西村式潜航作業艇〜三浦定之助「潜水の科学」より


 昭和六年頃、対馬海峡沈没露艦の曳揚げ熱が勃興した事がある。其深さ約五十尋から六十尋であり、色々な鉄の潜水函の中で潜ると云う様なものが現はれ、又使用された。之れは露艦曳揚げとは関係なしで出来たものだが、山口縣の西村一松氏の潜水艇型の作業用として造られた硬式潜水器とでも云はうか? 当時出来た他の二種は其後中止されたが、此式は今尚ほ研究を続けて居り、下関の関門墜道の仕事から其他を色々やって居るらしい。
(一)直径五尺五寸ばかりの魚形水雷形の船であり、船長は三十三尺、重さが十四屯と云われて居た。当時物価の安い頃であるが、数万円の研究私財が投じて造られた。

(二)鉄板は厚さ三分であり、内側は肋骨で固められ船底には竜骨があって、海底と云はず、這ひ廻って歩るくし、船首には衝角があって、岩礁などに当っても、損傷しない様に出来て居る。

(三)船尾プロペラがあって、蓄電池で動すから当時新聞には豆戦艦と云はれて居たのが之れである。舵を付し時速五哩の速力を有して居り、礁間では時速三哩位で這ひ廻って居た。空気補給の道がないが、内部が大きいから四、五人が一時間位潜水出来ている。

(四)船首部には捕手鉄製が出来て居り、二重になって居る艇内から自由に出入、又は回転等出来て、内部には円形の水圧平衡器があって、これから出て居る。

(五)底部には海水タンクが二個あって、?筒で此水を排水又は取り容るゝ事により浮力の増減から浮沈する様になって居る。自分も度々試乗したのだが、二百尋位迄は自由に故障なく行けたのである。船首には硝子窓があり小さい乍らも自由に展望も出来た。

(六)艇上部に直径二尺ばかりの入口があり、潜水せんとするや、外部から他監視船の人が締めて呉れる様になって居る。海底に停止する事が出来て電話で、船上と談話も出来る。同年東京放送局を通じ、艇内から魚を見る実況を放送したのもこれである。

(七)今尚ほ続けられて居る研究も、実用化するまでには至って居ない。夫れは作業能力が少ない為である。もっと人間の様な自由な手が欲しいのであり、之は鉄の手一本だけである。尚ほ一つは海中の途中に自由に停止したいのである。

潜水作業艇の状況
西村式潜航作業艇
 昭和六年頃対馬海峡沈没露艦の曳揚げ計画が続出した。何れも五十尋から六十尋位の深海に沈没せるもの、今最高潜水度から云えば到達する事が出来る。単に拾ふたり、調査して来る位の簡単な仕事なら出来るが、困難で潜水時間の長い事を要する沈船作業など、普通潜水器だけでは不可能に近い程である。が地中海に於ける八政丸の深海工事の如く、優良なる特殊潜水夫が何十人と揃って居れば兎も角、此頃は一般財界極度の不況である。潜水作業など三十尋以上の深海に行って収支償ふ仕事はないと云はれた様な時が続いたのである。
 此時突如斯様な深海作業は計画される。極力潜水夫の訓練養成は急ぐと共に、他は何等かの作業補助船が計画された。三種ばかり鉄筒内に入って低圧の空気を呼吸しプロペラーで運航し爆発の装置位はやらうと云う計画である。
 其内西村式と云うのは、独立に大正十年頃から台湾に於ける深海珊瑚採取を目的として研究を続けられて来たものであり、当時台湾珊瑚は多獲され、世界を圧して居た。然し乱獲激減は自然の理、此潜函完成を待たずして探り尽くして仕舞ったのである。当時台湾露艦曳揚げ計画に適用さるべく予定され、研究改造を試験された。自分は当時半年間、此れを試験研究の為運用して居たのである。大体の構造は潜水器の項で述べて置いた。其試験潜水中の坐乗?の有様を述べる事とする。