海軍と西村艇
W 海軍
- §「イ63号」沈没・2号艇出動
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昭和14年(1939)2月2日未明、わが連合艦隊が演習中、潜水艦「イ63号」は豊後水道で夜間訓練を終えて浮上、水上航走で基地佐伯(大分)に帰投の途中同水道のほぼ中央付近で仮泊していた。
そこに予定より遅れて全速で到着した僚艦「イ60号」が、「イ63号」の右舷中央部に激突して「イ63号」は大破、またたく間に主機械室に浸水して93mの海底に沈没、艦長以下81名が殉職するという一大椿事が突発した。
艦隊では直ちに人命救助と事件の全貌確認に努めるべく、取り急ぎ海軍屈指の潜水員といわれた福永金次郎氏を派遣して、決死的に「イ63号」のデッキに降ろしたが、何分100mに近い水深と急潮のため危険極まりなきことが判って直ちに浮上した。
潜水夫では全く手に負えないこと、また状況も把握できないことが判明したので、急遽以後の作業を引き継ぐべく呉海軍工廠主導の救助隊が組織された。
「イ63号」は万一の浸水による沈没を免れるため、艦内は7区画に分割されていたが、大馬力のディーゼルエンジンがある主機械室に破孔を生じたことが致命傷となった。
海軍切ってのベテラン潜水夫の手におえないとなれば、あとは潜水機(器)に頼るしかないであろう。
海軍では、明治38年5月日露戦争中旅順港内における沈船引揚げ用として、イタリヤから購入した救難船「猿橋(旧名サールス号)」付属の潜水船(非自力航走:写真参照)があったが研究実験はしたもの々、実用にならずその後は潜水作業についての研究はほとんどしていなかった。
しかし海軍でも大正から昭和にかけて、深海潜水の研究に従事していた人も無いではなかった。海洋工学の研究家で元海軍技術(造船)大佐の畑敏男氏である。
彼は昭和2年大尉の頃、約10年間に亘ってサルベージや深海潜水の仕事を手がけ、同年8月「深海征服の夢」と題した小論文を発表されている。これは当時、海軍で研究開発した深海潜水術(器)の説明であるが、その後彼に続く者が少なかったせいか、上述のように潜水作業艇の研究までには至らなかったようだ。
(因みに畑敏男氏は戦後、海洋工学研究所を設立して、持論の”水中浮力基礎”を基にした「浮かぶ人工島」、「消波提」など海洋開発の面で随分活躍された。
著者も度々お会いして、水中浮力基礎についていろいろご教示を頂いた)
既述の通り西村式豆潜水艇の第二号艇は、昭和12年1月から関門トンネルの海底地質調査その他の仕事を終えて3月母港眞鶴に帰港した後、すでに陸軍に徴用されていた第一号艇と同様陸軍に徴用されることになり伊豆伊東の横磯に回航、第一号艇と合流して塩見文作技術少佐の指揮下に入って、水中音波の伝播状況研究に携わっていた。
海軍の「イ63号」救助隊では豆潜水艇第二号艇の出動を緊急に必要とし、先づ陸軍側の了解のもとに第二号艇を一時海軍でチャーターすることになった。
西村深海研究所では再び義弟の新(アラタ)が乗員3名と共に、第二号艇を海軍の運搬船金龍丸に搭載して大分の佐伯港に急行した。
一方海軍では日本サルベージ会社にも協力を要請した。同社ではサルベージの権威といわれた宮崎技師と「祐捷丸」を現地に派遣した。「祐捷丸」は一時作業員の母船の役目も果していた。
また呉海軍工廠では造船部長森川造船大佐同じく造船部の蛭田潜水員(当時日本一の深海潜水記録保持)も応援にかけつけた。一度蛭田潜水員も「イ63号」の甲板まで潜降したが高水圧のため全く動けず、直ちに浮上して二度と潜ることはなかったという。
かくするうちに、救難作業は艦隊の手をはなれて、潜水学校長を委員長とする救難委員会に引き継がれることになって、救難作業も本格的となってきた。
西村式豆潜水艇第二号艇の運用指揮は寺田明造船大尉(戦後、一等海佐、三菱重工顧問)と有馬正雄造船大尉がとった。
調査のため乗艇した士官は中村、西島両造船中佐、入江少佐、寺田、有馬、義田の三造船大尉および堀内造船中尉などであった。
現場には沈潜「イ63号」の位置を示す旗と浮標が立てゝあって、そこを基点として豆潜水艇は潜航を繰返した。しかし「イ63号」の沈没位置に到達することは至難の業であった。
と云うのも豆潜水艇自体の行動は蓄電池の力のみが唯一の頼りで、行動時間が一時間前後に制約される。2月の厳寒期でその上悪天候続き、たとえ好天に恵まれても、浮力が−10kgでは沈降速度は毎秒0.1メートルで100メートル沈下するのに15〜20分かゝる。その上潮流が2ノットあるとすれば1000メートルも流されることになる。(現場は転流時を除いて2〜3ノットの流れがあったという)
豆潜水艇の水中での速力は3ノットであるが、潮流に向って海底を走行すると0.5ノット位に速力が激減する。従って予定地点に到達するには一時間前後を要することになる。
つまり潜水時間の制限内に目的地点に到達することは到底不可能なことである。
寺田大尉外担当官は豆潜水艇の責任者西村新と協議を重ねた結果、構造・性能からみて所期の目的は達せられないのみならず、人命にも係る危険性が大きいので、豆潜水艇の使用は一時中止することに決定した。
(付記:唯一の頼みとする前方の覗き窓は電灯を照らすと、今日で云うところのマリンスノーで全く何も見えないことが判明した。)