クレアは二〇回目のジャンプに入ろうとして(ミンククジラの連続ブリーチングの回数としては、これは新記録でした)、途中で不意に動きを止めました。
「どうしました、アネさん? さすがにそろそろ疲れましたか?」
そう尋ねたチェロキーのほうを振り返ったクレアは、急に真剣な表情になって言いました。
「呼んでる……ジョーイが私を呼んでるわ!!」
彼女の思いつめた様子を見て、チェロキーは首をひねりました。「また思いすごしじゃないの? それとも、ブリーチのしすぎで気分がハイになったかな?」
「いいえ、思いすごしなんかじゃないわ! 確かにあの子の声が聞こえる……このサンゴの島々の向こうよ。今度は近いわ」
クレアとチェロキーは堡礁や環礁の散らばる目前の海に耳を凝らしました。しかし、彼女たちの能力ではまだジョーイとシャチたちの影を聴つけ≠驍アとはできませんでした。二頭は飛び跳ねるのをやめ、ピッチを上げて用心深く前進しました。
問題のクジラたちがブリーチングをやめて真っすぐこちらへ向かってくるのを見てとったドクガンは、その場でザトウとミンクを待ち受け、捕縛して尋問するべきかどうか思案しました。喚き声をあげていたオスの子は、超音波で一時的に気絶させて黙らせました。突然、夢遊病者のような泳ぎ方をしていた紅目のシャチの目がかっと見開かれ、メラメラと燃え上がるように紅みを増したかと思うと、この世のものとは思えない声がその口から漏れだしました。
「どうしたドクガン、誇り高き親衛隊の長よ。まだ予定の行程の半分も過ぎておらぬぞ。たかが五〇頭のヒゲクジラの幼児を召し連れてくるのに、何をてこずることがある? 〈大王殿下〉はしびれを切らして主らの帰りを待っておるのだぞ……」
重々しい忠告の言葉が尽きると、〈告知者の窓〉の目は再びトロンとなりました。
「ウウ……仕方がねえ。ミツマタはいるか?」
ドクガンは親衛隊のナンバースリー、若く勇猛な親衛隊長補佐を呼びだしました。ミツマタの尾ビレは、他のどの種のクジラとも違って三つに裂かれていました。
「二頭ばかり連れて、あの目障りなヒゲ持ちどもを手早く片付けてこい」
「アイ サー!」
ミツマタはただちに部下から同行者を募ると、一行から離脱しました。隊長補佐には少々頭が固く機転のきかないところがありましたが、ドクガンにとっては権謀術数とは縁がなく信頼の置ける数少ない部下の一頭でした。分隊が後方の水壁の向こうに去ると、ドクガンはもう振り返らず、〈運命の告知者〉の命ずるとおり行軍を再開しました。
「ま、もしあれが本当にこのガキの親でここまで追ってきたんなら驚嘆に価するが、だからといって昼飯としての値打ちが上がるわけでもねえしな……」
サンゴにとりまかれた島と島との間を通り抜けてしばらく行ったところで、チェロキーがふと停止しました。
「アネさん、だれかこっちへ来るぞ!?」
エメラルドグリーンの海の彼方に、三つの黒い影が浮かび上がりました。ソナーの反射音は相手がこちらへ急接近していることを告げています。
「やばいよ、アネさん! シャチのやつら、ぼくらに気づいて追っ手を差し向けてきたんだ!」
チェロキーが狼狽した声で叫びました。次第に迫り来る影には、確かにシャチ特有の背ビレが居丈高にそびえているのがうかがえました。断続的に発射される短いクリック音が、過たず二頭のいる場所を飛び過ぎます。そのシャチたちはもはや姿を隠す必要を認めていないようでした。
「に、逃げよう!」
「でも、ジョーイが……」
「ここで食われちゃ元も子もないよ! さあ、早く!!」
クレアはなおも逡巡していましたが、すでに逃げることしか頭にないチェロキーは、彼女をせっかちにつつきました。
「ジョーイッ!!」
少し前から途絶えてしまった息子からの返事がないかと、クレアはもう一度息子の名を大声で呼んでみましたが、応答はありませんでした。クレアはやむをえずチェロキーに押されるままに向きを転じました。
クレアとチェロキーは南を目指して懸命に飛ばしました。やっとここまで追い着くことができたのに、またジョーイと離れ離れにならなくてはいけないなんて……と思うと、クレアは悔しくて悔しくて仕方がありませんでした。彼女が全力疾走するのはこれで三度めです。一度めは〈沈まぬ岩〉にねらわれたとき、次はイルカの虐殺現場を目の当たりにしたとき、そして今度はシャチに追いかけられてと、考えてみればどれも恐ろしい脅威から逃れるためばかりでした。〈郡〉に戻ったら、きっと私は〈ジャンパー〉としても〈スイマー〉としても一流選手になってるわね。無事に帰り着けたらの話だけど……。
しかし、今度ばかりは幸運の雌神に救いのヒレを差し伸べてもらえそうもありませんでした。始めクレアもびっくりするほどの勢いで飛び出したチェロキーは、早くも彼女の隣で疲れの兆しを見せていました。苦しい逃避行を二度も経験したクレアと違い、彼が本格的に敵に追われる羽目に陥ったのはこれが初めてでした。太めのザトウクジラは、垂直に身体を持ち上げる瞬発力にかけては他種に勝るものがありましたが、水平方向ではナガス眷属中最も鈍足の部類に入ります。彼らの主な逃走手段は、長い胸ビレを利用した巧みな急旋回で相手を戸惑わすことであり、長距離持久遊泳となるとまったくの不得手でした。
「ひ〜〜、アネさん、置いてかないで〜〜!」
「しっかり、チェロキー!」
チェロキーの泳ぐ速度は、セーブしているクレアにもついていけなくなるくらい、目に見えて落ちていました。いまや彼は喘ぎながらたびたび泣き言をぼやいている始末です。
「ああ、ぼかぁまだまだ若いってのに、恋も実らず、歌で名を上げる間もなく、こんな辺鄙なところでシャチに食われて死ぬのはやだよ〜〜」
クレアはチェロキーの前の位置について水流を防ぎ、彼が泳ぎやすいようにしてやりました。潮吹きがてらに後方を見やると、波間に屹立する黒い小旗が視界に入ってきました。しかし、追っ手のシャチたちはどうやら二頭をあっけなく葬るつもりはないようでした。いくらクレアが全力で飛ばしても三〇ノットそこそこがいいところなのに(チェロキーはその半分も出せません)、シャチはいざとなったら四〇ノットまでスピードを上げられるのです。それがなかなか追いついてこないということは、すなわち彼女たちが疲れるまでさんざん追い回したあげく、ゆっくりなぶり殺そうというのに違いありません。
クレアもだんだんへばってきて、息が続かなくなりました。ジョーイを連れたシャチの群れの本隊は、彼女たちの処理を分隊に任せて先へ進んでいったようでした。死ぬ前に一目ぐらい息子に会わせてくれたっていいじゃない……。クレアはいっそのこと、本当に後ろのシャチたちにそうお願いしようかとも思いましたが、餌食を目の前にしたシャチたちは、いやらしいクリック音(それは「腹減った!」「食わせろ!」に相当するものでした)を盛んに二頭目がけて浴びせかけてくるばかりで、とても彼女の頼みを聞いてくれそうにはありませんでした。
クレアとチェロキーは、いつのまにかまたツアモツ諸島の水路にまで引き返してきていました。疎らに広がる環礁の一つが左手に見えてきました。シャチたちは真後ろにまで迫っており、追いつかれるのは時間の問題です。
「チェロキー、あそこのサンゴ礁のどれかに逃げこみましょう」
自分たちより小柄なシャチを相手に、どこへ逃げ隠れようと無駄なことはわかっていましたが、少しでもチェロキーを励まそうとしてクレアは言いました。ノックダウン寸前のチェロキーは、クレアの提案に声もなくうなずきました。
二頭が舵を切って針路を変更してから間もなくのことでした。ほとんど観念して自分の尻尾に歯が立てられるのをいまかいまかと待ち受けていたチェロキーが、先に異変に気づきました。いつまでたってもシャチが襲いかかってこないため、不思議に思って振り返ったのです。彼は尾ビレの動きを緩めてクレアを呼び止めました。
「アネさん、やつらの様子が変だぞ!?」
「側方に展開、逃走中の標的の左右両舷から前方に回りこんで頭を押えこめ。私は後方中央に陣取って退路を阻む。愚鈍なヒゲクジラが相手だとて気を緩めるな。演習のつもりでしっかりやれ」
ミツマタはもちろん、敬服する親衛隊長をじらすつもりは毛頭ありませんでした。といって、死を崇拝するシャチ親衛隊の有力メンバーとして、ねらい定めたクジラをあっさりと殺す気もありませんでした。彼の場合、ウジウジと獲物を痛めつけるような手口は流儀に反しました。殺しはもっとスマートなものでなくてはならない、というのが彼の信条でした。美しく鮮やかな殺し──例えば、胴体をきれいに真っ二つにするとか──こそが、実力主義者として名を馳せる隊長補佐の求める殺鯨テクニックでした。勤勉実直をモットーとするミツマタは、毎日超音波ビームの鍛錬に励み、シイラやカツオ程度だったら切断できるほどにヒレを上げました。噂によると、この道の達鯨はあの不可解な蒼白の〈運命の告知者〉だということですが。
しかし、我先に志願した二頭の部下は、胃袋を満たすことしか頭にないらしく、よだれを垂らしながらギチギチと鳴きたてていました。何しろ、この任務に着いてからはたまに小さなイルカにありつける程度で、肉のたっぷり付いた大型クジラは久しく口にしていなかったのです。南氷洋でちょくちょく見かけたミンククジラは、警戒心を抱かせると作戦遂行の妨げになるという理由でヒレを出せませんでした。おまけに、獲物の一頭は数が少なく一段グレードの高いザトウクジラだというのですから、彼らはいまのうちから目をぎらつかせていたのです。
はしたない部下を横目に、ミツマタは内心苦りきった気持ちを抑えきれませんでした。やれやれ、今回の任務はともかく、こういう輩にはとても隠密行動は任せられぬな。我ら親衛隊の一員がこれでは先が思いやられる。本拠地へ戻ったら徹底的に鍛え直さなくてはいかん。誉れ高きシャチ親衛隊たるもの、生物界のエリートにふさわしい華麗さを身につけずにどうするというのか……。
獲物のクジラまで後百メートルほどに迫ったとき、シャチたちの三角形の編隊が崩れました。少し前から、残りの二頭のクリック音に変なしゃっくりのような音が混じり始め、ミツマタはよほど食い気の張ったメンバーを連れてきたらしいと呆れていたのですが、いま、彼の部下は大ご馳走を前にしながらそれをあきらめたようでした。といって、泳ぐのをやめたわけではなく、コースがだんだん逸れだしたのです。
「こら、どうした!? 任務を放棄する気か!」
そう叱咤してから、ミツマタはようやく彼らの様子がおかしいことに気づきました。部下たちの口もとは相変わらずよだれにまみれていましたが、目までが生気を失い、酔っ払って行動の自由がきかないかに見えました。彼らはまるで何者かに招き寄せられるように大きく左へ──環礁のある方向へと針路を変えました。彼らの狂気じみた行動は、環礁に近づくにつれてエスカレートしていきました。二頭は替わりばんこに水面上に飛び跳ね、恍惚とした表情で口々に唱えました。
──我らに死を! 彼らに死を!
彼らに死を! 我らに死を!
全てに死を! 生命に死を!
生命に死を! 全てに死を!──
二頭のシャチの調子外れの歌は、しまいには発声を試す赤子のような支離滅裂な鳴音でしかなくなりました。彼らは不恰好なジャンプを繰り返し、笑い、泣き、怒り、身をよじりながら、環状のサンゴの砦を目指して突進しました。
ミツマタは憤懣に身を震わせながら、上官の命令に背く部下を呼び戻そうとしました。そのとき、彼自身の感覚も狂気のもとを捉えました。それはまったく抗いがたい力でもって、やすやすと彼の心に侵入してきました。彼はその味を覚えていました。これは……そう、彼ら親衛隊員が帰還の暁に褒美として授けられるはずのものでした。
「!? 〈死の精霊〉!?」
なぜこんなところで……という疑問はいつのまにか消し飛んでしまい、後には無上の幸福感だけが彼を浸し、溺れさせるべく渦巻いていました。親衛隊きってのエリート、ミツマタはクルクルと踊りながら愚かな部下の後に従いました。
クレアたちの目の前で、追撃者のシャチ三頭は彼らの脇をすり抜け、追い越し、まっしぐらに環礁の中へ突入していきました。二頭のクジラは呆気にとられて彼らの珍妙な行動を見送りました。チェロキーはほっと息をついて言いました。
「ふう、なんか知らないけど助かったぁ」
「ねえ……あの環礁に入るのはやめましょう」
「もちろん。入れと言われたってだれが行くもんですかい。あんな狭いプールでシャチと追いかけっこするのはごめんこうむりますね」
「ううん、そうじゃないの。ちょっと耳をすましてみて」
シャチに追われている間は夢中で気づく暇もありませんでしたが、いまこうして神経を研ぎ澄ませてみると、目にも耳にも捉えられない不吉な影が環礁全体を覆っているように、クレアには感じられました。不定形の影はユラユラとうごめきながら、礁湖の膿んだ湖底から湧きだし、白脱したサンゴの城壁に入ったいくつもの亀裂から外へと徐々に染み出しているように思えました。
二頭はじっと聞き耳を立てました。本来ならあふれんばかりの生命のさざめきに満ちているはずなのに、このサンゴ礁はまるで呪いでもかけられているかのようにひっそりとしていました。ときどき届いてくる声も、元気のない憂鬱なつぶやきや嘆きの声ばかりでした。それらは未来を奪われた者たちの消えることのない怨念のようにも聞き取れました。いったい、数々の小さな魚やエビや貝たちはどうしてしまったのでしょう? そのなかで、あのシャチたちの「全てに死を!」という歌だけが、ひときわ高く、しかし次第に弱まりながら繰り返されていました。
クレアとチェロキーは逃げるようにその場から遠ざかりました。そこは長居をしてはならない場所のように思われたのです。
そのありきたりの小さな環礁が、〈死の精霊〉を持ちこんだ種族の者によって〈大いなる秘密の場所〉と呼ばれていることなど、クレアたちには知る由もありませんでした。