17 誘拐犯

 シャチ親衛隊は、既存のどのクジラ仲間にも、いえ、海に住むどの生きものにも類を見ない、新しいタイプの集団でした。
 第一に、シャチ親衛隊は伝統の類いを一切持ち合わせていませんでした。否、彼らは伝統を排除し、それを破壊しようと目論みました。第二に、集団内の結び付きは血縁や友愛の関係によるのではなく、血も凍る厳格な規律に基づいていました。第三に、困った者や弱い者を扶助する行為はまったく論外のことでした。そのような者は行動の際に足手まといになるうえに親衛隊の名をおとしめるとして、即刻処分されるため、そもそもこの集団内にはか弱き者など一頭もいなかったのです。第四に、彼らは他の集団や異種族との交流を拒絶しました。あたかも極地と熱帯の動物同士のように。いえ、それ以上に。第五に、中でもこれが最も際だった差異ですが、彼らは生を蔑み、死を尊びました。それも、とりわけむごたらしい死を。
 破竹の進軍を進めるシャチ親衛隊の通り過ぎた後は、南極大陸奥地のドライバレーのごとく生命の影もなく、血であふれ返っていました。彼らは海の自然の掟をことごとく破りました。彼らの行動は、種本来の生得的なパターンを類推しえないほど歪みきっていました。太古より定められた巡礼の道をあからさまに横切り、指定の住み場からはるかに隔たった海域に不意に出現します。そして、彼らは〈食堂〉に土足で踏みこみ、メニューにないものを要求し、正式なマナーを顧みず、代価を払おうとしないどころか、テーブルを引っ繰り返す乱暴狼藉を働くのです。
 親衛隊の隊員は各々進取の気質に満ちていました。といっても、彼らはそれを伝統を改良するためではなく、まさしく改悪するために発揮するのです。シャチたちは、レックスには思いもつかなかった遊戯を開発しました。彼らは、自らの生命を維持し、種族の血を残す必要のためにのみ他の生きものを殺すことに決して満足しませんでした。獲物とは、もてあそび、悲鳴をあげさせ、死の洗礼を授与せんがためのものでした。彼らは殺戮を一種の新感覚のスポーツとして狂喜のうちに楽しみました。活力にあふれた生を飲み乾し、苦痛の最中に死を迎えさせることにより、彼らは自らの未来においてより栄誉ある死を保証されるのです。すべては、彼らの崇める唯一絶対の神、モノ・セティの思召しでした。
 狂えるシャチ親衛隊は、一方できわめて有能で効率的な戦闘集団でもありました。彼らは何者にもその素性を知られることなく、密やかに迅速に行動しました。あらゆる障害は突破されるべきものであり、あらゆる困難は克服されるべきものでした。ノルマの完遂こそが使命であり、手段の公正さは検討の埒外でした。いかに速やかに目標を達成するかが重要なのであって、そのための能力こそが各鯨(かくじん)に問われました。その過程でどれほどの犠牲を払おうと問題にはなりませんでした。いえ、犠牲が多いのは結構なことでした。
 親衛隊のメンバーをこれほどまでに規律に従わせ、一つにまとめあげていたものは、来るべき死への恐怖と憧憬でした。彼らが無事に任務を終えて帰還した暁には、それぞれの挙げた戦績に応じて〈死のエクスタシー〉の褒賞を授かることが約束されていました。同時にそれは、各メンバー間の不信と反目をあおるるつぼでもありました。彼らは互いに隙あらばライバルを出し抜き、陥れようとしました。グループ同士の闘争はときに熾烈をきわめ、密約が結ばれては解かれ、隠密の同盟が築かれては崩れ、裏取引が交わされては破談しました。裏切りが大手を振ってまかり通りました。
 それらの奸智姦計に最も秀でた者が、極悪なシャチ軍団を統率する隻眼の長、ドクガンでした。彼の血走った右目は大きく飛び出しているのに対し、左目はカワイルカのように小さく埋もれていました。剛健な体格と奇怪な風貌を抱くドクガンは、シャチ親衛隊の発足以来、その地位の在任期間としては最長の一八〇日というレコードを打ち立てていました。ドクガンをなんとかして引きずり落とそうとする陰謀が水面下では活発に繰り広げられていましたが、いまのところ彼の裏をかくのに成功した者は一頭もいませんでした。それだけ、彼が邪さにかけて抜きんでていたということです。この一八〇日は、諸々の理由で処刑された隊員の数でも最多記録を樹立していました。しかし、彼はいま、自分が送りだされることになったこの遠方での任務について、内心疑念を抱き続けていました。
 いまこそ親衛隊の版図を精力的に拡大し、多神教を信じる愚かなゴミどもに目にもの見せる絶好の機会だってのに、二〇名ぽっちの部下を引っ連れて本拠地を何千マイルも離れたこんなド田舎へ放り出されるたあなんてこったい。〈脂の樽殿下〉にもずいぶんと俺の能力と信用度を低く見られたもんだ。このままじゃ、せっかく俺が骨を折って築きあげてきた親衛隊内の統率も、留守の間にまたもとの木阿弥となりかねんじゃないか。え、ドクガンさんよ? きっといまごろは、あのバカ力だけが取り柄のサカヒレのド阿呆が、この世の春とばかりに勝手放題のさばってるに違えねえぞ?
 海の食物連鎖の頂点に位置するシャチの中でも、その強さのみを異常に進化させたシャチ親衛隊のトップに伸しあがったドクガンは、やがては生物界最高の王の座をもわがものにしようという飽くなき野望を抱いていました。もっとも、いま彼が命に従っている〈脂の樽殿下〉は別です。ドクガンの上司は、彼の想像をはるかに越えた存在でした。無論、弱点を探る試みは幾度もなされてきましたが、いずれも手痛い失敗に終わりました。〈殿下〉に歯向かうのは明らかにバカげている。だが、なんとも気に食わねえのは、あの予言者気取りのナマクラ野郎だ。吐き気のするほど白いやつ……。
 ドクガンは開いているほうの腫れあがった右目で、派遣された部下の中に混じっている一頭をギロッとにらみました。〈告知者の窓〉と名付けられたそのシャチは、他の隊員たちとは違い、血のような赤い眼の色をしていました。そのうえ、彼の等速で進む機械的な泳ぎ方には、いわゆる予言時の〈行く末の語り手〉のように不自然なところがありました。実際、彼は精神の自律性を奪われていたのです。ドクガンは操り手≠ノ悟られないよう、すぐに視線を戻しました。
 今回の任務が俺にとってどれほど退屈でヒレ持(ても)ち無沙汰なもんだろうと、〈殿下〉のお達しとあらば南極へでも北極へでも出かけようさ。だが、こんなところでまでやつの監視を受けるのは、まったくもって我慢がならんよ。サカヒレとあの生っ白いホラ吹き野郎だけは、早々に始末を着ける必要があるな……。ドクガンはいかにも底知れぬ悪巧みを頭の中でもてあそんでいるふうに、血走った大きな右目をグルリとめぐらしました。
 ドクガン隊長の率いる遠征隊の任務は、南氷洋から生きたミンククジラの幼齢個体を連れてくることでした。それも、南氷洋と彼らの本拠地を結ぶ最短距離を往復するのではなく、わざわざ遠回りをするよう命令されていました。なぜそんな面倒なことをするのかという理由については、何も明かされませんでした。彼らはただ命ぜられたとおりのことを実行しさえすればいいのです。しかし、のろまなヒゲクジラの稚児を率いて長い航海を続けるとなると、いくら選り抜きの精鋭部隊といえども、次第にだらけてくるのは避けがたいことでした。
「隊長! また一頭くたばりました!」
「ちっ」
 ドクガンは右目を引きつらせて舌打ちすると、縦列の最後部で彼を呼んだ部下のところへ行きました。見ると、列に遅れずについていくのがやっとだった小柄なミンクのこどもが、二頭の見張りシャチに両胸ビレをくわえられてぐったりと水面に浮かんでいました。すでに噴気孔から息が漏れている気配はありません。ドクガン隊長は面倒臭げにそれを確認すると、部下に向かって言いました。
「仕方がねえ、離せ。後はフカどもに片付けさせろ」
「親分、いっそのこと昼飯にしちまいましょうや」
 ドクガンは馴々しい口をきいた部下の一頭、ラングイのそばへついと泳ぎ寄ると、彼の頭を胸ビレでしたたかぶちました。
「バカ野郎、親分じゃなくて親衛隊長と呼べと言ったろうが! 今度言ったら貴様もバラしてフカの餌にしちまうぞ!」
 突き出た前頭部をなでさするラングイを叱咤してから、ドクガンは全員に向かって厳しく指示を出しました。
「いいか、者ども! このミンクのガキどもは〈脂の樽殿下〉に献上する大事な貢物だ。口をつけることは絶対に許さんぞ!」
 部下たちは黙って彼の命令に従う意を示しましたが、ラングイなどはまだ不満の色を表していました。一頭や二頭くらい食っちまったってどうせわかりゃしないだろうに。この弱虫親分はそんなに〈殿下〉が恐いのか……。
 その表情をすぐに読み取ったドクガンは、皮肉な笑みを浮かべて付け加えました。
「もちろん、結果に責任を持つんだったらかまわんがな。だが、〈殿下〉も〈告知者〉も我々の行動は逐一お見通しだってことを、そのコケムシの生えた脳ミソにたたきこんでおいたほうが身のためだぜ。さもないと、褒賞がお預けになるどころじゃすまなくなる……」
 ラングイは紅目のシャチのほうを一目見やると、あきらめてしぶしぶ所定の位置に戻りました。白坊主の脅しも、こういう生意気な部下を黙らせる利点がないではないな、とドクガンは思いました。このラングイなどは親しげに振る舞ってはいても、その実サカヒレの送りこんだ間諜であることなど、彼にはとっくにわかっていました。こいつらはともども救いようのない間抜け野郎だよ。阿呆の頭領は、未だに親分なんて下卑た呼称を平気で使わせているのかね。まあ、副隊長と呼ばれてもいい気はしないだろうがな。
「よし、進め。いまの速度だと消耗が激しいから、もうちょいペースを落とすぞ」
 南氷洋で狩り集めたミンククジラの子百頭余りのうち、すでに半数は死ぬかついてこれなくなるかして道々捨ててこなければなりませんでした。この調子でいくと、帰り着くまでに一頭もいなくなってしまうかもしれません。もっとも、一頭か二頭でも残っていれば目的は成就されるのですが……。

 旅の間中息も絶え絶えだった友鯨(ゆうじん)の一頭が遺棄されるのを、ジョーイはずっと見守りました。その後、自分の持ち場につく大きな歯持ちの種族をじっとにらみつけました。もちろん、食性もさることながら、大きな受け口の端のところにチョコンとついたちっぽけな目という面相では、ちっともすごみがありませんから、ヒゲ持ちのこどもに眼を飛ばされたとて、シャチたちはまったく意に介しませんでした。ジョーイは怒りの感情がより大きなあきらめの感情にたぐりこまれていくのを感じながら、列の後ろに並びました。
 始め八頭いたジョーイと同じ〈小郡〉の仲間は、もう彼を含めて四頭しか残っていませんでした。そのうちの一頭はすでに弱りきっており、集団からとり残されることも多くなっていました。シャチたちは列を離れた子を盛んに小突いたり噛んだりして脅すので、いったん遅れだすと元気をとり戻すのは不可能に近く、そうやって多くの仔クジラが脱落していきました。シャチたちは泳ぐスピードを落としてはいたものの、弱った者が回復するだけの猶予を与えようとはしませんでした。
 いまでは仔クジラたちのだれ一頭として、体表やヒレに多くの傷痕を持たない者はいませんでした。横暴なシャチたちは、機会を見つけては、ときにはさしたる理由もなく、ミンクのこどもたちをいたぶりました。退屈で骨の折れる遠方での任務に回された憂さを晴らす材料として、また、目の前のご馳走にヒレをつけられない腹いせとして、彼らはジョーイたちにひどくあたりました。死んで言った半数のこどもたちの死因は、母親や兄弟たちから引き離されたストレスに加えて、主に休みなく長距離の移動を続けてきた疲労によるものでしたが、恐ろしい殺し屋クジラから度重なる折檻を受けた恐怖がそれを大きく助長していたことは否めません。こどもらしい活発さをすっかり失くした囚われのミンククジラの子たちは、みなうつうつとしてシャチにどやされるままに行進しました。
 ここにいる仔クジラたちはいずれも、一頭きりで遊んでいたり、ちょっと親から離れて泳ぎ出た隙に、不意に現れたシャチによってさらわれてきた子ばかりでした。シャチたちが誘拐に使って手口は実に巧妙でした。音もなく接近し、仲間の声音をまねたりして油断させ、いきなり襲いかかって超音波のビームで気絶させて連れ去るのです。軟禁状態にした後は、大声をたてないようにギラリと光る牙を見せつけて脅しましたが、この段階で泣きやまないような子は、とても長距離にわたる旅に耐える見込みがないため、証拠を隠滅するためにその場で殺されました。ジョーイの場合はリリと〈サメごっこ〉をしていて捕まったのですが、あのときシャチたちは優れた音波発信能力を利用して、偽の影をジョーイに()せ≠スのです。彼らにとって、もともと聴覚が鈍いうえに経験の浅いヒゲクジラの子をだますなど造作もないことでした。そうした技術は、まさに能率至上主義のシャチ親衛隊にして初めて開発しえたものです。
 仔クジラを連れているこの謎のシャチたちは、普通のシャチたちとはずいぶん違ったところがありました。ミンククジラの子を誘拐し、虐待しながらもすぐに食べようとはせず移送していることもそうですし、集団内のシャチ同士の関係や規律を含め、多くの点で種族としての域を著しく逸脱していました。とくに、彼らがスポーツ≠ニ称する残虐な行為は、ジョーイも目を背けたくなるものでした。ミンクの子をいじめるだけでは気がすまないのか、彼らは途中通りすがりに出会ったイルカの群れをわけもなく血祭りにあげるのです。自分の一族の天敵であるシャチについて、ジョーイはまだおとなたちから多くを教わってはいませんでしたが、それでもこの群れのシャチが正統なタイプでないことはうすうす感じていました。彼は一度だけクレアやリリと一緒にシャチを遠目に目撃したことがありました。そのときのシャチたちは、彼の〈小郡〉が譲った水道を超然と通り過ぎていくところでした。いまのこのシャチたちには嫌悪こそ覚えど、畏怖を抱かせるものは微塵もありません。
 彼らはまた、外見からしてひどく変わっていました。シャチの身体を彩る黒白模様は、個体によって若干の差はあるものの、基本的なパターンは同一です。しかし、この一群のシャチたちはどれ一頭とっても黒と白の斑の位置が同じ者はなく、おまけに左右非対称でした。模様のみならず、ヒレや体躯の形態も不ぞろいでした。そして、だれもが虜のミンクの子と同様、身体中に傷を負っていました。
 さらわれてきた当初、母親のクレアや妹のリリから引き離されて、自分たちを食べる恐い敵と聞いているシャチたちに見知らぬ遠い海へ連れだされたジョーイは、怯えどおしの日々を送っていました。でも、同じ種族の仲間と一緒にいるうちに、寂しさを感じることはなくなりました。仔クジラたちの多くは彼と同じくその年生まれで、誘拐された経緯も似通っていました。とりわけ、一頭のメスとは大の仲良しになりました。その子の名前はメルといい、ロス海〈大郡〉でも彼とは別の〈小郡〉の出身でした。双子ではありませんが、彼女にも非常に親しくしていた一つ違いの兄がいました。ここへ連れてこられることになったのも、兄と一緒に遊んでいてたまたまはぐれたときに、シャチに見つかってしまったのです。似た境遇にあった二頭はすぐに兄妹のような間柄になり、虜としてのつらい生活の中で互いを勇気づけ合うようになりました。メルはリリみたいに気が強くてすぐ反抗するタイプのメスの子ではなく、ジョーイは彼女を妹と取っ替えっこしたいと思ったくらいでした。
 ただ、メルは遅生まれで身体も小さかったため、このような厳しい長旅を乗りきるのはほかのどの子より困難を伴うことでした。本当なら、最初のほうで脱落した組に入っていても不思議はありません。そうならなかったのは、ひとえにジョーイの励ましがあったからです。それでも、彼女の泳ぎは日増しに遅れがちになり、二頭は寄り添って行列の後尾に近いところにやっとのことでついていました。
「ジョーイ兄ちゃん(いつしか彼女はジョーイのことをそう呼ぶようになっていました)、尻尾の筋肉がつっちゃったよう」
「がんばるんだ、メル。もうすぐ休憩になるよ」
 ジョーイはそう言うと、メルの後ろについて鼻先で押してやろうとしました。本当は彼自身、いまにも尾の筋が引きつりそうだったのですが。
「こらそこ! 列を乱すな!」
 近くにいた見張りのシャチがやってきて、胸ビレでメルを打ちました。シャチからすれば軽くはたいただけのつもりでも、身体が半分の大きさしかないミンクの子にとってはかなりの打撃で、メルは「きゃっ!」と小さく叫びました。それを隣で見ていたジョーイは、いきなりシャチに跳びかかって頭突きを食らわせました。
「何すんだ! メルにヒレを出すなっ!!」
 もちろん、彼の渾身の一撃もシャチにはとるに足らないものでしたが、虜のくせに生意気にも歯向かってきた幼いヒゲクジラに、強大な肉食性の歯クジラは激昂しました。
「この野郎、ヒゲ持ちのガキのくせに! こうしてやる!」
 見張り役が尻尾を横様に振ってジョーイの胴を思い切り打ちのめしたため、彼は数メートルも吹っ飛ばされました。続いてそのシャチは、ズラッと並んだ円錐状の牙でもって、彼のヒレといわず背といわず滅多噛みしました。いまにも穴が開きそうなほど強く噛みつかれ、鋭い痛みに思わず悲鳴をあげそうになるのを、彼はヒゲを食いしばってぐっとこらえました。メルの前で泣くわけにはいきません。
「ググ……グ……」
 そのとき、カチカチという音が断続的にジョーイの身体を貫きました。シャチをはじめとする歯クジラの仲間が周囲の海を探索するときに発するクリック音です。獲物に向けられるそれは、ときに同類に対する威嚇の意味で用いられることもありました。
「やめろ」
 低い声の主はドクガンでした。見張り番のシャチはただちにジョーイを解放しました。
「手荒に扱うんじゃねえと言ったろうが」
 部下のシャチは隊長に向かって服従の印に自分の胸ビレを差し出しました。ドクガンは素早くそれを一噛みしました。それでジョーイは、彼らの傷、とりわけヒレに等間隔で並んでいる円い穴が自分たちで付け合ったものだということを知りました。配下のシャチに対する懲罰がすむと、ドクガンは今度はジョーイに視線を移しました。右の体側を向けてギョロ目で自分をねめまわす親玉シャチに、ジョーイはすくみあがりかけましたが、相手に怯えたところを見せまいとしてきっとにらみ返しました。
「フフン」
 目を逸らすまいと必死になっているジョーイを見て、ドクガンはおもしろそうに短く潮を吹くと、彼に体罰を加えるでもなく、そのまま先頭へ戻っていきました。彼が身を翻した瞬間、ちらっと見えた左目が不気味なきらめきを放ったように、ジョーイには見えました。
 群れの最前列に着くまでの間、ドクガンはだれに聞かせるでもなくつぶやきました。
「ああいう肝っ玉の据わったやつならきっと長持ちするだろ。これで、手ぶらで帰って叱られる心配はなさそうだな……」

 ミンククジラの子を引き連れたシャチの一行は、大洋底にそびえるオーストラル海山列の上を越え、ポリネシアの海域を抜けようとしていました。目下のところ、彼らは真っすぐ北東の方角を指して進んでいました。南洋の島々は美しいサンゴ礁にとりまかれていましたが、それを鑑賞する余裕は彼らにはありませんでした。
 彼らがツアモツ諸島の近傍を通過してからしばらくのことでした。
「親分、親分! どっかの阿呆が後ろでバシャバシャやってますぜ」
 そうがなりたててきたのは、後尾で見張りについていたラングイでした。ドクガンは左舷から近寄ってきた部下のほうをいきなり振り向くと、強力な尻尾で張り倒しました。
「このギボシムシのタコノマクラのホヤのナマコのノドクサリのダボハゼのマンボウ野郎!! 俺の死角から近づくなとあれほど言ったろうが! それから親分じゃなくて隊長だ、隊長!」
 ドクガンはいつも群れの左端に位置を占め、他の者に絶対に左の体側を向けようとはしませんでした。行列の後ろにいくときは右側を、先頭に戻るときは左側を通っていくのです。ラングイはクラクラする頭を振りながら弁解しました。
「へ、へい、親ぶ……じゃねえ、隊長。そうでやした、忘れてたんでさ。隊長は左のお目がよろしくないんでしたね。ところで、つかぬことをお聞きしやすが、親……いや、隊長の左目はまったくお見えにならないんで?」
「ずいぶんと妙なことに興味を持つじゃねえか、ああん? まあ、教えてやらあ。目が見えようと見えなかろうと隊長の資質には関係ねえんだよ、ボケ! 貴様ごときがいくらヒレ音を忍ばせて近づいたつもりだろうと、俺の耳は聞き逃しゃしねえ。だから、ろくでもない了見は起こさんことだな」
 そう言うと、ドクガンは群れの後方に向けて長距離用の低音ソナーを発しました。彼は確かに親衛隊随一の聴力の持ち主でした。
「ううむ……大型クジラが二頭、俺の耳が正しけりゃ、ザトウのアベックか親子連れのようだが……なんだってこんなところにウロチョロしてやがるんだ? 確かここらは連中の通り道から外れてるはずなんだがな」
 ドクガンは群れをいったん停止させました。ザトウクジラなど何頭いようと彼らにとって障害にはなりませんが、不審な点があることと、こちらの方角へ向かってくることもあって、一応様子を見ることにしたのです。ずる賢いドクガンはまた、些細なことでも気にかかると確かめずにはいられないたちでもありました。二頭のヒゲクジラは交互にブリーチングをしながらだんだん近づいてきました。そのとき、捕虜の中の一頭の子がいきなり飛び出しました。
「お母さんだっ!!」
 まだ目にも入らないうちから、ジョーイはそれがクレアであると直感しました。これまでにも彼は、母親が自分を捜しに来ているのではないかという予感をずっと抱き続けていました。短い眠りの間にもたびたびクレアは登場し、自分の名を呼びながらあちこち捜しまわっていたのです。イルカの惨殺を目の当たりにすることに耐えられず、無心に母に救いを求めたこともありました。メルの存在とともに、クレアがきっと自分を助けだしてくれるという確信が、いまの彼を支えていたのです。クレア自身が息子の生存を信じてここまでやってきたように……。
 ジョーイは母に自分の居場所を知らせようと、声を張り上げました。見張りのシャチが尾ビレをきつく噛んでぐいと引き寄せましたが、それでも彼は大声で叫ぶのをやめませんでした。
「お母さん! ぼくはここにいるよ!」
「黙れ、黙らんか!」
 ドクガンは、部下にこっぴどくたたかれながらなおも叫び続けるジョーイを右目でちらっと見やってから、再び後ろのクジラたちに向けてソナー音を飛ばしました。
「驚いたな、ミンクとザトウの二頭組だ……こいつぁ正真正銘の阿呆だぞ」
 滅多なことでは動じない親衛隊長でしたが、返ってきたエコーから事実が明らかになると、呆れたようにつぶやいて感嘆のホイッスルを鳴らしました。
 ジョーイは血の流れるヒレの痛みにもかまわず、さらに大きな声で母にSOSを発しました。
「お母さん、ジョーイだよっ! 早く助けて!!」

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