『終戦の年、北支より多数の漁船乗組員と社員{筆者注・青島の西村洋行の船員社員のこと}が引き揚げて来て、彼等に職を与えかつ自分自身の展開上、是非従来手掛けてきた漁業を始むる必要に迫られていましたが、資金に乏しく、身は次第に悪化する病床にあり、いかともするを得ず涙を飲んで成行に任せる外はなかったのであります。前述してきた通り、西村一松が独力で造りあげた西村式豆潜水艇1号、2号の両艇とも陸軍に提供したおかげで、終戦と共に海没処分され、加え、在外資産をはじめ内地に於ける資産の大半を喪失、家族とも離れ独り東京にふみ止まって、潜水艇再起の念に燃えて奮闘していた。
然るにその後になって聞けば、当時国家は食糧確保の必要上、漁船建造に国費を融資し盛んに漁業を奨励していた由、病床の孤独これを知る由もなく、誠に無念の極みであります。
昭和24年7月になって私の病状は遂に絶望状態に陥りました。これまでに何回となく手術をすすめられていましたが、決断のつかぬまゝ、事こゝに至っては有無をいわせず、築地のガン研に運ばれ、梶谷鐶先生の執刀にて切開され、胃の三分の二以上切りとられましたが、お蔭で運よく、こゝに再生することができました。
然るに私の資産の大部分は北支に置き放しで{筆者註:北支で在外資産を凍結されたのは当時億単位と聞いている)、内地に東京と熱海と軽井沢に家だけは持っていましたが、東京は戦火にて全滅、その他は次々と手放して命だけは残ったものゝすっかり裸になりました。
こゝで愈(いよいよ)、余生を最後の仕事に捧げたいと決意し、戦前台湾近海の沈没駆逐艦調査や戦時豊後水道に於ける沈没イ号大型潜水艦の引き揚げに協力して得た経験等を基に、独特の沈船引揚方法を工夫(特許226470、212698、実用新案446131、418616、426731)(筆者註・前述の頁参照)しましたので同志の協力を得て、目下畢生の仕事として先づ「潜水作業艇」の復活を計り空しく海底に眠る千万屯を越える沈没艦船や資材、並に之等と運命を共にせる尊い犠牲者の遺体の引き揚げを事業化すべく日夜努力を重ねている現状であります。』
当時富岡氏は(株)光電製作所の代表取締役会長と財団法人史料調査会の理事長をしておられた。
富岡氏は一松の豆潜水艇再現について、(財)船舶振興会の笹川良一会長に話をされた。
笹川氏は目黒の雅叙園の松尾国三社長に協力を求めたところ快諾を得たので、富岡氏は一松を同道して松尾国三氏との会談の場をとり持たれた。
いろいろ話が進んで松尾氏は乗り気で潜水艇の建造に資金的に応援するという話になり資金援助のみかえりに一松が取得している特許権を自分の方に預かる、つまり特許権を担保代りに寄越せということだった。
処が途端に一松は、特許権を担保代りに提供するなんてとんでもない、この話は無かったことにして欲しいと一言のもとに拒絶したという。
これは前述の通り筆者が後年(S43年12月)目黒の(株)光電製作所内にあった財団法人史料調査会の事務所で、富岡定俊理事長にお目に掛った時の話である。
「あの時、西村翁が意持を張らずに松尾氏の申入れを受け入れておれば潜水艇の再建も実現したろうに惜しいことをした。」と残念がっておられた事がいまだに記憶に残っている。