米・ニューポートの博物館に眠っていた


 ちいさな潜水艇が一隻、時の流れの中から浮上した。特許西村式潜水作業船。長さ10メートル、24トン、昭和のはじめに建造された日本初の深海調査潜水艇で、戦時中、ナゾの爆沈といわれた戦艦「陸奥」(むつ)の原因調査にも使われた。もはや実物は現存しないと思われていたが、最近米国の博物館に保存されていたのを旅行申の日本人のフネ関係者がみつけ、設計者のオイや当時、マメ潜を操縦した人たちの間から”日本返還”を叫ぷ声が起きている。

 深海を探検する深海潜水艇の開発が各国ではじまったのは戦後のこと。日本にもきたフランスのバチスカーフや、原子力潜水艦の沈没事故で活躍したアメリカのトリエステ号などはよく知られている。
 だが、この西村式潜水作業船の一号艇が建造されたのはこれよりはるかに早い昭和四年。海洋開発のさかんないま、日本の技術水準は欧米にくらべ十年も二十年も遅れているといわれているが、実は、海洋調査用の深海潜水艇に関するかぎり、むかしはかなり進んでいたともいえる。
 このパイオニア的なマメ潜水艇は終戦までに四度確認されたが、いずれも戦後、米軍によって破壊されたと思われていた。それが風雪に耐えて現存するとわかったのは昨年十一月。
 米国を旅行中の日本舶用開発協会の浮田基信さんが、ニューポート(ロードアイランド州)の海洋関係の博物館で、偶然みつけた。浮田さんは職業柄、フネマニアでもあるが
「まるで”死んだ人”にめぐり会ったようなもので、おどろきました」。
さっそく、発明者の西村一松さん(故人)のオイ、西村英二さん(51)=埼玉県所沢市=のもとへ、写真を送ってきて確認された。
 「もうとても現存してないと思っていましたから、あの写真を見て感激しましたよ。エエ、まちがいなくおじ(一松氏)の作ったフネです。あの型のフネには、おじさんに何度も乗せてもらったし、なつかしいですねえ」
と英二さん。その話では、このマメ潜水艇は、当時水産業を経営していた西村一松氏が、漁業資源調査を目的に、設計、建造もほとんど自力、白費で造りあげた。一号艇と二号艇の二種類があり、こんど見つかったのは二号艇だが、旧海軍で造?られたものだ。
 さて、この二号艇は関門トンネルの地質調査に活躍したり、当時、人気絶頂の冒険小説家、南洋一郎氏ら名士を乗せて海中遊覧をしたり、葉山沖でもぐって、天皇陛下に、採集した?生吻を献上したりした。全長10メートルの太い円筒型の船体に、やはり円筒型の操縦席がタテに突き出し、水上はディーゼル・エンジン、水中は蓄電池の・・・・
 乗員は二人。船底には海底をすべる”ソリ”、そして船首部から当時としては珍しいニ本の作業用マジックハンドが伸び、二つの窓を通じて海中を見ながら作業ができた。
 英二さんの手元に残っている性能表では400メートルまで潜水可能で、潜水時間は十時間。乗客は六、七人。英二さんは、戦時中は海軍の特殊潜航艇の乗員で、いまも、西独製の小型潜水艇に乗って漁場調査などの仕事をしているが、そこは??か
「おじさんの潜水作業船のほうが使いやすかったなあ」。
 とにかく、軍用の潜水艇が80メートル前後しか潜水できなかった時代に、もっと深くもぐれたのだから、ちょっとしたものだったらしい。
 太平洋戦争中の昭和十八年八月六日、旧連合艦隊の戦艦「陸奥」が、瀬戸内海の桂湾?で停泊中、ナゾの大爆発を起こして沈没した。この調査のため、沈没の約一週間後、呉海軍工廠にあった西村式の二号艇が出動し、50メートルの海底にもぐった。このとき、操縦したのは、現在,石川島播磨重工業機械輸出本部の?本部長、鈴木伊智男さん(53?)。当時、呉海軍工廠の船渠部技術少尉だった。
 「イヤ、あのマメ潜では九死に一生を得ましたよ。なにしろ、たいへんなフネでしたなぁ」
 鈴木少尉の操縦する二号艇は、技術者六、七人を乗せて海底に横たわる「陸奥」の近くにもぐり、艦底の裂け目などを調査した。
 ところが、いざ浮上しようとするとマメ潜が動かない。ななめになった「陸奥」の手すり用の鎖に、マメ潜の出入口のハッチの飛び出したボルトがひっかかったのだ。
 マメ潜に積んである酸素ボンベは、一時間分しかない。もうみんなが、あきらめかかったところで、艇をゆすってみてククサリをはずそうということになった。鈴木少尉や技師たちが、せまい艇内に並び、右、左と移動をくりかえして、マメ潜をゆさぶっているうち、ハッチ付近で”ガチャーン”という大きな音がした。ようやく鎖がボルトからはずれたのだ。このとき残りの酸素は五分ほどしかなかった。
 命拾いをした鈴木少尉。その?は一升ビンを二本カラにするほど飲んだそうで、それ以来、このマメ潜は「危なくて、危なくて・・・」ということで呉工?内に放り出しておいたという。
 「性能表では400メートル潜水できるとありますが、ムリでしょうな。船体の強度はだいじょうぶでしょうが、浮き上がれませんよ」
と鈴木さん。
 浮上のときは、積み込んだ空気ボンベのバルブを開き、その圧力でタンク内の水を押し出して浮力を生み出す。400メートルも、もぐってしまうと、ボンベの空気の圧力ぐらいでは、とうていタンクの水は押し出せないという。
 「潜水といっても、いったん海底まで降りて、あとは船底のソリのような部分ですべっていく。まあ、改訂をノロノロはって歩くと思えばいいですよ。いまの??潜水艇とちがって海面と海底の間で、適当な深さにとまるなんてことはできなかったんです」
 というわけで、このマメ潜は、深海を自由に動きまわるというには、ムリもあったようだが、とにかく、あの当時、一民間人が、海中で作業できる潜水艇をつくった意味はけっして小さくない。
 元海軍技術中佐で、現在、艦船技術サービス取締役の堀元美さんは
「日本の海洋開発は、最近、ようやく、深海調査のシステム・リサーチがはじまったばかりですが、あのころ、西村さんに続く人がいれは、日本の海洋開発もいまとはずっと変わっていたでしょうネ」
という。
 ともあれ、オイの英二さんは、”おじさんの潜水艇”の発見に、いま、西村式潜水船保存会(仮称)の結成とニューポートの博物館から現物を返還してもらう運動をはじめようとしている。できれば、沖縄海洋博に展示して、先駆者の苦労をしのびたいというのだ。


(右)かつて海底地質の調査などに活躍した西村式潜水艇。この写真は戦前、瀬戸内海で活動中のところという。
(上)米国の博物館で”発見”された西村式潜水作業船