= 日本の鯨肉食の歴史的変遷 =

先史時代  古式時代  戦 前  戦 後  現在…

 先史時代
 日本では、縄文時代の貝塚からクジラの骨が見つかったり、クジラ猟の模様が描かれた土器が出土しています。もっとも、これら先史時代にクジラを利用していた人々は、主に大陸から渡来した現代の日本人の祖先とは系譜を異にします。
 古くから北海道に住んでいたアイヌの人々は、江戸時代まで噴火湾などでクジラを捕獲していました。その方法は、トリカブトから採った毒を先端に塗った銛で、小舟でクジラに近寄って突くというものでした。彼らは専業で捕鯨を行っていたというわけではなく、文字通り生きるための糧としてクジラを利用していたのです。アイヌの部落では、座礁したクジラのもたらす幸に感謝する鯨祭や歌もあったことが知られています。一方で、ニシンの群れを沿岸に追い立ててくれるクジラを、恵みをもたらす存在として、むやみな捕獲を避ける風習もあったようです。今、水産庁は漁業との競合を理由に海棲哺乳類を害獣とみなし、捕鯨を正当化しようとしていますが、彼らの口にする"共存"とは言葉の重みが違いますね。
 その後、和人が北海道に進出するに伴い、アイヌの人々はこれまでのようにクジラと共存することができなくなりました。松前藩は、アイヌによる捕鯨を管理・規制して彼らを労働力として利用し、鯨肉なども藩の産物として流通させ始めたのです。
 アイヌの人々は、和人(日本人)によって土地も言葉も奪われ、ずっと迫害の対象となってきました。現在でも、国はアイヌを先住民族として公式に認めていません。巷で注目の的となっている(注:2002年当時。もう政界復帰しちったニャ〜(--;;)北海道選出の某議員は、「アイヌは日本人に同化された」と公言してはばかりませんが、これは食文化どころかアイデンティティとしての文化そのものを否定する発言ではないでしょうか? 彼のみならず日本人全般に他の民族、他の国の文化に対して無頓着なところが果たしてないといえるでしょうか? 半世紀前にアジア諸国の人々を"同化"しようとしたことも未だに反省していない人が大勢いますし、外務省のODAも地元の人々の文化やニーズに合っているかよりも、自国のコンサルタントに金が落ちることを目的に行われている節がありますよね。それなのに、南極の野生を貪ることを世界に向かって"文化"だと大声で叫んでいるのは、何とも奇異に感じられます。今日、小型沿岸捕鯨を伝統的な生存捕鯨として認めさせるために、アイヌの捕鯨を引き合いにする向きもあるようですが、両者の間に文化的な結びつきはまったくありません。これらは業者が各地に持ち込んだノルウェー式の近代捕鯨でむしろ大手とのつながりが深く、遠洋捕鯨の演習台として利用されていたのが実状です。母船式捕鯨が南極の海で華やかに繰り広げられていた頃、国も業界もアイヌの捕鯨再生になど目もくれなかったことは記憶に留めておくべきでしょう。
 古式時代

 組織的な捕鯨の記録が史料の中に見出されるようになるのは、室町時代の末期のことです。初期に捕鯨が行われていたのは、和歌山、高知、北九州などで、他にめぼしい産業がなく海賊や水軍が盛んだったといわれています。採れた鯨肉の消費は地場に限定されていました。
 やがて捕獲頭数の増加に伴い、各地方に組織された"鯨組"は商人・藩政と結びつき、関西を中心に販路を拡大します。当時より日本の捕鯨は商業的色彩が濃く、「製銅に次ぎ製鉄に匹敵する日本屈指のマニュファクチュア」とうたわれるほどの一大産業となっていました。その発展の過程で、主な捕獲対象となったコククジラやセミクジラの個体数の減少を招き、捕鯨発祥の地である三河では、間もなく捕鯨業そのものが途絶してしまいました。江戸時代から続く沿岸捕鯨の町として有名な太地では、"突取式"から"網取式"への漁法の転換がなされましたが、これは捕獲量の減少を補うための技術革新だったのではないかとの見方もあります。また、当時から主産物とみなされていたのは鯨油(灯火用及び水田のイナゴ防除用)の方で、鯨肉は獣肉に似ているとして忌避されていました。
 戦 前
 明治に入ると、山口県出身の企業家岡十郎氏がノルウェー式の捕鯨技術を導入し、近代捕鯨の幕が開かれます。独自技術に頼ってきた中世の和式捕鯨からの脱皮は、日本人とクジラとのの文化的関わりの歴史にも深い断絶をもたらすことになりました。それまでは、曲りなりにも"寄り鯨"を対象にした待ちのスタイルを維持していたため、クジラの個体群への影響も限られたものでしたが、積極的な攻めの姿勢に転じることで事態は様変わりします。捕鯨事業の収益の高さに目が付けられ各地で捕鯨会社が乱立、近海のクジラを乱獲し、瞬くうちに資源状態が悪化して業者の整理・統合が必要とされる状況に至りました。合併・統合の結果生まれたのが、その後母船式捕鯨の担い手となった大手水産企業の前身です。その後、これらの捕鯨会社は当時の政府の拡張政策に則り、欧米諸国が生産量調整のために結んでいた国際協定にも参加せず、北洋・南氷洋への進出を果たし、捕獲量も急激に膨れ上がりました。この時期の捕鯨業は鯨油をヨーロッパに輸出して外貨を稼ぐことを主な目的としていました。とりわけ南氷洋捕鯨は沿岸捕鯨との兼ね合いもあり、鯨肉は持ち帰ることなくほとんど海に廃棄していました。海外に市場を求めた鯨油に対し、鯨肉の方は国内でも需要がなくダブツキ気味だったため、軍需に活路が見出されることになります。日清・日露・太平洋戦争を通じ、商品価値の低かった鯨肉は軍用食糧として重宝されました。植民地化した朝鮮には缶詰工場が建てられ、占領地や前線に鯨肉の缶詰が移送されました。捕鯨業界は得意先となった軍隊と強固な絆で結ばれ、同様の関係は戦後の警察予備隊・自衛隊に引き継がれることになります。もっとも、太平洋戦争末期には頑強な捕鯨船が軍艦として徴用され、捕鯨業自体は一時的に休業状態を余儀なくされました。
 戦 後
 太平洋戦争が終わると、逼迫した日本国内の食糧事情の改善を図るべく、GHQは捕鯨操業にゴーサインを出しました。食糧難の折、鯨肉は全国に配給され、当時の日本人の動物性タンパク摂取量の実に4割を占めました。しかし、復興とともに国民の栄養状態が改善されるや、他の肉類よりも安価であるにもかかわらず臭味のために敬遠された鯨肉は、'50年代初頭には早くも供給過多となります。膨大な在庫に頭を抱えた捕鯨業界は、販売促進のためのキャンペーンを張ったり、設備に資本を投下して加工食品の形で需要開拓を図ろうとしました。また、軍隊に代わる大口の需要先として自衛隊や学校給食、さらに動物園などの飼料用途に活路を求めたのです。戦後においても、食糧難時代の一時期を除けば、捕鯨産業にとって生産の主力となったのは輸出用の鯨油で、鯨肉は市況の不安定な鯨油の穴埋め的な役割を担っていました。その後、過剰生産と鯨肉に代わる安価な油脂類の登場によって、鯨油の価格は下降の一途をたどり、捕鯨業界は生産の比重を鯨油から鯨肉に否応なく移さざるを得なくなりました。そして、西欧の捕鯨国が次々に撤退していく中、高度成長期のさなかにあった日本の水産業界は、他産業に遅れをとるまじとひたすら増産体制の維持に努めました。他国の母船を捕獲枠付で買い取り、条約未加盟国からの輸入や海外基地に陸揚げして第三国経由の輸入の形をとるなどして規制逃れの策に奔走したのです。結果として、企業間競争によってオリンピックにも例えられた南極海での乱獲の総仕上げを果たし、鯨類資源の枯渇に大きな責任を負うことになったのです。
《戦後の鯨肉需要の実態》
■給食
子供たちの健康を左右し、食に対する意識を学ぶ場となるはずの学校給食。一方で、消費者としての選択権がないため、調味料や加工・輸入食品の導入などの形で"政策の道具"として扱われてきた側面も否めません。また、古くからの食文化を破壊するうえで中心的な役割を担ったとの声も聞かれます。捕鯨産業にとっては、自衛隊や刑務所などとともに、行政府調達による大量の安定需要が見込める重要な得意先でした。1973年頃の推定では国内の鯨肉生産量の12%に当たる15,000tが給食用に回されたとみられます。これが、戦後世代が鯨肉の竜田揚げなどに郷愁を感じ"させられる"所以です。
  ■加工食品
不人気でアブれた鯨肉の在庫に頭を悩ませる業界を救ったのが、ハム・ソーセージなどの練製品の加工技術の開発でした。いわゆる魚肉ソーセージは、原料の半分を占める鯨肉にマグロの肉を混ぜ込み、香辛料をきかせることで本物のソーセージを模したものです。大手水産会社はオートメーション工場による生産体制を整え、魚肉ソーセージの量産・普及を図りました。後に原料は白身の魚に取って代わられますが、多くの日本人はそれと知らずに鯨肉を口にしていたわけです。ほかにも、コンソメスープの原料にするなど需要開拓のために"苦肉"の策が試みられました。
(−−;;鯨肉製品の比率(グラフ)
出典:「神話を越えて──クジラと日本」(岩崎サチコ、オレゴン大学)
■動物園

1960年代まで、動物園で飼育されている肉食獣・雑食獣の主要な飼料として、商品価値の下がった鯨肉が選ばれていました(後には馬肉がこれに代わります)。1952年の恩賜上野動物園の創立70周年記念祭には"鯨館"もお目見えし、キャッチャーボートの展示品や鯨製品の即売が行われましたが、関係の深さの一端を示すものといえそうです。
■毛皮養殖

1950年代末より、日魯、大洋、日水、日東などの捕鯨関連会社は、相次いで毛皮獣の養殖業に乗りだします。これは有り余る鯨肉に手を焼いた業界が考え付いた在庫処理を兼ねた複合経営でした。飼料に用いられていたのは主にエキスを絞った残りやマッコウクジラの肉で、近海大型捕鯨の生産物のうち年間6,000t〜9,000tはミンクの飼料用として充てられていました。アメリカに輸出した鯨肉も養殖飼料向けでしたし、イギリスやオランダなどにはペットフードの加工原料として輸出されていたこともあります。
肉食獣の飼料鯨肉供与例('74) 1日1頭当り、単位:g
ライオン
(多摩動物公園)
トラ
(栗林公園動物園)
ヒョウ
(東山動植物園)
ホッキョクグマ
(日本平動物園)
ゴールデンキャット
(天王寺動物園)
タヌキ
(日本平動物園)
テン
(多摩動物公園)
6,000 2,000 1,000 5,000 500 150 50
出典:飼育ハンドブック1(日本動物園水族館協会)

 そして現在…
 
  1. 「島国日本に不可欠の動物タンパク源」
  2. 「日本民族固有の伝統食文化」
  3. 「アトピーにも効くヘルシー食品」
  4. 「地球を食糧危機から救う救世主」
 捕鯨に対する国際世論の目が厳しくなり、商業捕鯨のモラトリアムがIWCでも可決される中、業界・水産庁とそのシンパはこれらの"キャッチコピー"を次々に打ち上げてきました(互いに矛盾しているものもあるようですが…)。まさに生き残りのためのPRに必死というところでしょうか。以下にざっと検証しましょう。
 1.は最初に打ち出されたキャッチフレーズですが、国内でもまったく説得力を持たなかったためすぐに引っ込められました。
 2.は、日本人の自尊心("アングロサクソン・コンプレックス"の裏返しでもある)をだいぶくすぐったようで、著名人の一部から熱烈な支持を獲得し、それぞれの分野で"宣教師役"として捕鯨擁護論を広め、メディアを通じて影響を及ぼしました。実際には、捕鯨業界より委託を受けたPRコンサルタントの発案だったとのことです(担当者は最近も右派オピニオン誌に寄稿するなどしています)。が、日本の食文化の実際と照らして、海外の支持を得るには至りませんでした。なぜ生存捕鯨の枠が認められたのか、少数民族の文化に敬意が払われるのか、捕鯨の文脈から離れて一から勉強する必要が日本人にはありそうです。(日本の食文化とクジラについては次項で解説します)
 3.は米、大豆、卵、畜肉など主要な食品の多くにアレルギー反応を示す重度のアトピー患者の取り込みをアピールしたものですが、実際には選択肢の一つにすぎません(代替はヒエ、アワ、ウサギ、カエルなど。ちなみに、ネコもアレルギー持ちで食事に制約があります)。政府が安全と主張する資源管理型捕鯨にしろ、ブラックマーケットに頼るにしろ、少なくとも鯨肉は将来も決して安価で入手しやすいものにはなり得ません。また、重金属や有機塩素化合物の高い汚染度から来るリスクを背負うことになります。アレルギーについては原因もメカニズムも未だにはっきりとは解明されていませんが、生活の中で氾濫した化学物質との関係が指摘されています。南極の海の野生動物に頼ればよいというのでは、これから生まれてくる子供たちにとって根本的な解決とはなりませんよね。
 4.については説明するまでもないでしょう。現在でも、世界中で飢餓により亡くなる子供たちの数はおよそ年間5百万人、さらにそれを上回る数の子供たちが重度の栄養失調となり、重度の障害や感染症に罹る高いリスクを抱えています。クジラが飢餓を解消するというのなら、今すぐにでもこの子たちを救ってぜひとも証明してもらいたいものです。誰が彼らのもとへ実際に届けるのでしょうか? 誰がコストを負担するのでしょうか?(ついでにいえば食文化の押し付けですね) たとえば、アフガンや西サハラや東アフリカに南極のクジラを提供するなどというのは、誰が考えても不自然で非現実的です。何が飢餓をもたらしているのかを問う視点も皆無です。要するに、クジラで食糧問題を解決するなどおよそナンセンスの一語に尽きます。ネコには不幸な人々をダシにしているとしか思えません。それとも、いざという時には南極のクジラがあるから日本人だけは生き延びられるというのが趣旨なのでしょうか??

 このように、日本人とクジラとの関係はあまりに目まぐるしく変貌を遂げてきたことがわかります。捕鯨産業が、過去からの遺産を捨て、国際競争の流れの中に身を任せ、あの手この手で新規需要を開拓しつつ、収益を追求していった結果として、南極の海では鯨類全体のバイオマスが往時の1/5になるほどの荒廃をもたらし、史上最大の哺乳類であるシロナガスクジラは未だに絶滅の淵をさ迷っています。乱獲による資源枯渇は自らの撤退を余儀なくさせ、またその反動が環境保護運動の台頭を招きました。それらの帰結として、今日捕鯨産業は日本という飽食天国「伝統」のブランドを銘打った"高級嗜好品"を提供する形で生き延びています。一方で、高値を狙った在庫転売や所得隠し、解体鯨の不法投棄、毎年のように発覚する密輸・密漁、代替需要を当て込んだイルカの過剰捕獲など、さまざまな問題を生み出しています。日本人が、野生動物と節度ある長期的な共存関係を結び、自らの伝統文化を頑なに守っていたなら、こうした事態には決して至らなかったでしょう。逆に、今の日本人を振り返れば当然の帰結だったともいえるかもしれませんが……。
 おそらく、日本は主として西洋から利便性につながる多くのものを手に入れてきた代わりに、大切なものを失ってしまったのかもしれません。クジラとのつながりも例外ではなかった──というよりむしろ、それを象徴しているのかもしれません。今の日本に残っているのは"こだわり"だけなのではないでしょうか?? 果たして、これでも今の日本に南極の野生を貪る資格があるといえるでしょうか???

参考文献:「日本の捕鯨」Hideo Takahashi、「日本捕鯨史話」(福本和夫著)法政大学、「ザ・クジラ」(原剛著)文眞堂, 「南氷洋捕鯨史」(板橋守邦著)中公新書