(トンネル調査以外の諸作業)


満珠(マンジュ)・干珠(カンジュ)で海底遊覧
  写真→関門の諸名士招待
 関門海峡の海底調査の仕事を昭和11年1月末で終えた豆潜水艇は、2月初めから、関門地区の諸名士、学校の教師その他有志を招待して、長府沖の満珠・干珠二島を中心とした海域で体験潜水を行った。早く云えば海底遊覧である。
 潜水は、天候、潮流、透明度など、気象・海象に大きく左右されるので、一日に招待できるお客数は限られるので、終るまで一ヶ月近くかゝったと思う。筆者は度々同行したが、学校の先生の話によると、参加希望者が多いのでクジ引き(抽でん)で参加者を決めたということであった。また太った人がいて、どうもがいてもマンホールから入れず、遂に乗船をあきらめざるを得なかった。
 長府沖の満珠・干珠の二島は、早鞆海峡を東方に向って暫らくゆくと前方に現はれてくる小さい島である。その名は神功皇后伝説から生れ、現在天然記念物に指定されている。
 この海域は往来する船舶も少なく、波も静かで透明度も良いのでこゝが選ばれたのであろう。
 招待されたお客は100名位ではなかったかと思う。生れて初めての海中観光、竜宮の気分を味わった帰りには、お土産代りに弁当と2合ビンが各客にサービスされた。その費用も決して小さい額ではなかったと思う。
 筆者も度々乗船したが、残念乍ら海底の景観は全く記憶に残っていない。

爆沈戦艦「河内」調査
 下関に於て関門海峡の地質調査を終えた豆潜水艇第二号艇は、3月初め徳山湾で爆沈(大正7年)した軍艦(20,800屯)”河内”の痕跡調査の依頼を受け、五千第6松丸に曳航されて徳山湾に向った。
 この戦艦”河内”は今日ご存知の方も少ないと思うので一寸略述しておこう。
 「河内」は、明治45年3月31日、横須賀海軍工廠で完工。排水量20,850屯、速力20ノット、主砲30糎連装砲16基、15糎副砲10門、「摂津」と同型艦で我が国初のド級戦艦としてわが海軍の貴重な戦力であった。
 大正7年7月12日、徳島湾沖合に停泊中、午后3時57分、突然大音響と共に艦中央部に爆発が起り、4分後に艦底の一部を残して沈没。呉鎮守府から直ちに潜水夫、潜水器を搭載した救助船が急行、救助活動を開始したが、機関長以下611名(約1,000人定員)が殉職した。
 原因は、中央部の重油タンクが艦内の温度変化と動揺のため自然発火、その火が火薬庫に引火して爆発を起こしたものと推定された。艦体が大破状態であったため、暫らくその侭放置されていたが、後年解体処分されたということである。
 この”河内艦”の痕跡の調査を依頼されたのであるが、爆沈以来20年以上が経過し、然かも解体処分され、今更痕跡を調査して果して成果が挙るか甚だ疑問であるが, 徳山湾に到着した豆潜水艇は翌朝から沖合の沈没箇所一帯の海底を潜水調査した。
 然し、春先の事でもあって海水の透明度も良くないので、丸一日潜水を続けたが、之という成果もなく調査を打切って下関へ帰投した。
 この”河内”調査の件は新聞にも報道されず、また記録もないので一切不明。筆者も同行した記憶はあるが……。
 下関に帰投したのち、九州博多湾の志賀島周辺の海底に古代杉の埋没林があるというので、潜水調査に赴いたことがあったが、これも記録や報道もないので判然としない。

漁港造りの海底調査に一役
 平成元年(1989)10月に出版された毎日新聞下関支局編「しものせき〜市制百年」で筆者も初めて知ったのであるが、下関漁港の建設に当って、海底調査のため豆潜水艇が使用されている。
 もともと下関漁港は岬之町にあったが、年々水揚量が増え続け、大量水揚げが可能な漁港造りが緊急課題となった。
 当時、漁港建設案には外港案と内港案があったが、結局関門鉄道トンネルの線路の関係で鉄道省の意向を入れて内港案に決定した。
 昭和7年9月、下関港湾事務所が設置され県営事業として工事がスタート。しゅんせつと埋め立て工事が同時に進められた。
 其の後工事は戦争のため一時中断されたが戦後すぐに再開され、昭和24年に完成した。
 豆潜水艇がこの工事の海底調査に使はれたのは、昭和14年の2月から3月にかけての間と思はれるが、はっきりしたことは判らない。
 同書(86頁)には、市の港湾関係の職員と思はれる人が、豆潜水艇のマンホールから単身を出して写っている写真が、「漁港造りには海底調査のため小型潜水艇が使はれた」という説明付きで掲載されている。
 下関漁港の海底調査に豆潜水艇が使われたことは筆者も初めて同書で知った。

豆潜水艇、母港真鶴へ帰投
 関門両トンネルの海底地質調査その他諸々の作業を終えた豆潜水艇第二号艇は、昭和12年3月末、下関港に別れを告げ母港真鶴港に向けて帰投の途についた。
 途中、瀬戸内海の海底にマンモスの遺跡の有無を調査するとの事であった。
(瀬戸内海が未だ大陸と陸つづきであった古世代、マンモスが活歩していたと云はれていた。)
 母港に帰投した第二号艇は、既に陸軍にチャーターされていた第一豪邸と合流して、水中音波伝播の研究に従事することになる。