もりコンツェルン 森コンツェルン
森矗昶(のぷてる−1884-1941)が満州事変以俊の時局の波に乗って創始し、1代で終ったコンツェルンで、目本産業、日本窒素、日本曹達、理化学研究所とともにく新興コンツェルン〉と称されたが、その資本的規模はそれらのうち最小に属した。しかし硫安やアルミニウムなど、当時の日本でまだ工業化されるに至らなかった事業にさきがけ、しかもこれらを国産技術で作ることに成功した点に、このコンツェルンの大きな特色があった。
森矗昶は千葉県人で、高等小学校卒業の学歴しかもたなかったが、盛んな事業欲と活動力を備えた人物で、少年時代から父の経営するヨード製造の事業(海藻のカジメを焼いてヨードを製造)に従事していた。
l908年(明治41)、25歳のとき味の素株式会社の鈴木三郎助(1867〜1931)と提携して総房水産株式会社(資本金30万円)を設立。森はその営業部長となり、のち常務取締役となって、ヨード事業の拡張を計った。
それ以来、森は鈴木の資本力を背景として塩素酸力リの製造、そのための電力供給源たる東信電気株式会社の設立など新規の事業に乗り出したが、第一次世界大戦後の反動で、一敗地にまみれるに至った。
しかし、森と鈴木との提携はその後も緊密に維持され、1998年(昭和3)には森は東京電灯株式会社の余剰電力の利用を目的として、東京電灯および鈴木の出資を得て、資本金1,000万円の昭和肥料株式会社を設立し、その専務取締役となった(社長は鈴木三郎助)。そして神奈川県川崎に建設したその硫安工場において、1931年(昭和6)日本最初の国産法の設備による硫安生産に成功した。
また森は、旧総房水産会社の興津および館山両工場(ともに千葉県所在)を母体とする日本沃度株式会社(資本金100万円)の社長となっていたが、この目本沃度会社は長野県大町にアルミニウム工場を、横浜市にアルミナ工場を建設し、1934年日本で最初のアルミニウム精練に戚功し、同年社名を日本電気工業と改称した。
このころから森コンツェルンの名が世に伝わるようになったが、1937年(昭和21)ころにおけるその規模は、持株会社たる森
興業株式会社(資本金1,000万円払込済)の下に直系7社、傍系7社、合わせて14社、それらの公称資本金合計は1億100万円余(払込資本金合計は5,6CO万円余)であった。直系会社のうち最大のものは日本電工であったが、同社は1939年(昭和14)昭和肥料と合併して昭和電工と改称した。太平洋戦争終戦後、森コンツェルンもまた消滅した。
(梅井 義雄)