●免許に船検、法定備品−海を狭くする超規制

(要旨)
海の免許と船検がボート・オーナーたちの恨みを買っている。
「有害無益」な規制でがんじがらめにされているためだ。
そこでは権益に群がる珍妙な団体までが跋扈する始末である。
(著者)
徳岡良介(とくおか りょうすけ)
マリン・コンサルタント
日本大学生産工学部卒。商社、プレジャーボート販売会社を経て、現在ニュージーランドでヨットディーラーとして活動。著書に日本のプレジャーボート界の規制を批判した『さらば 日本マリン熱』(ダイヤモンド社)がある。
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 1970年代初め頃の夏、新聞の社会面に「無謀モーターボートの事故」の記事がやけに目立つようになった。海水浴場に乗り入れて泳いでいる人を傷つける。ガス欠を起こして漂流し、救助される。海上でガソリンに引火、黒煙を上げて炎上する。スクリューで定置網を切って漁業被害を与える。
 オイル・ショック直前の高度経済成長期、確かにプレジャーボートの数は増えていたが、報道される「事故数」の増加ぶりは異常に思われた。そこへ、実にタイミングよく「プレジャーボートにも車と同様に免許が必要だ」という「世論」が、新聞やテレビに頻出し始めた。こうして74年から導入されたのが、通称「ボート免許」、小型船舶操縦士免状制度であった、と当時を知る識者は語っている。

 しかし、この制度は制定当時からマリン関係者の間で、根本的な問題点が指摘されていた。第一の理由は、この免許制度が、職業船員を対象に定められた船舶職員法と同一の基準だったためである。職業として旅客や積み荷を運送する船員と、個人の楽しみのために海に出る市民とを、同じ法規のもとに国家資格で縛るにはムリがある。これは、自宅で家族の介護をするのに、看護婦の国家免状をとれ、と強制するような仕組みと同じなのだ。それでも、この制度が車の免許のようにある程度の「実効」を伴えば、今日に至るまで海の悪法の標本のように恨みを買うことはなかっただろう。しかし、この免許制度の内容と、現実に海上で必要な知識・技術との落差、というよりも虚構性はひどすぎた。今日でも、この問題に関心を寄せる関係者はすべて、この制度を「有害無益」と断罪する。
 諸外国には、こんな制度は存在しない。「自己の楽しみのための船は、自分の責任で運航しなさい」(オン・ユア・オウン・リスク)という原則があり、何よりも、個人のプレジャーボートの楽しみを国家が規制することを根源的に否定しているからである。


★ヨットの免許は「通行手形」
 識者や愛好者からの非難に、運輸省は「フランスやドイツにも免許制度はある」と強弁する。しかし、これはまやかしである。両国ともヨットへの適用はなく、ボートでも、フランスでは10ノット以上で走る船が対象だし、ドイツでは走航区域別に職業船とは別の簡易なライセンスがあるが、これは事故保険や船をチャーターするときの証明用という実効を伴う。この思考の線上で英、米、豪、ニュージーランドなどの海洋先進国では、民間やクラブの自主講習によって技術の向上が図られている。国家試験制など考えられもしない。

 操船経験がない初心者でも、船上でほかに免許所持者がいなければ、法的には彼が「船長」である。船酔いで倒れ、舵を取れなくても、ポケットに免許さえ持っていれば「違反」ではない。ただし、そこで事故が起きると、船長の彼が「業務上過失××罪」で海難審判にかけられる。これは実質の伴わないムチャクチャな仮構制度である。
 元アメリカ三井物産副社長・藤原宣夫氏は東京大学のヨット部OBで、50年代のアルゼンチンを皮切りに、メキシコやアメリカに駐在して船舶の貿易にもかかわり、諸外国のプレジャーボート事情に詳しい。藤原さんは帰国後、必要に迫られて「一級免許」を取得したが、その制度と実態のひどさを次のように語っている。

「一級免許は外洋航海用だからと、不必要なほど高度な筆記試験をやる。私は海外出張の際も問題集を携行したり、自宅で夜明けまで勉強するような努力をして、やっと合格した。3年以内に実技試験合格が必要だが、内容と試験官の態度がまたひどい。帆走とは無関係の“右舷後方よし、前方よし、転舵しまあす、完了しましたあ”などの復唱を指さして言えという。非現実的で瑣末なことを横柄に強制されて3回落とされた。こんなことが全国160校ものボート免許スクールでやっているのかと思うと、あきれてものが言えない」
 試験方法、内容とも、受験者の立場への配慮など初めからなく、「海に出たいなら、試験してやる」という姿勢なのだ。沿岸用の「4級」でも、平日の最低4日間が必要だ。サラリーマンなら休暇を取らなければ受験もできない。費用は10万円以上、1ヶ月間の週末すべてを費やすことが半ば常識化している。なのにこの免状は、単に海上保安庁に見せるための「通行手形」の意味しかないのが現実だ。

★船体検査に憤るオーナーたち
 藤原氏は、改めて外洋ヨットの実力を身につけるために、英国王立ヨット協会のコーチによる海上講座に日本で参加して「デイ・スキッパー」(日中帆走の艇長)の認定を取り、自信を得た。この講座は海上で必要な実務を基礎から体験させる伝統的なシステムで、民間団体が初心者から遠洋艇長までを認定する、英国120年の歴史を持つ任意ライセンス。
 アルゼンチンやアメリカでも、ヨットクラブ単位でこうした講習・認定システムが実効を上げており、日本でも、海洋文化を定着させるには、官僚の天下り組の主導ではないクラブの育成こそ急務である。筆者も米国シアトルで講習を体験しているが、地域性に密着した内容で、きわめて有益であった。

 このボート免許という「悪法」の導入は、自動車の免許制度に範をとったものと思われる。違うところは、免許試験を元船舶振興会系の(財)日本海洋レジャー安全・振興協会、講習を運輸省外郭団体の(財)日本船舶職員養成協会を含む全国五団体に委託していることだ。有害無益の批判もものかは、現在では対象を水上オートバイの若者にまで広げ、160もの免許教室が林立するほどまでに行政権益を拡大している。
 車の免許さえ、更新制度をめぐる官制利権構造が「免許利権」と批判を浴び、車検にいたっては、規制緩和と国際化のために運輸技術審議会から「廃止」が答申されている。そんな風潮のなかで海の規制強化ぶりはひどすぎる。

 困ったことに、いかに現状の制度を批判しても「運転者には免許が必要」「免許はお上が出すもの」という先入観が社会に定着し、その不当性がなかなか理解されないことである。私は、こういう制度が廃止されない限り、日本のプレジャーボートや海洋文化に未来はない、と断言できる。それは海を自己責任で楽しむ─だからこそ人間的な自由・自主の楽しみが得られるという海洋レジャーの本質に、この制度が真っ向から反しているからである。

 免許と並んで導入されたのが、74年からの「船検」(船舶検査)制度である。これは、自動車の車検でウマミをしゃぶり尽くした行政権益の魔手をあからさまに海に持ち込んだ制度だ。この船検制度がまた、免許制度に輪をかけた虚構性むき出しの仕掛けである。
 船体の検査は、船が工場で造られる段階でも行われるが、私はボート工場の関係者で検査官のいやらしさに憤っていない人を見たことがない。長年海外で通用している船を輸入しても、「耐航性」を調べると称して一定の高さから海面にボートを落下させたりする。船体が壊れなくても、そんな検査を予測していない付属的な装備品は被害を受ける。「浮力テスト」と称して、新造の船に水を入れて沈めてみろ、と言われたメーカーもある。
 そうかと思うと、沖縄伝統のサバニ(木造の小舟)や砂浜で釣りをするゴムボートにまで、杓子定規な「船検」規定を当てはめ、非現実的な法定備品をさまざまに積まされる。なのに、必ず積まなければならない錨は、彼らの基準では「法定」ではないのだ。
 6年に一度の定期検査では、大型船もわざわざ陸揚げしてプロペラに「触って」みる。手間も費用もバカにならないが、検査官に触っていただくためだけに陸揚げするのである。こういう形式的な検査をものものしく儀式のように繰り返したうえ、オーナーにとっては許しがたい無法がさらに押しつけられる。「法定備品」の強制である。


★「桜マーク」のご威光 外国製は検査に通らない
 これが、実際に海上で役立つものならまだしも、救命胴衣、救命ブイ、救命ゴムボートなどといった備品に、国家検定の「桜マーク」がついているかどうかだけが調べられるのだ。いかに機能が優れていても、外国製はダメである。運輸省御用達の桜印でないと、検査は通らないのだ。
 悲惨なのは、最終的に命を託す救命ゴムボートである。エイボン、ゾディアックなど何百人という遭難者を救ってきた世界の先進国の優良品も、日本の検査にかかるとペケになる。海上でしぼんでしまったり、破れたりのトラブルが続出している日本製も桜マークがついているから検査に通るのである。これではまるで、悪がしこい「越後屋」とグルになった時代劇の悪代官ではないか。
 もっと根本的な問題は、検査を受けた直後に、重大な船体破損事故が起きたような事例も多いことだ。ある大手会社で建造した外洋ヨットで、船体の要であるバラスト(錘(おもり))の脱落事故が多発したことがある。原因を究明するための海難審判でも、検査した係官が、安全や耐航性向上のために事故原因に注意を払っていた例証は皆無だといわれる。
 つまり、検査とは、小型船舶検査機構という名の外郭団体存立のための手段でしかないのが実態なのである。諸外国でも船舶登録制度はあるが、財産としての「保存登記」をするための登録であり、船体の検査はメーカー段階で実質的な規則のもとに行われるだけで、日本のような船検などはない。

 免許と船検、あらゆるボート・オーナーの恨みを買い、識者の非難を浴びている2つの制度を大もとにして、プレジャーボートを取り巻く「規制と行政権益の渦巻き」は、いよいよ肥大化している。
 免許や船検の周辺に群がる権益構造は、あまりに複雑で数が多すぎ、調査に難渋する。「(財)日本海洋レジャー安全・振興協会」「沿岸レジャー安全センター」「小型船安全協会」「パーソナル・ウォータークラフト安全協会」。「安全」の文字がつくものだけでこれだけあり、ほかに資格、認定、登録、救難、援助、無線等々の団体・機構がひしめく。つまり、ボート愛好者の周辺にこれだけの行政がらみの人員が群がっているのである。

 そのなかで、どうしようもない珍例をみよう。その第一は「海技免状更新協力センター」である。役立たずのボート免許も5年に一度、書き換えが強制される。同センターは、その時に形ばかりの講習会のお膳立てをする団体である。これは警察機構の自動車免許に範をとっているのは明らかだが、その対象者数は車の数万分の一である。講習内容などは売店で売れば済むのに、年間予算2億余円常勤役員4人、部長・顧問職5人、事務局員4人(96年)という立派で珍妙な団体である。

 船の「自動車方式権益化」の第三弾として海上保安庁を中心に力を入れているのが、「海のJAF」と銘打っている救難システム「ボート・アシスタンス・ネットワーク」(BAN)である。この主体も、前述の日本海洋レジャー安全・振興協会であり、横浜の第三管区海上保安部の一室にその本拠を置いて発足した。これは、会費を徴収し、一定海域内でSOSを出すと近くのマリーナなどから有料の救助艇が出動する、「官製」として世界でも例をみない機構であるが、実効は疑問だ。それなのに公共マリーナでは加入を強制する。
 海難救助と民間船への援助は、ニュージーランドでも米国コーストガードでも主要な任務として認識されている。日本では取り締まりを主体とする海上保安庁が、その基本姿勢を改めるべきなのだ。
 夏になると、このBANへの加入者が少ないことがボート・オーナーの「安全意識の低さ」であるかのように、「海上保安庁では頭を痛めている」式の啓蒙記事が新聞に踊る。各地の海上保安部などの「発表ネタ」で、各紙がお先棒を担ぐのである。これは、プレジャーボートにたかりたい海上保安庁の天下り対策プランといっていい。


★がんじがらめの「規制後進大国」
 国際的なレベルからみても、海に奇妙な規制を適用しているのは運輸省関係だけではない。海上の安全のために欠かせない無線や電波式の救命装置をめぐっても、郵政省のひどい規制がある。外国の艇なら「VHFラジオ電話」という一台の機器だけで、港との通話、救助ヘリや船舶との対話からヨット同士、家庭への電話までできるのが常識の時代だというのに、この無線機を取り付けたボートを輸入すると「電波管理法違反」で即座に取り外される。もし同じような機能を日本で使おうとすれば、数種類の機械に何種もの免許が必要となる。「認可」されないものもある。
 救命装置に関してはもっとひどい。海上で電波を発し、遭難を知らせる有効なイーパブ(三万円前後から)やアルゴスという装置は、外国の船では自由に使えるが、日本船が積むと「開局」申請のためにきわめて煩雑な手続きと厳しい「無線従事者資格」が要求され、その費用も十万円単位でかかる。まさにがんじがらめの「規制後進大国」そのものである。規制緩和の呼びかけもどこ吹く風である。

 運輸省もマスコミも、日本のマリン・レジャーは「発展段階」にあるととらえ、さまざまな(ピントのはずれた)施策をとっているようだが、私の見解では、日本の海は愚劣きわまる規制によってすでに息の根を止められている。行政や社会が、海上での市民の活動を規制・管理する認識を改めない限り、日本に諸外国の人々が享受する「自由な海」はない。
 私はいま、日本の海を捨ててニュージーランドで生活している。当地の自由な海を満喫していると、不自由な日本の海を悲しい諦めとともにときどき思い出すことがある。


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