25 イルカ救出作戦

 クレアたちの背後から聞こえてきたのは、間違いなく先ほどジョーイの行方を尋ねたばかりのマダライルカとハシナガイルカの混成群──ロンガカウナ〈生協〉のイルカたちの声でした。例の凶悪なシャチがついに彼らの本隊にも襲いかかったのでしょうか? しかし、当のシャチの群れは、たったいま彼女たちの前方視界≠ノ入ってきたところです。それに、イルカたちの悲鳴には、確かに怯えた調子が混じってはいたものの、それは以前クレアが耳にしたハラジロカマイルカたちのつんざくような断末魔の絶叫とは異なり、未曾有の事態に直面したときの困惑と狼狽の色を含んでいました。
 クレアはいったん停止すると、後方に注意を凝らしながらダグラスに問いました。
「ダグラス、あのイルカさんたちの身に何が起こったのかわかる」
 ダグラスもクレア同様一八〇度向きを変えると、数時間前に発った海域を耳で凝視≠オました。しばらく探索に集中していた彼の表情がにわかに険しさを帯びました。
「むむ……〈岩〉がおる……」
 クレアはビクッとしてダグラスのほうを振り向きました。「なんですって!?」
「数は一つ……イルカたちのすぐ近くじゃ。彼らはあそこから逃げることができんらしい。おそらく──」
 クレアとチェロキーは顔を見合わせました。きっと〈ゴースト〉の仕業に違いありません。クレアの脳裏に水面でもがいているミナミトックリクジラの坊やの姿がよぎりました。あのイルカの大集団の中には、大勢の仔イルカや母イルカも含まれていたはずです。彼女は思い詰めた顔で同行のクジラたちを振り返りました。
「助けに行かなくちゃ!」
「なんだって!? ジョーイはどうするんです!? やっとまた発見できたっていうのに!」チェロキーがびっくりして聞き返しました。
 クレアはイルカたちと正反対の方角、ジョーイとシャチたちのいるほうに首を向けました。こうしている間にも、彼らは自分たちとの距離を開けているのです。いま見失ってしまったら、また手間のかかる捜索を一からやり直さなければいけませんし、また見つけられるという保証もありません。クレアの顔に深い苦悶の色が浮かびました。ここでシャチたちを追うのをやめて取って返したら、今度こそ二度とジョーイに会えないかもしれない。だけど……。
 板ばさみにあったクレアは、助言を求めるように三頭の仲間の顔を交互に見回しました。
 チェロキーは、「アネさん、あんなイルカたちのことなんかほっとくべきですよ! ぼくらと話すときだって愛想が悪かったし、こっちのことを信用してないなんて言ってたじゃないですか。ジョーイ救出を優先するべきですよ!」とまくしたて、彼女を諭そうとしました。
 ダグラスはしばらく難しそうに考えこんでいましたが、「クレア、一つ念を押しておくが、わしたちが戻ったとてイルカたちのためにできることは少ないかもしれん。あまり多くを期待しすぎてはいけないよ」と忠言しました。
 ジャンセンは、「あんたが決めるこった。好きにしな」とだけそっけなく言いました。
 クレアは遠ざかっていく息子と誘拐犯のいるほうをじっと見つめると、視線を逸らして思いを断つようにきっぱりと言いきりました。
「あのイルカさんたちを見捨てることはできないわ。理由はどうあれ、ジョーイの居場所を教えてくれたんだし」
 彼女はもう北の方角を振り返らず、もと来た道を引き返そうとしました。
「アネさんってば!」チェロキーはなおも抗議の声をあげましたが、クレアの決意が変わらないのを見て首を横に振ると、仕方なく彼女の後に従いました。
 〈沈まぬ岩〉の間近で密集しているイルカたちの居場所へと、四頭は用心深く接近していきました。イルカたちは右往左往しながら口々に泣き叫んでいました。彼らは一種の狂乱状態に陥っており、クレアたちが来たことにも気づいた様子はありませんでした。クレアは声を落としてダグラスに訊きました。
「どう思う?」
「うむ……間違いなく〈ゴースト〉のようじゃな。見なさい、イルカたちは〈岩〉の張った見えない壁の中で、〈岩〉とは反対の側に寄り集まっておるんじゃ」
「あの〈岩〉はどの程度危険かしら? もちろん、危険でない〈沈まぬ岩〉なんてないだろうけど」
「ああやってじっとしているところを見ると、〈クジラ食〉や〈イルカ食〉の種類ではないな。おそらく、やっこさんの目当ては下を泳いでおるキハダマグロたちじゃろう」
「それじゃ、とりあえずイルカたちは大丈夫ってことですね?」チェロキーはパニック状態のイルカたちをおっかなげに横目で見ながら尋ねました。
 ダグラスに代わって口を開いたのはジャンセンでした。「〈クジラ食〉じゃねえからといって、安心だと思ったら大間違いだぜ。やつらは俺たちを食おうが食うまいが同じように殺す。あの〈沈まぬ岩〉はな、キハダを捕るために、魚連中といつもつるんでやがるイルカの群れの周りに〈ゴースト〉を張るのさ。イルカたちは水面に出て潮を吹くから、彼らを見つけたほうがてっとり早いってわけだ。やつらは〈ゴースト〉にかかったキハダのほうは胃袋に収めるが、イルカたちには用がねえから殺したままうっちゃっておくのよ」
 ジャンセンの辛辣な言い草は、彼が〈沈まぬ岩〉のことを快く思っていないことを示していました。その話を聞いて、クレアは〈岩〉だったらありそうなことだと思いましたが、何千頭ものイルカたちをただマグロを見つけるだけの目的で殺してしまうというのは、やはり狂気の沙汰としか言いようがありません。
 彼女たちが見守っているうちに、状況に変化が訪れました。イルカたちは徐々に移動を始めました。というより、実際には〈ゴースト〉が閉じこめられた生きものたちもろとも〈沈まぬ岩〉のほうへとたぐり寄せられているのです。イルカたちの戸惑いの声は、にわかに恐怖の度合いを濃くしました。クレアは慎重にイルカたちのそばに近寄っていき、泣き喚いている彼らに声をかけようとしました。
「イルカさん! イルカさん!」
 クレアはこの際〈沈まぬ岩〉に察知されることもかまわず大声で叫びましたが、イルカたちの騒乱は一向に収まる気配がありませんでした。
「おい、こら! せっかく助けにきてやったんだから、なんとか返事しろよ!」
 チェロキーが怒鳴ってみても、やはり彼らは耳を貸そうとしません。クレアはどうにかこのイルカたちを救出する方法はないものかとじっと思案しました。タスマン海で〈ジャイアント・ゴースト〉に体当たりしたとき、彼女はそれが音では聴分(みわ)け≠ェつかないほど細い繊維状の物質で作られていることを知りました。しかし、それは海中に立ちはだかってはいても、空気中にまで延長しているとは考えられません。だとすると、イルカたちの跳躍力をもってすれば、この罠の縁を飛び越えて外へ逃れることは十分可能なはずです。
「イルカさん! 跳ぶのよ、〈ゴースト〉の上を! 早く!!」
 クレアは懸命に声を張り上げましたが、イルカたちはなおも狂ったように泳ぎまわるばかりです。しばらくして、やっと中の一頭が彼女たちの存在に気づきました。それは最初会ったとき渉外役として対話を交わした年配のマダライルカでした。
「ああ、大きな種族の方々、なんで戻ってきなさった? 私たちはもうだめです。以前から次々と群れを全滅させる恐ろしい〈岩ギンチャク〉の噂は耳にしていたが、ついに私たちもその罠にはまってしまった。ああ、こんなことならシャチたちに食われていたとしても同じことだった……」マダライルカはそう嘆くと、くちばしを振り振り仲間のところへ戻っていってしまいました。
「待って、イルカさん! 私の話を聞いて! まだ助かる方法があるのに、あきらめちゃだめよ!!」
 それきりどのイルカもクレアの呼びかけに応えようとしません。彼らになら波の上を飛び越すぐらいわけのないことのように思えますが、恐怖に駆られたイルカたちはただうろたえるばかりで、だれもそのことを思いつく者はいませんでした。普段はいろんなゲームを考案して海での単調な生活に潤いを見出す賢いイルカたちですが、危機的状況に置かれた場合にもそれらの発明の才を発揮するゆとりはないようです。
()え≠ネい、()え≠ネいんだ!」
「恐いよ!」
「助けて!」
 イルカたちは頻々と潮を吹き上げ、盲目になったかのように互いにぶつかり合いながら同じところをグルグルとめぐっていました。そうする間にも〈ゴースト〉の牢獄は次第に狭まっていきます。
「お願い、言うことを聞いてちょうだい!!」
 クレアは、イルカたちが耳を傾けさえしてくれれば救いだせる見込みがあるにもかかわらず、こうして彼らの恐れおののく様を傍観しているしかないことにヒゲ痒い思いがしました。そのとき、業を煮やしたジャンセンが、狂奔するばかりの小うるさいチビ歯クジラたちを一喝しました。
「ガタガタ騒ぐんじゃねえ! 死にたくなかったら言うとおりにしろ! ここまで跳ぶんだ!!」
 ドスの効いたクリック音に、イルカたちは水を打ったようにしんと静まり返りました。彼らの視線はいっせいに気の荒い大柄な歯持ちの親戚に注がれました。
「頼むから、私たちを信用して。彼の言うとおりにしてちょうだい」と再びクレア。
 イルカたちはしばし互いの顔を見交わしていましたが、黙って外にいるクジラたちの指示に従い、だれからともなく跳び始めました。幸い、〈ゴースト〉が水面に接するところには視認できる物体が列をなして浮かんでいたため、要領をつかんでしまえばそれを跳び越すのは楽なものでした。イルカたちは一頭一頭整然と罠の外までジャンプし、間もなく元気のあるおとなたちはみな脱出に成功しました。しかし、彼らが大方脱け終わったところで〈岩ギンチャク〉の中をのぞきこんだクレアは、焦燥の混じった声でつぶやきました。
「だめだわ。これではこどもたちと母親を助けられない……」
 捕まったイルカの中には、すでに〈ゴースト〉にからめ捕られて身動きのとれない者や、恐怖のあまり気絶している者もいましたし、すっかり怯えきって泣き叫ぶ仔イルカとその母親には、自力で中から脱け出すことは不可能でした。クレアは再度、なんとか残った者を助けだす方策を捻りだそうと必死に考えをめぐらしました。〈沈まぬ岩〉の吐き出した〈ゴースト〉は、イルカとマグロの周囲を円筒状にとりまいており、下方に向けて閉じているようでした。ということは、水中には脱出口になる箇所が全然ないということです。といって、タスマン海のときと同じように頭から突っこんで〈ゴースト〉を破ろうというのも危険すぎます。なんとか水中に脱出路を切り開くことはできないかしら……。
 ふとそのとき、クレアの頭に妙案がパッと閃きました。彼女はダグラスとチェロキーのほうを振り向きました。
「グッドアイディアを思いついたんだけど、あなたたちにも協力してもらえる?」
「うえ〜〜、前みたいに特攻するんだったらゴメンですよ」
「今度はもっと簡単よ。思ったとおり、あの〈ゴースト〉は水上にまでは伸びていない。波の上に浮かんでいるクラゲの行列のような部分が壁の上縁になっているのよ。だから、あれを沈めて押し下げることができれば、〈ゴースト〉にかからずに水の中を通り抜けられるかもしれない。あなたたち二頭で浮きの上に乗っかって脱出路を開いてほしいの。そしたら、その間に私が中に入ってイルカの親子たちを外へ誘導するわ」
「なんかあんまり変わりないような気がするなあ……」それを聞いてチェロキーが尻込みします。
「お願い、チェロキー。あなたの機知に富んだところをもう一度見せてちょうだいな」
「へいへい、わかりやしたよ、アネさん親分様」
 チェロキーは渋々承知しました。彼とダグラスは目で合図してうなずくと、平行に並んで上半身を水面から突き出し、浮きの上にのしかかりました。二頭の間に一ダースのイルカが楽に通れる幅の水路が開通しました。クレアはすかさずそこを通って〈ゴースト〉の内部へと侵入しました。相変わらずオロオロしている獄中のイルカたちに向かって、彼女は叫びました。
「さあ、もう大丈夫よ。あの二頭のクジラの間を水面スレスレに泳いでいけば、外へ出ることができるわ」
 幼子を連れた母イルカたちはなおも逡巡していました。彼女たちのうちの一頭が疑わしげな口ぶりでクレアに質問しました。「本当にあそこなら絶対に〈ゴースト〉がいないと言えるの? どこも同じにしか()え≠ネいけど……」
「ええ、そのとおりよ。たったいま、私が通り抜けてきたじゃないの」
「でも、またすぐに広がって通せんぼしちゃったかもしれないじゃない」
「後生だから、私の言うことを信じてちょうだい。急がないと、本当に手遅れになってしまうわ!」
 せっかく考えついた脱走計画も、当のイルカたちが言うとおりに動いてくれないことには効を奏しません。どう言ったら説得に応じてもらえるかしら? もう時間がないっていうのに……。クレアはまたも焦れったい思いに駆られましたが、ここで短気を起こしてみても事態は進みません。イルカは、わざわざ自分から〈ゴースト〉の懐にまで入りこんできたメスのミンククジラを見やり、続いて外で待ち受けている大柄のマッコウクジラを見やり、また彼女に視線を戻しました。イルカの母親の顔には哀願するような表情がうかがえました。ははあん、彼女たちはジャンセンにびくついてるのね……。
 クレアはジャンセンのほうをわざとらしくチラチラと盗み見しながら、イルカの耳もとでこっそりとささやきました。「あのマッコウのオスはね、言うことを聞かないメスをぶん殴るので有名なのよ」
 母イルカは一瞬目を見開いてクレアをマジマジと見上げましたが、あきらめたようにため息をつくと、こどもを伴って指示されたとおりに脱出路に向かいました。他のイルカの親子たちも次々と後に続きます。
「クレア、〈ゴースト〉が〈岩〉にどんどん引きこまれておるぞ!」
「アネさんも早く外へ!」
 母子イルカが全員脱出したのを見計らって、クレアも見えない牢獄の中から脱け出しました。数頭のイルカは〈ゴースト〉にひっかかったまま完全に意識を失っており、彼女にもヒレのつけようがありませんでした。また、〈潮吹き共通語〉が通じないキハダマグロまでは、残念ながら救い出すことができませんでした。普段彼らと別の方法で意思の疎通をはかっているイルカたちが恐慌を来してさえいなければ、マグロたちもむざむざと〈沈まぬ岩〉の餌食にならずにすんだでしょうに。魚族とはいえ、彼らを置き去りにしていかなければならないのはクレアにとって心残りでした。イルカたちはきっと後になって正気に返ったとき、たくさんの協同生活者をいっぺんに失ってしまったことを知って嘆き悲しむでしょう。
「二頭ともご苦労様」
「ふう、〈ゴーストクラゲ〉に刺されやしないかとヒヤヒヤしましたよ」
 牢獄の脱出口を維持していたダグラスとチェロキーにねぎらいの言葉をかけ、二頭とともにクレアはジャンセンとイルカたちのもとへ急ぎました。
「おいおい、俺はメスこどもに暴力をふるったことは一度もねえんだぜ?」
戻ってきたクレアをジャンセンが非難の目つきでジロリとにらむと、クレアはすました声で言いました。
「あら、聞こえてた?」
「ちっ、まったくあんたにゃかなわねえ」
「フフ」
 やれやれとばかり大きな頭を横に振るジャンセンに、彼女は悪戯っぽく微笑みました。
 一同は〈岩ギンチャク〉のそばから一目散に離れました。〈沈まぬ岩〉がイルカたちの脱走劇を呆気にとられて見ていたのか、あるいはまったく気づかなかったのかは知る由もありませんが、いずれにせよ彼らに対してはそれ以上何も企てようとせず、せっせと〈ゴースト〉を繰ることに専念していました。
 ロンガカウナ〈生協〉のイルカたちはみな恐縮した面持ちで、四頭の生命の恩鯨(おんじん)にそろって礼を述べました。
「まったくなんとお礼を申し上げてよいやら……」
「別に礼を言ってもらわなくてもいいけどね、こっちはあんた方のおかげでアネさんの大事な坊やを見失っちゃったんですよ!?」
 チェロキーは憤激した口調で不平を漏らしましたが、クレアはイルカたちを気づかってさっぱりした笑顔で言いました。
「もういいわよ、過ぎたことですもの。ジョーイはまた捜しだせばいいことよ。それに、イルカさんたちが悪いわけじゃないわ」
「あ〜あ、アネさんもほんとにクジラがいいんだから」
「何頭か逃げ損じた犠牲者も出ましたが、群れの大部分が生還できたのはおそらく私たちが初めてでしょう。あなた方に教わった〈岩ギンチャク〉からの脱出法は他の〈生協〉にも必ず伝えておきます。もっとも、〈ゴースト〉の上を跳んで逃げることのできない者を、私たちイルカのみで救出するのは無理ですが……」
 ハシナガとマダラは四頭のクジラに別れを告げると、新たなマグロのパートナーを求めて大洋の彼方へと泳ぎ去りました。
 イルカの群れを見送った後、クレアは次の獲物を探して移動を始めた〈沈まぬ岩〉のほうをもう一度振り返りました。凝然と〈岩〉を見つめる彼女に、チェロキーが尋ねました。
「どうしました?」
「私……〈ゴースト〉の中で見たこともない生きものを見かけたような気がしたの……」
 三頭のオスはけげんそうに顔を見合わせました。中に入ったのはクレアだけでしたし、みなイルカを救出することに夢中で、ほかのことにまで気が回らなかったのです。
「どんなやつでした? 大きいやつ、小さいやつ?」
「ううん、よくわからなかったけど、イルカより小さかったみたい。ひょっとしたら、気のせいかもしれない……」
 クレアは青ざめた顔で低くつぶやきました。
「なんだか寒い……」

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