一松の人柄
 極洋補鯨の岩崎常務は当時の一松の人柄を次のごとく語っている。
 「20才迄は手の付けられない暴れ者だったらしい。大正10年、私が知った40才頃の西村さんは、親分肌の事業家で、損得に極めて冷淡な変った資本家でもあり、発明家でもあった。専門教育も受けずに船体でも、機関でも、工場でも、自ら製図し、設計するという多能ぶりであった。
 西村拓殖時代、移民用の四檣縦帆帆船「南洋丸」も自らの説計であった。彼は特に内燃機関、モーター、電地、などに造詣が深かった。

南洋丸 西村惣四郎(※一松?)設計

 『貴方は何処で技術を習得したのか』の質問には『自分の技術は注意力の集積にすぎない』と答えている。
 常に、バイオニアを自認し、業界の警鐘手であり、点灯手でもあった。
 いつも次に決行すべき優れた企画を持って勉強している人であった。
 生来、竹を割ったような活淡な人柄であったが、相当頑固で短気者でもあった。怒った後は万事OKというこの淡白な性質を知る内輪の者が、わざわさ怒らせた上で自分らの言い分を貫いたという苦いような笑い話も残っている。」
 又、一松自身も、
 「私は学歴もない勉強嫌いの硬派の怠け者だったが、日露戦争に従軍して死生の間に困苦と困難をなめ、漸く人間らしくなったとおもう。
 幸い、天性数理を解することには比較的長けていたので、自然大きな仕事でも、また人が危険視するような仕事でも、確固たる数理に基づいて自ら調査、検討した上で企画した。
 自分が手をつけた事業が余りにも有望であるためか、多くねたみを受けて妨害され、また天性人の言を数理的に、理論的に理解するがために、かえってその人を疑うということが出来ず、迂闊にもだまされ、陥れられ、乗取られたことの連続であった。
 自分の大馬鹿さと、世間のずるさには、その都度いつもあぜんたるばかりであった」
と後年、述懐している。