- 沼津技研・3747号艇
- 沼津の海軍技術研究所(後の第二海軍技術廠)に配備された海軍潜水作業艇3747号艇については、どこで、どのように使用されたか全く不明である。音響研究部に所属していたので、陸軍が西村式の一、二号艇を使って水中音響の伝播状況を研究していたと同様に海軍でも同じように3747号艇を使用していたものと推測されるが具体的なことは一切判らない。
戦後間もなく、と云っても昭和31年の春頃であるが、東京世田谷成城に伯父一松を訪れた所、偶然にも豆潜の乗員福永重一氏が来訪中で、豆潜水艇再起について協議しているところであった。
その折、伯父は「沼津で引き揚げた海軍の潜水作業艇を譲り受けて、新しく建造するまで取りあえずそれを活用するつもりだ」と筆者に語っていた。
(一松は戦後いち早く豆潜の再起を考えて研究を進めていたものと思はれる。特許や新案の申請も昭和31年の日付になっている。後述)
- 海軍3747号艇仕末記
- 昭和54年(1974)2月初め、静岡市在住の伊藤正明氏(当時、三菱エアコンの仕事をされている傍ら、静岡デルタクラブ艦船研究会を組織され、その事務局を引受けていられた艦船マニア〜大阪の?秀夫氏の紹介)から、思ひがけない次の書簡を頂戴した。これは次のような3747号艇のてん末記であった。
- 沼津の海軍潜水作業艇仕末記
静岡:伊藤 正明
- 西村式潜水作業艇について”S&S”No 80.P 16 に記事がのったが、この改造艇の1隻が沼津多比港方面で引き揚げられた写真が古い「丸」(号数不明)にのせられている。本艇は旧海軍公称3747潜水艇ということだが、地元に行ったら何か判るかも知れない。
車で走ること約1時間、まず沼津の多比港の近くに駐車して前記の写真を持って聞きこみを始めた。まず近くの魚屋のおじさんに聞いてみたら「あっ、技研の潜水艇か、、、」とよく知っている様子「そういうことは漁協の役員がよく知っている」というので内浦漁協本舎え行くと、近くの土佐谷鉄工で揚げたからそこが良いでしょうと教えて呉れた。
漁船を修理する船台が並んでいる土佐谷鉄工の脇田氏にお会いしてみると、昭和30年9月頃、江の浦湾淡島方面水深50米程の所から引き揚げて運んだそうである。この鉄工所は旧海軍の技研の跡地で船台やコンクリート基礎が今でも残っているそうである。脇田氏のお話から当時潜水作業艇を直接海没処分にした技研の人がこの近くにいると聞いて、なんとかその方にお会いしようと思ったとこR「5,6軒先でハマチを養殖しているあのおじいさんがそうです」と云われてビックリした。
早速”S&S”を見せてお願いしたら眞野新作氏と云われるその御本人は、元技研に永くおられ潜水作業艇にもよく乗っていたが終戦時に米軍の指示で海没処分を命ぜられたが、爆破処分にしないで浸水により水深50米に沈下させ後日引き揚げするよう位置までしっかり記録しておいたそうである。
かくて昭和30年潜水作業艇は引き揚げられ、土佐谷鉄工の一角にその奇異な姿を現し地元住民の大きな話題となった(写真参照)
潜水作業艇はその御鉛や銅など取外しほぼ船体のみとなったのだが、やがてトレーラーに載せられて横須賀方面にて売却されたということである。(完)
追記:艇の引き揚げの時期がはっきりしなかったのだが、脇田氏の写真撮影月日が30−10−17とあったので、恐らくこの1ヶ月位前と思はれる。
伊藤氏からのその後の手紙によると(S54〜2〜9)3747号艇は土佐谷鉄工に引き揚げられた後、近くの神社の空き地にしばらく置かれてあったが、そのうち横須賀方面に運ばれ、海上自衛隊か保安庁が検討したが、結局不採用になり処分されたということである。この間の詳しい事情は全く不明である。
筆者も昭和50年頃、仕事の関係で静岡県の清水に駐屯していた折、西伊豆のどこかに、この3747号艇が残存しているという噂があったので友人の車で伊豆半島の西側海岸を一日掛りで尋ねて廻ったことがある。
しかし、何も掴めず徒労に終わった、伊藤氏の上記の仕末記によれば既に30年代に処分されていて、この噂は全く根拠のないことが判った次第、、、、、、。