豆潜、彦島ドックで化粧直し〜下関市民に公開〜
 翌15日に下関改良事務所に引き渡された第二号艇は、彦島本村の米田造船所ドックに回航された。(写真上掲参照)

 16日は早朝からエンジンの整備や採取機(※マニピュレータ)、蓄電池の取付けなど18日の出港準備に追はれ、夕刻一先ず船体の修理作業を終え、漸く翌17日市民の前にその艇体を現わした。



 豆潜水艇の人気は発明者が地元下関の同郷人だったせいもあって鰻上りに上昇して、その噂で持ち切れであった。ほとんど毎日の新聞を賑はして文字通り”里帰り”の感であった。



国道トンネル・同時並行
 鉄道トンネルの着工に遅れること3年、昭和14年(1939)4月、下関みもすそ川から門司市和布刈(メカリ)岬を結ぶ海峡(早鞆(ハヤトモ)海峡……源平最後の古戦場)の最短コースの地点に第3の海底トンネル(関門国道トンネル)工事が着工された。
 海底に人と車をという計画は、かなり早くから民間によって計画されていたが、事業の重要性に鑑み政府の許可が得られず、また資金的に行き詰ってこの計画は立ち消えになっていた。しかし世論や鉄道計画が進められる中で、政府も海峡に国道を建設する事の検討をはじめ、架橋よりも海底トンネルということとなり、10ヶ年継続事業として着工することとなった。
 鉄道と国道の両トンネル大事業が一つの海峡をはさんで進められていったのである。
 源平最後の海戦で平家一門が海に身を投じた怨念の早鞆海峡―その海峡の横っ腹に文明の鋪道を建設して、本土と九州を海底でつなぐ画期的偉業〜関門市民永年の念願であった関門国道トンネル工事が、いよいよ同年5日14日のボーリング工事を皮切りに、下関側から地盤調査の第一歩を踏み出したのである。
 こゝに鉄道と国道の両海底トンネル工事が前後して並行して進められることになったが、豆潜水艇による海底地質調査は鉄道より国道から始められることになった。
 従って1月16日、彦島のドックで整備と下関市民えの公開を終えた豆潜水艇は、17日間の長旅の疲れをいやす間もなく、翌17日正午急遽、彦島から赤間(アカマ)町岸壁(赤間神宮前のポンド)の内務省下関土木出張所に回航され、明くる18日からいよいよ下関に於ける海底地質調査の第一歩を踏み出した。(新聞参照 139頁)



国道トンネルの海底調査始まる
 1月18日朝、名にし負う急瀬早鞆海峡の僅かな転流時を利用。同出張所の本間測量係主任技師が調査の第一線に乗り出した。
 場所は同トンネル起点下関市壇の浦の歴史に名高い安徳天皇がご入水されたみもすそ川の沖合100メートル、推進5メートルのところ。
 午前10時、豆潜水艇は母船第6松丸その他内務省ランチ数隻の物々しい海上警備裡に海底深く潜ったが急潮のため、約100メーター近く西に押し流され、約20分余りで浮上した。
 さらに門司側の沖合いで一回、午后4時二回目の海底地質の調査を行った。
 同トンネルルートの延長は720メートルで、水深は最深部で32メーター、浅い所で10メーター、門司寄りに従って深度が増していることが判明した。  次いで一日おいて、1月20日午前10時、本間技師一行は門司市和布刈沖から潜航、約1時間ルートに沿って調査を行った。
 午后2時からは、三浦所長はじめ5名の技師が乗り込み、数隻の内務省汽艇の物々しい海上警戒裡に調査、潜航すること約1時間。
 ルートの約3分の1程度まで来た時、外部を照明する電球線が切れたため調査を打切って浮上した。
 調査本部に引き上げた三浦所長は、
「深度30メーターの最も深いところまで潜って見たが、今日もあいにく海水が濁り判然としなかった。大体トンネルルートの海底地質は非常にこみ入っているようだ。花崗岩、硯石というような硬質の転石が累々として散在。また高さ2〜3メートルもある断崖が所々に在り、この断崖が果して断層か否か不明。断層とすれば相当深いところまで入っているものと考えられる。
 今後はボーリングと熟練した潜水夫によって地質調査に専念するつもりだが、今日の調査では矢張り素掘りで邁進する外あるまい」
と語った。
 当日の報道陣の中の一人、石田貫一記者(大阪毎日西部・写真部〜後述のNHK TVスポットライトに出演)はその日の思い出を次のように語っている。
「……潜航一時間、ルート3分の1、深さ30メートルの海底で岩の裂け目にはさまれた。また外部を照らすランプの線が切れ、暗い海底に身動きできなくなってしまった。
 海上に通じる電話で「どうにもならん。エアーコンプレッサーを開放したが浮かばない」と上に助けを求めてきた。
 サァ大変!、三浦博士以下最高幹部の技師達青くなっていることだろう。
 報道陣は海上のランチで、もしこれが浮上しなかったら大事件になる。それからそれえと不吉な思いをめぐらしていたが、30分ほどしてやっと浮上してきた。
 豆潜水艇のハッチから出て来た三浦博士、待ち構えていた報道陣に対して、その時少しもあわてず「源平合戦の時の刀剣や、鎧、かぶとを探していたのでちょっと遅くなった」強がりを云ってひたのには、報道陣も口あんぐりだった。」
 かくして、国道トンネル海底の地質調査は1月18日から20日までの3日間で、ほゞ所期の目的を達したので、豆潜水艇は再び彦島にバック、鉄道トンネル側にバトンタッチされた。
 早鞆海峡は東流、西流8ノットの急潮ではあるが、巾はわずか1km足らず、一番狭いところで700米位の距離。幸いにして3日間天候に恵まれ、海水の透明度も割合良かったので、短期間乍ら潜水調査は順調に終った。
 国道トンネルの掘削工事はその後、戦争のため一時中断されたが、戦後の昭和27年11月に再開され、昭和33年に開通、永年の念願であった関門海峡(早鞆)が、歩いても、車でも渡れるようになった。(鉄道トンネルは昭和17年11月開通)