24 赤道を越えて

 クレア、チェロキー、ダグラス、ジャンセンの四頭の混成クジラ冒険隊は、北赤道海流をくぐり抜けて〈裏の一族〉の領内へとやってきました。そこはクレアとチェロキーにとっては初めてヒレをかき入れる場所であり、若い二頭は未知の海に対する不安と好奇心を抑えることができませんでした。波の色、風のそよぎ、日の光──どれをとっても赤道という一本の境界線を越しただけで特段差があるようには思えませんでしたが、そのどれもに二頭はエキゾチックな雰囲気を感じとりました。それに対して、ダグラスにとっては実に四年ぶりの訪問であり、彼は潮の香をしみじみと懐かしむようにその場にたたずみ、北方に広がる海を見渡して目を細めました。一方、やはり何度か両半球を往来したことのあるジャンセンは、格別郷愁を噛みしめるようなことはありませんでした。彼に言わせれば、〈表〉であろうと〈裏〉であろうと海は海なのです。
「いい、チェロキー? これからは北半球が〈表〉で南半球は〈裏〉になるってことを忘れちゃだめよ?」
「わかってますって」
「ダグラスはお生まれはどちら? まだ聞いてなかったわね」
「生まれは南じゃが、〈歴史編纂者〉になってから過ごした年数はほぼ半々じゃな」
「ジャンセンは?」
「忘れた」
 クレアは自分がいま、ジョーイ捜索に向けた第二のスタート台に立っていることをしっかりと胸に刻みました。そして、これから先たとえどんな困難が待ちかまえていようとも、必ず彼をとり戻してみせるとの決意を新たにしました。一行はひとまずジョーイを連れたシャチたちの通った形跡と目撃者探しに目標を定め、北進を開始しました。
 さて、四頭のクジラがそろったところで、改めて彼らの特徴を比較してみましょう。
 まずはミンククジラのクレア。彼女は全長八メートルとちょっと、体重一〇トン、同族としては平均的な大きさですが、彼女たちの種族はヒゲクジラ中でコセミクジラに次いで身体が小さく、四頭のうちではもちろん最小です。黒に近いダークグレイの背中とコントラストをなす白い腹部には、五〇本を越えるウネが下顎から下腹部に向けて整然と並んでいます。口の中のヒゲは左右三〇〇枚ずつくらい、色は淡いクリーム色に黒い縁どりがついています。頭部は細くとがった楔形をしており、鼻筋には先端から噴気孔にかけて稜線が走っています。背ビレはどちらかというと尾部に近く、小さくて先が鋭くとがっています。そこから後端の尾ビレにかけての下半身はキュッと引き締まっています。彼女たちミンククジラに特徴的なのは、胸ビレの付根にある灰色のパッチと、両側の胸ビレを結ぶ背中の位置にかかっているちょうど肩かけのような二本の白い帯です。潜水時間は五分から一五分程度、水面で四、五回浅く呼吸した後潜水に入りますが、尾ビレを水面上に現すことは滅多にありません。潮の形状は細長い卵のような形で、垂直に吹き上げます。
 お次はザトウクジラのチェロキーです。体長一二メートル、体重三〇トン、同族中では若干小柄です。彼の仲間はナガスクジラ科の中ではいちばんずんぐりした体格をしています。下顎の先端と上顎にはたくさんの丸いコブがあり、フジツボやクジラジラミが間借りしています。背中のやや出っ張った部分に三角形の帆のような背ビレがついています。腹部のウネの数は二〇本とやや少なめです。ヒゲの数は三五〇枚ずつくらい、色は黒くて粗めです。体色は背中が黒、腹側は白と黒が入り混じっており、胸ビレの上面と尾ビレの下面にはこじんこじん個鯨個鯨(こじんこじん)で異なる白黒の斑紋様が見られます。チェロキーも自分自身のID標識を所持しています。この胸ビレの長さと尾ビレの幅が非常に長いことが、彼らの種族の異種族と際だって異なる点でもあり、ともに三メートル以上に達します。潜水時間は五分から一五分、二〇分以上潜っていることもあります。二、三回潮を吹いた後、隆起のある背中をこんもりと盛り上げて深い潜水に入りますが、このときたいてい尾ビレを空中に高々と掲げます。さまざまなパフォーマンスや歌を盛んに披露することも、ザトウ一族の目立った特徴です。最も豪快なのがほぼ全身を水面上に現すブリーチングですが、このほかにも、胸ビレで水面を打ちつけるフリッパリング、頭を突き出して下顎で水面をたたくヘッド・スラップ、尾ビレの裏側を水面にたたきつけるフルーク・スラップ、逆に尾ビレの背面を使うペダンクル・スラップ等々があります。チェロキーの派手なおしゃべりも、これらのボディーランゲージを十二分に駆使しているものと思ってください。ジャンプと歌の詳細は前にチェロキー自身の口から紹介してもらったので、ここでは省略しましょう。
 続いてシロナガスクジラのダグラス。彼は全長二六メートル強、体重一二〇トン余り、齢に準じて同族のオスの中ではかなり大きなほうです。当然四頭のうちではだれよりも大柄です。身体の色は灰青色、皮膚には一面に白っぽい斑点が散らばっています。水面下にいるところを上からのぞくと、淡いブルーに輝いて見えます。流線型のスマートな身体つきで、大海を悠々と泳ぎます。上顎の先端はとがったクレアに比べるとやや丸みを帯びています。ウネの数は八〇本内外です。ヒゲは片側三三〇枚くらい、黒くて長さは一メートルになります。身体の大きさの割に背ビレは小さく、背中の後ろのほうにちんまりと鎮座しています。巨躯にふさわしく、潮吹きの高さは六メートルから一二メートルにも及びます。潜水時間は一〇分から二〇分、二〇秒間隔で数回この霧の塔を築いた後、大潜水に突入します。潜水時には尾ビレを海面上に少し振り上げます。彼の泳ぎにも潜りにも、老熟した海の賢者の風格が備わっています。それは、苛烈な歴史を乗り越えてきた鯨類中最大の種族の者に共通の優美さといえるかもしれません。
 最後がマッコウクジラのジャンセン。体長一九メートル弱、体重六五トン、ハーレムを率いるマスターと比較しても遜色のない体格の持ち主です。ヒゲクジラ類が身体の両端のすぼまった流線型であるのに対し、彼らマッコウクジラは大きく突き出た槌のような頭部を持っているので、尾に向かって細くなっていく円筒のような形態をしています。切り立った絶壁のような前額は威風堂々たる感があります。暗灰色の堅い皮膚には、彼がこれまでにくぐり抜けてきた幾多の決闘で受けた引っかき傷が全身にわたって刻まれています。そのうちの一部には、餌であるイカの吸盤の円い跡も混じっています。円錐形の歯が左右二〇本ほど並ぶ下顎はほっそりしていて、歯のない上顎の先端よりも奥に引っこんでいます。丸みを帯びた胸ビレはさほど大きくなく、背ビレも身体の後方に小さな段上の隆起が並んでいるだけです。小さな眼球は頭蓋骨の側面にはめこまれているため、身体を傾けないと前後の方向を見ることができません。一つ穴の噴気孔は頭の左方に偏って開いており、したがって、潮吹きも左斜め前方に約四五度の角度で噴き出されます。他の仲間の潮はほとんど水蒸気ですが、彼のブローには大粒の水滴が含まれています。潜水時間は四頭中でずば抜けており、四〇分から一時間以上に上ることもあります。一度浮上すると一〇分ほど海面にとどまって、三〇から五〇回ほど潮を続けざまに吹いた後、三角形の尾ビレを翻して深く長い潜水に入ります。生活パターンが他の三頭と大きく違ううえに、彼の性格が性格なこともあって、並んで泳いでいるクレアたちと一緒になろうとせず、気ままに後からブラブラとついてきました。

 チェロキーはジャンセンにぞっこん入れ揚げてしまい、おべっかを使ったりして彼の機嫌をとろうとしましたが、あまり度が過ぎるとヒレ蹴(あしげ)にされて追い払われました(ジャンセンもヒゲ持ちの小童¢且閧ノ本気で怒ったりはしませんでしたが)。それでもチェロキーはめげず、なんとかジャンセンから話を聞きだそうとしました。クレアとダグラスにはもうすっかり自分の不甲斐なさがばれてしまいましたし、ジャンセンにはチビのザトウの冒険談などはなから相手にされないでしょう。チェロキーの話のレパートリーに含まれるネタは、いずれも多かれ少なかれ彼自身の自慢話が入っているため、この三頭にはもはや通用しそうにありません。となると、残る暇つぶしの方策は他のクジラの話に耳を傾けることだけです。クレアは鯨前(ひとまえ)でしゃべるのは苦手だと言って渋りますし、ダグラスの話はともすれば重々しくなりがちです。チェロキーとしては、自分たちの種族とほとんどつきあいがなく、その生活ぶりについてまったくといっていいほど知識のないマッコウ一族の物語を、ぜひともジャンセンの口から聞いてみたいと思ったのでした。けれどもジャンセンは、「気乗りがしねえ……」と言って彼にはまったくつれない態度です。かくして、チェロキーにとって、いかにしてジャンセンに口を開かせるかという、一筋縄ではいかない道中の課題ができました。
 四頭は一路北を目指して進みながら、交代で休憩をとって見張りにつきました。凶悪なシャチたちの襲撃に備えることもありますが、あの巨大ホオジロザメのような怪物がいつ何時襲ってくるかわかりません。しかし、いまのところはこれといった異変の兆しもなく、熱帯の紺青色の海はどこまでも広く、深く続いていました。
 クレアはときどき夢を見ました。例の、ジョーイが恐ろしい怪物に呑みこまれようとしている夢です。巨大な化物の正体は依然として不明でしたが、化けホオジロすら色を失うほどの戦慄を、彼女は覚えました。その姿は日増しにリアルになっていき、いつも後少しで青霞のベールがとり払われるというところで、彼女はその悪夢から覚めるのです。目覚めてからしばらくの間、彼女は心臓の高鳴りを鎮めることができませんでした。
 小さいころ、クレアは何度か悪い夢を見てうなされることがありました。そんなとき、彼女の母親は、まだ〈沈まぬ岩〉に襲われる前の先代の〈行く末の語り手〉のもとへ娘を連れていきました。〈語り手〉は穏やかな目でじっと彼女の目を見つめてから、物静かな口調で心配するには及ばないと母をなだめました。彼が言うことには、「クジラはだれしも予言者になりうる素質を有しており、将来のできごとに関する暗示を日々受けているのだが、それに気づかないだけで、その夢の中に含まれているメッセージを正しく読み取れる者だけが、〈行く末の語り手〉になれる」のだそうです。
 幼い時分に見た夢が果たしてどんな内容のものだったかははっきり記憶にありませんが、最近見る夢の恐ろしさは、こども心に味わった恐怖を数層倍も上回るように思いました。いったいこの夢にどんな意味が隠されているのだろうか……。胸の奥で渦巻いている不吉な予感は、現〈行く末の語り手〉の予言ともあいまって、この旅が終わるところで待ち受けているものへの漠然とした不安をより一層あおりたてました。クレアは、自分が〈行く末の語り手〉でなくてよかったとつくづく思いました。
 一行はときおり漂白性の生きものに出会う以外、ほとんど何も見当たらないだだっ広い海原を突き進みました。赤道を突破してから五日ばかり過ぎたある日、深みに潜って勝手にうろついていたジャンセンが不意にクレアたちのほうへ寄ってきて、ボソリと「イルカだ」とつぶやきました。ほどなく、大勢のイルカたちのブツブツ、ギーギーいう声が残りの三頭の耳に届きました。
「あれはハシナガとマダラじゃな」そう言ったのはダグラスでした。
 太平洋の熱帯域に住むハシナガイルカとマダライルカは、数千頭から一万頭もの大群をなして外洋を回遊しています。この二つの種族は、異種族でありながら一つの生活協同体を形成しており、休息の時間と食事の時間は当番制を敷いてそれぞれ交代でとるようにしています。ハシナガイルカは夜行性、マダライルカは昼行性ですので、片方が休眠している間はもう一方が獲物を捕りつつ見張りをするというやり方で、身を隠す場所のない海の真ん中でサメの攻撃から身を守れるわけです。
 この混成群には彼らイルカばかりでなく、キハダマグロという魚族の盟友も含まれています。イルカは獲物を探知する能力に優れているので、同じ中型の魚を餌にしているマグロは、水面近くを泳ぐイルカの陰の下に好んで潜りこみます。その代わり、サメの襲来に対して即座に群れの態勢を崩すマグロたちを、イルカは一種の警報装置として利用しています。こうした見事な多編成の海の生活協同体は、広大な外洋を住みかとするこれらの生きものたちにとってたいへん便利なものでしたが、近年になってそれがかえって仇となるできごとが頻発し、イルカたちの生存を脅かすようになりました。
 四頭の大きなクジラの存在に気づくまで、イルカたちはしきりに言葉を交わしていましたが、彼女たちが接近してくると急に声を落としました。彼らの態度からは、日常のクジラとイルカの交歓情景とは相容れない、張りつめた空気がうかがえました。クレアは〈豊饒の海〉でレックスの悲劇の折に出会ったダンダラカマイルカのことを思い出しました。彼女は戸惑いを覚えつつも前へ進み出て、〈潮吹き共通語〉であいさつしました。
「こんにちは、イルカさん。どなたかお話を聞いていただける方はいませんか?」
 昼当番に当たるマダライルカの斥候三頭がクレアたちのほうへ近づいてきました。四頭のクジラは、その間も始終多くの不穏な視線が自分たちに注がれるのを感じました。
「こんにちは、大きな種族の方々。私たちロンガカウナ〈生協〉に何かご用でも?」
 口を開いた一頭は、陽気なイルカとは思えない緊迫した口ぶりで、大きな親戚の混成群を見回しました。イルカたちの注意はとくに後ろに控えているジャンセンに向けられたようで、クレアが話している間にも、彼らの視線は堂々たる体躯のマッコウの偉丈夫に吸い寄せられていました。なぜいちばん小さなミンククジラが代表してしゃべっているのか不思議がる様子も見られました。
「私たちは〈裏〉の海からはるばる旅をしてきた者です。実は、ミンククジラのこどもを連れたシャチの群れを捜しているのですが、どなたかこの辺りでお見かけになりませんでしたか?」
 三頭のイルカは互いに顔を見合わせ、しばし押し黙ったままクレアの顔をマジマジと見つめました。後方の群れの中からもどよめきがあがりました。ハシナガイルカたちも大方目を覚ましたようです。代表者のイルカたちは、互いに細長いくちばしを寄せ合って何分かコソコソと言葉を交わしていましたが、やがて中の年長者の一頭が警戒心をあらわにしながら問いました。
「あなた方の目的をうかがいたい」
 クレアは簡潔に、息子が正体不明のシャチたちに誘拐され、自分は〈豊饒の海〉から赤道海域まで彼らを追ってきたのだということを説明しました。イルカたちは再度相談に入りました。後ろの群れでは喧々諤々の議論が飛び交っていました。ピーピーガーガーという甲高い声はクレアにはほとんど聞き分けることができませんでしたが、その一部にはどうやらクレアたちに対するあからさまな非難も含まれていたようでした。
 年上のイルカが再び口を開きました。「私たちはそのシャチたちを知っています。しかし、できればもう話も口にしたくない相手です。あなた方が信用に価するかどうか分からないが、教えないことでいまさら不利益があるとも思えないからお教えしましょう。というのは、もうすでに私たちは不利益を被ってしまったのですから……。私たちはちょうど三日前にその移動中のシャチの群れを目撃しました。当〈生協〉に関心を示してはいないようでしたが、時期外れの来遊だったので、念のため有志を募って距離を置いて観察することにしました。監視に当たった若いイルカたちからは定期的に報告が送られてきましたが、昨日ふっつりと連絡が途絶えてしまいました。そして今朝方になって、私たちは群れから送りだした一二頭の見るも無残な死骸を発見したのです。傷跡は確かにシャチによるものでした。彼らは、しかし、危険の兆候を見出して私たちに知らせる間もなく殺されたのです。すでにサメどもが集まってきていたので、私たちは遺骸をその場に放置したまま殺害現場から離れなければなりませんでした。斥候たちの最後の報告によると、シャチ群のサイズは二〇頭弱、奇妙なことにヒゲクジラのこどもを引き連れているとのことでした──」
 今度はクレアたちが顔を見合わせる番でした。ジョーイ誘拐犯の残忍なシャチに間違いありません。クレアは全身がむずがゆくなるのを覚えずにはいられませんでした。
「そのシャチたちはどちらへ向かいましたか?」
「真っすぐ北を指して進んでいましたよ。こちらへ来られていたらたまったもんじゃない」
「どうもありがとう」
 クレアはイルカたちに礼を述べると、チェロキーたち三頭のほうに向き直りました。
「待ってください。あなた方はまさか、あの冷酷非道なシャチたちの後を追うつもりなんですか!?」年配のイルカの傍らにいた一頭がびっくりして訊きました。
「ええ」
 クレアは一つこくっとうなずくと、仲間とともに怯えるイルカの群れを後にしました。後ろで彼らが、「ああ、またサメのご馳走を増やすことになる……」と嘆いているのが耳に入りました。
「こいつはおもしろいことになりそうだ。下顎の歯がウズウズしてきたぜ」ジャンセンが不敵な笑みを浮かべていいます。
「ぼ、ぼくも上顎のヒゲがムズムズしますよ」そう言ったチェロキーの顔は蒼白気味でした。
「行きましょう、北へ」
 クレアの号令で、一向は過たず北へ針路をとりました。
 イルカたちと別れてから2時間ばかりが経過したとき、進行方向へたびたび探索音を発射していたダグラスが不意に叫びました。
「いたぞ! 前方一五マイルの地点じゃ!」
「間違いないですか、オヤジさん?」外れていることを半分期待しつつ、チェロキーが確かめます。
「ああ、間違いないとも。約五〇頭の中型サイズのクジラ群じゃ。ここからでは判別がつかぬが、おそらくあの中にジョーイたち鯨質(ひとじち)も混じっているじゃろう」
「ジョーイ!」
 四頭が加速をつけようとしたその刹那でした、後方からイルカたちの悲鳴が聞こえてきたのは──

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