(初出:2008/1/25)
(更新:2008/3/18)

銃社会とクジラ
〜クジラだけで済まない捕鯨砲が絶つ命〜

 個人的には、ニンゲンに他の動物の捕食者を名乗る資格があるとはまったく思えません。ライオンもチーターも、かつてのイヌやネコやケナガイタチたちも、獲物を屠るにあたっては自身の肉体、爪と牙でもって、命を張ってサシで勝負します。狩の成功率はせいぜい1、2割、餓死する危険と常に隣合わせで、獲物の反撃によるケガ及びそれに基づく感染症で命を落とすことも稀ではありません。安全な鋼鉄製の捕鯨船の上でしっかりと身を護られているニンゲンなどとは大違いです。無知な日本の文化人たちがどれほど賛辞を散りばめようとも、作家が美麗なレトリックで実態を覆い隠そうとしても、ニンゲンはクジラと対等な捕食−被食関係になどありはしない。あまりにも卑怯で卑劣(捕獲データのごまかしの話ではなく)。そしてまた、ニンゲンは生態系の頂点でもありません。頂点に立ちたければ、人口を2桁減らさないとニャ・・。たかが草原のサルの分際で、南極のクジラの天敵を自称するなど、おこがましいにもほどがあります。
 ハンターや捕鯨砲手といった"殺せる人々"は、筆者にとってはあまりにも異質な存在です。最近は日本でも銃に怯えながら生きなければならない社会と化しつつありますが、国内に30万挺という目が回るほどの数の猟銃が所持者任せっきりで事実上野放しの形になっているのは戦慄すべきことです。昨年暮にアスレチッククラブで起きた猟銃による殺害事件の後、政府が一斉点検を支持しましたが、面談で近所の苦情がないか本人に聞いてどうすんの(--; そんなお茶を濁すだけのやり方で対応になるわけがありません。
 暴力行為に関する神経生理学的な研究によれば、肉弾戦や刃物を使った場合と銃とでは、大脳内で興奮するニューロン・ネットワークの部位がまったく異なるそうです。ゲームの感覚で命を奪う/そのことに慣れてしまうのでしょう。同じアドレナリンを分泌するにしても、ゲームならまだしも命そのものを奪いはしませんが・・。以前国内で、祖父が孫を猟銃で撃ち殺すというあまりにも痛ましい事件が起こりました。中学生の孫はごく当たり前の反抗期の反応を示しただけで、普通の家庭なら"ケンカ"で済んだはず。この家に猟銃がなかったなら、包丁を持ち出してまで刺したりなんてしなかったはず。この世に銃さえなかったら、こんなやりきれない事件は決して起こらなかったはず。福岡の事件でも使われた散弾銃で撃たれ即死を免れたものの、頭蓋骨内に残った鉛の散弾による過酷な後遺症に死ぬまで苦しめられ続けられる被害者の談話もありました。が、撃たれる野生動物たちも同じ苦しみを銃を使うニンゲンたちによって味わわされているわけです。少なくとも、痛みや苦しみという点においては、サルの一種との間に何の違いもないのです。他者の痛みや苦しみを共感する能力が高いという点で、このサルの一種は他の動物とは異なる霊長(?)のハズ、なんですが……。
 実際のところ、ハンティングは内外で様々な問題を引き起こしています。ツキノワグマは絶滅に瀕し、鉛の汚染が水鳥たちを侵し、人身事故も毎年のように起こり続け……。身近な例を一つあげると、筆者の近しいヒトの1人は、野原を歩いていたところ銃を持ったハンターに「殺されたいのか!?」と脅されことがあります。これ、実話です。。おちおち野山(といっても、住宅地の真そばでしたが!)を歩いて自然に触れることさえできません。もし、イヌを散歩に連れてきていたらと思うと本当にぞっとします・・。彼らの感覚は、「猟区にうっかり足を踏み入れる奴が悪い」というものなんでしょう。「殺されても仕方がないんだよ」とまで思ってるのかどうかわかりませんが・・。"相手を殺せる能力"を持ったことのない弱い草食獣の身としては、到底理解が及びません。もう一つの逸話ですが、知人宅にいるポインターは、山でガリガリに飢えてウロついていたところを保護された子です。とても性根の優しい子ですが、今でも"ポインティング"の動作をします・・。老いたりケガをして山に捨てられた猟犬が保護されたというケースは他にもたくさん耳にします。さらに、用済みになった猟犬を練習用、あるいは戯れに撃ち殺すという身の毛もよだつ話も……。シカやキジやイノシシたちの痛みがわからないニンゲンに、イヌの痛みや悲しみをわかれというのが無理な相談なのかもしれませんが……。
 ライフル協会が活発なロビイング活動を繰り広げ、年間3万人もの銃による犠牲者を出しているアメリカに比べれば、まだ日本はマシなほうかもしれません。しかし、猟友会も高齢化が進んで環境省の最大の圧力団体でなくなったとはいえ、先日のような事件を起こすキレル若者が、いとも簡単に狩猟免許を取得できる現状には変わりないのです。米国では開拓精神の名残で銃を所持する市民が多いわけですが、日本で銃犯罪を引き起こすのは特定の層です。カタギは狙わないヤクザ(最近はそうでもないのか・・)、政治家やジャーナリストを相手にテロを起こす極右、不良警官、そして狩猟関係者です。福岡の事件でも知れ渡ったように、猟銃の殺傷力は密輸拳銃などとは比べ物になりません。中でも散弾銃は、国際社会で残虐だとして問題になっているクラスター爆弾を個人が使用しているようなものです。
 弓矢で鳥や猿を狩るサラワクのプナン族や、あくまで自らの足でウサギなどの獲物を追い続け石を使って獲るメキシコの先住民などは、獲物と対等に渉り合っている、イヌやネコやチーターやシャチといった動物たちに近い真のハンターであり、筆者としても尊敬できます。しかし、日本のマタギや鯨捕りの場合、古くからの伝統は廃れ、あまりにも変質してしまいました。「殺した獲物は食べているからいいんだ」というけど、大量の食糧を捨てまくっている日本人がそれを言っても、まったく説得力ないし・・(こちら参照)。自らが同じ自然を構成する一部であるという狩猟民の感覚と、一方的に獲物を殺すだけの日本のハンターの感覚は、まったく相容れないものです。アイヌの人々は熊送りの儀式でヒグマを殺すのをやめ、東アフリカのマサイの人々も重要な成人の儀式であるライオン狩りをやめました。なんと潔く、誉れ高いハンターでしょう。自分たちの生活とも文化とも深く関わりのある野生動物をとりまく環境の変化を自覚できているのです。南極の鯨を殺して肉を売る口実にさえ伝統を掲げるどこぞのアジアの島国の民族とは雲泥の差ですね・・。もっとも、狩猟者のモラル低下は日本に限った話ではありません。先住民のイヌイットでさえ、精度の非常に低いライフルによる捕殺で個体数も少ないホッキョククジラやイッカクをさらに追い詰めることを、伝統を盾にしてやめないのですから(こちらも参照)。これは日本の捕鯨推進策の影響もあるのかもしれませんが……。現行の捕鯨・イルカ猟でまだマシな方なのは、インドネシア・ラマレラのマッコウクジラ猟くらいでしょう。
 いま、イノシシやシカ、サル、クマなどによる食害がしきりに取りざたされています。開発、林業の大誤算、ニホンオオカミの絶滅など原因はいろいろあります(すべて人為的要因ですが)。これに対し、各都道府県で例年の実績を維持するかのごとく、当たり前のように有害駆除計画が発動されます。水害や天候不順のときは手厚い補助金が用意されるのに、こと相手が規模的には小さいはずの野生動物となると、被害金額がことさらに強調されます。お天道様のような強い相手には、拳を振り上げることはせずお上に泣きつき、自分より弱い野生動物が相手の場合は手っ取り早く殺して済ませようとする──。それってなんかおかしくないですか?
 被害が出たらまず捕殺──という日本の傾向は、被害金額や生態系の不調和の程度が、他の国々より大きいからではありません。例えば、カナダの例ですが、日本のツキノワグマやヒグマよりはるかに危険なハイイログマやホッキョクグマが民家に出没してさえ、まず殺すということはしません。人口の小さな自治体が自腹を切ってまで保護施設を作り、ヘリを調達して離れた保護区域で放しているのです。日本では最初の手段としてとられるものが、海外では最後の手段となっている──。このあまりにも大きな開きは何に起因するのでしょうか?
 先日、NHKでポーランドの湿地の特集番組が放映されました(再放送ですが)。鼻輪すらされない牛たちが鳥たちの間で自由に草を食べ、ニンゲンがわざわざ放牧地に出向いて乳を搾らせてもらっています。年に一度のXマスのご馳走は魚。渡り鳥が帰るシーズンに合わせて行われる刈り取り。なんと作業が行われている目の前で、キツネが香箱を組んで佇んでいます。飛び出してくるノネズミを待ち構えていたのですが。こんな至近距離でありながら、お互い特に関心を持つでもなく、つかずはなれずでごくごく当たり前の自然な関係を保っている野生動物と家畜とニンゲン。ニンゲンの居住する環境と、自然の豊富に残された環境と、緩衝帯となる半自然の環境がバランスよく隣接し、維持されている、かつての日本の里山(よりこちらの方が一枚上でしたが)に似た、最も理想に近い持続可能な社会のお手本のような──。本当にうらやましく、自国を振り返ってあまりに情けなく、筆者は見ていて涙が出てきてしまいました・・。アイドル化して騒ぎ立てたかと思えば、"愛誤"の餌付けで増やした挙句、手のひらを返したように害獣扱いして射殺するだけの捕鯨ニッポンとはあまりに月とニッポン、いや、スッポンで・・。
 登校する学童の列が毒ガスを浴びてこどもに健康被害を起こそうと、農薬空中散布をやめない自然とかけ離れた農民。未だにクマノイの商取引を続ける人たち。野生動物の命だけではありません。全国の都道府県と政令都市にある愛護センターとは名ばかりの殺処分施設では、未だに40万頭(環境省の統計では昨年やっとわずかに40万を切りましたが、数字は全部ではありません)が殺され続けています。未だに知らない市民が圧倒的に多いのですが、ハコモノとして建てられた施設で毎週のように行われているのは、動物病院で末期患畜に施す安楽死の薬殺ではなく、多くが二酸化炭素による"窒息死"です。数自体も他の先進国とは雲泥の差ですが。こんな国、こんな地方にしてしまったのは国民全体の責任です。しかし、命に対する感覚がここまでかけ離れてしまったきっかけの一つに、捕鯨プロパガンダがあることも見過ごせないでしょう。
「ウシだけ殺してクジラを殺さないのは差別だから、クジラも殺さナケレバナラナイ」
「捕鯨砲でクジラを撃ち殺すまで15分かかって何が悪い」
 なんと寒寒しい思想でしょう...
 人道的捕殺に対する日本の情緒的な批判は、犬猫のぞんざいな殺処分の正当化とぴったり符合します。「どうせ殺すんだから同じだろ」と……。
 小笠原諸島の野生化したネコなどは東京都獣医師会が保護して不妊去勢手術をしていますが、捕鯨シンパ的発想からすれば、ヤギやグリーンアノールと同様に殺さないのは明らかな差別だから「殺せ!」ということになってしまうでしょう。
「外来生物のアライグマだけ殺すのはなんか差別だよねぇ。。そうだ、なんかして食べられないの?」とはとある作家の弁。開いた口が塞がらない。。。
 まあ、イノシシやシカなど有害駆除のバックアップ体勢として、「牧場を作って家畜化しましょう」とか「自治体で加工工場を作って街づくり(カネ)にしましょう」などという発想が実際に出ているわけですが。カナダのホッキョクグマシェルターとは対極ですね・・。
 ──奇妙奇天烈な平等観──。
 何もかも悪いほうへ悪いほうへと合わせるのですか、日本は??? でも、それも明らかに無理だよね。子供が考えてもわかること。動物の扱いに関して、一体どこからこうした非論理的であまりにもバカげた発想が飛び出してくるのか、筆者は不思議でなりません。(こちらも参照
 捕鯨擁護派のいうところの"差別状態の解消"には一切関心がなく、「考えるの面倒くさいからいいや」という思考停止状態に陥った挙句、「苦痛を減らす」、「殺す数を減らす」という、ニンゲンという動物のあり方に直結する問題を、頭から無視するようになってしまった捕鯨ニッポン。それは同時に、ヒトもヒト以外の動物も銃で殺されるのが日常になってしまう殺伐とした社会を暗示する象徴のようです。
 公がどうとか、そんなことより、"命に対する感覚"がここまでメチャクチャになることのほうがはるかに大問題です。こどもたちがいまの大人たちを見て、痛みを感じることのできないニンゲンになってしまわないかと、筆者は不安で不安でなりません。
 水産庁・捕鯨業界の広報による悪影響はこんなところにまで及んでいるのです──。

ここで一冊、銃を持つことの意味を深く考えさせられる子供向けの童話を紹介しておきたいと思います(少々古いですが……)。
『クマ狩りへの招待』遠藤公男著・偕成社