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2)福永重一 (豆潜水艇乗員)
(TVスポットライト出演)
- 西村さんが豆潜水艇(一号艇)を台湾の基隆で建造された頃は、本業の水産の方(西村漁業)が不況のあおりで行き詰まり苦労されていて、一時潜水艇の方は棚上げの状態でしたが、昭和6年秋頃から漸やく潜水艇に取りかゝられるようになり、7年には高雄沖で潜航試験を実施されており、その後、改良、改造を加えて8年5月に最終改造を終えて、乗員も入れ代って横澳南方港を基地として潜航訓練を積み重ね、8月亀山島沖の深度150米〜180米の海底・岩礁のサンゴ密生地を目標に実験作業に出掛け、西村さんの甥の桑原松一氏と共に母船第七松丸で陣頭指揮されていました。
潜水艇乗員一同は黒潮渦巻く台湾東部の人類未知未踏の海底にサンゴを求めて苦闘を始めました。
強潮流に対する戦いはかんたんなものではありませんが、一同心を一にしてよく戦い続け、3日間の最終日には強潮流に対する有線電話線の作業は有害なることを西村さんに話して、「本日は電話線を取り付けずに作業に入ります」と自分の決意を述べて、電話なし、連絡なしで180米の海底に挑み、西村さんに長時間に亘って大変な心痛をお掛けして申訳ないと心中でおわびしながら、作業・実験目的を果たし、サンゴ採取に成功致しました。
作業終了後、母船上にて乗員10余名が互に喜びに満ちた笑顔や、西村さんからは満足の意を乗員に伝えられ、作業終了の命を出され一路基隆へと帰投致しました。
以上忘れる事の出来ない思い出も、今や遠い昔日の夢の様な話であります。
昭和14年に海軍がつくりました潜水作業艇は、イ63号潜水艦引揚作業の折、西村式の二号艇に同乗された有馬大尉が堀内中尉と共に設計されて、私は呉工廠に於て海軍関係乗員の要請中に建造され、その進水にも立会って祝福したのであります。私も立会って試運転も終りましたので、私達は二号艇並に一号艇と共に神奈川県三崎町諸磯を基地として帰京、再度陸軍関係に入って協力することになりました。(筆者註:二号艇帰京後一号艇と合流の意味と解するが原文の侭とした)
故人(西村一松さん)の功績と秀れた技術的名声もさることながら、義弟の西村新さんの蔭の力も大なるものがあります。
現今の科学は当時のような原始的科学と比較してみると、大人と小人の差がある様に思はれます。当時大自然との闘いに困苦をのり越えて立ち向った先人の偉業を讃えると共に、現在の若者に、この様な勇気ある人材がのぞめるか否や?科学の進歩と共に人材の養成が急務であると思はれます。
特許中の「吸盤式固着機」等は西村さんが生存中種ゝ検討してみた事もありますが、当時の計画が事業化した時に、第二次西村深海研究所を開設して、幾多の研究課題の一つとして第一番に着手するつもりでした。
昭和50年(1975)9月8日
福永重一