§ 戦艦「陸奥」謎の爆沈

西村式改造型3746号出動

陸奥爆沈す
 昭和18年6月8日昼すぎ(12時10分)、瀬戸内海の山口県柱島沖の連合艦隊泊地に停泊中の戦艦「陸奥」(43,439屯)〜日本帝国海軍のホープであり秘蔵?艦として、姉妹艦「長門」と共にその偉容を誇っていた)が突然大爆発と共に一瞬にして艦尾を残して43mの海底に沈没、三好艦長以下1121人の尊い命が奪はれるという一大事件が起こった。
 時まさに太平洋戦争たけなわの折から、敵潜水艦の魚雷攻撃?他数々の憶測を変えながら救助隊の編成出動と共に爆沈原因についてのM事故査問委員会が直ちに設置され、軍事参議官塩沢幸一海軍大将を委員長に、艦政本部第4部の牧野茂技術大佐ほか6名の委員が任命され、造兵・造船専門家を含む各界の権威が集められた。
 査問委員会は、疑惑の某下士官を調査するため呉海軍工廠直属の潜水夫を潜らせた。
 潜ったのは福永金次郎浜田武夫の両ベテラン潜水夫。
「爆発原因の探索のための資料調査」という作業目的だったが、当時の記録によると目的の第一は「スパイ容疑による第三分隊員の指名者引き揚げ」となっている。
 この潜水作業は「竹工事」という名称で呼ばれ、潜水夫は5〜6名、1ヶ月余りで打ち切られた。
(余談だが、作業中止後潜水夫たちは本部に数日間軟禁され固く口止めされた。その後強制的にマニラやシンガポールの作業え飛ばされた。〜某下士官えの疑惑は濃くなる一方であった。)
 さらに救難隊々長に呉海軍工廠造船部員松下嘘喜代作技術大尉が任命され、その補助役として鈴木伊智男技術少尉が任命された。
 当時は、前年のミッドウェイ海戦の敗北を契機に、山本五十六連合艦隊長官の戦死、アッツ島玉砕、、、と相次ぐ悲報がもの語る通り、敗色は日一日と濃くなる一方、帝国海軍のシンボル的存在の戦艦陸奥の爆沈公表は到底堪え難いものであった。従って事実は徹底的に極秘とされた。
 海軍中枢部としては、何としても極秘のうちに「陸奥」を引き揚げて、一日も早く戦列に復帰せしめねばならなかった。
 作業責任者の福田烈技術少将(造船部長)は、既に呉鎮長官を通じて、”修復期間を三ヶ月間”という指示を海軍中枢部から特別に受けていた。
 つまり救難隊は、「陸奥」引き揚げの可能性を確認すべき重大任務が与えられていたのである。
 そのためには爆沈「陸奥」全体の被害状況を正確に把握せねばならないが、何といっても艦長225m、艦巾30mの巨艦、その上50m近い暗黒の海底に切断されて横倒しに、しかも爆風によって艦体は飛散状態にある。
 当時海軍では優秀な潜水作業員がいたが、その数は極めて少なく、「陸奥」そのものに対する知識も乏しい上に、深海作業は肉体的、精神的、時間的に制約されるので、「陸奥」の全体像を掴むことは至難の業であった。
 救難隊では「陸奥」調査の能率をあげるためには、昭和14年夏建造された潜水作業艇3746号(西村式二号艇改造)を使用すべきであるという提案が鈴木伊智男少尉によって為された。
 救難隊長松下大尉はその提案を容れて、潜水作業艇3746号の出動を要請すべく鈴木少尉を呉工廠に派遣した。
 鈴木少尉は6名の艇員を伴って3746号を現場に曳航してきた。


潜水作業艇3746号出動
 呉海軍工廠より曳航されてきた3746号潜水作業艇は鈴木少尉を長として第一回の調査作業に取り掛った。
 潜水時間を予め30分と定めて潜航を開始した。処が潜水後予定の30分が経過したが、一向に艇は浮上して来ない。海上の監視艇で艇の浮上を今や遅しと待っていた松下隊長は鈴木少尉が綿密な調査活動を続けているものと一時は楽観視していたが、1時間経っても2時間経っても艇は一向に浮上して来る気配がなく、これは何か異変が突発したと判断して、艇と一緒に潜水した他の潜水員に、緊急浮上を艇に連絡するように命じた。
 潜水作業艇の蓄電池は2時間の容量しかないのでこれ以上の潜水作業は不可能、また艇内に積み込んである酸素ボンベも1時間分しかない。  鈴木少尉乗艇の3746号艇は、海底に横たはっている「陸奥」の近くまで潜って艦底の裂け目などを調査して、イザ浮上しようとしたところ、艇が全く動かない。よく見ると斜めになった「陸奥」の手摺り用の鎖に艇のマンホールの飛び出したボルトがひっ掛っているのが判った。
 いくら動かそうとしても艇はビクともしない。もうニッチもサッチもゆかなくなって艇内では皆あきらめ切って、中には遺書まで書き残そうとしている者さえいる。
 だが、もう一度艇をゆさぶって鎖からボルトを外そうということになり、艇内に総員が並んで右、左と移動を繰返えして艇をゆさぶっているうちに、突然マンホール付近でガチャンという大きい音がした。やっとボルトが外れ、やっとのことで艇は再び海上に姿を現はした。
 松下隊長乗艇の監視艇が全速で3746号艇に近づくなり、マンホールから蒼白の顔を出した鈴木少尉に「何が起こったのか」尋ねた。
 以下は作家の吉村昭氏が綿密に調査の上執筆された”陸奥爆沈”に鈴木少尉の報告をメモされているのを借用する。(昭和45年5月新潮社刊、吉村昭著”陸奥爆沈”P196〜197に依る)
 『潜水シテミルト、潮流ガ早イノニ驚イタ。海底ノ泥ノ上ニ下リテ進ンダガ、窓カラノ視界ハセマク、眼前ノワズカナ部分シカ見エナイ。
 沈没艦ニ近ヅイタ。窓外ニ艦ノハンドレールノ様ナモノガ見エタト思ッタ瞬間急ニ艇ガ動カナクナッタ。
 ドコカニ引ッカカッタト思イ、前進全力、後進全力ヲクリ返シタガ動カナイ。
 艇ニハ救難信号器トイウブイガアッテ艇内デハンドルヲ引クト海面ニ浮カブ。ハンドルヲ引イタ。ガ、信号器ガ船体ニカラミツイテ浮上シナイ。
 時間ガ過ギテユキ、呼吸ガ苦シクナッテキタ。必死ニ艇ヲ動カシテミタガ、艇首ガ沈没艦ノ手スリノ鎖ニ突ッコンデイテ外レナイ。
 死ガ迫ッタコトヲサトリ、遺書ヲ書イタ。艇ノ機能ヲ万全ナモノトスルタメ艇ニ無線器、投光器ヲツケルコト、救難信号器モ改良スベキコトナド具申事項ヲ書キトメタ。他ノ艇員モ死ヲ覚悟シタラシク、遺書ヲ書キハジメタ。
 呼吸ハ、サラニ苦シクナッタ。最後ノ努力ヲシテミルコトニナリ、艇ニ後進全力ヲカケタ。ト、ゴトント鈍イ音ガシテ艇ガハズレタ。漸ク離脱浮上スルコトガ出来タ。』
 以上は作家吉村昭氏の著書「陸奥爆沈」の中の一節であるが、九死に一生を得た鈴木少尉以下同艇の艇員は始めての潜水作業に肝をつぶしたことは想像に難くない。また往年の潜水艇6号の事故に於ける艇長佐久間勉大尉を想起させる実に立派な態度であったと思う。
 一人前の潜水艦乗りになるのに少くとも5年はかゝると云はれるが、甲標的(特潜)やこのような小型潜水艇ともなれば、艇の性能構造はもとより操縦技術まで完全にマスターしていなければならない。また精神面でも「精神の集中と分散が同時に出来なければ艇長はつとまらない」とわれわれはよく云われたものだ。
 呉工廠に於て、西村式の福永重一氏に指導訓練を受けたはずだが、、、それにしても、この事故により潜水作業艇3746号の使用は危険であることが判明した。潜水艦のように表面が割に平らで突起物が少なければ、作業艇の接近も可能であるが、「陸奥」のような大艦ともなれば艦橋をはじめ主、副砲(筒)、など突起物が無数に突出しており、まして沈没艦ではなお一層の障害物が複雑に入り混って横になっている。しかも急潮流に流されゝば、文字通りの豆潜水艇がどこかにはまり込むのは当然すぎるほど当然と云えよう。
 これ以上、3746号艇による潜水作業を続行すれば、必ずや人命事故が発生すると判断した松下隊長はこの作業艇の使用を断念することを決意して従来通りの潜水員による調査を続行することにした。
 以下潜水作業そのものについては、前項の「イ63号」と同じく直接関係ないので省略するが、、、この後、救難隊の決死的潜水作業のおかげで漸く「陸奥」の全容が明らかになり、その図面を作成、2ヶ月にわたる潜水作業を完了した。その後引き揚げ可能か否か極秘のうちに検討されたが、結局引き揚げ不可能と判断され、海軍中枢部における浮揚計画は放棄され、無惨な姿を瀬戸内海に横たえたまゝ終戦を迎えた。

参考:
『青島第一期(見習尉官制度の第一回)の橋本敏郎造船中尉(東大・戦後石川島播磨)は呉工廠造船部艤装工場係官で、様々な潜水艦を担当していたが、「陸奥」爆沈(S18.6.8)後の勤務録に
6月12日 作業艇整備
6月13日 柱島ニ於ケル沈痛ナル出来事ニ対シ呉工廠造船部ハ潜水作業艇ヲ出頭セシメ、一号艇出発セルモ、”浮力タンクベントスピンドル”故障ニテ戻ル
6月15日 潜水作業艇ヲ整備、一号艇、二号艇工場泊
(筆者註、この勤務録に潜水作業艇2艇の記録が見られる。)
 「陸奥」は戦歴からいえば数回出撃したにも拘らず、砲門をひらく機会にめぐまれていない。しかし日本海軍の象徴的存在という価値は大きかった。その喪失は海軍当局に大きなショックをあたえ、きびしい箝口令によって秘匿された。査問委員会が原因の調査にのり出し、スパイ謀略説、某二等兵曹の犯行説、火薬の自然発火説などいろいろと取沙汰されたが結局真相はわからずじまいだった』
(以上、内藤初穂元海軍技術大尉の”海軍技術戦記”(図書出版社S51刊)より)

 上述のように海軍で建造した西村式改造の潜水作業艇2隻のうちの呉所属の3746号艇は堀内中尉指揮によって、沈潜”イ63号”の発見に成功したが、爆沈”陸奥”の調査作業では非常な危険を伴うため途中で使用を断念して、その後放置されて終戦を迎えたという。
 沼津に配備された3747号艇の動向は全く不明であった、戦後の2艇の結末は次項の通り。