§4 関門海峡・海底トンネル地質調査に豆潜来る

(まえがき)
世界初の海底トンネル
 関門海峡に海底トンネルをという案は、遠く明治の中葉にさかのぼる。
 明治29年(1896)10月、第5回全国商業会議所連合会が博多(福岡)で開催された折、博多商業会議所から政府に建議が出されて以来、度々話題にのぼり、明治44年(1911)に時の鉄道院総裁後藤新平が調査を行った。
 このトンネル(鉄道)案のほかに、海峡に橋を架けるという構想も早くから論ぜられていて、「トンネル」か「橋」かで論議が沸き返った。大正初期に鉄道院に提出された調査報告書によると、トンネルが1,300万円、橋が2,200万円と工費上ではトンネルの方が遥かに有利であったが、最終的には軍部の意向に左右されたと思はれる。と云うのも当時、関門地区は陸軍要塞司令部があって、国防上の重要拠点であった。従って「橋では敵の目標になる」とか「菊のご紋章のついた軍艦が橋の下をくゞるなんてとんでもない」などの反対意見があった。
 トンネル着工がスンナリ決まったわけではなく、地質調査を実施する計画などは進んでいたが、第一次世界大戦後のインフレ、大正12年の関東大震災、さらに昭和2年の経済恐慌によって三度も着工の機を逸した。
 技術的な面だけでなく、当時の国内、国際事情に強く左右されていたのである。
 かくして鉄道トンネル建設が正式に決定したのは、鉄道院に設置された関門壁?道技術委員会が答申書を提出した昭和10年11月であった。(翌年下関市竹崎町に工事施工の現地事務所として「鉄道改良事務所」が開設された、)
 トンネルのルートも彦島(下関)の弟子侍を通って、小森江(門司)に抜けるコースに決まり、昭和11年9月19日に門司側で待望の起工式が行はれた。
 かくして世界初の海底トンネル開通(建設)への道が開けたのである。
 掘削工法としては、英国で開発され、テームズ河底のトンネル工事でその効果が実証された「シールド工法」が採用されることゝなった。この「シールド工法」はシールドと呼ばれる掘削重機械を使って掘進してゆく方法で、殊に軟弱地盤のトンネル工事に威力を発揮するもので、日本では初めての試みであった。

海底地質の調査〜豆潜第二号艇登場〜
 昭和19年9月19日の起工式に先だって、ボーリング工事が昭和10年、時の内田信也鉄道大臣が海底トンネル工事の断行を決意すると同時に、東京ヤマト工作所に依嘱して、まずルート決定のための第一試錐を打ち込んだのを手始めに、海底に幾百本の垂直或は水平ボーリングを行い、恰(あた)かも蜂の巣のような穴が海底に掘られた。
 海底は地殻の変動によって生じた”断層”がこのルートにはクモの巣の如く錯綜していることが分かった。
 この断層の筋や、複雑怪奇な海底の地質をボーリングの外に、”弾性波式地質調査”即ち”人工地震”によって探究すべく、昭和11年10月25日から、世界初の海底人工地震調査が開始された。
 この調査によって、今まで未開の扉に閉されていた関門海峡海底の地質の謎が克明に写し出されていった。
 潮の流れの早い関門海峡は新生代に入って大変動に遭い、瀬戸内海が陥没した頃生まれたもので、極めて複雑な地質を織り込んでいるので、海底地質の更なる調査を東京赤坂溜池の三会堂ビルの「西村深海研究所」に依嘱、西村式豆潜水艇の出馬を要請した。(昭和11年12月初)
 この要請を受けた”西村深海研究所”では第二号艇を派遣することにしたが、潜水艇本体を鉄道の貨車輸送で下関に運ぶか、或は曳航して海路下関まで廻航するか、二者択一を迫られたが協議の末海路をゆくことに決定し、母船第6松丸(本繰?船)に曳航をさせて、当時の基地真鶴港を昭和11年12月28日出航、トボトボと17日間の旅を続け、漸やく明る年の昭和12年1月14日下関の巌流島に到着した。
 主な人容は西村新(一松の義弟・同研究所副所長)、徳田潜水艇長他作業員2名と母船松丸山名船長の5名であった。