西村式深海作業艇、4
- 一松、陸軍独自の潜水輸送艇提議
- 当時、西村式豆潜水艇の第一、第二号の両艇は陸軍に徴用され(後、買上げ)、塩見文作技術少佐の指揮の下で水中音響の伝播調査・研究に使用されていたが、西村一松自身は持病の胃病で療養中(熱海で)であって木挽町の南胃腸病院(後のがん研)に入退院をくり返していた。
戦後、一松の口述を聞き書きした(岩崎狷二)回顧談によると
「たまたま入院中に、ガ島の惨状を耳にするや、病院で臥床しているに忍びず、ひそかに参謀本部に車を飛ばし、潜水艦による物資や兵員の水中輸送を提議、合議の結果採択され急速に水中トラックとして多くの簡易潜水艇を建造することに決し、取りあえず赤坂溜池の三会堂ビルの私の”西村深海研究所”を使用し、陸軍第十技術研究所を開設し、私の指導のもとに軍の技術者多数と私の従業員を指揮し、設計、工事監督或いは兵隊の艇運転操縦教育に病中を押して懸命に努力を続けたのでありますが、何分にも万事泥縄式で、所要の建造を為し得ぬ内涙をのんで終戦を迎えたのであります。
この間、私の潜水作業艇は2隻とも乗組員を附け軍に提供し、兵隊の操縦訓練用に使用したのであります、、。」
その頃、陸軍で船舶輸送の作戦部門を担当していたのは、参謀本部第十課であった。
当課が一松提議の輸送潜水艦案を会議の結果採択して本格的に取り上げ、ひそかに戸山ヶ原の陸軍第七技術研究所に対して。マルゆ(「ゆ」を丸で囲った字)と名付けた補給用潜水艦の研究を命じた。
同研究所〃長の長沢重五中将は、前述の水中音響の研究に従事していた塩見文作技術少佐に、このマルゆの計画、開発を担当させるとともに、中村久次技術少佐にも協力を命じた。
塩見少佐は、七研研究員のほかに参謀本部付、陸軍運輸部部員も兼務していたのでこの計画推進の最適任者であった。
また中村技術少佐は当時空中音利用の研究に従事していたが(京大理学部卒、元日本ビクター社員)、マルゆの設計、建造部門を担当することで、塩見少佐に協力することになった。
先ず潜水艦に関する内外の資料を集めることから始めると共に、海軍艦政本部嘱託の仲野綱吉氏やまた第一次世界大戦時から潜水艦の権威で元海軍工廠造船部長であった穂積律三助氏(予備役海軍技術中将で中村少佐の叔父に当る)に協力を求めた。
マルゆの設計を進めるに当たっては、西村一松、西村新両氏の協力と指導を求め、材料強度や重量計算については東大工学科に、船型試験については運輸省の船舶試験所に援助を求めた。
陸軍が最後の頼みの綱として、自力で造り育てあげたマルゆも期待に反して成果も挙げ得ずして終戦を迎え、その短い生涯を終えたのである。しかも終戦後間もなく、残存のマルゆは各港に集結させられ、夫々爆破または海没処分或いは解体された。
- 豆潜2隻海没(爆破)処分さる
- 西村式豆潜水艇第一号、第二号両艇とも伊予三島から新居浜に回航され、昭和20年12月5日、マルゆと共に港外で連合軍の手により爆破、海没処分されたのである。
元来、豆潜水艇は兵器ではなく、一民間人によって考案建造された海洋開発機器であったが陸軍に徴用されていたが為に兵器と見なされて処分までされたのである。
終戦時、輸送教育隊々長青木光二大佐、またマルゆ担当指揮官塩見文作少佐も元の所有者の西村一松に返還すべく随分奔走されたようであるが、遂に連絡がとれず返還は実現できなかった。
これについて戦後(昭和51年4月27日付で)青木元大佐が筆者に次のような手紙を寄越された。
『、、、実は私は昭和18年5月から約2ヶ月西村艇第1号、第2号によって訓練を受け、その後2艇を保管し終戦に際し米軍によって愛媛県新居浜港外で爆破されました。(昭和20年12月5日)
昭和18年4月、陸軍が潜水輸送艇マルゆを建造するに決したは、その訓練要員として満州から宇品に参りました(将校6名、私はその先任者として)。そして船舶司令部附として教育を受け、一方潜航の体験を得るため、西村艇で毎日、金輪島周辺で専属の指導者によって訓練をうけました。以後海軍潜水学校(大竹)にて訓練、昭和18年末、潜水輸送教育隊が編成され、その部隊長に任命され愛媛県三島町(現伊予三島市)にマルゆと共に駐屯しました。その折西村艇の配属をうけ、そして終戦になりましたので西村氏に返還すべく再三連絡致しましたが返信なく、遂に前期のような結末になりました。
西村艇は軍が買い上げたことは聞いていましたが、兵器としてではなかったのでお返しする考えでしたので甚だ残念に存じております、、、、』(原文のまま)