(初出:2002/5/18)

ナショナリズムとクジラ

 京都で開かれた1993年の第45回会議の時と同様、2002年の下関会議においても右翼団体の街宣車が160台も会場周辺に集結し、業界の組織した"くじらキャラバン"を上回る存在感を誇示したとか。マスコミは遠慮もあってか(誰になんだろ?)たいした取り扱いをしていませんが…。やはり官・業の当事者にとって、時に彼ら以上のエネルギーを発揮してくれる最大の応援団が右翼ないし政治家・著名人を含む右系の言論人であるようです。彼らにしてみれば、国際会議の舞台で一見明白な日本VS欧米の構図のもと、捕鯨はまさに自国の伝統と体面の"砦"という意識があるのかもしれません。
 なるほど確かに捕鯨問題は、およそ外交の場では米国に追従するばかりで、欧州や中国などに比べ独自性をほとんど発揮することのない日本が、アメリカの顔色を伺わず真っ向から対立している数少ない(というより唯一なのでわ…)懸案といえます。鉄鋼・半導体・自動車など貿易問題ではしばしば対立も見られますが、こちらは優勝劣敗の市場経済の範疇の話ですし、産業規模としてはそれらに及ぶべくもない一業界を守るため、一蓮托生の同盟相手に国を挙げて必死に歯向かっている様相は、実に目立ちます。声の大きさでは非核・平和政策をも軽く上回っているのではないでしょうか??
 外国人も不思議がるクジラに対する異常なまでの固執の謎を解くカギは、実はこの捕鯨問題での突出にあるのかもしれません。歴史的にこの国は文化の収支をみると輸入が輸出を上回る入超の状態だったといえるでしょう。古くから大陸経由の文化を採り入れ続け、明治以降は大国の仲間入りをするために西洋の文化・思想・政策を脇目も振らずひたすら貪欲に吸収してきました。戦後も同様に欧米を目標としてコピーとカストマイズの能力を磨き速やかな復興を果たし、世界でも類を見ない急激な経済成長を遂げ、国民の生活水準も著しく向上しました。早期に科学技術の発展の恩恵を受け、繁栄と民主主義を手に入れられたのは、有益なものを海外から採り入れるのに抵抗のない日本の体質のおかげだったかもしれません。しかし、受け入れたものがすべて有益だったとは限りませんし、逆に失ったものも多かったのではないでしょうか。"和魂洋才"といえば聞こえはいいですが、器が大きく変貌する中で魂を変質させずにいられるはずもありません。商業捕鯨の変遷はまさにその証左といえるでしょう。
 結局、日本が世界に発信できる個性はメーカーのブランド名ぐらいしかない有様となり、'90年代以降は成長神話も崩れ、世界の注目と尊敬を集める国からはますます遠い存在となりつつあります。模倣や改良よりも自ら創出する能力が一層要求される時代になったことも、日本の停滞によって裏付けられたといえそうです。自分たちの本来の個性・魅力が何かわからなくなり、世界からも顧みられなくなると、そうした現実を否定するものをやはり何か捜したくなるものでしょう。日本人が自ら解体し喪失してしまったアイデンティティの拠り所に、クジラは選ばれてしまったのかもしれません。なるほど、それなら西洋に対するコンプレックスの裏返しである優越感が捕鯨擁護の論調の端々にうかがえるのも納得できます。そうした欧米への反感が、ナショナリズム(それ自体はどこの国にもある普遍的なものですが)とセットになって、世論の大勢を「別に捕らなくていいんじゃないの?」という無関心派が占める中で、一部の人びとを熱狂的な捕鯨擁護活動に駆り立てていると推察できないでしょうか──?
 「地球環境を守る」「野生動物を守る」「動物を殺さない」といった国際的なトレンドの逆をいけば(キーワードは平和・人権・民主主義などでも同じことですが)、独自性は確かに発揮できるでしょう。しかし、それらが西洋諸国が先行した過去の歴史の反省からくるものである以上、「野生動物を資源として積極的に利用拡大していく」ことで欧米との違いを鮮明にする、あるいは日本が新しい価値観を産み出したリーダーとして認められるなどと酔いしれるのは、とんだ幻想というものです。クジラ料理屋で酒の肴に鯨肉をつつきながら「アングロサクソンはけしからん!」と吠えてみたところで、日本が敬意を払われることにはなりますまい……。