9 イルカの証言

 何時間もの間、クレアは一ヵ所にじっととどまっていました。波間にぽっかりと浮き上がって霧のような吐息をついてはまた沈む──そうやって単調な潮吹き繰り返す以外に、彼女はいかなる動きもしませんでした。そのリズムの規則的なことといったら、さながら海面で時刻を告げる噴水時計と化してしまったかのようでした。
 その一瞬を境に、クレアの住んでいた世界はまったく生彩のないものとなりました。さんさんと降り注ぐ陽光も、彼女を包みこむ暗闇をとり払いはしませんでした。周囲をとりまく海の水は希薄でした。鯨生(じんせい)の価値といったものは、偏東風に運ばれて空の彼方に霧散したか、澱となって深さ二マイル半の海底のどこかに埋もれてしまったようでした。鯨生(じんせい)そのものが、脱皮したオキアミの皮より空虚でつまらないものに思えました。クレアは生と死の境界を踏み越えて、半ば以上死の領域に入りかけていました。彼女はまだ生きてはいましたが、その生の表現形式が死を強固に暗示するものだったのです。それは例えば──故郷を遠く離れる長旅の途中に発芽能力を失ってしまったヤシの実が、それでも目的の岸辺にたどり着くまでは悠然と波の揺りかごに揺られつづけるような……あるいは、通り雨のもたらしたにわか作りの水溜まりに湧いた淡水エビが、無慈悲な太陽に干しあげられるまでのわずかなひとときに見せる活発なダンスのような……。実際、いまの彼女は、浮き沈みして肺の中の空気を入れ替えるだけの、クジラの形をしたモノにすぎませんでした。
 レックスの死は、クレアにとってそれほどまでに受け入れがたいものだったのです。噴気孔に入れても痛くないほどいとおしんできた双子のことさえ、頭の片隅に押しやられていました。自らの過失によって最愛のクジラの一生に不幸な幕切れをもたらしたこと、しかも、その決定的な瞬間に立ち会う羽目になったことは、彼女の心を完膚なきまでに打ちのめしました。その死がじかに目に触れないか、さもなければ、だれもにやがては訪れるメタ・セティのお迎えによるものであったなら、彼女の心はまだしも慰められたでしょう。現実は情け容赦なくクレアの目前でレックスを奪い、彼女の魂もろとも奈落の底に突き落としたのでした。
 死とは不可逆的な過程であり、生とは再現不能な現象でした。世界中の海のどこを捜しまわっても、もうレックスというクジラはどこにも存在しないのです。クジラたちの間では、生まれ変わりやメタ・セティの治める〈極楽浄海〉(そこは死後にクジラの魂が行くところといわれ、〈豊饒の海〉よりもっと豊かでオキアミのスープは金色に輝いているとのことです)を信じる者も少なくありません。また、〈語り手〉の中には、自らを故鯨(こじん)の生まれ変わりであると称したり、死者の魂を呼びこんでその声を代弁することができると吹聴する者もいました。生前のレックスは、冗談混じりに「あれは多重鯨格(じんかく)の一種じゃないのかなあ?」とか、「今朝食べたオキアミの中に生まれ変わった自分の祖父さん祖母さんがいるかもしれない・・なんて考えてたら、おちおち食事もできなくなっちゃうよ」と言って首をかしげていましたが。そうした信仰や思いこみに安らぎを得ることは、クレアにはできませんでした。
 たしかに、彼女たちの肉体は別の形をとって延々と受け継がれていくものですから、生命は永遠であると言い換えることもできるでしょう。しかし、魂というものはおよそ一つの器≠ノしかなじまず、その容が崩れ去ったときに消滅して二度と甦ったりなどしないのではないか──クレアにはそう思えました。レックスのやさしさや独特のユーモア感覚は、彼のちょっとした仕草やまなざしと切り離すことはできず、いわばセットになっているのであって、だれにもまねのできるものではありません。レックスはレックスという一つの生命以外ではありえないのです。たとえ彼が別の時代、別の肉体に生まれ変わったとしても、前世の記憶もなく、違った時間の流れ、違った海の中で違った出会いや体験をするとすれば、それはもはや別鯨(べつじん)にほかなりません。クレアは思うのです。生命が限られたものでなく何度でもやり直しがきくものだとしたら、一頭一頭の生命の目方はたかが知れたものになってしまうのではないか? 生命とは不滅でもなければ何か特別な力を備えた存在でもなく、はかなく、無力で、たった一度きりのものではないのか? だからこそ、それは本当に尊いのではないだろうか? と──
 信じることで死への恐怖を和らげ、心の平安を保つことができるなら、その者はまだしも幸せといえるでしょう。しかし、クレアは信心による確証のない死後の保証だけでは満足できませんでした。寸部たがわぬレックスその(ひと)に逢いたい……もし、彼を連れてきてくれるんだったら、どんな邪悪な神と契約を交わしたっていい……!! しかし、彼女の願いをかなえてくれる神、あるいは悪魔(クジラたちにはそれにあたる単語がないのですが)はいませんでした。ですから、クレアは最後にレックスと交わした会話のとおり、彼女の最愛の夫を助けてはくれなかったメタ・せティを憎みました。自分が楽天的な信仰を持てないことを、幸福の分配が不公平であることを、そして、この世に生があり、死があることを呪いました。何もしたくありませんでした。生き続けることも、自ら果てることも大儀でした。もしこのまま次の訪問者が来なかったら、彼女は冬が訪れて氷雪に封じこめられるまで、そうやってそこで潮の時報を打ち鳴らしていたに違いありません。
 風は遮るもののない波の上を疾走し、無調の音楽を奏でました。一シーズンののち厳寒の冬に子育てという果敢な挑戦を試みるコウテイペンギンたちは、ときどき行進の足を止めては肩を寄せ合って頭を垂れ、氷上に這い上がったウェッデルアザラシは、円らな黒い眼に苦い涙をいっぱい溜めながら憂えげに天を仰ぎました。クレアが生きることをやめかけていたとき、世界は彼女のために何をするでもなく、ただ彼女の悲しみを鏡のように映しだしました。たとえ傷を癒す力はなくとも、すべて自然はお前の側にあるのだ──というように。そうね……メタ・セティを恨むなんて愚かなことだわ。彼女はありのままの生の象徴にすぎないのだから……
 クレアが何十回目かの呼吸に浮かび上がったとき、彼女のそばにそっと忍び寄る者がありました。きれいに弓なりに曲がった背ビレをかざした、仔クジラより小さなその生きものは、彼女の周りを遠慮がちに泳ぎまわり、ソワソワと近づいたり離れたりしました。それは、彼女が悲劇に見舞われる直前に出会い、無愛想に〈沈まぬ岩〉の所在を告げたダンダラカマイルカのオスでした。
「……あの……奥さん?」
 クレアは何の反応も示さず、流木のように水面に身を浮かべていました。意図して無視したわけではなかったのですが、イルカはさらに落ち着かないそぶりを見せ、おそるおそる彼女に話しかけました。同じ〈潮吹き共通語〉でも、さっきとは打って変わって相手に最大の敬意を表するしゃべり方でした。
「奥さん。そのぉ……このたびは誠にご愁傷様で……なんとお悔やみを申しあげたらよいか……」
 クレアはゆっくりと目を開き、興味なさそうに声の主をぼおっと見つめました。
「ああ、そんな目で見ないでください! そんなつもりじゃなかった! あなたのご主鯨(しゅじん)をあんな目に遭わせるつもりでは……」
 それから、イルカは小回りにグルグルと円を描きながらひとしきり泳ぎました。クレアは彼のことを思い出しましたが、いまさら別に悪意を抱くつもりもなかったので、ただぼんやりとオスイルカのうろたえぶりを観察しました。
「どうか、奥さん……あなたの心中はお察し申しあげます。まったく〈沈まぬ岩〉はひどいやつです。〈豊饒の海〉の潮吹き仲間を総なめにして……あなた方の次は、早晩私たちの番が回ってくるに違いありません」
 そこで彼は二回ほどジャンプしました。
「しかし、奥さん、どうか私の話も聞いてください! 世の中、上には上がいるものだ……」
 話を区切るたびにイルカは放物線を描いて跳びはねました。
「ああ、私にはあなたのお気持ちが本当によくわかるんです。というのも、この私も血に飢えた殺戮者によって、いっぺんに家族と仲間全員を亡くしたんですから。あんな恐ろしいやつらがいるなんて、未だに信じられない……」
 クレアはやっと、イルカの話に少しばかり関心を持ち耳を傾けました。
「私たちはここからちょっと東の海域をふだんと変わりなく泳いでいました。それが、私が斥候としてほんのわずか群れを離れていた隙に、あの忌まわしい事件が……ああ!!」
 イルカは狂おしく飛びあがり、空中で一回身体をひねりました。
「私が帰途に着こうとしたとき、突然大勢の仲間の悲鳴が耳に飛びこんできたかと思うと、ふっつりと途絶えたんです。胸騒ぎを感じてすっ飛んで戻ったときにはもう手遅れでした。群れは全滅でした……。だれもが身体中を噛み裂かれ、内臓を引きちぎられ、目も当てられないほど無残な死に様でした。海中はオキアミのスープも及ばないほど真っ赤に染まっていました。こどもたちも親族の者もみな事切れていました。私は大急ぎで妻のもとに泳ぎ寄りました。血まみれの彼女は虫の息で、『狂ったモザイク模様の……目も、心も……』とだけ言い残して息絶えました。永年連れ添ってきた最愛の妻だったのに……ああ!!」
 カマイルカは続けざまに二回ジャンプし、三回目でウルトラCのバック転二回転宙返りをやってのけました。イルカが一夫一婦だとは初耳でしたが、クレアは話の腰を折らずに黙って聞くことにしました。悲嘆に暮れたイルカは、それでも彼女のように寡黙にはならず、ペラペラとしゃべりまくりました。
「私が妻を看取ったときには、彼女らを強襲した敵は悠々と引き上げていくところでした。高くそびえる背ビレに黒白斑の装束はまさしくシャチのものでした。しかし、彼らが私たちを群れごと潰すなんてことはいままでありませんでしたし、仲間の死体は外傷こそひどかったものの、その多くが食べられた形跡もなかったんです。いくら私たちの天敵とはいえ、シャチはもう少し紳士的な歯クジラだと思っていたのに……。きっと彼らは、〈沈まぬ岩〉に先を越されまいとして、やつらの流儀をまねしたんでしょう。それから、そうそう、私たちをなぶり殺しにしたシャチたちは、奇妙なことにあなたの一族と一緒だったのですよ。私はてっきり、あなた方が彼らとグルになったのかと思い、先ほどあなたにお会いしたときにあんな無礼なことを口走ってしまったんです。考えてみれば、そんなはずがありませんよね。彼らはあなた方にとっても天敵なのに」
 クレアは一瞬、雷に打たれたかのようにビクッとしました。心の片隅に追いやられていたものが、唐突に前面にせり出してきました。放心状態から脱け出した彼女は、しがみつくようにイルカを問い詰めました。
「その私たちの仲間はこどもでしたか!?」
 大きなクジラの聞き手が突然ガラリと態度を変えたため、イルカは戸惑い気味に答えました。
「ええと、そうですね……言われてみると、あなたに比べてだいぶ小ぶりだったかな? 断言はできませんが……」
 クレアの心に、レックスの死に対する際限のないこだわりに打ち勝って、ジョーイを捜すという当初の目的が再び大きく浮上してきました。父親の死は動かしがたい事実であっても、息子のほうはまだ生死を確認できたわけではありません。そしていま、もしかしたら彼がまだ生きているかもしれないという情報をクレアはつかんだのです。頭の中を占領していたレックスの顔は、いつしかまだあどけない、幼い頃の父を彷彿とさせるジョーイのそれに取って代わられました。レックスへの惜慕の情が失せたのではなく、むしろ彼への想いが二頭の愛の結晶であるジョーイの救出という前向きの目標に昇華したのです。
「ああ、もしかしたらあなたのお子さんが? そうですか、そうですか。しかし、こうなったらもうあきらめたほうがいいですよ。何しろ、私たちを皆殺しにしたようなやつらなんですから。何かの理由で一時的に生かしておいたとしても、たぶんいまごろは……」
 口数の多いお節介なイルカは、クレアの希望をくじくようなことを口にしましたが、彼女はそれを聞き流しました。自分だって心ならずも、彼の身内に降りかかった不幸をもとに立ち直らせてもらったのですから。
「それで、その私の仲間を連れたシャチの群れはどちらへ行きましたか?」
「ええと、北です。真っすぐ北。連中はそのまま〈豊饒の海〉を離れようとしていたみたいですよ」
 モーリスの口から聞いた、正体不明のシャチの一群と同じものなのでしょうか? フィーブルの予言と何か関連があるのでしょうか? クレアは白い大陸の反対側に広がる広大な海原を見つめました。
「北へ……」
 レックスが死に際に遺した、「坊やを……」という言葉が、繰り返し繰り返し彼女の耳の奥で鳴り響いていました。

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