西村式深海作業艇、4


陸軍と西村艇
 『我が陸軍に「陸軍科学研究所」が出来たのは大正8年のことであった。同研究所の本来の任務は世界の学界の研究報告の中から新兵器に応用可能な課題の兵器化を研究することであって、昭和7年の満州事変以来急に予算が増大され、昭和10年に名称を「第七陸軍研究所(七研)」と改められ、研究範囲も随分と拡張された。中でも音響兵器の可能性を持つ基礎研究、例えば「周波数分析」や「音圧の出来具合」などの研究は水中波を利用して要塞や一万トン級輸送船の対潜対策研究となって実際の兵器化が盛んに行われてきた。
 「七研」で潜水艦対策として行ったものは専ら標定を目的としたもので潜航中の潜水艦に水中超音波をあてゝ、それが反射して帰ってくる音をとらえて、方向距離を測定することであった。
 1万トン級輸送船の対潜対策の研究命令を受けた私は(塩見少佐は)、その水中音波の伝播状況の実験に取り組むべく、昭和10年11月、最初観音崎に聴測実験場を建設した。海軍の横須賀軍港に出入する海軍潜水艦を目標艦とする為であったが、標定能力の差が大きすぎる、つまり標定距離の差が大きすぎるのと、観音崎付近の水深が深い所で40米位しかないので実験目的を達し得ないことが判明した。
 その為、実験場を伊豆伊東の初島海域(100米位の水深)〜伊東市湯川横磯に移して(分室として)、西村式豆潜水艇第一号艇を徴用(昭和10年11月)、またその母船として扇海丸(300屯砕氷船)を宇品運輸部から乗員と共に借用して、いよいよ大陸棚海面下の水中音波伝播の様相の調査を開始した。
 調査が進むにつれて、当時世界のどこの海軍でも持っていない様な貴重なデータを多量に入手することができた。
 昭和12年秋から第2号艇も徴用され、遠く日本海溝付近の海面まで出掛けて垂直方向の水中音波伝播様相も明確に把握することが出来た。  また、朝鮮海峡の安全確保、ソ連潜水艦隊対策のため、海峡での潜航を繰返し対馬海峡の音響的封鎖線(釜山〜対馬〜壱岐〜九州〜本土)を如何にすれば、完全封鎖線の形成が可能であるか、その資料も入手することが出来た。
 また、豆潜水艇の活用によって、陸軍の水中聴音機、水中探信儀、探雷機などにも非常に大きな貢献をした。即ち対潜水艦用水中音響兵器す号機)の研究に大へん役立った訳である。』
 つまり塩見少佐は、一、二号2隻の豆潜水艇で日本近海200メートル前後の海底をくまなく潜航して廻って、水中音波の伝播状況を綿密に調査したのである。
 音響関係のことについては余りにも専門的なことで本題と直接関係ないので割愛するが、塩見少佐は「上陸舟艇用探雷機ら号装置)は、「す号」と併用して対潜水艦近接攻撃用測定機として効果的で、上手に利用すると、潜水艦の「生捕り」が可能な性能を持たすことが出来た。
『「敵潜水艦生け捕り部隊」を編成したかったのだが、輸送潜水艦の建造が具体化して、その担当責任者となったので実行できなかった。』
と後年述懐している。
 戦後、魚群探知機をはじめ、各種の水中音響機器が国民の蛋白源の供給に少なからざる貢献をしたのも、戦時中のこうした陸海軍の技術開発が基本となったことは申す迄もない。
 塩見少佐は「西村式豆潜水艇の寄与した功績」として次の様な記録を残している。

(1)水中音響標定機(現在SONARソナーと呼ばれているもの)の設計諸元の確保ができた。
(即ち、1万屯級輸送船用及び朝鮮海峡用)
(2)物理学ハンドブックにない音波伝播様相の把握ができた。
(3)400メートルまで潜航可能なので、特に朝鮮海峡の音響伝播特性を確保できた。
(4)潜航時間の合計の増大とともに、潜水艇(艦)の特長並に欠点を体験し、潜航遭遇戦は当時の科学的知識ではその可能性が殆どないことが体得できた。
(5)世界の戦史に例のない陸軍の輸送潜水艦の発想・実現に寄与するとともに、その乗員の訓練艇として大いに活躍した。

 なお、昭和19年5月、水中音響部門は第七研より分離独立して第十陸軍技術研究所(姫路県今宿)となった。

塩見文作氏略歴(陸軍)
明治41年(1908)3月3日生(岡山)
昭和6年(1931)早稲田大学理工学部電気工学科卒、陸軍科学研究所入所(新兵器研究)
昭和10年(1935)第七陸軍技術研究所(旧科研)にて潜水艦対策研究、西村式豆潜水艇2隻をチャーターして水中音波伝播の調査研究に従事
昭和18年輸送潜水艦マルゆ主任担当官、陸軍技術少佐