■「トリエステ」地球最深部への挑戦


by 山田 海人

海人のビューポート
 
2008年11月18日オープン

 海人のビューポートへようこそ! 世界で最も深い場所、それはマリアナ海溝チャレンジャー海淵10,920mです。この最深部へ挑戦したのはアメリカ海軍の有人潜水調査船「トリエステTRIESTE」でした。1960年、当時のアメリカは有人宇宙のように地球最深部までの有人潜水船の能力を実証することです。人類がたった一度挑戦し、これからも当分行われることのない地球最深部への挑戦、ジャック・ピカールドン・ウォルシュのハラハラドキドキの潜航を詳しく紹介いたします。

1.はじめに
 (深海の高水圧)
 皆さんご存じのように地球の表面の70%は海で占められています。そして海の平均水深は3,800mもあって海のほとんどが未知なる深海です。その最深部がマリアナ海溝の10,920mです。深海へ潜るには深海特有の高い水圧と戦わなければなりません。水圧は水深10m毎に1気圧ずつかかりますので、水深100mでは1平方センチに10キログラム、水深1,000mでは100キログラム、水深10,000mでは1トンもの力がかかるのです。小指の爪ほどの面積に1トンですから、これに安全率をかけた強度の耐圧容器が必要なのです。

(有人潜水の意義)
 ここで有人潜水船という言葉ですが、人が乗っている潜水船のことで、人がその現場へ行くという意味のパイオニアスピリットが強調されています。つまりテレビカメラだけが現場に行くのではなく、人を寄せ付けない深海へ人が行くことで立ちはだかる困難を克服するロマンがあり、感動が生まれるのです。

(耐圧殻)
 耐圧容器の中へ人が安全に入るということは、人が呼吸する酸素が確保されている、人が排出する二酸化炭素が取り除かれる環境である、人が耐えられる温度が保たれている、人が長時間滞在するに必要な水分の補給、排尿の処理ができるというライフサポートが整っている必要があります。また、当然内部の人との交信の確保、照明の確保、外部の観察窓火災を起こさない工夫、万一の消火器の確保など多くの条件が満たされている必要があります。

(記録のための潜航)
 さらに大事なことはアメリカが世界で初めて地球の最深部へ潜ったことを世界へアピールすることなので、その最深部へアメリカの旗を置いてくる、その写真を撮る、その場所へ複数回潜って最深部の状況を伝えるなどが考えられます。しかし、当時の技術では耐圧カメラマニピュレータなどの開発が困難でしたから、とりあえず国の威信をかけた"記録を作るための潜航"が行われたのでした。
注:最深部への潜航は1回目で覗き窓のトラブルが発生して当初計画の2回目の地質学者ロバート・ディツの潜航は幻となってしまいました。

2.マリアナ海溝への挑戦
 有人潜水調査船「トリエステ」は1953年8月11日の第1回潜航から最後の潜航1963年9月1日の128回潜航まで行われて引退しました。この中で1958年には米海軍に購入され、地球最深部への挑戦は、1960年の1月23日第70回目の潜航で行われました。プロジェクト名は「PROJECT NEKTON」です。
 海域はマリアナ海溝チャレンジャー海淵です。この「トリエステ」での潜航ではパイロットはジャック・ピカール、観察者は米海軍のドン・ウォルシュの2名で行われました。午前8時22分に潜航を開始して、水深10,911mの海底に到達しました。浮上したのは午後4時58分(8時間36分)でした。このミッションの支援船はUSS LEWIS(DE-535)、とUSS WANDANK(ATA-204)の2隻で、通常の1隻と異なって「記録的な潜航」を万全の体制で行ったのです。
 トリエステは、建造以来一貫して「未知なる深海へ興味」をアピールし続けていました。潜航するたびにニュースとして話題になり、バチスカーフ独特の船体は正に深海への挑戦のシンボルとなって世界中の人々へ深海をイメージさせていました。この地球最深部への挑戦においても同様で、そこへ到達した二人からのメッセージは深海の魅力を十分に伝えています。
 水深の表示は米海軍が使っているフィート(1フィートは0.30485m)で行われています。飛行機でも現在フィートで運航されていますので耳にされている方も多いと思いますが、ここではメートル表示に直し、元のフィートも併記しています。

(潜航中)
 トリエステは午前8時22分にベント弁を開放してバラストタンクに海水を入れました。浮力の空気はベント弁からクジラの潮吹きのように放出されて浮力がなくなり、マイナス浮力となって潜航していきます。潜航の開始です。ウォルシュ中尉によれば、水深240m(約800フィート)までトリエステの外に太陽光が届いていました。水深1,800m(約6000フィート)では周囲の低水温から、殻内が寒くなり、二人は、用意していた防寒着を着はじめました。
 やがてこれまでのトリエステでの潜航記録水深6,877mを超えました。これからは誰もが経験したことのない極限の深海への潜航です。潜航中は超音波による無線通信でトリエステと母船は連絡をとっていましたが、母船が海流などで流されて交信範囲を外れてしまったために一時交信が途絶えてしまいました。まもなく最深部へ届く前に交信は回復して母船にドン・ウォルシュからの音声が響き渡りました。
 水深9.150mを超えたところで外部のフレキシブルガラスの窓ガラスが割れる音が耐圧殻内部へ響きました。急ぎ、ピカールは内部を点検しましたが、内圧も上がっておらず内部に異常がないことを確認して潜航を続行しました。通常、耐圧容器が高圧に曝されて壊れる場合は除々に壊れることは少なく、圧力に耐えられなくなると一気に圧壊するものです。トリエステがこれまで経験したことのない高い水圧で覗き窓が割れた場合、この衝撃で一気に耐圧殻が圧壊することも予想されました。今回、内部点検で異常がなく、さらに高い水圧を目指したのは耐圧殻には影響のない外部照明などの圧壊であったのかも知れません。
 窓ガラスが割れてもなお潜航を続けた思いは何でしょうか?このチャンスを逃すと地球最深部への挑戦が夢に終わるとピカールは考えたのでしょう。それを受けて潜航を続行させた幹部も同様の思いがあったことと思います。

(最深部への到達、海底での観察)
 トリエステは搭載している"(おもり)"の重量(マイナス浮力)で潜航しています。海底付近に近付くと"錘"の一部を捨ててマイナス浮力を少なくして潜航スピードを減速します。この操作はピカールが行っていました。ドン・ウォルシュは海底までの距離を確認して覗き窓から明るい照明のもと海底が見えるか監視していました。
 トリエステは着底すると白い泥が舞い上がりました。潜航開始から4時間48分かかって海底到着です。ついに地球最深部に到達したのです。母船では大きな歓声でこれまで誰もが成しえなかった人類初の快挙を称えました。もし海中の視界が見渡せるならエベレスト(海抜8,850m)の高さをはるかに超えた深さの底に小さく見えるトリエステがイメージできるでしょう。
 着底したことで泥が舞い上がり視界を一時さえぎっていましたが、やがて緩やかな流れで視界が回復してきました。最深部にも流れがあったのです。トリエステではこれまでも映画用のカメラでピカールが記録を撮っていました。今回も同様です。ピカールはフィルムの長い映像にこだわっていたようです。
 この着底後に舞い上がった白い泥は後に小さな海洋生物、珪藻類の珪酸骨格(silica skeletons)だったと報告しています。潜航後に船体に付いていた泥を 調べた結果のようです。
 回復してきた視界の中には海底から2mほど上を泳ぐ小エビが観察されました。地球最深部での生き物の発見です。この生き物は後にJAMSTECの1万メートル級の無人探査機「かいこう」が捕獲して「カイコウオオソコエビ」と名付けられた体長5センチほどの目のない小エビです。
 また、この潜航でクラゲも観察されています。
 そして何より驚いたのは魚類の発見です。目のある30センチほどの白いヒラメのような平らな魚が泳いていたのです。これはピカールもカメラで映像として撮影していました。泳いでいる小エビには目がないのですが、"目のある"と確認されたことはとても意味のあることです。"白い"のは深い深海の魚は白っぽいのが特徴で1mを超える深海魚「ソコボウズ」も色素が抜けたような白さが目立つ魚です。たぶん同じよう白さなのでしょう。ヒラメのような平らな魚の表現も重要な情報です。こうして二人が目撃し、撮影もされた魚類はその後無人探査機「かいこう」が最深部へ20回近く潜航していますが未だに発見されていません。すでにこの潜航から40年以上も経ちますが、まだ謎に満ちた最深部の魚です。(最近の情報ではピカールの撮影した魚の映った映像は米海軍にあってまだ公開されていないそうです。)

 ともかく今回の最深部への潜航で1万メートルを超える深海に生物の存在が確認されたのです。1平方センチに1トンもの力がかかる深海に生物が存在するとは予想されていませんでした。このトリエステの地球最深部への挑戦がもたらした生物学の大きな成果の一つです。さらに生き物の存在から酸素のある海水が流れている、つまり最深部にも底層流があることを報告して、当時計画されていた放射性物質の深海貯蔵の危険性を伝えたのです。
 こうしてトリエステは人類初の10,911mの海底に30分間とどまって海底を観察したのです。トリエステには上部にバッテリー駆動のスラスターが2つ装備されています。海底の観察でもこのスラスターを使って多少移動しながら観察したようです。
 一方、トリエステのとして、海底で20分の観察後、覗き窓の一部に割れ目を発見したピカールはちゅうちょなく残りの錘を流して、潜航を切り上げて浮上を開始したとの情報もあります。

(浮上)
 トリエステは錘をすべて流してしまうとガソリンの浮力で浮上していきます。ジャック・ピカールとドン・ウォルシュは最深部への潜航を無事に成し遂げた興奮と想像していなかった生き物の発見を冷静に考えようとメモを整理していました。離底から3時間17分後の午後4時58分に海面に浮上しました。潜航開始から8時間36分の潜航時間でした。
 こうして最深部への挑戦に無事成功したトリエステはライフ誌の表紙を飾り、二人はアイゼンハワー大統領からの祝福を受けたのでした。

(その後のトリエステ)
 この記録的な潜航の後、一部改修されて約半年後の1960年6月15日にグアム島沖水深30mでテストダイブ、そしてパイロットトレーニングが行われています。この時のパイロットはドン・ウォルシュで、記録的な潜航以降ピカールはトリエステに潜航することはありませんでした。またトリエステは海中音響のテスト、ハイドロフォンの研究、DSL(深海音波散乱層)の調査、生物調査、ラホヤキャニオン、コロラドキャニオンの地形調査、大陸棚調査、地質調査などと潜水艦スレッシャー号の捜索(1963年6月4日〜9月1日まで10回の捜索(水深8,500フィート)やスコーピオン号の捜索を行って1963年9月に引退しました。

3.有人潜水調査船「トリエステ」とは
 それでは地球最深部への潜航を達成したトリエステとはどのような潜水調査船だったのでしょうか?
 スイスの物理学者オーギュスト・ピカール(Auguste Piccard)は気球によってより高く飛行する研究をしていました。その考え方を海の中へ展開させて深海へ潜るバチスカーフ(BATHYSCAPHE)と呼ばれる深海潜水艇を考案したのです。バチスカーフはギリシャ語の深淵BATHOS と船 SCAPHOS から名付けられたもので、大きな船体に"錘"を載せて潜航し、調査を終えたら"錘"を捨てて、ガソリンの浮力を利用して海面に戻ってくるという深海潜水艇です。
 最初に完成したのは F N R S 2 でベルギーで建造されました。二番目に建造されたバチスカーフはイタリアで1953年8月1日に完成したトリエステでした。ピカール博士は1952年にイタリア・トリエステに呼ばれて深海潜水艇の開発を行い、このイタリア北東部の港の街に住む人々がこの斬新な深海潜水艇の建造に多大な支援を行ったことを感謝して名づけられました。

(主要目)
深海潜水艇トリエステ
 トリエステの浮力材はガソリンを使っていました。70トンものガソリンを浮力タンクの中に入れて潜航します。ガソリンは高い水圧で圧縮されて深海では浮力が減少します。錘は鉄の粒アイアン・ショットです。

 錘は電磁弁を操作して2か所のタンクから落下させていました。浮力の調節は錘りの落下と場合によりガソリンを放出して調整しています。
 耐圧殻は当初20,000フィート(6,097m)の耐圧殻で建造され建造の翌年にも改造されていますが、幾度も改造で取り換えられていてその都度耐圧能力である潜航深度が変わっていました。
 海面での浮力はバラストタンクの空気で得ていますが、このベント弁の開放は作業艇からの操作(外部操作)で行われていました。

深海潜水艇トリエステの主要目
全長:18.1m  幅:3.5m 喫水:5.5m
重量:50トン(ガソリン搭載前)、150トン(ガソリン搭載後)
乗員:2名 操縦者1名 観察者1名
耐圧殻:内径1.8m、重量14トン、鋼製球状
覗き窓:1ヵ所、厚み 15.2センチ フレキシブルガラス
照明:水銀灯 3灯
補助推進器:バッテリー駆動、小型可変プロペラ 2機

 トリエステは当初20,000フィート(6,097m)の耐圧殻で建造され、1953年8月11日に第1回の潜航(浸水テスト)が水深8mほどで行われました。パイロットは開発者のオーギュスト・ピカール、同乗者は息子のジャック・ピカールでした。最初のオープンウオーターテストは支援母船 Tenaceを使って水深40mでおこなわれました。
 本格的な潜航は8月26日カプリ島沖水深1,079mまで潜航し、未知なる深海への興味を大いに地元紙などを賑わせました。それ以降は大学の教授などが観察者となって海洋学的な調査が行われ、イタリアで最も深く潜航したのは、1956年10月17日の22回目の潜航でポンザ島沖水深3,692mでした。こうしてトリエステはイタリアで合計48回の潜航が行われました。
 これまでのトリエステの潜航では、パイロットが父親、準備は主に息子のジャックが行っていました。錘となるショットバラストの搭載から酸素ボンベ、映画用カメラを持って耐圧殻へ入り、準備が整ったら父親のピカールが入って重たい蓋を慎重に閉めて潜航が開始されていました。



4.冒険家でもあったピカール親子の熱意
 スイスの物理学者オーギュスト・ピカールは1922年(38歳)にブリュッセル大学の教授になり、1932年(48歳)には上空16,940mまで気球で上昇し、飛行記録を作りました。また、放射能の測定ではアルバート・アインシュタインと共同研究を行うなど画期的な研究活動を行いました。ピカール博士は単なる物理学の研究者ではありません、自ら考案し、自分で図面を引いて、自分で操縦する、さらには息子とともに深海を極めようと果敢に挑戦していました。
 息子のジャック・ピカール (Jacques Ernest Jean Piccard)は1922年7月28日にブリュッセル(ベルギー)で生まれました。スイスの大学では経済学、歴史および物理学を学びました。1943年にはフランスで軍隊の任務に就き、1950年からは「バチスカーフ」の設計に協力するようになりました。
 その後、ジャック・ピカール(38歳)は1960年に世界最深部へトリエステで潜航します。最深部への潜航の後ジャック・ピカールは海洋エンジニアとして研究・サルベージおよびレクリエーションのための潜水船を開発しました。今ではハワイをはじめいろいろな海域で観光潜水船が運航されていますが、ジャック・ピカールは観光潜水船の父とも言われています。ジャック・ピカールは2008年11月1日スイスレマン湖の自宅で亡くなられた。享年86歳でした。
 更にジャック・ピカールの息子バートランド・ピカールBertrand Piccard は1999年に世界初の気球で地球一周を20日間で行ったのです。正に三代続けて極限への挑戦を行った家系でした。

おわりに
 今回お伝えした「トリエステ地球最深部への潜航」は地球最深部へ自ら潜ったジャック・ピカール氏が11月1日に86歳で亡くなられた追憶の気持ちを込めてまとめたものです。
 海のない国スイスの情熱的な研究者ピカール親子の深海に対する熱い想いです。さらにマリアナ海溝への潜航ではスイスの時計メーカーロレックスがスポンサーになってトリエステとともにダイバーズウオッチが1個取り付けられていました。そして機密性の高い米海軍からの情報に代わってロレックスは多くの情報を海を愛する人々へ届けてくれたのです。

参考:
History of the Bathyscaph Trieste

Rolex Deep Sea Special

TRIESTE

潜水船開発の変遷


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