7 クレアの決断

 〈集会場〉を飛び出したあと、クレアはただやみ雲に突き進みました。モザイク模様を描いて広がるパックアイスの群れも、その向こうに霞む白い氷山の峰々も、渡りの前にたっぷり栄養をつけようと魚群を探して海面を飛び回るユキドリの群れも、その他のいかなるものも目には入りませんでした。できることなら、このまま見知らぬ海にさ迷いでて自分も迷子になってしまいたい。そうすればジョーイに会えるかもしれないもの……。
 しかし、クレアには、娘を残したまま行方知れずになる選択はできませんでした。気がつくと、いつのまにか〈託児所〉にたどり着いていました。フラフラといかにも憔悴しきった泳ぎぶりで戻ってきたクレアを、リリを従えたアンが出迎えました。
「どうだった?」
 尋ねてはみたものの、声に出すまでもなく顔つきに表された答えを見て、アンは瞼を閉じため息をつきました。
「どうもこうも! 不正が働いているわ! 不公平だわ! 私たちの〈郡〉はもう腐ってしまっているのよ! こんな理不尽な、こんな、こんな……」
 クレアはかつてないほど憤りをあらわにし、勢いこんでしゃべりだしましたが、言葉が尽きると、溯河直前のサケのようにその場をグルグルと行ったり来たりしました。それでも鬱憤を晴らしきれないほど、彼女の心は深い怒りと悲しみのどん底に突き落とされていました。途中で、娘の目の前でそうした振る舞いを見せつけるのはよくないと気づき、狂ったように泳ぎ回るのはやめましたが、それでもやり場のない憤懣をぶつけるように、ときたま尾ビレで荒々しく海面をたたくのだけはどうにも抑えきれませんでした。
「モーリスときたら数のことしか頭にないのよ!? 私たち一頭一頭のことなんかちっとも考えてくれやしない! 彼女と彼女のろくでなしの取り巻きたちに期待した私がバカだったわ! マーゴリアが〈政を司る者〉だったらよかったのに……」
 ようやく静まりかけた気持ちの昂ぶりが、口を開くと同時にまた噴きだします。それらの恨み言は、別に友鯨(ゆうじん)に聞かせたかったわけでもなく、塞き止められない奔流のように後から後から口をついて出てくるのでした。アンはただ黙って、クレアが思いの丈をすっかり吐きだしてしまうのを待ちました。彼女の心を少しでも癒すことのできる処方箋は、もはや時間の経過以外にないでしょうし……。
 クレアが頭を振り、尻尾を振り、胸ビレを振りして繰言を並べたてているところへ、閉会まで残っていたレックスが帰ってきました。彼はクレアほど思いつめた様子こそなけれ、彼女の言葉にうなずくことしきりで、モーリスたちへの不平不満を洗いざらいぶちまけました。
「まったくだ! 我らが〈施政長〉殿は、ぼくたちクジラを心ある生きものにあらざる、脂と肉と骨で組み立てられた海中噴水キットに仕立てようとしているのさ。そう、ちょうどあの〈沈まぬ岩〉みたいなね。伝統を骨抜きにして、感情をカスしか残らなくなるまで絞りだしてしまっても、政のシステムという薄っぺらな皮だけまとっていればそれですむと思ってる。いったい〈小郡〉にとって大事なのは、血の通った一頭一頭のクジラじゃなくて、骸の数のほうなのかね!? 名簿さえ揃ってれば、その名の持ち主であるぼくたちは生きようが死のうが関係ないっていうのか? 生年と没年さえわかっていれば?? そんな〈郡〉がいったいなんだっていうんだい!?」
「そうよ、そうよ!」
「大方モーリスにとっちゃ、思いやりもやさしさも勘定したり分配したりできるもんなんだろうな。そして、ぼくの職業と同じように、そいつが〈郡〉の皮の手入れにはたいして役に立たないと考えてるのさ!」
「あのクジラには母親の気持ちがわからないのよ! だから、平気であんなこと……」
「そうそう! あのメス大将ならきっと、〈沈まぬ岩〉にだってこう言いかねないね。『〈岩〉さん、〈岩〉さん、どうぞお好きなだけロス海特産ミンククジラの団子スープ≠お召し上がりください。私どもではご要望にお応えして、いくらでもおかわりを用意してございます。なんなら、執政担当者だけ残しておいていただければ、全部たいらげてしまっても結構でございますよ』ってね」
「だいたい変じゃなくて? いつもこどもをたくさん作るようにって煽りたてているのは彼女のほうなのに、せっかく生まれてきた子たちにはどうしてあんなに冷淡になれるのかしら? その一方で、私が双子を生んだときだってあのクジラはたいして喜んでくれなかったし、何より自分は〈政を司る者〉になってから一頭も子を育ててないじゃない? 鯨口(じんこう)がどうの、〈集会〉のルールがどうのって、そんなことには滅法うるさいのに、筋が通らないわ!」
 クレアに代わって説明しますと、冬にリリとジョーイが生まれたとき、〈郡〉の繁栄への貢献を讃えるためにクレアを表彰しようという話が持ちあがったのですが、「二年間子育てを休んだのだから、〈郡〉の成員増加に寄与したことにはならない」というモーリスの一言でおじゃんになったのです。
「メス〈施政長〉殿はね、君のことがうらやましくて意地悪してるのさ。他のクジラには『産めよ、殖やせよ』と言ってるけど、自分には母親になるだけの自信がないんだよ、きっと。彼女のあだ名は知ってるだろ? ミンクのハーレムマスター=Bまったくあいつはオスのマッコウにでも生まれてくるべきだったよ。そのくせ、親子ほど歳の違う〈未来観測者〉の坊やに色目を使ってるんだぜ。おお、やだやだ! サメ肌が立っちまう」
 巷では自分がミンクのタツノオトシゴ≠ニ呼ばれていることを棚に上げて、レックスはモーリスをさんざんにけなしました。二頭の個鯨(こじん)攻撃がますますエスカレートしていくので、クレアの頭が冷えるまでだまっているつもりだったアンがとうとうたまりかねてくちばしをはさみました。
「二頭とも、モーリスのことをそんなふうに言うものではないわ。いったい、前の〈政を司る者〉と〈行く末の語り手〉がいっぺんに〈沈まぬ岩〉に殺されたとき、モーリスがいなかったらこの〈小郡〉が危機を乗り越えられたかしら? 彼女が持ち前の指導力と迅速な決断力を発揮して、みんなをまとめあげたからこそ、私たちはバラバラにもならず、こうして無事に子育てや収獲にいそしむことができるんじゃないの。そりゃ、確かに彼女には情に薄いところがあるかもしれないけど、彼女がこれまでとってきた政策は、結果的には〈小郡〉にとって幸いしたわ。それは彼女が望んだというよりも、〈沈まぬ岩〉や〈疫の精霊〉やなんやで、私たちの種族をとりまく環境がこれだけ厳しい時代にあっては、ある程度やむをえなかったことでしょう。それに、いまの彼女は政に忙殺されて子育てに従事している暇もないし。あのクジラは自分の子五頭のうち二頭を〈沈まぬ岩〉のために失っているのよ。どうしてその彼女が〈岩〉に仲間を殺されて平気でいられると思う? モーリスのやり方は冷淡に見えるようだけど、それはなにもただ彼女が自分の好き勝手に物事を運ぼうとしているわけじゃなくて、〈郡〉の仲間全体のためを思えばこそなのよ」
 アンに諌められ、クレアとレックスはすっかり恥ずかしくなってうつむきました。三頭はそれきり口をきかず、鬱々と泳ぎ進みました。バートとリリはそれぞれ母親のあとに従いました。二頭にはおとなたちの深刻な会話をいちいち理解できたわけではありませんが、その場に漂う陰鬱な空気は彼らにも十分伝染しました。しばらくして、リリが母親に尋ねました。
「……お母さん、ジョーイはどうなるの?」
 その問いは、〈集会〉が終わって以来おとなたちが口にするのを避けてきたものでした。クレアはリリの目をじっと見据えましたが、同じく見つめ返してきた娘の視線を避けるように目を背けると、「ごめんね」と一言だけつぶやきました。
 答えになっていないにもかかわらず、すべての答えとなっているその言葉を聞いて、リリは目を見張って母の横顔を見つめ、大きく、ゆっくりと首を横に振りました。お母さんが謝る必要はなにひとつないのだ──というように。クレアは敏感な上顎の端を、腫れ物にでも触るようにそうっとリリの頬に押しつけました。なおも重い自責の念に苛まれている娘が、たまらなく愛しく、またそれにもまして悲しくなりました。

 それからの一週間はあっという間に過ぎました。〈郡〉内のクジラたちは一様にクレアに対して同情の念を示しました。しかし、〈集会〉での取り決めにもかかわらず、行方不明の仔クジラに関する有益な情報は彼女の耳に入ってきませんでした。クレアはジョーイを捜してあちこちうろつくのはやめましたが、仲間たちに混じって最後の収獲に精を出す気にもなれませんでした。
「リリのためにも少しは食べなくてはだめよ」
 アンにそう促されて、むりやりオキアミを口に流しこみはするものの、正直なところ食欲が全然わかないのでした。
 リリも、まだまだ遊び盛りだというのに、友達とふざけ合うことも少なくなりました。親に似て親切なバートが誘ってくれるのですが、みなの彼女に対する気づかいと、リリのほうでもせっかくの誘いを断っては悪いというポーズが、かえって距離を作ってこども同士の無邪気な関係を壊してしまうのでした。以前には、双子の兄妹はこどもたちの間で牽引役を果たしていたのですが(〈集会ごっこ〉ではいつも、彼女のはまり役は尊大ぶった〈政を司る者〉でした)、いまではリリはゲームの輪に加わらずに傍観していることの多い目立たない存在となりました。
 息子と双子の兄を失くした母妹にとって、肉親の存在を肌身で確かめることのできる授乳の時間が、ともに残された唯一の安らぎでした。しかし、それはまた同時に、つらさがひとしお身に染みるときでもありました。水面下に静かに身を浮かべたクレアの、右目には一心におっぱいを飲んでいるリリの姿が入ってきますが、左目に見えるはずのジョーイの姿はどこにもありません。先の子が離乳したときにも、それなりにほっとしたような、ちょっぴり寂しいような気はしましたが、片方の乳首だけ使用されなくなるのは妙にバランスを欠いているようで、彼女の気分はひどく落ち着きませんでした。リリにしても、これまでずっと一緒に寄り添っていた仲良しの兄の姿が見えず、母の下腹の向こう側が丸見えになっていることに不安を覚えました。競争相手がいなくなって吸いつく勢いも弱くなりましたし、母のほうも乳の出が悪くなりました。かといって、いまから一頭で両方のおっぱいを飲むように切り換える気には、二頭ともなれませんでした。というのも、口にこそ出さなかったものの、クレアもリリも、ジョーイの席はとっておいたほうがいいように思われたのです。
 クレアの頭の中は四六時中ジョーイのことで占められていました。仲間たちは、帰らぬ息子のことはもう忘れて、娘を育てることに専念したほうがいいと口々に勧めましたが、彼女はそれでもジョーイのことをすっぱりあきらめる気にはなれませんでした。母親の自分が望みを捨ててしまったら、それこそ二度とジョーイと会うことはできなくなると強く感じていました。しかし、ジョーイをとり戻す手立ては一つも見つからず、いまの自分にできることは何もありません。息子のために無我夢中で行動したいのに何もできずにいる、そんな心と身体の整合性がとれない状態が、クレアにはもどかしく感じられて仕方ありませんでした。その一方で、リリの養育が疎かになっていることを彼女に対して申し訳なく思いました。彼女は子育てに対する自信の喪失を一層強く感じるようになりました。本当は、双子の兄妹それぞれに対する愛情が、その両方を満たすすべがないばかりに、彼女の心を引き裂くジレンマとなっていたのですが……。
 クレアにとって幸いなことに、苦悶の日々は長くは続きませんでした。ジョーイの運命に最終決定が下される日でもある、北への旅立ちの期日は刻々と近づいていました。アンは、慰めもいまはたいして意味を持たないことを知っていたので、ただそっと彼女を見守りました。レックスも、ジョーイを思い出させてはまずいと、冗談を飛ばして彼女を笑わせるのを控えました。もっとも、どんなジョークもいまの彼女には心から楽しめなかったでしょうが。次のつがいの相手が決まっている者も、相手が見つからず焦っている者も、今年子育てに失敗して来年に賭けている者も、初産を迎える者も、そして繁殖には参加しないけれど二度目の長旅に胸をワクワクさせているこどもたちも、〈郡〉中のだれもが、暖かな生まれ故郷の海に帰る日を心待ちにしている中で、クレアただ一頭だけは、迫り来る無慈悲な審判の日を悲痛な面持ちで待ちかまえていました。

 先遣隊の出発まであと八日に迫った日、〈政を輔ける者〉たちが〈小郡〉の仲間たちの間を触れ泳ぎました。ロス海〈大郡〉の〈施政長〉間会議が終わり、モーリスが結果を手短に報告するので、興味のあるクジラは集まるようにとのことでした。内面の葛藤のせいで周囲のできごとに対する興味を失っていたクレアは、〈集会〉の席上でモーリスが言っていたことをおぼろげに思い出しながら聞き流していましたが、逆にさしたる理由もなく彼女のところへ行ってみる気になりました。
 本式の〈集会〉ではないので〈集会場〉を使用することもなく、クジラたちはモーリスの周りに三々五々集まってきました。疎らな聴衆を見回したモーリスは、その中にクレアの姿を認めて一瞬目をとめましたが、とくに表情を変えることもなく視線を先に送りました。
「みなさん、出発の準備でお忙しい中ご鰭労(そくろう)さまです。さっそく、〈大郡〉全代表者会議の結果をかいつまんで報告させていただきます。まず最初に、ビアンカ〈小郡〉のビアンカ代表より提出された、今期のオキアミのスポットの移動と気候変動の問題について──」
 モーリスはその会議で、〈集会〉の折に話した〈小郡〉の名称と〈郡勢調査〉の適用に関する彼女の提言がおおむね歓迎されたため、上機嫌でした。機嫌のよいときの彼女はいつにもまして冗舌でした。
 相変わらず格式ばった語り口の〈施政長〉の演説に、クレアはじきについていけなくなりましたが、別に苦にはなりませんでした。モーリスは最後に、彼女の提出した全〈大郡〉で鯨口(じんこう)の一斉調査を敢行する案が可決され、数年のうちに実現されるであろうことを報告して、〈ミニ集会〉を終わりました。集まったときと同じようにみんながバラバラと解散しはじめたので、クレアもその場を去ろうとすると、モーリスがそばへ泳ぎ寄ってきました。
「クレアさん、ちょっとお話があります」
「はあ」
 クレアは呼び止められるままに振り向きました。彼女の反応が鈍かったので、モーリスはちょっと拍子抜けしたような顔をしました。
「〈大郡〉のサミットであなたのお子さんの行方不明に関係のありそうなニュースをいくつか小耳に挟みましたよ。一応あなたにお知らせしておくべきだろうと思って」
 自分の一言でクレアの顔ににわかに生気がよみがえったのを見て、モーリスはおもしろそうに口をすぼめました。クレアは急に心臓がドキドキしてきました。言葉を慎重に選びながら、彼女は長に尋ねました。
「あの……さしつかえなければ、そのニュースの内容をうかがいたいのですが」
 モーリスはいつもの事務的な表情に戻って答えました。
「事件と関連がありそうだといっても、事件そのものの解決に即つながるようなものではありませんよ。おまけに、関係があるかもしれないというだけで、確証はなにもないのだし。妙に期待を持たれてあとで落胆されても困りますから、あらかじめ念を押しておくけど。一つは、さっきの報告の中でも簡単に触れましたが、ほかでもない〈沈まぬ岩〉の情報です。隣りの〈大郡〉の協力を得て、ここ数年の〈沈まぬ岩〉の行動パターンを解析した結果、以前は私たちの鯨口(じんこう)密度が高い〈食堂〉近辺を集中的に荒らしていた〈岩〉が、最近はまったくでたらめの動き方をしているらしいのです。行き当たりばったりにクジラを捕っているんだという者さえいるわ。つい一週間前にはロス海の片隅をうろついていたはずなのに、出立を前にして急に西側を南下してこちらに向かって接近中とのことです。西隣の〈小郡〉は出発日を予定より早めましたよ。うちはいまのところこれ以上繰り上げることはしないつもりですが。それから、大柄の成鯨(せいじん)を選択的に捕食していた〈沈まぬ岩〉が、未成年の仔クジラにはっきりと嗜好の中心を変えたことも、各〈郡〉の犠牲者の全体傾向の分析によって裏づけがとれました。それだけをもって今回の幼児集団蒸発事件を説明することは難しいけれど、容疑者の可能性が一段と高まったとはいえるわね。二つ目は、主に私たちの東側に版図を持つ〈小郡〉のメンバーによるものですが、見慣れないシャチの群れが彼らの領海をよぎっていくのが一度だけ目撃されたそうです。その姿を見かけることができたのはほとんど偶然のことらしくて、さる〈生物観察者〉に言わせると、常識外れなほど臆病者のシャチだということですわ。ほんの一瞬チラッと見えただけだというから、他のイルカ族を誤認した可能性もある。最後は、今年は幼年者の行方不明がどの〈郡〉でも突出して増えていることです。よその〈小郡〉はうちみたいに正確な頭数のチェックまでできていないけど。この問題は〈郡勢調査〉の必要性を訴える格好の材料になったわ」
 モーリスはここでいったん言葉を区切ると、心持ち首をかしげてクレアを見つめました。ジョーイの発見といった朗報には程遠かったため、クレアの顔にはまたいくぶん翳りが戻りました。それでも、彼女はさっきまでの思考の働かない状態を脱けだして、いま聞いた話の中からジョーイの救出につながる糸口を必死で見つけだそうとしました。そんなクレアの顔色を読みとってか、モーリスは付け加えました。
「お聞きのとおり、知ったところでどうなるというものではないわ。私はね、クレアさん、〈集会〉の場であのような決議を通してしまったことをちょっぴり後悔しているんですよ。あなたがこれを聞いて、無謀なことを試みようとするんじゃないかって。釘を刺しておきますが、くれぐれも非常識な行動は慎んでくださいね。息子さんはあなたにとってかけがえのない存在かもしれない。でも、私にとっては──すなわち〈郡〉にとっては、あなたの生命もあなたの息子さんのそれと同じように、いえ、それ以上に大事なんですよ」
「……そうね、あなたにとっては〈小郡〉中のクジラが大切なこども同然なんですものね。私やレックスにしたって……」
 クレアは〈集会〉が閉じたあとのアンの諌言を思い出して言ったのですが、モーリスは予想もしなかった彼女の言葉にびっくりして目を細めました。ひいきのオスのまねをして自分を皮肉っているのかとも勘繰りましたが、このメスの顔には、あの鼻持ちならない〈遊戯考案者〉が見せる他鯨(ひと)を食ったような表情は見られませんでした。
「勘違いしないでくださいよ。あなたは繁殖可能な若いメスとして〈小郡〉に必要だということです。群れの繁栄のためには、もともと死亡率の高いこどもより成熟した子育ての担い手のほうが重要性を有していますからね」
 モーリスは狼狽を隠して、クレアの気のよい思いこみを否定しました。
「もちろん、慣例どおり私にはあなたに命令する権限はありませんし、忠告に従うかどうかはあなた次第ですけどね」
 そう言うと、〈政を司る者〉は反転して泳ぎ去りました。クレアは呆然としてモーリスの後ろ姿を見送りました。しばらく彼女の残していった言葉を反芻するうちに、突然霧が晴れたように物事がはっきりしだしました。いままで心の中でわだかまっていたもの──それは海原一面を覆い尽くす海底火山の噴出物のようにモヤモヤとして息苦しいものでしたが、それらは沈殿し、分解して、目の前にすっきりと水路が開けてきました。なすべきことは一つしかありませんでした。クレアは急に娘の顔が見たくてたまらなくなり、尾ビレを翻しました。
 リリは声も立てずに真っすぐ母親の胸に飛びついてきました。クレアも無言で娘を受け入れました。二頭はしばらくそうしてただ互いに接触を求め合いました。どちらもまるで声に出すと価値が減ずると思っているみたいに、一声も発しませんでした。不意に、リリは電撃が身体を走ったかのようにビクッとし、下腹にすり寄るのをやめておそるおそる母の顔を見上げました。そして、自分の視線をしっかりと受け止める母の目に、ふっと悲しみの色がよぎるのを認めました。母娘の身に下された残酷な運命を、二頭はともにおののきの中で知ったのでした。

 短い夏の終わり、南氷洋でも緯度の低いほうでは再び夜が訪れるようになります。そしてこの束の間の夜に、極域以外ではまずお目にかかれない厳かな光の乱舞が繰りひろげられることがあります。太陽を飛び立った電気を帯びた高速の粒子が、〈メタ・セティの子〉の側までやってくると、その磁力に捉えられ、大気の分子にぶつかって光を発します。これがオーロラです。さまざまな色と形で見る者を幻惑させるオーロラは、その姿を時々刻々と変幻させていきます。その美しさはまさに言葉で言い尽くせないものでした。基本的に純白の氷からなる無彩色の世界のように思われがちな南極圏ですが、そこに住まう生きものたちの装いと気象の変化が実にさまざまな彩りを添えてくれます。そして、この恒星と惑星との戯れが生み出す光のシンフォニーに駄目押しされて、そこは地上で最も色彩の豊かなところとなっているのです。
 南極には、〈メタ・セティの子〉の自転の軸が通っている南極点と、磁石のS極が真下を向く南磁極という二つの極があります。海中の磁場を感じる能力のあるクジラたちは、太陽の高度から割り出すことのできる南極点だけでなく、こちらの南磁極の場所も昔から知っていました。北の海から南の〈豊饒の海〉へ至る回遊の道筋をたどるとき、彼らは主にこの二つを目標に針路を定めているのです。オーロラは、この磁極を中心にした環状の地帯でよく出現します。南磁極の位置はロス海と距離的に近すぎるため、クレアたちがオーロラを観望する機会はそうそうありません。けれども、いざ現れたとなると、その明々と燃えるさまは観る者を幻想の世界へと誘いこまずにはいません。太陽の風が吹きつけてオーロラが出現するときには、北極と南極によく似た双子のオーロラが作られるといわれ、〈表裏〉のクジラたちは大洋を挟んだ両側で同じ光の饗宴を目にすることができます。もっとも、気の早いクジラがまだ水の身にしみる晩冬の北極海へ入っていればの話ですが。
 その晩、クレアとリリはピッタリ寄り添って最後の夜を過ごしました。水面を通してかすかに差しこむ光芒に、二頭は浅い眠りを覚まされました。浮上して呼吸がてらに目を頭上に向けると、おぼろげな光の群れが夜の闇を浸食するようにユラユラとうごめいていました。それはまるで鼻先が届きそうなほど近くに見え、吹きあげた潮のしぶきがオーロラの粒子と混じり合っているようにさえ思われました。実際にはそれは、真空に近い希薄な空気しかないはるかな高空、メタ・セティの住む天界の領域に属しているのですが。
 クレアはオーロラに託されたメタ・セティのメッセージを読みとろうとしました。クジラたちは色を識別する能力があまり発達していないので、オーロラの鮮やかさをすべて享受することはできませんが、その光のイメージは彼らが水中でやりとりする音像に近いものがありました。天を住まいとするメタ・セティは、空気を媒介とする目で()る<<bセージを、彼女の創造した生きものたちに投げよこしているのでしょうか。白夜に支配される極地の夏にオーロラを見ることはできません。ですから、クジラたちの間では、オーロラを目にするチャンスに恵まれた者には幸運が授けられるという古くからの言い伝えがありました。クレアは今宵の空を飾る荘厳なイメージを、ジョーイがきっと見つかるしるし験として受けとめました。淡い黄緑色に輝く夜空の潮流は、大きく東へカーブを切って北の果てに吸いこまれるように消えていました。親子のクジラは、幽玄な光の舞踏が朝焼けに半球形の舞台を明け渡すまで、じっと海面に浮かんでそれに見とれました。

 翌朝の空はすっかり晴れわたり、風も波もない穏やかな日和でした。決心を固めたクレアは、その日、食事の時間になる前にアンとレックスを呼びだしました。
「アン、あなたにとても図々しいお願いをしなきゃならなくなったわ」
 アンは覚悟していたようにクレアを見つめ返しました。彼女とレックスは、〈ミニ集会〉に参加したクジラから、クレアがモーリスに呼びだされたと聞いて、なんらかの情報が彼女に届けられたことを知ったのです。そして、彼女はきっと行くに違いないことも、止めても無駄だということも、二頭にはわかっていました。
「私はジョーイを捜しに旅に出ます。必ず見つけだして帰ってくるわ。もし見つからなくても……来年の夏までには絶対戻るわ、ここへ」
 クレアは話しながら娘のほうへ目を戻しました。
「本当に勝手なことを押し付けてしまうけど、この子のことをどうかお願い。頼れるのはあなただけなの」
「心配しないで。あなたにできたんだから、私だって双子を養えないことないわよ。うちの子にも、妹のつもりで面倒看させるから。それともこの子のほうが弟かしら?」
 抗議の声をあげるバートをあしらいながら、アンはクレアを勇気づけるように続けました。
「大丈夫。リリちゃんはもうこんなに大きいんですもの」
 気立てのよい親友が快く自分の頼みを引き受けてくれることはわかっていながら、安堵の思いでうなずくと、クレアは今度はわが娘に正面きって話しかけました。
「おばさんの言うことをよく聞くのよ」
 リリはその間ずっと母親から目を離しませんでしたが、「きっとジョーイを連れて帰ってきてね」と静かに言いました。その声には、兄を捜す力になることはできないけど、代わりに自分も母と離れて待つことに耐えてみせるという決意がにじんでいました。
 クレアは大きくうなずいて、もう一度娘の瞳をじっと見据えました。いとし子の姿を網膜に焼きつけるように。リリは最後に鼻先を強く母の身体に押し付けると、ついとそばを離れてアンの隣りに並びました。
 日中のまぶしい陽射しが大陸のへりをキラキラと鋭く縁どります。真珠のような光のしずくが、その縁を跳びはねながら滑っていきます。別の光の束は、海面に揺らめくだんだら模様を描き、あるいはクジラたちの吹き上げる潮に戯れ、細かな水晶のかけらとなってとび散ります。この時期、昼日中はまだ天蓋をあふれんばかりの陽光が満たしていますが、真夜中ともなれば、赤く色づいた太陽は湾奥付近でも海面に下腹を浸さんばかりに高度を下げます。氷点を上回っていた最高気温も、乾燥した奥地からのカタバ風が優勢になるにつれてぐっと押し下げられます。穏やかな収獲の季節はもうまもなく終わりを告げようとしていました。赤道の海が、水平線の彼方からクジラたちを差し招いていました。
 クレアにとってはいままでのどの出発のときとも違う、行き着く先もいつまで続くかもわからない未知の旅への、たった一頭の門出でした。二頭の大の親友とこどもたち以外、見送る者とてありません。それでも、白い最果ての楽園はいつもと少しも変わらぬ大らかさで、一頭一頭のクジラたちへと同じく、彼女にも餞の言葉を送ったのでした。
──来年の夏になったらまた遠慮なく帰っておいでよ。赤いスープ≠たっぷり用意しておくからさ──
「ぼくも……きっと、待ってるから……」
 レックスは普段の彼らしくもなく、送る言葉に窮してしどろもどろに口を開きました。
「冬までに戻らなかったらアンとペアを組んで。アン、来年は私に負けずに実の双子を産むのよ」
「クレアったら!」
 クレアは目もとを細めると、自分がいちばん愛し、頼りにしているオスとメスの二頭を交互に見やりました。それから、娘にこれが最後になるかもしれない一瞥を投げかけました。しかし、決心が鈍らないうちに目を引き離し、グルッと向きを変えて真っすぐ西をめざして旅立ちました。リリも母の名を呼んで引き止めたくなるのをぐっと我慢して、クレアの姿が点となって海の霞みの向こうに溶けていくのをいつまでも見つめていました。
 四頭は彼女の姿が完全に視界の外に消えてからも、しばらくその場を動こうとしませんでした。アンがふと傍らのレックスに目をやると、彼はまだクレアの去った水平線を凝視しています。視線を感じたのか、彼はアンのほうを振り向くと、ちょっと言い訳めいた口調でモゴモゴと口を動かしました。
「あの……ぼくからもこの子のことお願いするよ。君一頭に任せていくのは気が引けるんだけど……ゴメン!」
 レックスは彼女に向かってウインクすると、クレアの後を追って弾けるように飛びだしました。今日二頭目の去りゆく知己の後ろ姿を呆気にとられて見送りながら、アンはちょっぴりジェラシーの混じったため息をついてつぶやきました。
「やっぱり彼には、私みたいなお淑やかさんより、跳ねっ返りのクレアのほうがお似合いよねえ……」

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