- 鉄道トンネルの海底調査
- シールド工法の採用が決まり、起工式の前から既にボーリング工事が行はれていたことは既述の通りだが、未経験の海底トンネルを掘る上で地質に在った掘削工法を選ぶことは最も重要な課題であった。明治44年の最初の実地踏査以来、地質調査は徹底的に行はれており、中で小寿江(門司)〜弟子侍(下関)ルートの調査は可能な限り綿密に行はれた。
然し海底の地質調査になお一層の精密さを求めた下関改良事務所は、豆潜水艇をチャーターして海底の様子を実際に目で観察・確認する必要があった。
昭和11年7月15日、林兼ビル3階の仮庁舎で下関改良事務所の開所式が行はれ、次いで翌昭和12年、林兼ビルの隣接地に新築の新庁舎に移り、1月9日竣工式が行はれた。
釘宮磐所長は村山朔郎技手(昭和10年京大土木卒、鉄道省入省)をボーリング設計に起用した。
シールド工法が日本で最初に用いられたのは、大正8年(1919)以来で総て陸上トンネル工事で、地質等の関係で十分な威力を発揮したとは云えず、技術そのものは日本では未だ完成されてはいなかった。
関門トンネルは規模も大きく、日本で初めての水底トンネルでもあり、しかもシールド技術は未熟である。
大学を出てまだ間もない村山技手は、自分のもとに届けられたシールド関係の英文資料百数十冊を丹念に読み漁って研究した。
1月14日シールド会議が鉄道省で開かれたが、終?って間もなくして、20日すぎから豆潜水艇による海底の地質調査が開始されることとなった。
海峡の水深は約7〜19mあり、トンネルの海底部は海底から約10mの所を掘ることになっている。もっとも弟子侍〜小森江間の地質調査は可能な限り綿密に行はれたことは前述したが、村山技師にとっては未知の部分も多く、学問的にもまだ充分に確立されているとは云えないので一抹の不安もあった。
いよいよ潜水の日がやって来た。海水が動いている時は潜水できないので、潜水観察は潮流が変わる転流時の30分位の短い時間に限られる。
『村山技手は観念して身軽ないで立ちで、マンホールから艇内に入った。やがてハッチが閉められ、タンクに注水して艇は静かに沈下してゆく。
3千ワットの前照灯に照らし出される海中を村山技手は何一つ見逃すまいと、先端のガラス窓に顔をぴったりつけて目を凝らした。
トンネルにあたる海底には、コンクリートの塊に旗を立てた標識が、100米間隔に並べられているはずだが、不鮮明で見えない。視界一面に雨のように石炭粉が降り、1米先がやっと見える程度だ。関門海峡は石炭を積んだダルマ船の通路であり、常時石炭粉がまき散らされている。航行航のエンジンの音が近づき黒雲のような船の影がガラス窓を横切り、そして音が遠のいてゆく。海藻がガラス窓を撫で、時折海底を這うようにして魚の姿がチラッと見える。石ころらしいものが海底にころがっている。地質が花崗岩であると、表面に石ころが出ているものだ。
村山技手は艇内の電話の受話器をとりあげた。電話を受けた母船は艇のそばにいる潜水夫に網をひいて合図し指令を送ることになっている。だがいくら呼んでも電話がつながらない。
村山技手は操縦士の云う通り、そばにある金槌を取り上げて、艇の側面を叩いた。
ガンガンと金属音がして潜水夫が側壁に耳をあてた。水中音波が伝わったらしいので、海底に盛り上がってみえる石をとるよう大きい声で潜水夫に指示した。潜水夫が了解してその石を取ろうとした。しかしその石は潜水夫の手の中でもろくもこわれて粉々に散ってしまった。堆積した石炭ガラのようであった。』
と「関門トンネル物語」に田中喜子氏が書いている。
上述の如く村山技手が潜航した関門海峡は船舶の往来が激しく、殊にダルマ船と呼ばれる石炭船が落としてゆく石炭粉で、海水の透明度を一層悪くしている。いくら優秀な潜水夫でも、潜水艇でも透明度の悪いところでは何の役にも立たない。
伊豆半島の透明度の良い海底を潜り馴れている豆潜水艇の乗員達も、驚くとゝもにボヤクことしきり。艇内から操作する操取?機(今でいうマジックハンドorマニュープレーター)も活躍する場もなかったが、潜航調査はその後数日間続行された。
1月14日に下関に回航された豆潜水艇の第二号艇は、鉄道、国道両トンネルの海底地質調査は一先づ1月末で終止符を打たれた。
国道トンネルの海底調査は、天候にも恵まれ、水質の透明度も良かったので、短期間に所期の目的を略ゝ達したが鉄道トンネルの方は海上を往き交う船舶殊に石炭船の落す粉で一段と透明度が悪く、所期の目的を完全に達したとは云えなかった。
昭和11年から昭和17年までの7年間、延べ348.1万人の手によって完成された世界初の海底トンネル大工事の状況は、戦争中で機密事項として一般に報道されなかったので、殆どの人がどのようにしてトンネルが造られたか、如何に努力と犠牲が払はれたか知る由もなく、新幹線のトンネルも開通した今日、たゞ列車に乗って海底へともぐり込んで、陸上へと上がってゆくのである。
下関は筆者の生まれ故郷でもあって、仕事の都合でこの海底トンネルの恩恵に浴して来た。何回このトンネルを往復したか数え切れない。
上述のように関門海底調査の模様(豆潜水艇)が資料不足ではっきりしないので、最後に当時地元新聞社「関門日報社」の黒川寛記者が誌した豆潜水艇同乗記(鉄道トンネル海底での)を次に掲げてこの項を終りたい。
- 昭和18年2月発行
黒川 寛著「海底死闘六年 関門トンネル」より
豆潜水艇で探る怪奇"魔の墓場"
「私は或る日、徳田艇長の案内でこの特殊豆潜水艇に乗り込み、恵潮にゆらりゆられて海底の珍奇な風景をメモした。
そのメモによると
『艇内にくゞりこんで見ると、やっと一人の人間が歩行出切るくらいの広さしかない。さながら海のダットサンの感じである。ムッとエンジンの香りが鼻につく。突然ハッチが貝殻の蓋のようにポカリとかぶさったかと思うとはやくも潜没だ。
暗緑色の海中に月光の夜空に照らし出された彩雲の如く砂地の海底が白く光っている。突然ニョキニョキと艇頭のグラスを撫でた黒い怪物がある。何だ!
それは背高い海草が波間にゆられているのだった。竜宮ならで全く荒寥たる魔の墓原だ。静かに聞てくるのは上がり下りする船舶のエンジンの響きのみ。黒い入道雲が魔の如く通り過ぎた。海上航行の船の影であるそうだ。
陸で想像していた蒼浪の竜宮、魚族のユートピアはどこにったい見出し得るか眼に残った海底の印象は荒廃しきった海の墓場』
と記している。」