5 予  言

 しんと静まり返った〈集会場〉で、参加者全員の目が中央の舞台に吸い寄せられる中、一頭のまだ年若いクジラが行政官のグループの間から進み出ました。その青年クジラは、盛んな討議が行われていた最中にはだれもいたことに気づかなかったくらい存在感がなく、それどころか衆目を浴びているいまでさえ非常に控えめで、まるで自分の影を注意深くかき消そうとしているかのようでした。身体つきは親戚種族のイワシクジラのようにほっそりとしています。こんな見るからにひ弱そうなクジラが〈郡〉の命運を左右する重責に耐えられるのだろうかとクレアはいぶかしみました。彼がこの〈小郡〉の〈行く末の語り手〉を務めるフィーブルで、老練なクジラたちがほとんどを占める〈語り手〉の職に就く者としては、一九歳という驚くほどの若齢でした。メスの〈政を司る者〉は、自身の地位を確固たるものとするにあたって果たすところの大きかったうら若いオスの〈語り手〉を、ほかのだれにも示さなかった情のこもった目でじっと見つめました。
 〈集会場〉の中央に陣取っていた執政担当者たちは、フィーブルに予言の儀式を執り行う場を提供するべく脇に退きました。急ごしらえの儀式の場に、フィーブルはただ一頭ぽつねんと浮かんでいました。そこには何か、台詞も演技もない端役のみ出演する独り芝居といった奇妙な印象がありました。
「それでは、これより予言の儀を執り行います」モーリスがやけに格調ぶった声で宣言しました。
「予言の依頼者、〈未来観測者〉の前へ」
 モーリスが自分のほうを見たので、クレアは一瞬戸惑いました。左右を見回すと、この〈集会場〉に集まった目という目がすべて自分に向けられているのを感じました。レックスが顎をしゃくって促します。彼女はいままでこのような神聖な儀式に直接参加したことはなく、緊張してオドオドと前に進み出ました。普段の思いきりのよさもどこへやら、クレアは自分がヒョウアザラシの大群の真っただ中に一羽とり残された哀れなペンギンにでもなったような心地がしました。
 クレアとフィーブルはお互いに左の体側を向けるように並びました。あまり気乗りしなかったものの、彼女は相手と視線を合わせました。はじめクレアにはどこか近寄りがたい神聖な存在に感じられた若き予言者は、こうして面と向き合ってみると、どこにでもいる地味で凡庸なオスのように思われました。次の瞬間、彼女の目の前にいたのは、一頭の怯えたこどもでした。かと思えば、レックスとさして変わらぬ年齢とはとても思えぬほど老けこんで見えたりもしました。それらのイメージはいずれもたちどころに消え去り、クレアのフィーブルに対する心象は二転三転しました。結局のところ、〈行く末の語り手〉はまったく捉えどころのないクジラとしかいいようがありませんでした。彼のほうではこの間まなじり一つ動かすでもなく、その視線にもこちらの心を読みとろうとする意思は感じられなかったのですが、クレアは自分の側から相手にとって必要なものをさらけだしてしまったことを悟りました。
 予言の委託者と受託者はほぼ同時に相手から目を逸らし、互いを敬遠するように離れました。なんだかいっぱい食わされたみたいで、クレアはひどく気が滅入ってきました。リリが自分に対してするように、レックスの胸ビレの下に顔をうずめたいほどでした。
 ゆったりと同じところを浮き沈みするだけだったフィーブルは、急に素早い動作に転じて逆立ちの姿勢をとると、そのまま真下に向かって潜行していきました。彼の姿はたちまち濃密な紺色の中に溶けこんで見えなくなりました。だれもが潮吹きもこらえて晴れることのない深海の霞の奥を見守りました。五分足らずでフィーブルの細く尖った頭が浮かび上がってきました。水面を突き破って荒々しく息を吐きだし深呼吸すると、彼は一休みもすることなく再び潜水に入りました。ヒゲクジラ類が日常ほとんど訪れることのない四、五百メートルの深度までまっしぐらに降下し、そこでUターンすると今度は海面をめざして急上昇するこの往復のプロセスを、フィーブルは七回も八回も繰り返しました。さっきまでのおっとりした身のこなしからは想像もつかない猛々しさでもって、〈語り手〉は一心不乱に海の表層と深層とを行き来しました。
 他の者たちには彼が何をしているのかさっぱり見当がつきませんでしたが、この特殊なダイビングは、〈行く末の語り手〉が予言をするにあたって必要なトランス状態を作りだすためのものでした。水中でガス交換を行わないクジラたちは、血液中に溶けこんだ空気が浮上の際に飽和して血管を詰まらせてしまう潜水病という恐ろしい病気にかかる心配がありません。ですから、速く、深く潜ることが可能なのです。それでも、圧力や明るさの極端な格差をはじめとする海面と深海との環境の違いは、生理的にも心理的にも大きな影響をもたらします。その環境の変化を短時間のうちに繰り返し体験することにより、高揚した精神が時の扉を開く鍵となることを、〈行く末の語り手〉たちは発見したのです。
 最後の浮揚で波の上に躍りでたフィーブルは、激しい運動のために消耗したきゃしゃな身体をぐったりと横たえました。しかし、身体の各部の動きは完全に停止したわけではありませんでした。正真正銘の予言はいよいよこれから始まるのです。すでにフィーブルの意識は日常のレベルからさ迷いだしたらしく、全身を妙な具合によじると、身体つきのわりに大きな胸ビレを高々と天空に向けて突き出しました。バシャーン! そのまま胸ビレで海面を割って水しぶきを撒き散らします。それはまるで、だれかが彼のヒレの先をつまみあげてからパッと放したような感じでした。右、左と、〈語り手〉のヒレは交互に、不規則に水面を打ちました。続けてフィーブルは、胸ビレだけでなく尾ビレを使ったり、上半身を伸び上がらせたりしました。ミンククジラがそれをやるところはあまりお目にかからないブリーチングもしました。といっても、中途半端に立ち上がったうえ、ぶざまな格好で落ちたため、初めてジャンプを試みてしくじった赤ちゃんクジラさながらでした。居合わせたクジラたちは、その場の緊迫した雰囲気に圧倒されてだれも笑い声を立てる者はいませんでしたが。
 一見したところザトウクジラのパフォーマンスや仔クジラ全般の遊びにも似ているこれらの動きは、注意深く観察すればまったくの別物だということがわかりました。一連の動作の組み合わせにはどこか異様な不自然さが感じられ、こどものそれに見られる愛らしさの要素に欠けていました。まるで何か目に見えない力に操られているようなのです。見ているうちに、クレアは吐気を催して目を背けました。
 激しかった予言者のクジラの動きはスローモーションに転じ、水を打つヒレの音も次第に間遠く、物憂い響きを帯びてきました。古来より伝わる秘儀はいよいよ佳境を迎えつつありました。仰向けになって胸ビレをだらりと下げたフィーブルは、不明瞭な声でなにやらブツブツとつぶやきだしました。はじめ、それは意味をなさない鳴音にすぎませんでしたが、次第に言葉が形を整えてきました。


 ──小さき吾児らの……いとか細き尾に……
    幾重もの……斑のケルプが絡みつき……
    明けぬ夜の世界へと引き摺りこむ……
    座して待ち受ける者あり……
    歯を剥く兄弟の巨大な顎門(あぎと)……


    されど、真に邪悪なるは彼の者にあらず……
    眼を閉じ、潮吹きを堪えよ……
    心の耳のみ欹て、幽かな音像を捉えよ……
    彼の者の後ろに蠢く無数の影を……
    闇とそこに棲まう者たちを冒し、且つ育むもの……
    禍を祝福となす〈死の精霊〉……


    ……そしてなお()よ……
    精霊の卵を腹に抱える母そこに在り……
    黒々と冷たく横たわる小さき骨の棺……
    その名、口にするもおぞましきや……
    〈沈んだ岩〉と──


 冷たく澄みきった声で謎めいた言葉をつぶやいたあと、字句どおり何者かに引き摺りこまれるように、フィーブルは尻尾を下に、頭を上に向けた奇妙な姿勢で沈んでいきました。〈集会〉の参加者全員、背筋に冷たいものが走るのを感じ、しばらくはだれも身じろぎ一つできませんでした。が、フィーブルがそのままどんどん海底に向かって沈んでいくのにやっとモーリスが気づき、急いで〈政を輔ける者〉たちに後を追わせました。
 五等と六等の〈施政補佐官〉に両胸ビレを抱きかかえられるようにして、フィーブルはクジラたちの輪の真ん中に浮上しました。意識は正常に戻ったものの、彼は自分が奇妙きてれつなダンスを踊ったことや、おどろおどろしい言辞を吐いたことはろくに覚えていないようでした。
 〈集会〉に集まったクジラたちは、だれもが悪い夢から覚めたばかりのような表情を浮かべていました。中でもモーリスは一層難しげな顔をしていましたが、彼女の場合は他の者たちのように、先刻の予言によってこの会場に運びこまれた不吉な予感に怯えていたわけではありませんでした。〈行く末の語り手〉に予言の儀式を行わせた当鯨(とうにん)である〈政を司る者〉は、予言の解釈そのものに頭を悩ませていたのです。ようやく落ち着きを取り戻した仲間たちがヒソヒソとささやき声を交わしはじめた段になって、彼女も自分自身の解答をまとめあげました。
「お静かに、みなさん!!」
 進行係がメスの上長の鋭い声にはっと気づいて、自らに課された務めを果たすべく叫びました。「みなさん、静粛に! 静粛に願います!」
「自分勝手に無用な心配を抱えこんで騒ぎたてるのは脳ミソの小さいイルカのやることですよ。私たちはクジラ一門の威厳を辱めないように、常に沈着冷静に物事を見極めたうえで判断を下すべきです。たったいま〈未来観測者〉が語った予言の言わんとするところを、私からみなさんに噛み含めてお伝えしましょう。『小さき吾児ら』──これは文字どおり、行方不明となっている〇歳児のことですね。『ケルプ』というのは、予言の中で形式的に用いられる状態と関係を示す隠喩にすぎません。五行目の『歯を剥く兄弟』がシャチを指すのは言うまでもないでしょう。最後の節の『岩』も説明は要りませんね。『沈んだ──』という修飾の部分は表現上の変形か、あるいは実際に新型の〈沈まぬ岩〉の出現を意味するのかもしれません。私たちが温暖な北方の海域でときおり遭遇する、空気呼吸をしない潜水性の〈岩〉が、沈まぬ同類と同じく私たち一族に対する攻撃性を具えはじめたということも考えられます。
「すなわち、今回の予言が伝えんとしているのはこういうことです。幼齢の行方不明者はシャチと〈岩〉のいずれか、もしくはその両方によってすでに存在を抹消された──。非常に残念なことではありますが、いまとなっては還らぬ者たちのためになしうることは何もありません。二週間後の〈豊饒の海〉出発の時までにこれ以上情勢が悪化しないことを望むばかりです。ですが、〈沈まぬ岩〉の新たな変容とシャチとの共謀の可能性に対しては、事前の警告を発したことになるでしょう。ですから、こどもたちの救出はならなかったとはいえ、今回の予言が将来の〈小郡〉の安全保障上益するところは大だったと思います」
 モーリスは本件の申し入れを行ったクレアとレックスに対して礼を言っているのかと思いきや、二頭には見向きもせずにフィーブルに微笑みを投げかけているのでした。予言の儀式は〈語り手〉にとってもたいへんエネルギーを消耗する作業なので、多くても一回の〈集会〉につき一度しか行われないことを考えれば、それが無駄に終わらなかったことを評価し、彼の労をねぎらうことは、まあ〈政を司る者〉の仕事の範疇に入るのでしょうけど……。
 しかし、結論を聞かされたクレアは、銛を打ちこまれたかのように激しいショックを受けました。大切な息子の捜索に助力が得られないどころか、彼の死亡をあっさりと宣告されてしまったのです。クレアは声もなく、頭の中でフィーブルの発した言葉を反復しました。そうするうちに、大陸棚の縁からのぞきこんだ深みのように底知れぬ疑惑が次第に頭をもたげてきました。彼女とて、モーリスやフィーブルが虚偽を働いているというつもりは毛頭ありませんでした。ウソをつくことより他のクジラをウソつき呼ばわりするほうが、クレアにとってはもっと罪作りなことに思えたからです。とはいえ、彼女らの言うことを額面どおりに受け入れれば、自分もジョーイの死を認めることになってしまいます。二頭が絶対に過ちを犯さないとは限りません。再び舞い戻ってきた冷静な判断力が、ジョーイの生存に賭ける信念に後押しされて、〈郡〉の長の予言の解釈の中に腑に落ちない部分を見つけだしました。
 歌の中で二つ、『斑のケルプ』と『歯を剥く兄弟』という生きものに関する言葉が登場しました。このうちケルプのほうは、光を糧とする褐色の海藻ですから、『明けぬ夜の世界』すなわち深い海の住民にはあたりません。モーリスは言葉を濁して細かい点に触れようとしませんでしたが、クレアには単なる隠喩だとは思えませんでした。また、同じく彼女が『歯を剥く兄弟』をシャチと解した点も筋が通りません。シャチたちは深海に潜る能力も少しはあるとはいえ、本籍を置いているとまではいえませんし、別のだれかに獲物を引きずりこんでもらうのを大口を開いてじっと待ち受けるようなタイプの狩鯨(かりうど)でもないからです。他の候補としてマッコウクジラやトックリクジラの仲間のように深海性の歯クジラ族もいますが、彼らはミンククジラに歯を剥いて襲いかかってくるまねなどしませんし(それ故、モーリスもシャチと断定したのでしょう)。そして、『沈んだ岩』に関しても彼女の説明では不十分な気がしました。さらに、その〈岩〉が『卵』を抱える『死の精霊』とは、一体全体なにを指しているのでしょう? そんな薄気味悪い名前はいままで聞いたこともありません。〈疫の精霊〉の親戚でしょうか?
 とはいうものの──いくら息子の生死がかかっているといえ、それらの疑問を表明してこのうえ〈政を司る者〉の機嫌を損なったら、それこそ〈郡〉中の者から爪弾きにされかねません。クレアは咽喉もとまで出かかった言葉をつっかえさせたまま、それを口にしたものかどうかと思案に暮れていました。
 そのとき、しっかりした威厳のある声が響きわたりました。
「お待ちなされ」
 声が聞こえたのはほかでもない中央グループの中でした。〈政を司る者〉に待ったをかけた声の主は、若いフィーブルとは対照的に、年長者の集まりである政の担い手たちの間でもひときわ高齢ゆえ、すぐに目につきました。その年老いたメスの名はマーゴリア──この〈小郡〉はもちろん、〈大郡〉中でもヒトデの足の本数しかいないとされる六〇を越える長老でした。そして、彼女はまた、〈郡〉一の知恵者とささやかれる〈来し方の語り手〉でもありました。

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