同艇は、大阪市が主催した香港から大阪までの帆船レース「SAIL OSAKA'97」に参加、12人が乗り組み、那覇、鹿児島に寄港して大阪湾に向かっていた。艇は全長45フィート(13.5メートル)で外洋レーサーとしては中型である。事故当時の風速は15メートル、波高4メートル。当日は朝から海上強風警報が出ていて、かなり荒れた状態だった。
ところが、夜間当直だった南波さんはこのとき、荒天の夜間では常識の救命胴衣も命綱(ライフ・ハーネス)もつけていなかったとされる。海外の専門誌もこの事故を取り上げ、「救命衣を着けず」と特記して報道した。
ハーネスはライフ・ベルトとも呼ばれ、上半身に締めつけたベルトにロープをつなげ、もう一方の端を船体の金具などに留め具で固着し、海中転落を防ぐのに有効な安全用具だ。救命胴衣は、万一転落しても海上に浮き、救助を容易にするチョッキである。ヨットマンの海中転落事故防止と安全思想の普及の歴史は、この二つの救命具をいかに確実に着用するか、の歴史でもあった。
だから、転落事故の際、南波さんが両方とも着けていなかったという情報が伝わると、実績あるセーラーたちは、例外なしに驚いた。
技量・識見ともに国際的に通用する日本の代表的な外洋レーサーであり、かつて自身も救命胴衣による漂流経験を持つ戸塚宏さんは、
「自ら操船することにも、艇長として統率することにも未熟さが表れている。すべてがチャチで見せかけだけの今の日本社会の象徴的な事故だ。報道を見ても、偽物が幅を利かせ、本物を見極め、きちんと検証し、議論し、育て、つくり出そうということに関心が払われない社会の典型的な例だ」と語る。国際レースでの優勝経験がある庄崎義雄氏も、「信じられない。というより、お粗末というしかない」と落胆している。
遭難した南波さんを紹介する新聞各紙は「日本のプロ・ヨットマン第一号」と書いた。これは、南波さんが主宰するナンバ・セイルスポーツ・プランニングからの情報だと思われるが、この表現はいささか誤解がある。本来、ヨットのプロとは、伝統的に帆船や漁船、商船などで職業船員としての修練・実績を積み、職業人としてヨットの帆走を任されるセーラーを指す。日本の五輪ヨット代表だったヨット造船所社長の岡本豊氏は、70年代に「日本初のプロ・ヨットマン」と自ら名乗り、専門誌もそう紹介した。また、実績あるヨットマンが、船のオーナーと回航や運航を契約する「プロ」も内外には少なくない。
だから、南波さんが「日本初」かどうか議論の分かれるところだが、南波さんのキャリアと活動ぶりからみれば、私は伝統的な意味のプロ・セーラーというよりも、セーリングの商業化によって生まれた「コマーシャル・セーラー」と呼ぶほうがふさわしいと思う。
私は彼を、国際的なレースレベルでの艇長としての識見・実力は不足だと捉えていた。このことは私の著書『アメリカス・カップ'95』(朝日新聞社)で詳しく指摘した。
その南波さんをマスコミが「日本を代表する」と形容したのは、約十年間にわたり百億円をかけたといわれるアメリカ杯キャンペーンという「商業宣伝力」にあずかっている。ある新聞は「最近はビールのTVコマーシャルにも登場」と紹介したが、それは文字どおり、彼のコマーシャルセーラーとしての側面を物語っている。
日本の外洋ヨット界は、ヨットの普及が急速に進んだ60年代以降、多くの痛ましい事故を経験し、その悲劇のなかから教訓を学んで安全対策を充実させてきた。その過程で、事故発生の根本的な問題点として指摘されてきたのが「オーナーシップ(船主責任)」不在の弊害であった。
この点について、60年代から70年代初期にかけて、日本外洋帆走協会(NORC)の安全委員長として多くの事故原因の分析や対策などに貢献した設計者の横山晃氏は、外洋ヨット事故が多発する原因を分析し、「オーナー不在の団体所有艇と、タダ乗りベテランの驕り」と喝破している。
外洋艇が急速に普及し、人的な育成も安全装備の普及も過渡期にあった60年代、70年代ならいざ知らず、このようなパターンがいまなお続いている。91年暮れ、グアム島を目指すヨットレース中に転覆、合わせて14人の死者を出した「たか号」と「マリンマリン号」の事故でも、同様の要因が内在していたことを見逃してはならない。
しかし、現在の日本では、個人オーナーの外洋ヨット活動は極端な制約を受けている。行政の規制強化によって諸経費と手続きが重荷になり、係留費用も暴騰しているからである。逆に組織・団体だと所有しやすくなる傾向が進んでいる。さまざまな費用を「経費」として落とせることが大きな要素だ。結果的に、個人オーナーは医療関係や建築関係、個人経営者といった「自由で豊富な金」を使える層に偏在している。
今年、東京都営の夢の島マリーナでは、個人主体の小型艇(ヨット)は空席の2割弱しか応募がなく、法人所有が主体の、年間保管料約170万円の大型艇には2倍も殺到している。まさに歪みきった海文化の姿である。
「オーナーシップ」不在の団体所有艇が増えるにつれ、資金はあっても技術は伴わず、つてを求めて「タダ乗りベテラン」に操船をゆだねる艇がさらに増えていった。この傾向はモーターボートの世界でも見られる。
このような日本のプレジャーボート界の歪みの原因は、いったいどこにあるのか。一言でいうと、それは長年にわたるわが国の海事行政のプレジャーボートに対する「規制」と「圧制」のゆえである。その実態は別項に詳述されているが、こうした商業主義万能の社会風潮にのって、虚構的な海洋スポーツの世界が演出されてきたのである。メディアもまた”海音痴”で「オーナーシップなき海洋国」を批判するどころか、むしろ海洋レジャーへの権益拡大行政に迎合してきた。
外洋ヨットのオーナーとは、本来、地道に他艇のクルーを務めつつ自分の艇を持つ夢を温めたり、小さな艇を乗りこなし、思いを込めてステップアップするなどして、経験とともに「育つ」ものである。学生、社会人、中高年といった具合に、それぞれのライフスタイルに合わせて入門し、自己責任においてオーナーシップを培い、ヨット生活を充実させていくのだ。
海洋先進国では、そのようにしてヨット・スポーツ界の巨大な人的ピラミッドが築かれている。アメリカで1,000万隻、イギリス300万隻、フランス120万隻、オーストラリアでは300万隻のプレジャーボートが、その国々の海を覆うようにして普及している。ニュージーランドは35万隻だが、3世帯に1隻の割合である。しかも、これらの国では伝統的に個人で所有している。一方、海洋国ニッポンは28万隻で、その多くは団体所有艇化を余儀なくされているのである。
日本のプレジャーボート行政は、オーナーシップの涵養(かんよう)の芽を摘んできた歴史であると私は見ている。私はこれまでに書かれたヨット行政批判の書物を読み返してみたが、ほとんどが「日本のプレジャーボート行政は酷政の歴史」と記述している。
日本では、75年まで24フィート(7.5メートル)以上のヨットには40パーセントの「物品税」を課し、個人オーナーを実質的に7.5メートルという小型艇の世界に閉じ込めた。しかし半面、この税制は大量の小型外洋ヨットマンを輩出させ、曲がりなりにも個人所有のヨットの普及につながった。
この時代に入門したヨットマンの多くが、いま外洋ヨット界のオーナーとなっているが、その後に続く人材は別の規制によって年々細り、裾野のない「電柱型」の構造になった。免許制度と船舶検査制度、さらにマリーナ整備に名を借りた自主係留艇への「反社会キャンペーン」などのためである。いまや日本の外洋ヨット界におけるオーナーシップは大きく歪められ、続出する事故の遠因となり、健全なプレジャーボート界の展望を失わせているのである。
もともとヨットレースはオーナー同士の発意で、ヨットクラブを中心に行われてきた。しかし、その傾向は80年代に入ってレースのコマーシャル化、自治体主催のイベント化の波に押され、すっかり勢いを失った。NORCのメーンレースであった沖縄−東京レースでさえ、参加艇の減少で92年で打ち切られている始末である。
多くの自治体イベントのレースでは、豊富な財源にものをいわせて、完走した全艇に数十万円から百万円単位の「助成金」が支払われている。メディア対策も派手に展開して、お祭り気分を盛り上げる。「SAIL OSAKA'97」でも、大阪市港湾局は「帆船パレード行事の一日の動員数は28万5,000人」と誇らしげにうたった。
しかし、その手法はまるで「イベント屋」の発想である。つまり、港湾への公共投資を正当化するための市民へのPRであり、「ヨットレースが港湾行政本来の仕事か」との批判も出ている。自治体が真に健全なマリン・スポーツの発展を図りたいなら、地元の青少年や勤労者に、安全に船が停泊できる泊地を安価で提供し、自主的な発想にもとづく自治的なクラブの育成に力を注げばいいのだ。
しかし、タテ割り行政のもとでは絶望的なほどに実行は難しいだろう。「健全な育成」という分野が港湾局の仕事がどうか問題になるし、権益化のうまみもないからである。
日本の海洋レジャー行政が、海洋国の名に値しない象徴的な例がある。
7月20日は祝日「海の日」である。この日を中心に、運輸省と出先機関などが中心になって、全国の港で「ボート天国」が展開される。この日だけは、港湾内はプレジャーボートに開放され、体験セーリングやミニ・レースなどが開かれる。
私は「ボート天国」にボランティアとして何回か参加した。そこで私は、数々の行政の驕りを見た。一例を挙げる。
この日、小型艇を発着させるために、東京港の晴海埠頭にポンツーン(浮き桟橋)が臨時に設置される。ポンツーンは10メートル四方ほどの鉄の箱である。晴海埠頭の岸壁からこの浮き桟橋に乗り移り、そこからヨットやボートで海へ出る。この一個の鉄の箱こそが、いってみれば、その日集まった小船の人々にとって「天国」の実体である。つまり、海が市民にとって「天国」であるためには、岸壁から乗り移れる鉄の箱が一個あればいいのである。あとは制服も私服も、行政の介入も何もいらない。
重要なのは、ここである。ロンドンのテムズ川、ニューヨークのハドソン、イースト両川や港湾地区、パリのセーヌ川につながる網の目のような運河、シドニー港、サンフランシスコ湾、ロサンゼルス港、あらゆる港では、このようなポンツーンが「市民の艇のために」要所要所に浮いている。これをランディング・ピアと呼び、市民の船はここを足場にして小船を出したり、食事や買い物のために停めたりする。
ロサンゼルス港には、市民のための泊地を含め、30カ所ものランディング・スペースが設計段階から用意されている。一方、東京湾では一年にたった一度、数時間だけポンツーンが曳かれてきた「天国」になる。これが海洋国ニッポンの現実であり、日常の状況が「地獄」であることの証明なのである。
現在、普通の市民や若い世代を実質的に海から締め出している泊地問題をはじめ、諸規制の緩和は急務だ。私は2隻の入門用の小型外洋ヨットを保有しているが、私が無料で提供しようとしても、もらい手さえないのが実情なのである。
本来、そのような艇で入門する人々こそ、将来の健全なオーナーとして育つことが期待できる。彼らが必要としているのは、中古で20万円ほどの入門艇を置くのに年間100万円もかかる公共マリーナではない。市民の生活費の範囲で置ける「泊地」なのだ。
泊地もクラブも、天下り役人が「管理」するのではなく、先進国なみに自主的クラブの手にゆだね、それをサポートするのである。
それが実行に移されない限り、日本にプレジャーボート文化は生まれないし、育たない。昨年、日本の五輪ヨット史上、初の銀メダルに輝いた重由美子・木下アリーシアのペアを育てたのは、不完全ながらも地域クラブであった。これは、実に大きく貴重な教訓である。
マリン・レジャー愛好者への締めつけは、運輸省が自動車の免許制度と車検制度を海にも持ち込んだことに端を発している。これは諸外国に例を見ないばかりか、対象になる市民にも何のメリットもない。「免許を見せろ」と巡視艇でヨットやボートを追い回す。多くの愛好者は友人、家族ともどもせっかくの休日を台なしにされ、海に出るたびにまるで犯罪者のような扱いを受けるのである。
「日本の保管料が一年分あれば、カリフォルニアの海で船長つきのチャーターヨットを思う存分に楽しむことができる。こんな国でヨットなんかやってられるか、ということですよ」私の知人だけでも数人が亡命を計画中である。このケースを「難民」ではなく「亡命」と呼ぶには理由がある。彼らは単に日本から逃げ出すのではなく、ヨット活動を行う自由と権利の保護を諸外国に求めているからだ。
これらの締めつけ行政の最も大きな弊害は、新しいオーナーが育たず、スムーズな世代交代がなされないことである。小さな木造艇から大型のレーサーまで、多様なニーズに支えられて発展すべきプレジャーボート産業がいっこうに発展しない。船艇販売数は15年間減り続け、昨年は全盛時の十分の一にまで落ち込んでしまった。前述のような保護育成策がとられるなら、世界の多様な艇種が輸入され、船具や保険やサービス面でも大きな市場になるはずだが、まったくの閉塞状態である。
本稿で私が説いてきた「海の上の自由・自治」とは、身勝手な論理ではない。プレジャーボート活動というものは本来、自由を求める心と精神の上に成り立っている。それは海洋国といわれる国の誰もが享受できる、ごく基本的な権利なのだ。