§2 豆潜水艇の思い出
1)岩崎狷二 (西村漁業支配人、極洋常務)
(TVスポットライト出演)
 この豆潜水艇をつくる頃、私は昭和2年〜5年一杯、台湾の西村漁業の支配人として西村さんに共鳴して、お手伝いをしていました。
 この豆潜水艇は当時西村一松さんのポケットマネーでつくり上げられたもので、この金のやり繰りについては会社には全然関係ありません。
 西村さんは、下関を本拠に南洋、今のミクロネシヤで英国から輸入したばかりのトロール船を売却して製糖事業(国からの要請)を創設されたり、済州島かた大連、青島、上海、基隆、高雄、香港と、独特の漁船を建造して、その開拓に精根をつくされた半面、学歴も無くその持って生まれた独創性の創意工夫と実行力で、天馬空を征くような発展を進められ、船であれ、エンジンであろうと専門家の仕事ぶりを見ただけで、精密な設計や製図など美事にできる精神集中力の持ち主でありました。
 豆潜水艇の一号艇を思い立たれたのは、恐らく海の魅力に取憑かれたからの事で、いつもサンゴを採ってみたいとこれを目指しておられました。全く執念に燃えておられたとはいえ、ハタの目には大した道楽者で、執念というより信念の固まりで何事もテキパキした進展をする人でした。
 マジックハンドや海中探照灯、コンパス、窓ガラスとその構造など、もろもろの内部の機関に至るまで、今日で云うトータルシステムの一つ一つを自らの手で専門家ハダシのような設計・製図をされ、その実物を現実に世に生み出して実用に供されるその実行力のスサマジサには私は大きな教訓を受けました。
 この豆潜設計図が完成した時、内地に一寸帰られて有力な一流造船所に持ち廻って説かれたけれど、誰にも問題にされず、かえって危ない事をするななどと忠告される始末だったと笑っておられましたが、いつの間にか街のタンクやさんというかボイラー屋さんを説得して「絶対にお前達に迷惑は掛けぬ。責任は一切俺が負う。」のだからと遂に小さな町工場の屋外で建造を始められました。毎日つきっきりでリベットの一本一本にも監視の目を光らして、ボルトの一本一本まで自分の目で確かめながら、とうとう竣工に漕ぎつけました。
 水圧試験も外圧では難しいと自分独自の計算で内圧試験を試行錯誤を繰り返しながら強行されていました。一度耐圧テストで職工の一人が屋根の上に吹き飛ばされた事件もあったり、進水後の潜航訓練中、海底の岩礁の間に艇首を突込んで抜き差しならなくなり、キモを潰した事もありましたが、西村さん独特の慎重に工夫された備えもあって、危険千万な仕事をやりながら幸いに一四?の人命には問題を起こしませんでした。
 後日の西村さんの述懐で、当時いつも京都のクラマにゴマを焚いて頂いて安全を祈祷しておいでだったと伺って、さてこそとうなずいた次第です。
 艇長をやって貰う人を社内で募りましたところ、変わり者で奇行の多いので名前の売れた飯田機関長が新艇長に選ばれました。
 漁港八尺門の桟橋ギワで、艇内に電灯をつけたまゝ沈下させて窓から出るアカりをじっと見つめて思案されていた西村さんのお姿が目のあたりに浮かんできます。かってサイパンの製糖工場のボイラーに初の火入れの時、缶の前でしゃがんだまゝ涙が止まらなかったと述懐されたことを思い出しました。
 飯田新艇長もやがて訓練を重ねて外洋に出ました。最初の一ヶ月位は八尺門漁港内の浅い所で、沖縄の海士がロープで艇とつながりをとり、外部からハンマーで信号しながら潜航、浮上を繰り返して運転のテストやトレーニングを行い伝馬船で曳かれてゆく船上のわれわれをヒヤヒヤさせたり、大笑いさせたりしたものです。
 外洋に出るようになってから、私も試乗潜航しましたが飯田艇長は遂に亀山島付近で百尋線近く潜航するようになって祝盃をあげました。
 最近、クストーの海底探検のカリプソ号の減圧タンクを沈下させ、ダイバー達サンゴを上手に採るのを見て感無量なるものがあります。
 今日の海洋開発時代を迎えて、西村さんの先見の明に頭が下がるばかりでなく、これに携ったいろいろの人々に思いを馳せて追慕の念を禁じ得ません。

 昭和50年7月20日
 岩崎狷二