では猛禽類や大型の食肉目などがそうですが、クジラはまさにそのK種の代表選手といえます。
 それでも必要な資源として自然を利用しなくてはならないときは、ルールに則り抑制的な利用を図る必要があります。持続的利用というのも考え方のひとつですが、自然度のより高い地域を核となる自然保護区(コア・ゾーン)として人間の介入を厳密に制限し、周辺に緩衝地帯(バッファ・ゾーン)を設けるというのも、有効な自然保護の手法として国際的に広く認められています(身近なところでは原生林と里山がこれにあたります。地球規模では、固有度が高くどこの国にも属さない利点もあることから南極と周辺海域を野生動物のサンクチュアリにするというのは理にかなっているでしょう・・)。すでに痛めつけてしまった自然に対しては、伝統的な狩猟や漁業において理解されているように、十分な回復がみられるまでそっとしておく(モラトリアムの設定)ことも肝要でしょう(そう、例えば、商業捕鯨によって鯨類のトータルのバイオマスを大幅に減少させてしまった南極海のように・・)。ともあれ、自然はできる限り手をつけないにこしたことはありません。今日では環境問題を考えるにあたって、保護することと利用することの社会的・経済的重みづけを行い、比較考証することが求められています。要するに、果たして利用するだけの正当な理由があるかどうか十分吟味し、生態系の保全とどちらを優先すべきか天秤にかけるわけですね(例えば、飽食し放題のアジアの一国が、本来ニンゲンがその一員でないところの南極の野生を貪っていいのかetc.・・)。また、熱帯林、深海、南極圏など、人類が進出してから歴史が浅く、身近な自然としての体感的な理解、知識の蓄積のない"不慣れ"な生態系に対しては、その利用にいっそう慎重でなければなりません。そもそも、汚染や乱開発、乱獲によって身近な自然が荒廃してさえいなければ、無用に手を広げて豊かな自然の価値を損ねる必要はないのですから(そう、例えば、南極のクジラとか、南極のクジラとか、南極のクジラとか・・・・・)。
 さて、そこでクジラですが。。。もう十分かニャ。。