(初出:2007/11/13)

TO KILL, OR NOT TO KILL ?
"殺すべきか、殺さざるべきか"
それって、科学が決めるもの??

 クジラと直接関係のない、筆者がIT企業にいた頃のお話を少々・・・・(飛ばしたい人はこちら

 西暦2000年を前に、Y2K問題が持ち上がった頃のことです。あの当時、国際経済がマヒするとか、核ミサイルが誤発射するとか、喧々囂々の議論が飛び交い、一種世紀末のパニックとでもいうべき状態に陥ったものでした。しかし、実際に蓋を開けてみると、大惨事が起きて文明が終焉することもなく、平穏無事に年を越し、すんなりと非常事態を乗り切った印象を受けます。1、2年のうちに、巷でこの話題が上ることもなくなりました。
 もっとも、IT業界周辺がこの件で右往左往し、顧客対応・システム改変に忙殺されていたのは事実です。また、あまり表沙汰にならない小さなトラブルが処々で発生していたことも。
 さて、世紀をまたいで2週間ほど経った日。チラチラと情報が耳に入ってはいましたが、筆者も身近なところでY2Kの実害に出くわしました。某システムにて、HPを更新したはずなのに、ブラウザ上では旧い日付のまま表示されるとの通報が。調べたところ、インターネットサーバーに入っているプロキシ管理用のフリーウェアが原因らしいことが判明。1999年以前のコンテンツを2000年以降アップデートした場合、"modified"と認識されないという、まさにY2Kの典型例だったのです。結局、毎日キャッシュデータをクリアしつつ(更新された当日分は反映されませんが)、最終的には対応パッチを充てることになったのですが……。この例からだけでも、いくつもの興味深い問題が浮かび上がってきます。
 このケースでは、前年中に顧客との連携のもと、それなりの金もかけて模擬テストを行い(テスト中の障害に見舞われながらも)、コンティンジェンシー・プランまで作成して越年時の体制も準備万端整っていました。実は、テスト前の調査の段階でも、当のフリーウェアがY2K readyでないことはわかっており、運用上の対策にて回避する手はずになっていたのです。更に、サイト更新に支障が出る可能性も若いSEから指摘されていたり、該当パッチも前年の時点でボランタリーに提供されていました。にもかかわらず、結局実際に不具合が生じるのを防ぐことはできませんでした。当のシステムベンダーは世間的には信用も厚く、実際技術力に関しては高い評価を得ていたのですが。まあ、誤魔化そうと思えばできる程度の内容ではありましたけど……。
 ことは一括りに人系ミスといってしまえるほど単純ではありません。まず、事前に指摘があったにも関わらず、完全に対応済のソフトと入れ替える等の措置をとらず、運用でやり過ごそうとしたのは何故か? 基本的には"金"なんですね。たとえベラボーな商用ソフトのバージョンアップをせずにフリーウェアで済ませることができたとしても、広域にまたがるWANで各拠点に置かれたサーバーに対して導入・展開・設定作業を行うとすれば、単価の高いSEの人件費を含めそれなりにバカにならないわけです。一方で、方々で指摘されていたことですが、 Y2Kの対策というのは、顧客企業の目で見てみれば(そして本音ではベンダーの側にとっても)、まさに後ろ向きの作業であり、「コストがかかる」ことに対し非常に難色を示すものです(まあトーゼンちゃあトーゼンですが)。しかも、システム導入にあたり、最先端のIT導入により市場競争力をどーたらこーたら、24hサポートだのノンストップ運用だのがどーしたこーしたと、バラ色の宣伝文句を並べられ、顧客の側はそれなりの覚悟で高い投資をすることを決めるわけです。唐突に(と感じるのもごもっとも)「"年を越す"のに金がかかる」と言われて、納得いかないのも道理でしょう。その他諸々の事情で予算が限られてしまい、コスト削減の圧力のもとでなるべく大掛かりでない対応策が択られるに至ったわけです。
 次に、テストをしておきながらなお問題が起こったという点に関して。そもそも完全なテストというのはあり得ないわけですね。具体的にはどういうことかというと、大規模なネットワークシステムを仮定した場合、そっくりの環境をシミュレーション用にもう1個作るなんてことはバカげているわけです。結局、システムを一定期間停止してテストということになるわけですが、現に稼働中のシステムを止めるとなると、そこでまた金の話が絡んでくるわけです。期間中システムを使用できないことによる損失もさることながら、テストがうまくいかなかったり、あるいは何かの拍子でとんでもない障害が発生(=コストも発生)することもあり得ます。となると、限られたリソースを使って最低限のテストをやるというところに落ち着かざるを得ないわけですが、それでもなお用意周到にやろうとすればするほど経費は嵩みます。そうしたわけで、テストの中味は、限られた期間に、メールの送受信や重要な定型業務等に絞って、リストに載っている危険日毎に確認するのが精一杯。ローカルの端末と違い、ネットワーク上の各機器で日付の設定を変更し、更にそれを"元通りに戻す"のは、きわめて慎重さを要する作業で、それだけでも決してバカにはならないんですが……。こうなると、電子商取引サイトならいざ知らず、プライオリティの低い適宜のサイト更新に係る不具合が見過ごされるのも致し方なしと。
 さらに、一つのシステムには実に大勢の人間が関わっていて、導入当時の"担当者を探し出す"のにワークロードがかかったり、コンマ2桁目のバージョンが不明だったり、炊飯器のタイマーじゃないけど、「あそこのネットワーク機器には管理ソフトが入っていたんだっけ?」という誰かの一言で、仕様書・設計書を片っ端から引っ繰り返す羽目になったり──と、そんなこんなで一筋縄にはいかなかったのが実状でありました。あるシステムで使われている全ての製品に関し、一つ一つ履歴を含めて追いかける余裕など誰もなかったのです。
 おそらく、同レベルの小さな問題は、筆者の会社ばかりでなく方々で発生していたに違いありません。ついでにいえば、云百万円単位の製品やシステムをお客に売り込む当のIT企業では、自社内の業務は割と旧態依然としたシステムを使い、リエンジニアリングになるべく金かけず原始的な方法に頼っているところも多く、表沙汰にならないトラブルの件数は公になっているものの比ではなかったでしょう。
 そもそもインターネット自体、主体的に情報を発掘することが求められる世界ですから、誰かがフリーで提供してくれてる便利なソフトに対し、また善意のユーザーがパッチを考案したといった場合、「見つかってラッキー!」というレベルで、教えてくれるのを待つ姿勢では何も手に入らないし、知らなかったのは自分のせいで誰の責任を問えるわけでもなしと……。かくして、情報が交錯する中、「まあ8割方は大丈夫だろー」てな判断しかできないわけです。それ故に、Web上の製品紹介ページには「責任は負いかねます」というメーカーの一言がかならず最下行に付け加えられてたり、米政府が「内容が間違ってても免責する」という条件で企業に関連情報公開の通達を出してたりしたんですね。
 もう一つ、筆者のところと同様の別の事例。当時まだ多用されていたNetscape、JustView、IE(5>)などの旧いブラウザで見ると、サイト上の日付が正しく表示されない(1900年と表示)ケースが明らかに。原因がなかなかややこしかったり。サイトではJavaScriptのバージョン1.3から新しく追加されたメソッドで日付データを処理していましたが、下位バージョンではその動作が保証されていませんでした。一方、各ブラウザは1.2以下のJavaScriptには問題なく対応しており、その点、どちらもY2K対応という観点からすれば別にバグや対応漏れはなかったのです。サーバー・サイドとクライアント・サイド、個々には問題なくても、両者の不整合の結果発生した問題で、ブラウザと言語のどちらに責任を課すということもできません。こういう場合、Webサイトの管理者として推奨ブラウザバージョンを明記するという具合に、運用で解決する以外にないのでしょう。いずれにしろ、こんなケースまでテスト等で未然に発見するのは、どれほど優れた技術者でもおよそ不可能なことです。問題そのものは決して高度な技術に関するものではないのですが……。
 他にも、Y2Kそのものより、その後発生した閏年絡みの"2/29"問題の方が大きかったなどということも。「油断した」「気が抜けた」というのが、当時担当したプログラマー、SEの感想でしょう。それは"個人の気の緩み"に還元できるものではなく、むしろ業界・システム・社会そのものの"気の緩み"に起因していたといった方が的を射ていたかもしれません。一方で、Y2Kが大きな問題として浮上してきた背景には、高価なメモリを節約するなど、多くの動機により旧式のシステムを予想以上に長持ちさせ使い回してきた"知恵"が裏目に出てしまったこともあります。必ずしも否定的にばかり捉えることではないでしょうが、当面の問題を処理するために将来起こり得るトラブルを予測することまでできなかったことは事実です。他にも、「和暦じゃなしに西暦を使うからだ」、「西洋文化の盲点だ」、などとある人たちにそっくりなトンチンカンなことを言い出す輩がいたりもしましたけど……。
 Y2Kという単一のイッシューだけでも、技術とそれを扱うニンゲンの側の問題が浮き彫りにされた感があります。この間、多くの関係者が不眠不休の努力をされたのは確かなのですが、それでも、電気が止まったり、飛行機が落ちたり、どこぞの国の核ミサイルが飛ばなかったり、大事に至らなかったのは、コンピューターシステムの抱える、ちょっとしたきっかけでダウンしてしまう"脆さ"と、ニンゲンの側の種々の手違い・行き違い・勘違いを吸収してくれる"タフさ"のうち、後者の利点が大きかったことが挙げられましょう。"運"も多分によかったんだと思いますが……。
 
 IT業界、情報技術にはスピードが早くトレンドが目まぐるしく移り変わるという特性もありますが、各種のエンジニアやプログラマーたちは問題解決能力にかけては他分野の純粋科学者を凌ぐと思いますし、またそうしたスキルがシビアに要求される世界でもあります。IT技術が、自身のスキルが"万能"であると考えている技術者が1人でもいるとは、筆者には思えません。不測の事態に備える気構え="危機意識"こそあれ、すべてが予測の範囲内だ、120%信頼していいなどと吹聴できる人などいないはずです。本音にあらざる"顧客への売り文句"は別にして……(ユーザー側もまた、それを額面通りに受け取ったりしないと思いますが……)。しかも、契約書に目を通せば一目瞭然ですが、法的な責任が絡むとなった途端に弱腰になったりするんですけどね……。
 みなさんはそれぞれ、ご自身の専門分野をお持ちでしょう。"対象"を完全にコントロールできると自信たっぷりに言い切る人物を、あなたはその道の第一線のプロフェッショナルとして認めることができますか? そのジャンルが発展途上のものでなく、完全無欠だと胸を張ることができますか? そのような主張が大手を振って罷り通るような分野があったとしたら、むしろ"未成熟"さを感じませんか??

 さて、私たちは、ニンゲンの文明が自己と地球とを完璧に管理する能力があり、だからこそ世界がうまく回っているのだと思いがちです。しかし、そうしたオプティズムの一方で、失敗と試行錯誤の連続、予測もしなかった突発事態に見舞われながら、たまたま"運"にも助けられ、きわめて危ういバランスの上に現在の科学工業文明・社会システムが成り立っているにすぎないという見方もできます。そして、現に綱渡りの"綱"を踏み外した結果を私たちはいくつも目にしてきたはずです。原発や航空機など工学系の事故、ニンゲンが新たに生み出したフロンや農薬などの化学物質の環境中における予想外の挙動、移入動物による生態系の撹乱、そして薬害──。
 そして、問題が発覚した後、「当時の科学水準では予測不能だった」というお決まりの弁解のみで、科学者・学会が保障し、責任をとることはありません科学とは決して中立公正なものではなく、社会・経済の流れに翻弄され、歴史的過程で醸成された組織的体質・エゴと無縁ではありません。そのことは、商業捕鯨の乱獲よる生態系破壊に対して無力だった──むしろ荷担したとすらいえる日本の鯨類学者・学界が何よりも如実に示しています。
 科学の抱える問題については、原子力資料情報室の故高木仁三郎氏を始め、内外の多数の知識人がこれまで繰り返し指摘してきたことです。そして、一般市民やメディアも、総論において、また他の分野に関する限り、科学に功罪があるということ、そして過信することの怖さについて十分認識できているはず──なのですが……。ことクジラに関してみると、そうした"罪"の側面に対する批判・検証作業が(故意になのか)すっぽりと抜け落ち、捕鯨推進を錦の御旗とする水産庁・鯨研サイドの主張のみを鵜呑みにする日本人があまりにも多いことに、筆者は戦慄に近いものを覚えます。彼らはまるで、VRのような無邪気な科学的ユートピア世界を夢想するかのようです。南極の自然も、現実世界も、ITの世界でさえ、そんな甘いものではないのですが……。
 科学の全否定か全肯定か、そうした二者択一に意味はありません。しかし、自らの限界を自覚できない科学こそ恐ろしいものはありません。RMP/RMSも、鯨肉トレーサビリティーシステムも、それが実際に機能する、うまく運用されるということを、筆者は信用することができません。彼らが「問題ない」と胸を張れば張るほど。

 科学者には確かに社会的責任があります。捕鯨という形で野生動物を殺して利用するという選択をある国が下した場合、「これ以上捕ったらヤバイ(絶滅する/生態系が乱れる)」ときちんと警告するという。かつて鯨類学者はその責任を果た(せ/し)ませんでした。捕り続ける過ちを押しとどめる能力と意志を発揮しなかった無責任な日本の鯨類学者たちが、なおも捕り続けることに太鼓判を押したところで、科学のお墨付きを得たなどとは到底認められません
 しかし、そのうえでなお、強調しておきたいことがあります。科学者が最終的なゴーサインを出す、「科学がすべてを決める」というのは間違いです。明らかに。原爆を投下するかどうかをマンハッタン計画に携わった核物理学者のみに委ねてしまうのと同じことです。
 「クジラを、野生動物を、自然を、どのような形で利用するか、しないか」は、私たち一人一人が自分自身の頭で考え、判断することです。そして、最低でも南極圏、公海上に関しては、個々人の考え方の総意として国際社会が結論を下すべきことです。その価値判断に科学が入り込む余地などありません。科学はアドバイスを与えるだけです。
 「IWCは国際"捕鯨"委員会なんだから」という、乱獲時代のまま思考停止した人たちのカビの生えた議論はこの際脇に置きましょう。科学の抱える問題点をしっかりと認識したうえで、野生動物の絶滅、汚染、地球温暖化等々、諸々の問題を生み出した反省をこそ、将来のために活かさなければならないのですから。"化石化"した人たちに任せていては、健全な地球環境は決して未来の世代のこどもたちに残せなくなってしまいます。
 この価値判断の中には、大きく以下の3(4)つが含まれるでしょう。

 1.クジラ(野生動物)をあくまでも殺して資源として利用する

 2.(経済的にも)野生のままの生きたクジラを利用する

 3.自然環境の一部としての"野生動物の存在そのものの価値"を次代に伝えるべき遺産として認める

 (4.(野生)動物の生命と自由を尊重する(動物には当然ヒトも入るわけですが))

 1と2には、その社会的・文化的・経済的価値がどの程度のものかという判断が含まれます。1には原住民生存捕鯨のスタイルから南極海に母船団を派遣する産業型商業捕鯨まで幅があります。筆者は日本人として、日本の現行の商業捕鯨はおそろしく価値が低いと考えていますが……(その理由は各解説を参照)。
 3、4はまだ新しい価値観で、とくに4は(政治的に)少数派でしょうが、日本でも少しずつ広がりつつあります。クジラ以外に関する限り……。情緒的な捕鯨シンパは、4を「感情論で話にならない」と切って捨てますが、自分で判断を下さない受け売りだけの捕鯨擁護論者より大分マシだと、筆者は思います。筆者自身はこの2つの立場です。
 1〜4がどの程度並存可能かも考慮の余地はあるでしょう。筆者は1とそれ以外、とりわけ3、4の"共存"は一部を除いてありえないと思いますが……。
 筆者にとっては残念なことに、日本国内においては政府の立場とマスコミの宣伝が主な理由で1が幅を利かせています。しかし、国際社会はいま、明らかに2が主流です。アチラ側の人たちは"札束外交の成果"を掲げて「そんなことはない!」と言い張るでしょうが……。
 補足しますが、ここでも科学の是非論と同じように、all or nothingの議論は無意味です。(ミンク)クジラ以外の他の野生動物、他の生命、他の環境問題に関心のある方は、どうぞ自分のやるべきことをやってください。捕鯨談義にかまけている暇など微塵もないはずです。もっとも、「すべて生かそう」という意見と、「いや、絶対に殺しを減らすな。何もかも殺す方に合わせナケレバナラナイ!」という意見が仮にあったとすれば、筆者は前者より後者の方に身の毛もよだつ恐怖を感じますが……。その意味では、捕鯨というテーマはまさしく、私たちの社会が犠牲をできる限り減らしていく方向へ進むのか、それとも無思慮に殺しを増やしていく方向へ進むのか──ということを問うものだといえましょう。

 あなたの考えはどれに該当しますか? 科学者の言葉を参考にするのも結構。でも、最後はあなた自身の頭で、心で、判断してください──。

(初出:2007/12/6)

補足:年金記録問題、原発の耐震性、そして薬害肝炎からクジラへ──
 今年(2007年)、科学技術が抱える問題とそれが私たちの社会に及ぼす影響について端的に示す2つの大きなトピックがありました。1つは、社会保険庁の年金加入記録の不備問題、そしてもう1つは7月の新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原発が被った被害です。
 まず大きな政治の争点となった年金加入記録問題ですが、上記したように筆者にとっては割と身近な話で、名寄せが不可能なことはマスコミで取り沙汰される以前からわかりきったことではありました・・。原本管理の杜撰さもさることながら、大量の記録が不備のまま放置された背景には、まずシステムの一元化を拙速に進めようとしたことがあります。 データ入力はOCRを併用しても基本的にオペレータの手入力という人力作業に依存せざるを得ないわけですが、データの同一性をどの程度保つかによって時間とコストは大きく変わってきます(反復・人足数を割り増したりベリファイシステムを構築するなど)。システムの担当者(/ベンダー)はそこに大きな問題が潜んでいることに気付いたでしょうが、上の要求に逆らえず、膨大なデータを期限内に処理することを優先したため整合性が犠牲にされたのでしょう。
 中越沖地震で想定を越える揺れが生じたため柏崎刈羽原発が停止し火災や大気・海水中への放射能漏れが発生した問題は、実は上の社保庁の年金管理問題と非常によく似た構造が見られます。海中の活断層の存在を無視し、設計時の耐震性を甘く見積ったことが先の事態を招いたわけですが、ここにもコストの問題が絡んでいます。静岡の浜岡原発では今回の中越沖を数段上回るM8クラスの東海地震に耐え得る耐震設計が施されているハズ(電力会社の説明を信ずるならば・・)で、"活断層列島"日本の全国各地の原発で同じ強度の設計がなされていれば今回のような大きな被害は防げたハズなのです(電力会社の説明を信ずるならば・・)。とはいえ、浜岡原発の耐震強度が商業的に不採算なほどのコストを要するハズもなく、要するに社保庁と同じくケチったわけですね・・。
 今回の事態は地震によって原発が大きな損傷を被った世界初のケースとなりました。また他の先進国ではおよそありえないあまりにもお粗末な(国民が長年知らされていなかった点も含め)年金の管理体制や運用をめぐる問題は、この国の年金制度そのものが諸外国に比べていかに立ち遅れているかを白日のもとにさらけ出しました。では、日本のデータ・システム管理のノウハウ、あるいは核技術は、世界の水準に比べてそれほどまでに遅れているのでしょうか? もちろん、そうではありません。日本は決してIT後進国ではありませんし、通産省・電力業界の弁を信ずるならば、原子力の平和利用に関しては世界のトップレベルの技術を有することになっているハズです。
 にもかかわらず、こうした問題が起きてしまったのは何故でしょうか? 「年金は必ずもらえるから大丈夫」「地震が来ても原発は大丈夫」──専門家のお墨付きを得たお上のお達しがここまで空虚な響きを帯びるに至った理由は何なのでしょうか? その答えは、科学技術というものが決して価値観と無縁のものではあり得ないからです。すべては価値判断に基づく優先順位の問題に行き着くのです。
諸外国の年金制度が日本よりはるかにマシなのは、それが国の根幹に関わる国民−国家間の信用を左右する大問題だということを理解しているからでしょう。日本では最優先されるべき社会保障が多少のコストにさえ負けてしまったわけですが、年金の統合を焦った背景にあるのは国民総背番号制につながる国家による国民の管理と思われます(もちろん財政上の理由等もあるでしょうが・・)。原発についても同様です。広範囲の地域住民と自然環境に対する放射能汚染の被害を回避するという命題は最下位に位置付けられ、原発の建設コストがその上、最上位に来るのは原発推進という"錦の御旗"というわけです。さらにいえば、捕鯨と酷似した"核コンプレックス"が強力な原動力になっている面も否定できません。つまり、科学技術のレベル差ではなく、国民の生命や健康、環境よりも短絡的な経済的利益を、そして国体の護持を優先する傾向が、日本では諸外国に比べてより顕著であり、そこに日本特有の数々の社会問題が噴出している原因があるといえそうです。
 科学技術の内包するもう1つの問題は「責任の所在」です。今年のもう1つのトピックである薬害C型肝炎を例にとってみましょう。つい先日、調査団が「国には反省すべき点もあるが責任があるとまでは言い切れない」というなんとも"無責任"な表現を使って調査結果を公表したばかりですが、これなどまさにその典型でしょう。「当時の医学では予見できなかった」というのがこういう場合の決り文句ですね。血液製剤の投与時期等による"線引き"を、私たちは何らかの科学的根拠があるかのようについ受け止めがちですが、それは科学ではありません。いうまでもなく、必要予算の最小化、「他の薬害等の問題につながる"悪しき先例"を作らない」ための官僚の抵抗、省益という政治的要素が線を引く位置を決めるのです。それに対し、「発症タイプによってインターフェロン療法が効かない場合もあり、個々の患者に即した治療とその保障が求められる」という指摘も、歴とした医学的見地に基づく意見に違いありません。ただし、それもやはり「患者・被害者の利益を優先する」という価値判断に基づいているわけですが。原爆症の認定基準なども、こうした線引きの最もわかりやすい事例の一つといえるでしょう。調査捕鯨の捕獲頭数がいかなる経緯で決まったのか、日本の鯨類学が反復作業的致死調査に著しく偏向しているのは何故なのか──こうしてみてくると、クジラにもすべての社会問題と共通する構図がはっきりと浮かび上がってきます。
 上記の事例をみてもわかるとおり、国や産業界がある種の事業、開発を推し進めようとするとき、自らの立場を代弁するお抱えの専門家集団(いわゆる御用学者と呼ばれる人たち)に世論を誘導させようとするのは常套手段です。メディアに登場するそれらの"権威"は、リスクを隠蔽・矮小化する一方、非常に楽観的な予測をしばしば吹聴します。始めから結論ありきの模範解答を並べ立てて。しかし、一度既成事実化し、マスコミの注目度が下がってさえしまえばこっちのもの、後になって問題が露見したところでもはや"後の祭り"というわけです。科学の旗印のもとに進めた結果が裏目に出た場合でも、国も、科学者も決して責任をとろうとはしません。多くの場合、とりようもないのですが……。

 さて、捕鯨の所轄官庁である農水省・水産庁は、社保庁バッシングを対岸の火事と眺めていられる立場にあるのでしょうか? 日本の威信がかかっていたはずの原発の安全工学神話がまたもや崩れ去ったことに対し、「ニッポンの科学的捕鯨の絶対的な信頼性は原発のさらに上をいくんですよ」と胸を張るつもりなのでしょうか? 責任逃れにひた走る厚労省さえ「反省すべき点はあった」とまでは述べているのに対し、過去の乱獲に対する反省も明弁できない日本の捕鯨産官学界に、南極の自然とクジラたちに対する重い責任を負う覚悟が果たしてあるのでしょうか??
 諫早の干拓事業をめぐる経緯や、緑のオーナー制度の破綻をみると、筆者は中央官庁の中でもとりわけヤバイのは農水省だとしか思えません・・。危機管理意識や消費者保護の視点が民間の生保に比べてさえ低いと指弾される社保庁ですが、まだカワイイもんです。農水省なんてもはや悪徳業者の原野商法レベルじゃないですか……(汗) 漁業者の信頼、国民の信頼をかくも裏切ってきた農水省に、国際世論を納得させうる"安全な捕鯨"が可能であるなどとは、「納付者全員に年金を支給する」という日本政府の"口約束"と比べてもまったく信用が置けません。

 "捕鯨応援団"以外の方は、耳栓をしないで科学の抱える諸問題を捕鯨問題に適用した場合に一体どういうことになるか、冷静に考察していただけるものと思います。そのとき、他の環境問題・社会問題といかに類似点が多いか、捕鯨推進の論理がいかに現実から乖離した突飛なものであるかに、みなさんも気づかれることでしょう──。