レックスの死というショックからやっと立ち直ってジョーイを捜す旅を再開したのも束の間、クレアはまたもや絶望の淵に突き落とされ、ただ闇雲に全速力で泳ぎました。一心にヒレを動かし続けることで何もかも忘れてしまえるかのように、どこへ向かっているかなどは考えず、ひたすら前へ前へと突き進みました。酷使を続けた尾と背中の筋肉がストップの号令をかけていましたが、彼女はそれも無視しました。本当にもう、泳ぐことよりほかにどうすることもできなかったのです。もしじっととどまっていたら、押し寄せてくる混沌とした印象の波にもまれて溺れていたでしょう。
幸い、彼女が意識せぬままに進んだのは、当初目指していたのと同じ北の方角でした。けれども、嵐を乗り越える前の、目標に立ち向かう毅然とした決意も萎え失せ、いまは得体の知れない敵が彼女の意気をくじく罠を行く先々に仕掛けているのではないかと思えました。全身が強張り、感覚はすっかりマヒして、まともに機能しなくなっていました。いまの彼女の泳ぎは、種族独特の巨躯を感じさせぬ優雅な身のこなしとは程遠い、危急の要請によりやむなく水に浸かってボチャボチャと必死に足を漕ぐ四つ足獣のようにおぼつかないものでした。左右の胸ビレをぎこちなく振り回し、波のエネルギーをうまく推進力として利用する垂直方向のなめらかな動きも統率がとれず、かえって波にヒレを引っ張られるありさまでした。
どれだけの時間が過ぎ去ったのか、またどれくらいの距離を泳ぎ渡ったのか、筋肉中に鬱積したしこりのような疲労感はしびれの感覚にとって代わられていましたが、クレアはなおも前進するのをやめませんでした。さすがにスピードはぐんと落ちていました。灰色の雲ははるかに遠ざかり、降り注ぐ陽光は波を穏やかに照り返しました。水は温かみをさらに増し、潮の流れは性急さを脱ぎ捨ててゆったりと落ち着き払っていました。嵐の名残も、惨殺の跡も、どこにも見受けられませんでした。それはただ、一頭のミンククジラの脳裏にのみ、忌まわしい記憶として刻みつけられていました。
クレアは辺りの海中の景色が様変わりしたことにも注意を向けませんでした。またあの肉片の散らばる真っ赤な海を目にしやしないか、断末魔の絶叫を耳にしやしないかと、彼女はビクビクしていたのです。ただ、長距離遊泳の疲れがその恐怖をだいぶ軽減してくれていました。波の峰々を越えて全方向から伝わってくる雑多な音の情報を、クレアは意識的にシールドを設けて聞き流そうとしました。しかし、ぼんやりと霞がかかった心の片隅に、そのうちの一つが引っかかりました。
「だれかが歌ってる……」
それは、〈抱擁の海〉への旅の途中、岸に近い海でときたま耳にするザトウクジラのオスの歌声のようでした。おそらく彼らのペアリングか何かに関係するものなのでしょうが、別に異種族の歌を鑑賞する理由もなかったので、これまでクレアは歌詞に注意して聴くことはありませんでした。しかし、今は彼女のマヒした心の中に、その声はやすやすと侵入してきました。歌声の主はかなり近くにいるようでした。クジラたちの歌は数十マイル四方にまで届きますが、それほど遠くないところに同族のメスかライバルでもいるのでしょうか? それにしては、ここはまだ水深一マイルは下らない亜南極海の外縁を出たところで、彼らザトウ一族が求愛の場にしているもっと北の陸地に近い大陸棚の上ではありません。しばらく耳を傾けているうちに、クレアは突然、その歌がほかでもない彼女自身に向けられたものであることに気づきました。
──お嬢さん お嬢さん
ミンククジラのお嬢さん
おヒゲを生やしたお嬢さん
脂ののったお嬢さん
チビのデカブツお嬢さん
そんなに急いでどちらへおいで──
それはなんとも奇妙な歌でした。おまけになんと品のない歌詞でしょう。ザトウクジラ一族の音楽はヒゲクジラ族の中でも最も芸術味にあふれていることで有名ですが、そのわりに聞こえてくる歌声は噂ほど美しいようには思えませんでした。ザトウクジラとミンククジラとでは音楽的価値観が異なりますから、勝手に上手下手を判定はできないでしょうが、それでもこの歌い手があまりうまいほうでないことは確かなようです。
──お嬢さん お嬢さん
ミンククジラのお嬢さん
大食漢のお嬢さん
体重一〇トンお嬢さん
デカのチビスケお嬢さん
そんなに急いでどちらへおいで──
そのザトウクジラがいったいなんのつもりで自分に声をかけたのか知りませんが、クレアも泳ぎっぱなしでそろそろダウンしかかっていたので、ブレーキをかけて向こうが追い着いてくるのを待ちました。やがて青霞の奥から、特徴的な長い胸ビレで一目でそれとわかる当のザトウクジラが姿を現しました。彼はクレアの前まで来るとゆっくり静止して、片方の胸ビレを腹の下に折りたたむように曲げると、恭しくお辞儀をしました。
「お嬢さん?」
そのザトウのオスは、興味津々の目で、クレアのことを値踏みするようにジロジロと見つめました。彼女は道化じみたあいさつをしてきた相手の意図をはかりかね、疑わしげに見返しました。彼の態度は一応紳士的でしたが、クジラ族は種族の異なる相手に対して馴々しげに言葉を投げかけることは普通しないものです。
「私はもう既婚です」
「あ、こりゃ失礼。旦那さんがいらっしゃる?」
クレアがやや突き放した言い方をしたので、年若いザトウは多少まごつきながらオスのミンククジラが近くにいるのかと思って周囲を見回しました。
「良鯨はもう死にました」
不運なできごとを思い出してしまったクレアの返事がさも不機嫌そうだったため、彼はさらに恐縮してボソボソと謝りました。
「ありゃりゃ、これは大変失礼をば……」
オスのザトウがすっかり縮こまってしまったのを見て、少しかわいそうになったクレアは、話題を変えてこちらから尋ねました。
「あなたはおいくつ?」
「え? ああ、歳ですか? まだ弱冠一一です」
「お若いのね。私は一五になるわ」
「へえ。やっぱり異種族の歳はわからないもんですね。でも、アネさんもまだまだお若くていらっしゃる」
ザトウはまた馴々しい調子に戻ってお世辞など言いました。イカの七変化みたいに実にコロコロと態度の変わるクジラです。
「いやなにね、ぼくらの間では一応、たとえ相手が孫のいる年頃だろうと、メスに対しては『お嬢さん』と呼びかけるのが礼儀になってるんですよ」
「『脂ののったお嬢さん』って?」クレアはおどけた口調で言ってみせました。
「アハハ、まいったな。さっきのはありゃ、あんなのは単なる即興詩にすぎません。まあ、実際たいしたもんじゃない。ちょっとした戯れです、戯れ」ザトウはソワソワした素振りでそう言うと、一つ短く潮を吹いて付け加えました。
「ぼくはね、これでも仲間うちでは結構評判の〈歌鯨〉なんですよ? 異例の若さで傑出した才能を表した待望の新鯨≠チてね」
そこで彼は、さっきとは別の歌を一小節ほど披露しましたが、低音のところで声がかすれて途中でやめました。
「アア、アア、今日はちょっと咽喉の具合がおかしいな。ゴホン」
彼はいつもの調子が出ないことを強調するようにしきりに首を振りました。クレアは別に異種族に歌のレッスンを受けたいとも思いませんでしたので(彼が教師としてふさわしいかどうかもわかりませんし)、本題に戻って単刀直入に問いただしました。
「ところで、私に何か用?」
「え、いやあ、そんなに急いでどちらにおいでぇ♪なのかなぁって……」
ザトウはさっきの自作の即興詩の一節をまた歌おうとしましたが、クレアのけげんな目つきを見てやめにしました。
「私がどこをどう泳ごうと勝手でしょう?」
「まあ、そりゃそうですけどね……。でも、こんなところをあなたみたいなミンククジラが一頭きりで脇目も振らずすっ飛ばしていくことなんて滅多にないすから、多少とも親切心のあるクジラならだれだって声をかけますよ」
「異種族のメスに親切心を起こすザトウも、暴走ミンクに劣らず変わっていると思うけど。妙なまねをしたら承知しないわよ?」
もちろん、クジラたちはそれぞれの種族ごとにペアを結ぶのに必要な手続きや儀式が異なります。しかし、オスのクジラの中には集団でメスをとり囲んで関係を迫る不届き千万な連中もいますし、発情期がそれほど定まっていないイルカなどではオス同士で性的遊戯を楽しんだり、異種異属間での不純異性交遊もあると聞きます。ヒゲクジラの仲間は子育ての都合上、メスのほうがオスより大柄ですが、彼の体長はクレアを一回り上回っているのです。もっとも、このザトウクジラがそこまで大胆な行動に出るようには見えませんでしたが。
「いやだなあ、アネさん。ぼくを好色な歯持ちのチビどもと一緒にしないでくださいよ」ザトウは気分を害したというふうにクレアの懸念をあわてて否定しました。
「第一、ぼくはいまそんな気分じゃないんすよ。ついさっきフラレたばっかりなんだから」
目をぱちくりさせるクレアに、ザトウは失恋の経緯をつらつらと打ち明けました。
「去年の冬から目をつけていた娘がいて、一年近く彼女とそのベビーをエスコートしてたんですよ。その子はちょうど彼女の初産の子でね。サメやシャチから身を挺して守ったり、〈豊饒の海〉にいる間も食事中の二頭を見張ってやったり──おかげでぼく、あまり体格よくないでしょ? で、彼女の反応も悪くなかったし、ぼくのおかげで長子も無事に育ったから、今年の冬はこのままゴールインかな〜、と期待してたのに、もうすぐ〈抱擁の海〉に入るってときになって、年上の柄の悪いオスがやってきてね。『どきな、坊主。彼女は今日から俺のもんだ!』って、むりやり奪いとろうとしたんです。『彼女はぼくが一年間ずっと見守ってきたんだから、ぼくに彼女をめとる第一義的権利がある』って抗議したんだけど、そいつは耳を貸さなくてね。いきなり石頭でもって殴ってきやがった。もう痛いのなんの、コブから血が出た、目から火花が出たよ。ぼくは争いを好まない主義だから、『暴力反対ッ!』って叫んだんだけど、ナシフグのつぶてでさ」
「それで逃げてきたわけ?」
「ぼくだって、まともに対戦したらそんなやつなんかに負けやしませんよ。でも、彼女やこどもに危害が及ぶようなことは避けたいし。主義だからね」
「ええ、ええ、偉いわよ、偉いわよ。それで?」
「で、結局一年分のエスコートがおじゃんになったわけ。だいたい彼女も彼女だよね。ぼくみたいな親切で若くスマートな、歌の才にも優れたオスを放っておいて、そんな乱暴なやつになびいちゃうなんてさ。オスを見る目がないよ。ぼくはもう完璧に雌性不信になったね。なにせ初めての真剣なアタックだったのに、こんなヒレ透かしを食わされたんじゃ、仲間のメスに対して幻滅も味わおうってもんじゃないすか」
ザトウのオスは大げさに嘆いて両胸ビレを広げてみせました。
「同類よりミンクのメスのほうがマシってわけ?」
「だから、誤解ですってば。恋に破れて一頭傷心の思いでぶらついていたところへ、たまたまアネさんを見かけただけですよ。ところで、アネさんはあんな勢いでどこへ行くおつもりだったんです?」
クレアは彼の素性を聞いてしまった手前(自分から尋ねたわけではありませんけれど)、礼儀として一応これまでの経緯、この冬生まれた自分の双子の一頭が行方不明になったこと、その息子ジョーイはならず者のシャチの群れにさらわれたらしいこと、〈郡〉を抜けだしてジョーイを捜しに出た彼女に〈沈まぬ岩〉が襲いかかり、レックスが身代わりになって殺されたこと……等々を簡略に打ち明けました。さすがに惨殺されたイルカたちの生々しい状況を話す気にはなれませんでしたが。
「ふうん……。いや、たいへんご立派です。うちのメスたちにも聞かせてやりたいもんだ」彼女の話を聞いて、ザトウはうなずくことしきりでした。
「どうです、アネさん。ジョーイが見つかるまでぼくにお供をさせてくれませんか? そしたら、きっとあなたの勇気と愛を歌にして、仲間の連中に語って聞かせてやりますよ。アネさんを見習うようにってね」
勢いこんでしゃべるザトウを見ながら、クレアは考えこみました。いざシャチと相対したとき、果たしてこの気取り屋のザトウクジラが助けになってくれるかどうかは疑問でしたが、いつまで続くかわからないこれからの旅の道中、気をまぎらしてくれる連れがいるのは悪いことではありません。実際、イルカの殺戮現場の目撃ですさみきっていた彼女の心は、この陽気なおしゃべりクジラのおかげで多少なりとも落ち着きをとり戻すことができたのです。
「……そうね。あなたさえよければ、謹んで若い〈歌鯨〉さんの歌の題材にならせていただくわ」
「よし、決まりだ! そうとなったらお互い名を名乗らなきゃね。ぼくの名前はチェロキー。アネさんは?」
「私はクレアよ」
「ふむ。なかなかいかす名前じゃないすか、アネさん」
どうやらチェロキーにとって、クレアの呼称はアネさんということで定着してしまったようです。どこまで頼りになるかわからない体の大きな弟分を道連れに、クレアはジョーイを求めて再び北上の旅を開始しました。