西村式深海作業艇、2



二号艇の建造、
 台湾から伊豆に回航され、ラジオ放送などで日本中の話題になった一号艇は、昭和電工系の森コンツェルン総裁、森のぶてる氏の資金援助を受け、多くの改良を加えた二号艇横浜船渠で建造することが決まった。

 同所船番、233船、西村式豆潜水艇第二号、船主、森/西村氏、
発注、1934,10,
図面完成、1934,12,17,
起工,1935,2、19.
進水、1935,8,3.
竣工、1935,8,7,
総トン数.11トン、寸法、10.78×1.83×1.83(長さ、幅、深さ、単位、m)

 艇はほとんどを陸上工事とし、進水はクレーンで海面に卸す方式をとった。



森財閥の資金援助、
 ある日の一号艇試乗会の折り、森のぶてる氏と山下弥三左右衛門氏が同席した。
 森氏は当時、新興の森財閥の総師であり、日本硫安、昭和電工などの社長として化学関係の国産新技術の開発に次々と成功して事業を拡張していた。同氏は、味の素の鈴本氏と親交があり、相当の資金援助を受けていたそうだ。
 森氏の生地.千葉県勝浦は明治の初め頃から潜水機漁業の盛んなところで森氏の生家も海藻からのヨード採集を業としていた。
 山下氏は昭和天皇に御前潜水を披露したり、研究資料をご提供したりしており、著名な潜水家であった。
 後日、森氏は山下氏を味の素会社に呼び、一号艇の性能や将来性について色々質問された。山下氏はこれに答えると共に、自らの潜水歴や同艇の試乗経験から、改良点についての私見を披露した。この席で森氏より資金援助の意向が示され、山下氏はこれをすぐ西村一松に伝え、既に二号艇の腹案を準備していた一松は喜んで森氏の好意を受け入れた。
 山下氏の著書「潜水読本」によれば、建造費25,000円、設備費10,000円、運転資金40,000円、合計75,000円、が提供されたそうだ.
 一松は二号艇完成当時、東京の赤坂、溜池(三会堂ビル)に義兄、西村新と共に西村深海研究所を設置した。
 (1964年5月27日に三菱横浜造船所を訪問して調査したところ、バラストタンク、船尾構造、外板配置図、舵詳細、船尾隔壁、竜骨防舷機、機械台構造、中間軸受梁、中間軸詳細、などの図面が残されていた)




1936年末の日本船名録によると、西村一松は、下関を船籍港として二隻の木造漁船を所有していた。下関での海底調査ではこの内の第六松丸が潜水作業艇の母船に転用されたらしい。

船舶番号、40640、木造スループ帆装機付帆船、第六松丸、建造、1935年7月、建造地、境
船舶番号、40641、木造スループ帆装機付帆船、第七松丸、建造、1935年9月、建造地、境
 要目共通、55総トン、寸法、22.4×4.3×2.2、主機、llO馬力発動機、一基、
 多分、機関は焼玉機関であろう。