6 六頭の兄弟クジラの話

「海水の流れには常に二つの向きがある。すなわち、流れ来る上手と、流れゆく下手じゃ。目の前にある流れを無事に乗り切らんとする者は、その流れがいずこから来ていずこへ行くか、常に見定める目を持たねばならぬ。どちらを欠かすこともできぬのじゃ、先ほどの〈創造のなせる業の多様さに目を見張る者〉の言ではないがの。時の流れもまた同じこと。そして、その流れに身を任せるすべての生命にとっても、来し方と行く末とに心を配ることが肝要なのじゃ。先の見通しを考えぬ者は、氷壁に封じこめられて溺れ死ぬ愚者に等しい。じゃが、同時に過去を振り返らぬ者も、砂洲に突っこんで座礁する蒙昧にすぎぬ。〈郡〉を最善の未来に導くためには、やはり過去を──先祖から受け継いだ尊い訓えをひもとくことも決して疎かにしてはならぬぞ。同時に、過去に先祖が犯した過ちを繰り返さぬよう、そこから学ぶ姿勢もな。たとえわしらのいま直面する危機がかつてないものであっても、時の試練を耐え抜いてきた伝承には、不測の事態を切り抜ける助けとなるなにがしかのヒントが書かれているものぞよ」
 寄る年波のせいで声の艶こそ褪せていたものの、〈語り手〉として永年鍛えられてきたマーゴリアの声は、朗々たる響きを少しも失っていませんでした。
 モーリスはしばし彼女の先輩格にあたるクジラを凝視しましたが、あきらめたように目を伏せると、声が上ずらないよう注意しながら了承の意を告げました。「よろしいでしょう、〈過去検索者〉。あなたのご助言を承ります」
 モーリスは〈郡〉の中でだれよりもマーゴリアに敬服していましたが、それは彼女がこの年老いたメスを最も苦手とするという意味でもありました。実際問題として、若い〈政を司る者〉は、この保守派≠フ同僚のおかげでなかなか思い切った政策の転換に踏みきれずにいました。自信家のモーリスも、経験のうえではるかに及ばない、加えて〈郡〉の者たちの信望も厚いマーゴリアに対してだけは、いま一歩強い態度に出ることがためらわれたのです。年齢の差はそのクジラの優秀さとはなんの関係もないというのが、彼女の信条の一つではありましたが。
 中央にいた執政グループのメンバーは再度周辺に移動しました。さっきまで予言の儀式の場だった〈集会場〉の中心は、老〈来し方の語り手〉の独り語りの舞台へと早変わりしました。マーゴリアはフィーブルと同じように静々と前に進みでましたが、その泳ぎぶりは〈語り手〉にふさわしい落ち着きと威厳を示していました。彼女はゆっくりした動作で水面に出ると、深々と潮を吹きました。それは〈行く末の語り手〉のように頭の中を白紙状態にするためではなく、声の調子を整えるためでした。彼女は渚に満ちる潮のように静かに語りだしました。その声には不思議と若さがみなぎっているようでした。
「これからわしがここにいるみなの衆に語って聞かせようと思うのは、一呑みのオキアミの数ほど太陽が天球をめぐるほどの昔、わしらミンククジラ一族が他の大型の種族と岐れていなかったころの物語じゃ。お主らの中には、そんな大昔の話をしてなんになるのかといぶかる者もおるかもしれんが、わしら鯨類がメタ・セティの思召しを受けてこの世に生をたまわって以来、世界とわしらとの関係は基本的には何も変わっておらぬのじゃよ。その証拠に、ご覧なされ。いまわしらの頭上に架かっているのとそっくり同じお天道様を、遠いご先祖もわしらと同じように崇めておったんじゃからの」
 彼女の話術に引きこまれて、〈集会場〉に来ているクジラたちは残らず天を仰ぎました。モーリスでさえ上目遣いに海面をチラッと見やりました。天の彼方にある白熱した光球は、見上げる一同を何百万年もの過去へとタイムスリップさせました。こどもたちの失踪事件も、種族にヒタヒタと迫る危機も、五十年余りの彼らの一生も、数十億年の間一日も欠かさず昇っては沈むことを繰り返してきた太陽にしてみれば、きっとオキアミよりちっぽけなできごとにすぎないでしょう。みなの様子を見てマーゴリアはうなずくような仕草を見せ、話を先へ進めました。
「それでは、これから『六頭の兄弟クジラの話』を聞かせてしんぜよう」
 クレアの傍らで、レックスが細めた目をマーゴリアに向けたままつぶやきました。「ぼくは……こどものとき、この話を聞いたことがあるぞ。あれはシロナガスたちが姿を消して、方々の〈食堂〉が繁盛しだした頃のことだ。あの頃は先代の〈政を司る者〉と〈行く末の語り手〉もまだ健在だった。そのときの〈集会〉では、〈郡〉の長期計画に関して喧々囂々の議論が飛び交っていた。小さかったぼくにはまだちんぷんかんぷんだったけど、当時は〈大郡〉中の〈小郡〉で、この機会にもっとこどもを産んで一族の勢力を盛り上げようという機運が高まっていたんだ。〈行く末の語り手〉は、勢力を増すことは確かに可能だと予言した。ただし、引き換えに代償を支払うことになるとも。その予言には、どこかに罠が──孤立したパックアイスの隙間のような──潜んでいるという警告のニュアンスが、こどものぼくにも感じ取れた。〈来し方の語り手〉マーゴリアの助言も受けて、うちの〈政を司る者〉は、他の〈郡〉ほど繁殖増強策を積極的に打ち出さずに比較的慎重な立場をとったんだが……結局、その直後に二頭は、ミンククジラにねらいを変えた〈沈まぬ岩〉に屠られてしまった。そいつがつまり代償だったわけだな。で、彼女が長に忠告した際に引き合いに出したのが、この物語だったのさ……」
 それはクレアが生まれる前の話で、その後しばらくは〈政を司る者〉が次々と代替わりする不安定な時期を迎えたのでした。モーリスが主導権を握るようになってからは〈郡〉も表面上落ち着きを取り戻したかに見えましたが、今回の幼児集団行方不明事件に対し、マーゴリアはかつての重大な転機に持ちだした物語を再び語ろうというのです。クレアは目を見張ってレックスの横顔を見つめ、マーゴリアの話を一言も聞き漏らすまいと神経を集中しました。


『六頭の兄弟クジラの物語』
「──はるかな始祖の時代より、〈豊饒の海〉はこの惑星上で最も数多くの生命を養ってきた海じゃった。クジラたちにとって、そこは常しえの楽園のように思われとった。しかし、この無尽蔵に見えた幸多き海も、長い歴史を通じていっときも変わりなく、生命を支える富を絶やさなかったわけではなかった。メタ・セティは、ご自身以外に永遠不滅なるものを創ろうとはなさらんかった。彼女がこの宇宙を創造しようと決心されたときから、あらゆるものは生を得、変容を遂げ、消滅するのが必定だったのじゃ。
「さて、この時代、世界はおおむね平和じゃった。クジラたちの生存と安寧を脅かすものはなに一つなかった。潮の薫りは甘く、さざ波は心休まるメロディーを運んできおった。北の極から南の極まで、海の面は穏やかなリズムの星の鼓動を行き渡らせた。〈豊饒の海〉は白い大陸を抱いて懐の厚さを誇示したものじゃ。当時、この海には六頭の兄弟が住んどるきりじゃった。どこが端だかわからんほど切れ目なく広がるオキアミのスープも、みいんな彼らのものじゃった。六頭はなんの不満もなく、退屈なほど満ち足りた生活を送っておったのじゃ。
「六頭の中で一番上の兄は、身体がいちばん大きく、優雅で、孤独を愛した。二番目の兄は、二番目に身体が大きく、泳ぎを競わせたらだれにも負けなんじゃった。三番目の兄は、三番目に身体が大きく、太めの身体つきで気性もおっとりしておった。四番目の兄は、その次の大きさで、シャイな性格でほっそりとしてスマートじゃった。五番目の兄がそれに続き、胸ビレの長い彼はジャンプと歌を好んだ。一番末の弟は、身体が一番小さく、理知的で計算高いクジラじゃった。彼らは食べるものにこと欠かないこの海域で、ケンカもせずにむつまじく暮らしておった──」
 レックスがクレアにヒソヒソ声で耳打ちしました。「ばあさん、どうやら物語の筋書きを変更したらしいな。あるいは別のバージョンなのかな? 前のときは確か、末の弟は一番の食いしん坊≠チてことになってたんだぜ」
「──じゃが、その幸福な時間も長くは続かなんだ。〈豊饒の海〉の旺盛な包容力が、ある年から急に衰えを見せはじめたのじゃ。太陽がほんのいっとき転寝をしたのかもしれぬ。あるいは、わしらの住まう惑星、大きな〈メタ・セティの子〉がいつもの回遊路をフラリと離れてしまったのかもしれぬ。ともあれ、赤いスープ≠フ帯はとぎれとぎれになり、ペンギンやアザラシたちも困り果てて氷の棚の上をウロウロした。もちろん、六頭の兄弟クジラたちも弱ってしまった。ここが別の海じゃったら、もっと餌の多い海域を探しによそへ移ればすむ話なんじゃが、何しろ〈豊饒の海〉はこの星いちばんの豊かな場所じゃったから、ほかに行くあてなんぞなかった。はじめのうちは、それぞれの食べるオキアミの分量を少しずつ減らしてなんとかしのいだ。じゃが、餌はさらに乏しくなり、このままでは年を越せるかどうかも怪しくなってきた。そこで、兄弟は頭を寄せ合って輪を作り、いったいどうしたものかと話し合ったんじゃ。ちなみに、これが今日でいう〈集会〉の起こりとされておる──」
 マーゴリアはここでいったん話を区切り、水面に出て息を継ぎました。
「──その年の収獲の量は、どんなに多く見積もっても六頭のクジラ全員を賄いきれそうになかった。だれか一頭が犠牲にならなければ、兄弟全員が飢え死にすることになろう。では、いったいだれが残りのみなを救うために犠牲になるか? みな自分から仲のよい兄弟に対してその死を請う気にはなれず、尻尾をだらりと垂らしたまま黙りこくっていた。しばらく沈黙の時間が流れてから、末の弟が胸ビレを挙げて発言した。
「『私たちにはこの餌不足の状態がいつまで続くのかわかりません。ですから、残された五頭ができるだけ少ない餌で長期間耐えられるほうが、一族が生き延びるチャンスがあります。というのは、残っているオキアミを早々に食いつぶしてしまった場合、〈豊饒の海〉の回復が遅れれば結局みんな助からないからです。言いにくいことですが、ここは身体の一番大きなお兄さんに譲っていただくのが最善の選択ではないでしょうか』
「みなは、運命の宣託がだれか一頭の上に下される瞬間を最も恐れておった。他の四頭はいっせいに末の弟を見つめ、続いておそるおそる長兄に視線を移した。寡黙な兄は観念していたように悠然と言った。『うむ。私は一頭でいるのが好きだし、年若いお前たちを離れ離れにしてしまうことを考えると、胸が痛む。もちろん私が出ていくべきだね。なに、ときには慣れ親しんだ海を離れて独り旅に出るのも悪くはないさ』
「弟たちは心の広い兄を頼りにしていたので、その兄と別れることをたいへん悲しんだが、末の弟の言うことはもっとものように思われた。次の日の朝、一番上の兄は死出の旅路へと旅だっていった。
「それからしばらくの間、五頭はかろうじて飢えをしのぐことができたが、それも翌年まではもたなかった。兄弟たちは再び会議を開いた。ここでも最初に口をきいたのは末の弟じゃった。
「『私たちの置かれている状況は去年とほとんど変わっていません。他の四頭が救われるためには、身体の大きな二番目のお兄さんに出ていっていただくのが得策でしょう』
「『そのとおりだ。俺はお前たちより長生きしているし、もう十分に泳ぎを堪能した。愛する弟たちのために死んだって悔いはない』次兄はあっさりと言ってのけた。
「兄弟はその兄の力強い泳ぎに惹かれ、とても尊敬しておったので、彼を自分たちのために死に追いやることを嘆き悲しんだ。それでも、末の弟の言い分は正しく、どうすることもできなんじゃった。二番目の兄は最後の流れるようなストロークを見せ、〈豊饒の海〉を離れて二度と帰ってはこんかった。
「二頭の兄がいなくなってなんとか持ちこたえたかに見えたオキアミも、しばらくの間だけじゃった。兄弟はまた気の重い話し合いをすることになった。
「『残り三頭のことを考えれば、残念ながら、やはり三番目のお兄さんに出ていっていただくより仕方がありますまい』今度も末の弟が厳格な口調で言いきった。三番目の兄はうなずいて、弟たちを悲しませないよう朗らかにしゃべった。
「『そうとも、そうとも。わしは何しろこのずんぐりした身体だしなあ。わしみたいな飯ばっか食っているのんびり屋が、いつまでもふてぶてしく生き残ってるこたあない』
「そう言って笑いながら、三番目の兄はまるでピクニックにでも出かけるみたいに泳ぎ去った。弟のクジラたちは兄弟の中で一番ユーモラスじゃった彼との別れを心から惜しんだ。
「それでもなお、〈豊饒の海〉は豊かさをとり戻さんかった。いままでの話し合いのときと同じように、末の弟の提言で、四番目の兄が故郷を永遠に去ることに決まった。彼は残った二頭に今生の別れを告げた。
「『ぼくにはこれといって取り柄はないが、お前たちにはそれぞれ才能があるし、まだ若い。お前は音楽と跳躍の素晴らしい才に長けているし、末のお前は知恵が鋭い。どうかぼくたち兄の分まで長生きするんだぞ』
「もともとスリムなうえに食べるものを切り詰めていたせいでサンマのように痩せ細った四番目の兄は、そう言って水霞の向こうへ消えた。
「年上の兄の後ろ姿を見送っていた五番目の兄は、弟に向かって言った。
「『とうとう私たち二頭だけになってしまったね。だが、もし赤いスープ≠ェもっと味気ないものになってしまっても、お前は最後まで〈食堂〉の席を立たないでおくれ』〈詩鯨(しじん)〉でもある兄は、遠くを見るような目つきでつぶやいた。
「何を言っているのです、お兄さん。四番目のお兄さんが言われたように、私たちはなんとしても生き延びねばなりません!」弟は断固とした口調で兄を諌めた。
「じゃが、事態は兄の予想したとおり悪くなる一方じゃった。二頭して一所懸命探しても、赤黒い帯はほとんど見つけられなくなってしもうた。兄弟両方を養うだけのオキアミがいないことはもはや明白じゃった。
「『どうやら恐れていたとおりになってしまったようだね。しかし、一頭分の収獲ぐらいならまだ望める。私は歌やジャンプのように役に立たないことしか能のないクジラだ。しかし、お前なら知恵でもってこの難局を乗りきることができるだろう。たった独りで残していくのは心痛むが、クジラ一族の血を受け継ぐ最後の者として、精一杯生きぬいてほしい。お別れに、私の作った辞世の句を聞いてくれないか?』そう言うと、彼は高々と潮を吹きあげて詩を吟ずる倒立の姿勢をとった。


 ──永遠にたゆたう波なれど
    凪ぐ時あれば荒ぶる時もあり
    今、豊饒の楽園に日は沈めり
    赤銅に染む六つの波頭
    棚引く陰は合わさりて
    おぼろな闇に溶け果てぬ──


「そして、五番目の兄は宙に身を躍らせた。おりしも日没を迎えた陽光が彼の身体を真紅に染めた。彼の歌には、二頭だけになったいまも、先立った兄たちへの慕情が込められておった。詩の心を解せぬ弟はその含蓄を十分に汲みとれなんだが、それでもしみじみと耳を傾け、兄の鮮やかな飛翔を瞼の裏に焼きつけた。兄は去った。
「末の弟一頭きりになったとき、ようやくオキアミの減少は止み、少しずつ回復へと向かっていった。数年の後、〈豊饒の海〉は以前のように生命あふれる豊かな様相をとり戻した。ペンギンやアザラシたちも姿を見せるようになり、氷の海は賑わった。じゃが、クジラの仲間は末の弟以外だれもおらなんだ。一頭きりの海はあまりに広く、深すぎた。湧きたつオキアミも慰みにはならぬ。末のクジラは初めて、兄弟のだれと死に別れたときにも感じなかった言い知れぬ寂しさを味わった。悲嘆に暮れた彼は、声を振り絞って天に向かって叫んだ──
「『おお、偉大なるメタ・セティ! 世界を創り、私を創り、私の兄弟を創りたもうた全能のクジラよ! そのあなたがなぜ、兄たちを滅ぼしたのです!!』


 沈黙が降りました。じっと聞き入っていた〈集会場〉の一同は、情景を瞼の裏に浮かべ、それぞれに思いをめぐらせました。マーゴリアは再び口を開きました。
「これは彼の質問の裏返しじゃ。なぜ末弟一頭だけが生き残ったのか?」
 マーゴリアはこの場にいる一頭一頭のクジラの目をのぞきこむように見回しました。みなはそこで、彼女の言葉が物語の続きではなく、彼ら自身に向かって発せられた問いかけなのだと知りました。クレアの番になったとき、彼女は老婆の視線をしっかりと受け止め、そこにあるものを見て胸がざわつきました。落ち着いた素振りとは裏腹に、そしてフィーブルとは対照的に、マーゴリアは心の奥に真剣な熱情を秘めているように思われたのです。〈語り手〉はモーリスの目を他のだれよりも長く見つめ、視線を先に送りました。このような状況に我慢しきれなくなった若き〈政を司る者〉は、一抹の動揺を隠して、さもわかりきったことであるかのごとく答えようとしました。
「それは、彼が兄弟の中でも最も聡明で、そして、生き残ろうとする意志が強かったからでしょう?」
「ふむ……確かにその答えが一見正しいかのように思えるが、残念ながらそうではない。古の物語の訓える答えは、他の兄弟がより心やさしかったから──ということじゃ」
「しかし、兄たちは死を急いで滅んだのではありませんか?」
「まあ、しまいまでお聞きなされ」それから、マーゴリアはみなのほうに向き直って話の先を続けました。
「己が生を保たんと欲する者は、実際に生き延び、その血は子孫へと伝えられていくことじゃろう。生き残りたい者が生き残る──それは、言ってみれば当たり前のことじゃ。もちろん、生への欲求はちっとも悪いことなどではない。生きたいと望むことは素晴らしいことじゃ。逆境に耐えて生き抜こうとする意志は輝いて見える。そんなものは、しかし、わしも、お主らも、生まれたばかりの乳飲み子でさえ持っておるわ。潮吹きに浮上する時間に海底めざして沈んでいくような愚か者でない限り、現に生きとる者ならだれだって、な。それだけなら実に簡単なことよ。
「問題は、一頭一頭のクジラが自らを生き永らえさせようと願うだけでは、にっちもさっちもいかない場合じゃ。たとえ生への意志がいかに堅固じゃろうと、個々のクジラであれ、群れそのものであれ、存続することが困難な事態が、歴史の中で一度ならずあった──この六頭の兄弟を見舞ったように。そうした困難な状況を迎えたとき、だれもが自分だけ生き延びようと我を張り合うことしかしなければ、結局だれ一頭生き残ることはできず、滅びの浜に競って乗りあげることになるじゃろう。本当に必要なのは、他を思いやる心≠諱Bじゃが、それを持つことは生易しいことではない。なぜなら、自分の生命を投げだして他の者を助けようとする者は、つまるところ自らの血を後代に引き継ぐことができんのじゃからな。それに引き換え、生き残ろうとする血は自らを生き永らえさせる。餌を漁り、潮を吹くのと同じこと。じゃから、わしは他鯨(たにん)を蹴散らしてまで生き残ろうとすることをあえて推奨はせぬ。思いやり≠フほうは大いに推奨したいところじゃが、残念なことにこっちはいくら口を酸っぱくして説教したところでたやすく身につくものではない。それは常に自ら滅び去る危うさを内包しておるのじゃ。生まれつき身に備わっている生存への欲求とは異なり、クジラとクジラとの日々の関係性の中で育まれるやさしさ≠ヘ、すぐにヒレの間をすり抜けてどこかへ逃げ去ってしまう。そのうえ、日ごろどんなにやさしい自分であろうと意識したとて、いざというときにそうなれるという保証はない。それでも、一族が真の危機に見舞われたとき、わしらを救ってくれるものはやさしさ≠オかないのじゃ」
「それは、〈郡〉のために忠義を尽くすという意味ですか?」いま一つマーゴリアの真意をはかりかねてモーリスが尋ねました。
「いや、違うな。物語の中の末の弟を見るがよい。彼は自分が生者として選択される理由を、一族の存続のためという合理的な目的に見事に符合させた。にもかかわらず、最後には己れの愚かさに気づいて苦悩する羽目になったのじゃよ。要するに、やさしさ≠ニは理屈ではない。鯨口(じんこう)の勘定であるとか〈郡〉の運営の年度計画なぞをいくら案じたところで出てきやせぬ。無論、一族の繁栄を蔑ろにしてよいというのではないぞ。ただ、それだけがすべてではないということじゃ。わしらの心には、物事を各要素に分析し再構成する心とともに、物事を全体として直感的につかみとる心の両面がある。矛盾するように見える二つの心がバランスしたときこそ、わしらは正しい答え、正しい針路を見出すことができるのじゃ。とりわけ、のっぴきならぬ状況に陥った場合に、後者の重要性は逆説的に増していく。そんなとき、わしらには熟慮の末最適の選択をする余地などない。そして、カギを握っているのがやさしさ≠ニいうわけじゃよ。何も死ぬことを意味するとは限らぬ。自己を犠牲にすることがすなわち尊いのではない。じゃが……わしらの一生が、単に生存競争に勝ち抜くことを目標に算盤を弾き続けるだけに費やされるなら、それは虚しいものであろうよ。
「これは先祖より語り継がれてきた古の物語であって、『なぜ論理ではなく感情なのか?』と問われても答えはない。その問いからして理屈に毒されておるからじゃ。生命というのは、分別したり、足し引きしたり、優先順位を付けたりできるものではない。理屈ではない心の芯でわしらは生命の重みを感じ、そこから他者への心づかいが生まれる。理性や知性は確かにより洗練された生き方を探る素晴らしい資質には違いないが、そればかり偏重し感性や情を軽んじるなら、どんなに優れていても薄っぺらで寒々しい心の持ち主になるじゃろう。
「考えてみれば、この世界の巧妙さ、精緻さにこそその証が端的に表れているといえるかもしれぬ。個々鯨(ここじん)が持つ自己保存の欲求だけでは、生命の世界は決して長続きはせなんだ。どの生きものも他者との関係を無視して自己の維持に明け暮れる存在であったなら、メタ・セティが産み落とされたこの星の上はとうの昔に不毛の水溜まりと化していたじゃろう。中でもわしらクジラ族は、やさしさ≠切実に必要としているし、それを持ちうる生きものだとわしは信じておる。メタ・セティはそのようにわしらを創りたもうたのだとな」
 マーゴリアの訓戒は、モーリスには自分にやさしさ≠ェ欠けていることを非難されているようにも受けとれました。また、個鯨的(こじんてき)な感情を排し〈郡〉を常に優先することをモットーとしてきた彼女の目には、自分の指導者としての信条に対する挑戦とも映ったため、イライラして言いました。
「おっしゃることがどうも抽象的な方向に逸れてきたようですね。いま提出されている案件に関して、なにか具体的に参考になることをご教示いただきたかったのですが」
「ふっふっふっ、まあ許されよ。延々としゃべくるのはわしの商売よってにな。具体的にか……ふむ。まあ、幼子たちを捜しだす手立ては残念ながらわしにも考えつかぬが、古の物語の作者に成り代わってメッセージを二つ伝えよう。母親のわが子に対する愛情が潰え去るとき、種族は滅びへと向かう。それと、一族や集団の事情のいかんによらず、母たる者はわが子への思いを捨てるに及ばぬ。己が心の命ずるままに従うがよかろう。相矛盾するように聞こえるが、二つとも一つの真実の両面を告げておる。ほかに力になるものがないならば、これが解決への唯一の道しるべとなるじゃろう。
「さっきわしは、やさしさ≠ニは生来身に備わった性質ではないと言うたが、例外が一つある。それは母と子の愛情じゃ。母が保護を擁する子への愛を持たぬなら子孫は絶えてしまうから、それは種族の存続にとって不可欠なものではあるが、最も純粋な本能である母性愛をその一言で片付けようとする者はだれもおるまい。むしろ、愛に種族を保たせる力もあるということが、この世の冥利というものよ。母子の愛は、生命の始原にまでルーツをさかのぼれるすべてのやさしさ≠フ原点じゃ。それは決して〈小郡〉のストックサイズのようにケチなものではない。愛がつまらぬものであるなら、この世の中になんの素晴らしいもの、美しいものがあろうぞ? それは、産みの苦しみであり、乳を与えるときの安らぎであり、護ってあげたいと思う掛け値なしの衝動であり、一頭前(いちにんまえ)に成長した子らと別離するときの切なさじゃ。これあってこそ、子の代わり、母の代わりに、友へ、一族の者へ、そしてすべての生あるものへ、そのやさしさ≠敷衍することができる。逆に言うならば、母親のやさしさ≠失った種族に未来はないというのは道理であろう」
 それを聞いて、クレアは胸の内が熱くなってきました。やさしさ≠ヘ理屈ではないというマーゴリアの言葉ではありませんが、いまの彼女の気持ちは言葉に表しようのないものでした。その熱いかたまりは徐々に薄らいでいきましたが、身体中に浸透して貯えられたような気がしました。
「わしから口添えすることはそれだけじゃ」
「まだ最初の質問に答えていらっしゃいませんね」とモーリス。
「そうじゃったな。物語の最後の部分をお話しいたそう。自分に思いやりややさしさが欠けていたことを思い知った末の弟は、メタ・セティにこう祈ったんじゃ。『私はかまいませんから、どうか兄たちの血を残してください!』とな。
「〈豊饒の海〉の包容力が大きくなるのにしたがって、メタ・セティは彼の願いをかなえてやった。まず一番大きな長兄の子孫を、次いで二番目の兄の子孫を、さらに三番目、四番目、五番目と、兄たちの性質をそっくり受け継いだクジラたちを創った。最後に、まだオキアミの量に余裕があるのを見計らって、一番小さな末の弟の子孫が生みだされた。クジラたちはそれぞれ自分自身を、また一族の血筋を維持しようと努めたが、お互いの間でも回遊の仕方や餌のとり方を独自に発達させることで、住む場所や餌の種類がかち合わぬように調整した。そして、一族ごとに特色ある伝統を編みだし、育て、重んじた。彼らの末裔が、今日南氷洋に栄える各種のヒゲクジラの仲間だとされておる。その証拠に、この『六兄弟の物語』は、語る言葉こそ違え、他のどのクジラ族の間でも伝承のリストに載っておる──」
 マーゴリアは深々と頭を下げ、〈集会場〉の中央舞台から退きました。彼女の表情にはさすがに疲労の色がうかがえました。齢六〇にして大勢を前にあれだけの長広舌をふるったのですから無理もないでしょう。しかし、モーリスは若いオスの〈語り手〉のときのように、彼女にねぎらいの言葉をかけることもしませんでした。
「さて、それでは二頭の助言者の意見を参考にして、私たちはこれから本件に対する最終的な結論を出すための検討に入ることにします。参加者のみなさんはしばらくお待ちください」
 一時の自信の揺らぎも去ったのか、モーリスの口調には冷厳さがあふれていました。結論が発表されるまで時間がかかりそうでしたので、〈集会〉に訪れたクジラたちはまた近隣の者同士でおしゃべりを始めました。大方は討議の行方に関する勝手な予想などでしたが、中にはまだマーゴリアの物語の余韻を噛みしめ、感想を述べ合っている者もいました。
「この勝負、五分と五分だな。さて、四角定規閣下はどう出るか」平然とした口ぶりで言ったレックスでしたが、胸の内に緊張を抑えているのがクレアにも伝わってきました。
 東にあった太陽はすでに南を回って西に向かおうとしており、〈集会〉は当初予定されていた開催時間を大幅に上回っていました。たびたび間に挟まれる休憩のたびに、傍聴にやってくるクジラは入れ代わり立ち代わり出入りしていました。途中でこどもに乳をやりに〈託児所〉へ戻るメスもいました。クレアもアンがついてくれているとはいえ、そろそろリリのことが気がかりになってきました。全体としては、参加者の数は開会時より増えていました。普通の〈集会〉では、退屈な演説や議論に飽きて次第に頭数が減るものですが、今度の〈尾の集会〉はまるきり逆でした。モーリスとレックスの丁々発止のやりとりや、二頭の〈語り手〉のどちらに軍配が上がるかといった息を呑む展開が、多くの野次クジラを呼び集めたのです。
 ようやく意見がまとまったらしく、長を中心に頭を寄せ合っていた執政担当者のグループは散開して会場のほうに向き直りました。
「静粛に! 静粛に!」
「彼のために新しく〈静粛を求める者〉って職種を作ったほうがよさそうだ」さっきからそれしか言わない進行係をレックスがからかって言います。
 〈政を司る者〉は左右を見渡すと、ざわめきが収まるのを待って切りだしました。
「みなさん、ただいまクレアさんから提出された案件に対する私たちの綿密な討議の結果を発表します」
 〈集会場〉はにわかに水を打ったように静まり返りました。
「八頭の〇歳児が立て続けに消息を断った事件について、まず私たちは〈未来観測者〉の予言をもとに、シャチもしくは〈沈まぬ岩〉の新種がなんらかの形で関与していることは間違いないと推断しました。つづいて〈年少者向けの遊戯考案者〉の発言ならびに〈過去検索者〉の伝承を参考にし、この問題が〈小郡〉としても黙殺できるものではないこと、そして母親の心情に顧慮すべきであるという点を確認しました。解決にあたっての障害は、時間の制約と方策の問題です。仔クジラたちが失踪してすでに一週間が経過し、そのうえ〈豊饒の海〉出発までに残された時間はあと二週間しかありません。また、シャチと〈沈まぬ岩〉とを相手に、現実問題として私たちミンククジラにとれる手段はまったくなきに等しい。よって、〈施政長〉としての最終見解は次のとおりです。当〈小郡〉に所属するクジラは、その成員たる当事者の親族の感情に鑑み、行方不明者に関する情報を大小を問わず一般に公開し、血縁者に速やかに伝達するものとする。なお、被害者の母親には次年度の繁殖に際して優先権が与えられる。以上です」
 モーリスが口を閉ざして下がると、静まり返った会場にどよめきが起こりました。場内を満たすそれらの雑多な声が、割れ鐘をたたくようにクレアの頭の中でガンガンと響きわたりました。隣りでレックスがなにかしゃべっているのが聞こえましたが、言葉は右の耳から左の耳にすり抜けていくばかりで内容を理解することはできませんでした。なにもかも遠い赤道の向こう側のできごとのように思われました。
「それで母の愛は報われるとお思いかな?」
 背中から声をかけたマーゴリアに対し、モーリスは振り返って答えました。
「ええ。本来個鯨的(こじんてき)な問題に属する事柄ですし、〈郡〉としては十分すぎるくらいの配慮だと思いますわ。ときにマーゴリア、各事案に対して最終判断を下すのは〈施政長〉の役目です。決定された事項に対してなお口出しをなさるのは、〈過去検索者〉としての分を越えるのではありませんか?」
 実際に〈政を司る者〉として要求される以上に介入しているのは、未熟な〈行く末の語り手〉の予言に自己流の注釈を付け加えているモーリスのほうでしたが、マーゴリアはそれ以上なにも言いませんでした。
 クレアの件がこれで片付いたため、モーリスとその取り巻きたちは残った陳情の処理に移りました。
 〈集会〉のマナーを無視してくるっと急反転すると、クレアはその場を飛びだしました。
「あっ、クレア!」
 レックスが呼び止めようとしましたが、彼女はあっという間に海氷の広がる外洋へと泳ぎ去っていきました。彼のほかにはただ一頭、老〈来し方の語り手〉だけが、健気な若い母親の後ろ姿が遠ざかっていった方角を、もうあまりきかなくなった目でじっと見つめていました。

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