10 暴風圏

 南緯四〇度から五〇度にかけての海域は、風速二〇ノットを越える西よりの強風が四季を通じて吹き荒れています。この暴風圏がいったいどのようにして形成されるのかを少し説明しておきましょう。まず風がやってくるのは、南半球の各大洋にどっかと腰を据える気団からです。この風の流れは南に下るにしたがって、次第に反時計回りのらせんを描くように曲がりはじめます(このように風の向きが変わっていくのはなぜかというと、〈メタ・セティの子〉がコマみたいにグルグルと自転をしているからで、ちょっと難しい言葉でこれをコリオリの力といいます)。このとき、風が生まれてくる気団の南と北、気圧の傾きとちょうど釣り合う位置で、風は安定して互いに反対方向を向いた平行の帯となります。このうち北の赤道側の風を南東貿易風と呼びます。北半球側にも、同じようにして今度は時計回りに吹きだす大気の流れからできた北東貿易風があり、南東貿易風とぶつかり合っています。一方、南に向かう大気の流れは、後から後からどんどん付け加わって、南極をぐるりととりまく巨大なドーナツ状の暴風の帯を形作っています。大陸が肩をそびやかしている北半球と異なり、南半球ではポツンととり残されている南極大陸の周囲、風をさえぎる陸地のほとんどないところに風が集まるため、不断に供給されるエネルギーによって大気と海洋の乱舞がとめどなく繰り広げられるのです。
 風に触発されて、水の流れもまた西から東への一方通行となります。深海から湧き上がってくる冷水と、頭ごなしに吹きつけてくる寒風、二千万平方マイルの巨大な氷蔵室でもって冷やされつつ、グルグルと回っているうちに、その一部はフンボルト海流、ベンガル海流などの大陸西方を北上する勢力の強い寒流となってあふれだし、一帯に豊かな海の稔りをもたらしつつ、赤道へと到達します。氷の海の嵐が生んだうねりは、ときには赤道を越えてハワイなど〈裏〉の島々にまで届くこともあります。
 魚や無脊椎動物の仲間は移動できる範囲を海流によって大きく制限されるため、南極の海に住むそれらの小さな生きものたちの大半は、よその海域では見られない固有の種族です。それに対し、クジラたちは毎秒数千トンもの海水の流れをものともしません。彼らは季節の呼び声に応ずるままに、〈豊饒の海〉をとりまく堅固な障壁を突破するのです。世界に名だたる荒海も、柔軟なクジラたちにはやすやすと乗りきることができました。実際、氷際より沖合いを好むイワシクジラの一族などは、暴風圏内に主な〈食堂〉をかまえているくらいです。
 クレアはもう、年四回の旅の通過儀礼であるこの高波越えには慣れていました。ただ今回は、前後に連絡をとり合う仲間もなく、単独行である点が違っていました。〈小郡〉のみんなは、彼女より一週間遅れて、彼女が先発していることも知らず、なにごともなく列をなして通り過ぎていくことでしょう。孤独ではありましたが、いまの彼女は寂しいとは思いませんでした。唯一の気がかりはリリのことですが、一度は暴風圏通過を経験していますし、アンがついていてくれれば安心です。
 南氷洋を抜けて暴風圏に入る際にまず感じるのは、水温がわずかに高くなることです。ちょうどその境界あたりで、極付近から来た表層の水と、低緯度からやってきた水とが衝突し、低温の前者のほうが後者の下に潜りこむ格好になるためです。南氷洋では水温がほぼ摂氏〇度内外であるのに対し(海水は塩分を含んでいるので氷点下でもすぐには凍りません)、収束線と呼ばれるこの線の外側では一度ないし四度上昇します。荒波にもまれて脂肪のコートを一枚分消耗したとしても、水温が上がる分で相殺されるわけです。
 緯度が下がってすでに昼夜の区別ははっきりしていたものの、日中も水平線の端から端まで灰色の雲が切れ目なく続き、西から東へと飛ぶように流れていきました。南極付近の暴風圏は専ら風の独り舞台で、雨は降らないか、降っても雪混じりの細雨が視界を悪くする程度です。陸上の生きものにとっては、吹きすさぶ寒風に体温を奪われれば下手をすると命取りになりかねませんが、常日頃もっと冷たい水に浸されて慣れっこになっているクジラにとっては、風にも水にも凍える心配は無用でした。どこから迷いこんできたのか、一羽のウミツバメがほとんど自分で身体を操縦する力を失い、クルクルと空を転がるようにして飛びすぎました。風は小さな鳥をもてあそぶくらいでは飽き足らないらしく、伸び上がる高波のうちとりわけ背の高いものを選んでは、波頭を砕いて白い飛沫を飛び散らせます。波は波で、空に向かってじゃれつくようにつかみかかります。この海域では、仔クジラ同士の兄弟げんかどころではないスケールで、空と海とが年がら年中取っ組み合いをしているのでした。
 クレアはときおり呼吸のために波のリズムに合わせて浮上するほかは、揺れの少ない水面下十メートル以深に潜って進みました。それでも、何日もの間ずっと一定方向に押し流そうと働きかける力に逆らいつづけるのはなかなかしんどいものでした。ジョーイが行方不明になってからろくに栄養をつけていなかったこともあり、体力的な不安は拭えませんでしたが、幸いにも出発したのが〈大郡〉の西の端だったため、潮流に押し流されて多少斜めにコースがずれたとしても気にする必要はありませんでした。
 〈小郡〉の夏場の主な活動範囲となっていた海域を離れて、一週間余りが経過しました。クレアはなおもペースを維持して泳ぎ続けていました。大波との持久戦によるかすかな疲労感はありましたが、辺りの水が徐々に温みを増していくのを感じとる余裕はまだありました。気象は緯度が下がるにつれて、片意地なそれから気まぐれなそれへと変化してきました。波も風も、総じて勢いは衰えてきたようでした。
 さしあたっての目標は、ジョーイを連れたシャチの群れを見つけだすことです。南氷洋を住みかとするシャチはそれほど大がかりな回遊は普通しないものですが、何しろ相手はヒゲクジラのこどもを誘拐するような変わり者たちです。モーリスの報告やイルカの証言を考え合わせても、一般のシャチ族の様式に則った行動は期待できないでしょう(ただし、同族の通報にあった臆病者≠ニいう表現ははなはだしい誤報でした)。なんにせよ、暴風圏内では捜索にあたるのに不都合なので、いったん脱け出してから先のことを考えようとクレアは決めました。しかし、手がかりは思いもかけず相手のほうからやってきました。
 天候が再び荒れだしました。その嵐の様相には、いくぶん低緯度海域の暴風雨の名残を思わせるものがありました。風と波に主役を奪われていた雨が、雷を味方につけて殴りこんできたのです。海面は日の光の反射でなく雨のリトグラフによって黒雲の荒れ狂う様を忠実に描写しようとしました。稲妻の光がその一瞬を記録にとどめようと閃きます。光の矢は、これまでの風浪のいさかいは前哨戦にすぎないとばかりに、すさまじい轟きを伴ってスケールの差を見せつけました。雨は雨で、数をもって制しようと天からの大軍勢を後から後へと降下させます。波はそれに対抗して変幻の術を見せ、雨の作る紋様をただちにかき乱そうとします。風はというと、情勢を見極めつつ、隙をうかがっては雨なり波なりをなぶりに出ました。互いに相手を打ち消さんと幕を開けた四つ巴の戦いは、いつのまにか風のオーボエ、雨のザイロフォン、波のハープシコード、そして雷のドラムの四重奏となり、だれにもまねのできない調和をもたらしていました。数十マイル四方にわたってほかに聴衆とてないこの海域で、天と大海の偉大な演奏者たちによる交響楽に、クレアは一週間に及ぶ波乗りの褒賞として耳を傾けたのでした。
 けぶる驟雨の中で文目も分かぬ潮を吹き上げながら、クレアが潜水した直後でした。不意に胸が高鳴ったかと思うと、耳の奥でかすかな叫び声が聞こえました。クジラの外耳は水が入りこまないよう耳垢でできた栓で塞がれており(彼らの預かり知らぬことながら、その耳垢栓には齢を経るごとに刻まれる横縞模様がついています)、代わりに骨を伝わってくる振動を音として感じる仕組みになっています。しかし、その声は外の海水を伝わってきたというよりも、直接心に飛びこんできたように思われました。彼女は安全な深度に潜るのも忘れて、音に神経を集中しました。次のときはもっとはっきりと捉えられました。
「……いやだ……お母さん……早く、助けて……早く……」
「ジョーイ!?」
 クレアが息子の名を呼び返す間もなく、甲高い音響がかすかな声をかき消しました。そのつんざくような音はまぎれもなく歯持ちのクジラ族の悲鳴でした。数百頭に上るイルカたちが混乱と恐怖の極限に陥ってまき散らす絶叫が、嵐の騒々しさをも遮って海中にこだましているのです。クレアは頭の中を乱暴に引っかき回されたような苦痛を覚えました。聴覚がマヒしたところで横殴りの大波にあおられ、一時バランスを失った彼女は、日ごろ慣れ親しんだはずの海の嵐に翻弄されました。悪戦苦闘の末姿勢を正し、次の呼吸に浮上したそのわずかな間に、悲鳴はすっかり途絶えていました。始まったときと同じく唐突な終わり方でした。いまのアクシデントのせいで、息子の声が聞こえた方角も確かめられずじまいでした。
 嵐は尻すぼみの最終楽章を経て静かに去っていきました。重々しく垂れこめた灰色の雲は、何日ぶりかに姿を見せる太陽に天の舞台を譲って退きました。波のうねりはまだ収まっていませんでしたが、その穏やかな色合いは、氷と雪とが支配する銀白の世界の領内からすっかり脱けでたことを教えていました。
 先刻の不可解なできごとのために、クレアは無事に暴風圏を切りぬけた安堵に浸る気分にはなれませんでした。なんだか一週間の長かった試練よりも、十分足らずの混乱状態のほうがひどい消耗を招いた感じです。最初に聞こえた声が本当に息子のものだったかどうか、いまになってみると絶対の確信は持てませんでした。しかし、その切羽詰まった調子に、クレアは一層不安をかきたてられました。疲労のたまった身体に鞭打ち、どんな音も聞き漏らすまいと聴覚をレーダーさながらに研ぎすませながら、彼女は先を急ぎました。
 しばらく進んだところで、クレアのソナーは白波の潰えた海面近くに横たわる障害を知覚しました。オキアミのような小動物の群れではなく、もっと大きな物体の集まりです。近づくにつれて、クレアの動悸は激しくなりました。その障害物の正体が判明する前から、恐ろしい予感が彼女の心をグッとわしづかみにして放しませんでした。
 それはまったくもって凄惨な有様でした。海原は一面朱一色に染まり、おびただしい数のイルカの死骸がその中を漂っていました。南極に近い暖海に生息するハラジロカマイルカのものと思われるそのイルカたちは、文字どおり一群全滅でした。おそらく、不意を突かれて斥候が警戒信号を発する間もなかったのでしょう。悲鳴の持続した時間を考えると、下手鯨(げしゅにん)はものの十分もかからぬうちに数百頭のイルカを殺し尽くしてしまったのです。なんという恐るべき襲撃者でしょう。その者たちは、耳聡く敏捷なイルカたちに少しも気づかれずに接近し、迅速かつ確実に息の根を止めていったのです。
 さらにおぞましいことには、波間に浮かぶ死体のどれ一つとっても、同じ殺され方をしたものはありませんでした。ある者はヒゲクジラに比べたらとるに足らない小さな舌を無理やり引き抜かれ、ある者はヒレをグチャグチャに噛みしだかれ、またある者はこれといった外傷もなく仰向けの状態で息絶えていました。オスもメスも、赤ん坊から老イルカまで、惨めな屍をさらけだしていました。切断された首と胴、ぽっかり浮かんだ剥き出しの臓物──。それらはどうみても、ただ食べるために殺したとは思えませんでした。ダンダラカマイルカの話はウソではなかったのです。
 これがはたして彼らの親戚種族にあたるシャチの仕業なのでしょうか? クレアの耳にした限りでは、数頭のグループが協同して行うシャチの狩りは、標的の個体を一頭定め、追い詰めながら群れから切り離して捕らえる方法だったはずです。大きなクジラの場合には持て余して外側だけかじって残すこともあるでしょうが、こんな無意味な、殺しのための殺しをするでしょうか? 目の前に広がる光景は、しかし、それがまぎれもない現実であることをクレアに突きつけていました。肉食性の動物の多くは、獲物の少ない時期の保存食にしたり、あるいはこどもに狩りの訓練をさせる目的で、いったん仕留めた獲物を持て余すこともときにはありますが、これは自然のレベルを逸脱した大量虐殺にほかなりませんでした。もはや理解の限度を越えていました。あのおしゃべりなオスイルカが彼女に対してとった態度をとても責めることはできません。ジョーイがこれらの無慈悲な行いを平然と成し遂げた者たちに囚われていると思うと、クレアは心臓の凍りつく思いがしました。
 あまりのむごたらしさに、クレアは目と耳をおおいたくなりました。実際、目まで届く手と、ふさげば音を遮断できる程度の聴覚の持ち主であったならそうしていたでしょう。うめき声を出せるだけの生存者がいなかったことが、かえって救いでした。クジラとイルカとは日常的にそれほど交流があるわけではありませんが、彼女の心は肉親を失ったときのように深く傷つきました。行く先々に死の影ばかりが覆いかぶさっていました。幼子たちの失踪、〈沈まぬ岩〉の出没、レックスの死、そして相次ぐイルカの大量虐殺……。居たたまれなくなったクレアは、暴風圏突破の疲労困憊も忘れ、かすかに血の香の残る海を突っ切って泳ぎだしました。
「ああ、ひどい……こんなことって、いくらなんでもひどすぎる……」

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