19 大騒音

 大洋の端から端まで泳ぎつくしているクジラたちは、ずっとずっと昔から、彼らの住む惑星はとてつもなく大きいけれども(彼女に比べたら、生物界最大のクジラだってちょうど彼らの表面にしがみついているシラミのようなものです)、それが閉じた球体、すなわち限られた世界であるということを知っていました。そして、たくさんの生きものを育んでいるこの巨大な球が生きているということも。なぜなら、彼女こそはメタ・セティがこの世を創られたときに、自らの腹を痛めて産み落としたこどもだったからです。
 生命の揺り籠にして実の母でもある〈メタ・セティの子〉は、広大な宇宙を漂いながら、自分の体表に住まう無数のちっぽけな寄生虫に乳を与えてきました。生きものたちはみな彼女の恩恵に浴しながらも、彼女の生の表出の途方もないスケールの前にはただただ圧倒されるばかりで、実感するのがかえって難しいほどでした。彼女にとっては台風だってくしゃみの一つにすぎないでしょうし、火山はせいぜい小さなおできのようなものでしょう。
 メタ・セティの寵児が目安にしている時計の針の進み方は、生物の使っているそれに比べてはるかに遅々としたものです。生きものたちをとりまく時間の流れがせせらぎの中で小石を洗う渦巻きだとすれば、彼女が生きる時間は雄大な大河のゆったりした流れにあたるでしょう。なにしろ、彼女の年齢は四六億歳で(彼女自身に尋ねてみても、きっと「あまり遠い昔のことなので忘れた」としらばくれるに違いありません)、これからの余命もまた同じくらいあるのですから。そして、その緩やかな時間の尺度で見たとき、彼女の表情は実にダイナミックに変化を遂げてきました。大気も、海も(彼女の肌は生まれたときからいまほど潤っていたわけではありません)、そして、彼女自身の外皮というべき固い地殻も、刻々とその様相を変えてきました。つんと突き出た鼻梁のような山脈がそそり立ったかと思えば、雨風に削られてたちまち低くなったり、氷河のおしろいを厚く塗ってみてはまた拭い去ったり、顔型そのものである大陸の配置をあちこち移してみたり。彼女は結構容貌にはうるさいたちらしく、これまでの長い半生の間に、同じ髪型や化粧は二度と試さなかったといってもいいほどです(もっとも、十万年やそこらは変えずにいても平気なようですが)。彼女の場合、それらの大がかりな整形手術は全部自分で施すわけです。その方法は、一種の脱皮に近いものでした。
 この惑星の陸地にある岩石には、彼女が生まれたてのころにできたものはほとんどありません。それは、彼女が絶えず古い皮を自らの体内に取りこんで、新しい皮を生えさせているからです。彼女の皮膚が新生する場所は、大洋の真ん中を走る長大な海底山脈です。彼女の体熱が作り出すマントル対流によって上昇してきたマグマは、薄い海洋地殻に割れ目を見つけだして、そこから表面に顔を出します。高温のために盛り上がったこの裂け目の部分が、中央海嶺と呼ばれる海の大山脈です(このうち、太平洋にあるものだけは、なぜか真ん中ではなく南東よりの位置に偏って走っています)。真新しい彼女の皮膚は、年に数センチメートルの速度でここから左右に押し出されていきます。それらがすっかり冷たくなって、最後に海溝の奥底に呑みこまれるまで、つまり彼女の皮膚が全部生え替わるまでには、何億年という年月がかかります。皮の一部は、陸側から流れこんで堆積した土砂とともに、不意に浮上して陸地に付け加わることもあります。
 こうした彼女のたゆまぬ美容体操の結果(往々にしてしわを増やすことにもなるのですが)、大陸がくっついたり離れたり、島ができたり沈んだり、そのほかさまざまな地形が生まれて、気候や潮の流れに影響を及ぼし、ひいては生物の分化や進化をもたらすのです。今日繁栄している種々の生きものたちは、いわば〈メタ・セティの子〉の豊かな表情をより一層際立たせるチャームポイントといえるでしょう。そのおかげで、四六億歳の麗しの淑女は、歳をふるにつれてますます美しく、生き生きとした面立ちを見せているのです。
 海嶺や海溝の近くでは活発な地熱活動が繰り広げられており、いままさに生まれつつある新しい海底の産声を聞くことができます。そこでは奇怪な形状をした溶岩がゴロゴロと転がっていたり、熱せられた水が噴出して鉱物を結晶させ、もくもくと黒煙を吐く煙突を築きあげているのが見られます。闇のベールに包まれた深海の世界こそは、〈メタ・セティの子〉の営々たる生の証左を垣間見ることのできる現場なのです。そして、大地が鳴動し熱水がたぎる一見地獄絵図のようなこの領域には、太陽の光に糧を求めない奇妙な生物たちが群れ集っています。硫黄を食べるバクテリア、目のないカニ、赤い血の流れる大きな二枚貝、口も消化管も持たない不可思議な生物チューブワーム──。よその生態系に属する生きものたちからすれば死の国のように思われても、それらの種族にとっては、そこは願ってもない安楽なコロニーなのでした。
 ときに深みを訪れることもあるクジラたちは、そのような深海の生物層や生々しい大地の営みについても、母なる海が持つバラエティに富む素顔の一つとして認識していました。ところが、彼らの種族の〈創造のなせる態の多様さに目を見張る者〉にも引けを取らないほど熱心に、そのありさまを観察する者がありました。その〈観察者〉とは、ほかでもない〈沈まぬ岩〉でした。それらの貪欲とさえいえる学究心の高さは、クジラの〈生物観察者〉も称賛を贈るに価するほどでした。しかし、その大がかりな目の見張り方≠ヘ、ややもすれば他の生きものたちの迷惑を顧みないものになりがちでした。また、〈岩〉のそれらの活動の本当の動機は、生きものの世界の素晴らしさに息を呑むためというよりも、どうやら〈メタ・セティの子〉が体表に分泌した垢(しばしば高純度のマンガンやニッケルを含んでいます)や、太古の生きものたちの屍の変成物(こちらは脂分に富んでいます)に目を見張る≠アとにあったようです……。


 危ういところで恐るべきシャチの追撃をかわしたクレアとチェロキーは、サンゴ礁の島々の広がる海を抜けて、再び四方を水ばかりが占める大海原を東へ向けて泳いでいました。
 一度はジョーイを誘拐したシャチの群れに肉迫し、後少しで彼との再開を果たせるというところで、息子の安否を確かめる間もなく、殺戮者のシャチから逃げるために後戻りしなくてはならなくなったクレアは、がっくりと胸ビレを落としていました。凶暴な歯クジラに噛み殺される運命は免れたものの、またもやジョーイの居場所はつかめなくなってしまったのです。どんなに耳をすましてみても、ジョーイの声もシャチたちの泳ぐ音も聞こえてはきません。クレアたちを追い返している間に、鳴りをひそめてもっと遠くへ姿をくらましてしまったのでしょう。
 誘拐犯がそのまま直進コースを保つという保証はどこにもありませんでしたが、二頭は当初の予定どおり東の進路を取っていました。ポリネシアまでの道中、ジョーイに追い着こうとエンジンをフル回転させて飛ばしてきた勢いも、いまではすっかり衰えていました。クレアは何やらしきりと考えこむようになり、気まずそうについてくるチェロキーの姿も目に映らないといった様子でした。
 たとえもう一度シャチの群れに追い着けたとしても、ジョーイを救いだす手立てがなくてはなんの意味もありません。いったいどうしたら、あの狂気のシャチたちのヒレからジョーイを奪還することができるだろう……。体型の点ではさしたる違いがないとはいえ、鋭い牙と鯨類界随一のスピードを誇るシャチと、唯一の武器が大きさでしかないヒゲクジラとでは、最初から勝負は見えています。おまけに、集団で狩りをする性質を有するシャチは、頭脳の点でも他のクジラ族より優秀です。わけてもずる賢そうなこの相手の裏をかくのは、生易しいことではないでしょう。海中で物を()る#\力においても、シャチたちのほうがはるかに勝っています。どんなに頭をひねっていい知恵を搾り出そうとしても、発見されずに接近し、ジョーイをこっそり連れ出す方法など見つかりそうにありません。こちらが向こうを感知するずっと以前に、相手のほうがこちらの所在に気づいたのですし、いまや警戒心を強めているでしょうから、おいそれとは近寄らせてくれますまい。せいぜい、母親が目の前でむごたらしく殺されるところを息子に見せつけることになるのが落ちでしょう。亡きレックスとの約束を果たす自信が、水から出たアメフラシのように急速にしぼんでいくのを、クレアは感じました。
 海の上では貿易風が、昨日も今日も飽きもせず南東の向きを保ちながら吹き渡っています。緩やかなうねりと穏やかな日差しは、常夏の赤道の領域に近づいたことを告げていましたが、クレアの頭の中では苦悶のブリザードが吹き荒れていました。
 チェロキーはチェロキーで、クレアについてここまで来てしまったことに、いくぶん後悔の念を覚えていました。行方不明の彼女の子を捜すところまではいいとしても、狂ったシャチの大顎から生命からがら逃れる羽目に遭うのはもう願い下げでした。たとえ次の婚約相手が見つからなくても、仲間と一緒に無難な一年を送ったほうがマシだったかな……。一方で、この一途で気丈なミンククジラのメスに、彼が好感を抱いていることも事実でした。なんとか彼女に息子を取り戻させてやりたいと思いました。出会いの瞬間の感動的な情景は、きっと歌の題材にもってこいでしょう。いまの自分が一皮向けて成長するきっかけになるのでは、とあてにしてもいました。それに、いやしくも〈歌鯨〉の端くれを自認する者とあれば、危難に際しても威風堂々と構えていなくてはなりません。コンテスト会場であがってしまって声が上擦るようでは、とても大物の歌手になれる見込みなどないのですから。ましてや〈聖歌鯨〉ともなれば、たとえやくざ者のシャチにとり囲まれようと、歌を途中で中断したりなどしないものです(その点、シャチの影にあわてふためいて真っ先に逃げだしたのは、まだまだ彼に修業が足りない証拠でした)。といって、クレアほど頭を悩ませるまでもなく、強力な天敵に自分たちの歯が、いえ、ヒゲが立たないことは明らかです。チェロキーもクレアと同じく、吹雪の迷路にはまりこんで抜け道を探しあぐねていたのでした。
 二頭の旅は、一転して暗く憂いに沈んだものとなりました。黙々と泳ぐ二頭の前方に大きな影が浮かんでいるのを、先に見出したのはチェロキーのほうでした。場所はちょうど南北にうねうねと連なる海底山脈──東太平洋海膨の真上で、彼らは深海に峻険としてそびえる峰々の頂よりさらに一マイル以上の高みを横断しようとしていたところでした。
「アネさん、前に何かいるぞ!?」
 二頭はシャチの猛追を受けた後だったので、まずその場にとどまって用心深く相手を聴定(みさだ)め≠謔、としました。
「〈沈まぬ岩〉だわ!」
 跳ね返ってきたエコーを聞いたクレアは狼狽して叫びました。〈豊饒の海〉での痛ましい記憶がまざまざと彼女の脳裏によみがえってきました。怯えてすくんでいるクレアに対し、チェロキーたちザトウ一族は久しく〈沈まぬ岩〉の攻撃を被っていなかったため、彼はもっとよく相手の正体を確かめたいという誘惑に駆られました。
「ここは〈豊饒の海〉じゃないから大丈夫ですよ、アネさん。それに、あいつは〈ゴースト〉も吐き出しちゃいないようだ」
 チェロキーはそろそろと回りこむように〈沈まぬ岩〉に接近していきました。
「チェロキー、よしてよ! 危ないわ!!」
 クレアの頼みを無視してチェロキーは進みました。彼としてはここで勇気を見せて、先ほど演じてしまった失態に対し名誉を挽回したいという心積もりもあったのです。
 チェロキーの接近に対しても、その〈沈まぬ岩〉はなんの反応も示しませんでした。クレアも仕方なくおそるおそるチェロキーの後に従いました。かなり大型の部類に入るその〈沈まぬ岩〉は、海の上の一ヵ所にじっとしたまま波に揺られていました。確かに、〈豊饒の海〉ではクジラ族に襲いかかるのは主として小ぶりの〈岩〉のほうでしたし、その間大型の〈巌〉のほうは餌が運ばれるのをただ待っているだけでした。いまのところ、聴通(みとお)し≠フよいこの近辺の海に、手下の小型〈岩〉がひそんでいる気配はありません。
「死んでるのかな?」
「油断しちゃだめよ」
 近づくにつれて、相手の輪郭がはっきり捉えられるようになりました。普通の〈沈まぬ岩〉の底が、独特の推進器官を備えた後尾を除いて滑らかなのに対し、その〈岩〉の下部にはいくつかの突起物が飛び出していました。また、後方の水中に何か魚らしき形をした小さなものが付き従っていました。
「動きだしたわ!」
 〈沈まぬ岩〉は実にノロノロとしたスピードで進み始めました。クレアとチェロキーが移動しても、それは針路を変えようとはしませんでした。チェロキーは恐いもの見たさと、〈歌鯨〉としての度胸試しのつもりもあって、その場に踏みとどまって不可解な動く無生物の行動を見極めようとしました。〈岩〉が彼らから百メートル以内にまで迫ったとき、突如すさまじい大音響がとどろきました。
「な、なんなのっ!?」
「うひゃ〜〜っ!!」
 轟音は大地を伝わる地震のように、四方の水塊を激しく揺さぶりました。音源は〈岩〉自身ではなく、それが曳いている小さな付属物のほうでした。いずれにせよ、圧縮空気の爆発によって引き起こされたその音は、クレアたちの鋭敏な聴覚を一時的にマヒさせるのに十分な音量を持っていました。
「鼓膜が破れるよっ!!」
「頭が痛いわ!!」
 音は海底の山脈にぶつかり、往復二マイルの距離を経て返ってきました。反射したこだまが完全に消え入る間もなく、第二波が襲いかかりました。それは特定の獲物を狙い撃ちしたものではなく、そこら中にばら撒かれる音の散弾でした。そのうえ、音のスペクトルのあらゆる領域が一挙に放射されていました。騒音が続いている間、二頭の方向感覚は混乱を来し、お互いの位置さえわからなくなってしまいました。
「チェロキー! 早くここから離れるのよ!!」
「アネさん、なんて言ったの!? 聞こえないよっ!!」
 〈沈まぬ岩〉はゆっくり前進しながら、等間隔で立て続けに怒号のような音響を撒き散らしました。被害にまきこまれた二頭のクジラがすっかり気を動転させ、なす術もなく右往左往していたところ、不意に別の声が耳に届きました。
「こっちへいらっしゃい、早く!」
 それは〈岩〉の鳴音の隙間をついて慎重に選ばれた低周波の声でした。クレアたちは声の主が何者かを確かめる余裕もなく、呼ばれるままに懸命にヒレを動かしました。
「早く! こっちじゃ!」

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