27 イカとマッコウクジラの契約

「ジャンセン、ジャンセンなんでしょ!?」
 まぎれもなくジャンセンと思われるマッコウクジラは、クレアの呼びかけにも応答せず、まるで赤の他鯨(たにん)のように振る舞っていました。彼はクレアたち三頭のことをまるきり無視して悠然と進んでいましたが、不意に泳ぎ止ると、振り返って彼女たちのほうをじっと見つめました。その目からは、いままでのような仲間に対する親密さは失われていました。
 押し黙ったまま自分たちを凝視するジャンセンを前に、クレアとダグラスはすぐに彼の様子がいつもどおりでないことに気づきました。が、チェロキーは一向に頓着せず、有頂天になって〈毛なしのアザラシ・ウォッチング〉ツアーへの参加体験を話し始めました。凶暴な巨大ザメにも怖気を振るうことのなかったジャンセンが、近寄るのを拒んだ〈毛なしのアザラシ〉を間近に観察してきたことで、ちょっぴり自慢したい気分になったのでしょう。
「いやあ、ダンナ、コククジラたちの言うとおり、〈毛なしのアザラシ〉なんて恐れるに足らない生きものですよ。まあダンナも一度ご覧になればわかると思いますけどね。実際、たいした連中じゃありませんや。あんなちっぽけで弱っちい──」
 ペラペラしゃべっている間もジャンセンが無表情に自分を真っすぐ見据えていたため、ようやくチェロキーは彼の態度の変化に気づき、口をつぐみました。ジャンセンの射るような視線には、怒りや憎しみの色こそなけれ、かすかな侮蔑にも似た、何か異質なものでも見るようなところが感じられました。たじろぐチェロキーに向かって、ジャンセンはおもむろに口を開きました。
「小僧。お前、しょっちゅう俺に話をせがんでいたな。いまそいつを聞かせてやろう」
 そう言ったジャンセンの口調は予想外に穏やかなものでした。彼は三頭を見回しながら尋ねました。
「お前ら、七千世代前のメタ・セティの光臨のときのことを知っているか?」
「ふむ……あれは確か、お主たちマッコウクジラ族に関係する事柄じゃったな」
 ダグラスがうなずきます。
「そうだ。俺たちの種族で、あの歴史上の大事件を知らないやつはいない。俺がこれから話してやるのはそいつ、『ダイオウイカとマッコウクジラの大戦争』の顛末だ──」
 クレアたちは緊張した面持ちで続く彼の言葉を待ちました。太陽は水平線上でユラユラと揺れながら、いまにもその下に没しなんとしていました。ついにその天の篝火がふっつりと消え、残り香のように西空にたゆたっていた薄明も薄らいでいくと、間もなく夜の帳が空も海もすべて覆い尽くしました。波間から突き出たジャンセンの漆黒の頭も、闇に溶けこんで見えなくなりました。それはあたかも、三頭のヒゲクジラを、彼らの滅多に訪れることのない畏怖と驚異に満ちた未知の領域──そして、マッコウクジラ族にとっては日頃通い慣れた心和む世界であるはるかな深海へといざなうかのようでした。

『ダイオウイカとマッコウクジラの戦争の物語』
「──知ってのとおり、細かい雑魚やアミを食うお前たちヒゲ持ちと違い、俺たちマッコウ一族の好物はイカ──それも、全長二メートルほどのニュウドウイカや、ときには全長一〇メートルを越すこともあるダイオウイカだ。もちろん、そんなバカでかいやつがしょっちゅう口に入るわけじゃねえし、イカばかり食っているわけでもねえ。メヌケやホッケなんかの底魚や、タコ、甲殻類も食い物のうちよ。だが、なんといってもダイオウイカにゃ目がねえ。一パイ捕れりゃあ、それで一食分すむってこともある。どうせ食うならなるたけ大物のほうが狩る手間もかからねえし、食いでもあるってわけさ。
「当時は〈集会〉ともなれば、いかにしてうまくでかい獲物をせしめるかが真っ先に議題に上ったものだ。いまみてえに世の中が物騒じゃなかったってこともあるが、イカってのはなかなか抜け目のないやつらでな。骨なしの種族の中じゃ、いちばんの利口者ときてやがる。なんでも、連中は発光信号を使って俺たち天敵の情報を仲間同士で交換し合ってるって噂だ。おまけに、やっこさんは吸盤や鋭いくちばしを持っているから、俺たちにだって少々手強い相手だった。そんなわけで、施政者たちはなんとかダイオウイカを簡単にヒレに入れる方法がないものかと討議を重ねた。ちなみに、俺たちマッコウクジラは普段メスこどもがオスと別々に暮らしているから、〈小郡〉全体の〈集会〉は年に一度しかねえ。〈政を司る者〉は決まってメスがなる。オスはたいてい防衛のことしか頭にねえからな。
「それで、ある年、一頭の〈政を輔ける者〉が提案した。
「『ここは一つ、メタ・セティに願をかけてみてはどうかしら?』
「〈郡〉では前から、毎年メタ・セティに豊漁を祈願するのが習わしになっていた。無論、いつもいつもイカがどっさり獲れるわけじゃなかったが、イカの少ない年は魚が多かったりで、食い物に不自由することは滅多になかった。『餌が足りているのに、大きいほうをくれというのは、贅沢にすぎる』という声も一部にはあったが、結局〈政を司る者〉はそのアイディアを採用した。施政者たちは、メタ・セティに願う具体的な内容を〈郡〉中から募り、協議した結果、イカの動きを遠くから察知できるように、もっと優れた聴力を授けてほしい≠ニ求めることにした。さっそくその年の〈集会〉で〈郡〉の者全員が祈りを捧げた。願いはすぐに聞き届けられたわけじゃなかったが、新しく生まれたこどもはおとなより感度のよい耳を備えるようになった。
「これに味をしめた俺たちのご先祖は、続いて深海の暗闇でもイカの姿を捉えられるよう、目をもっとよくしてくれ≠ニ頼んだ。この願いも次の世代にはかなえられた。
「こうして俺たちは大イカをより捕らえやすくなったはずなんだが、実際に捕まる数はさして増えなかった。というのも、俺たちの能力がアップしたのに気づいたイカどもは、以前より警戒を強めるようになったからだ。〈郡〉の長老たちは、さらにさまざまな願いをメタ・セティに対して請うようになった。潜水時間を長くしてほしい=Aもっと速く泳げるようになりたい≠ニいった要望が、〈集会〉のたびごとに唱えられた。メタ・セティは大概の場合それらの求めに応じ、ほぼ一世代のうちにクジラたちは望みどおりの新たな能力を授かった。
「先祖のクジラたちは勇んでダイオウイカ狩りに精を出したが、思ったほどうまくは漁がはかどらない。彼らは次第にいま獲れる量では満足できなくなり、メタ・セティへの要求をだんだんエスカレートさせていった。くわえたイカを逃さないために顎の力を強め、歯を鋭く尖らせてほしい=Aくちばしで引っかかれないように皮膚を頑丈にしてほしい≠ニいう具合に、全能のクジラの神に次々と要求が突きつけられた。それでも、彼女はまだ自分を崇める者たちの希望に従っていろんな力を与え続けた。彼らは身体を光らせてイカをおびき寄せる方法や、柔軟なイカの身体を引き裂く、上下に鋭くとがった牙を身につけた。三世代かけて、イカを遠距離から殺せる超音波ビームまで獲得した。
「ところが、イカたちもただ殺られてばかりではいなかった。連中はより狡猾に、より獰猛になり、メタ・セティにもらった数々の能力をもってしてもてこずるありさまだ。まるで、連中も俺たちと合わせるようにして新しい力を付け加えているみてえだった。イカたちはさらに長くて強靭な腕、一度吸いついたら決して離れない吸盤、骨をも噛み砕くカラストンビを武器に、クジラたちに挑戦しだした。一対一の勝負では、食う側にいる俺たちマッコウのほうにまだ分があったが、イカたちは旺盛な繁殖力でもって対抗した。
「後から後から押し寄せるダイオウイカを、俺たちの先祖はひたすら殺しまくった。それはもはや食い物を得るためではなく、ただ殺しのための殺しのようなものだった。クジラ側の犠牲者も増えた。イカの巨大な腕に締めつけられ、溺死する者が続出した。俺たちの鯨口(じんこう)は次第に減少しだした。多数の犠牲を出して数を減らしたのは相手方も同じことだった。ダイオウイカ族とマッコウクジラ族の血みどろの争いは、当然周辺にも被害を及ぼさずにはすまなかった。巻き添えを食った多くの生きものが、両種族を恐れて近づくのを避けた。海の中には殺伐とした水が漂い、豊かな生命の輝きは失われ、不安と荒廃が海面から海底まで支配した。
「殺戮に明け暮れた俺たちは、心も暮らしもひどく荒れすさんだ。殺しすぎてイカが減ったために、俺たちは始終腹を空かせていた。食料をヒレに入れるためには、くちばしと吸盤で武装した(つわもの)のダイオウイカの戦闘集団に生命がけで挑まなければならなかった。俺たちの先祖は神経がピリピリと逆立ち、怒りっぽくなり、仲間うちでもケンカが絶えなかった。戦いにエネルギーを消耗し、詩や歌を口ずさむ余裕なんてなかった。子育てすらままならず、これは戦闘による犠牲と食糧不足とともに鯨口(じんこう)を減らす一因となった。生まれてきたこどもたちも、殺気だったおとなたちの表情に怯えて泣き通しながら幼少の日々を過ごした。オスもメスも戦のために駆りだされ、子供や年寄のような非戦闘員はないがしろにされた。指導者たちはそれらの社会的な不安要因をすべてイカのせいにして責任を押し付け、〈郡〉内のクジラたちのイカに対する憎悪をますますあおりたてた。
「双方の種族はともに敵を殲滅しようと図った。そして、いよいよ両種族が雌雄を決すべく、全面戦争の火蓋が切って落とされようとしたまさにそのとき、一マイルの深みまで刺し貫く強烈な光輝が全海洋に燦然ときらめいた。互いに組んずほぐれつの死闘を繰り広げていたダイオウイカとマッコウクジラは、あまりの眩しさに目をつぶり、恐れおののいて光の前にヒレ伏した。天から俺たちの行状を見ていて心を痛めたメタ・セティが、ついに海上にまで降り来たったんだ。
「『お聞きなさい、私のかわいい孫たちよ。あなた方には私の娘、あなた方の生みの親であるこの星の泣き声が聞こえないのですか? 彼女の頬を濡らす涙が見えないのですか? 彼女の胸の痛みに気づかないのですか? あなた方はともに滅びへの海路を泳いでいるのですよ。あなた方は舵取りを誤りました。あなた方は学ばねばなりません。
「『お聞きなさい、私のいとしい孫たちよ。食べる者、食べられる者という関係はうわべだけの見方にすぎません。あなた方はともに生かし、生かされる立場にあるのです。イカが滅ぶとき、クジラは滅びます。クジラが滅ぶとき、イカは滅びます。あなた方がともに滅ぶとき、私の娘は、深く傷つき、海の水は一つの惑星を覆う苦い涙と化すでしょう。私はこの世界を、だれもがお互いに支え合って生きるように創りました。他の生命、他の種族を踏み敷いてそのうえで自分たちだけが栄えようとしても、支えを失った繁栄は決して長く続くことはないのです。
「『お聞きなさい、私の愛する孫たちよ。あなた方が務めを果たし、そのときが来たと感じる日まで、あなた方は滅びるべきではありません。己を矯める迷いに身を任せたがために、子孫を絶やすのは愚かなことです。あなた方が生きたいと願うとき、すべての生命を慮りなさい。他の生命を思いやるとき、自らの生命を大事になさい。さあ、孫たちよ、その胸ビレと腕足を携えて仲直りなさい。これまでどおり、クジラはイカを食べます。イカはクジラに食べられます。しかし、あなた方は間違っても殺し合う敵同士ではありません。クジラ族の者は、イカを食べるとき、自らを生かしてくれる者のことを思いなさい。イカ族の者は、クジラに食べられるとき、自らによって生命をつないでいる者のことを思いなさい。あなた方はともに、この星の上で生きる同じ生命なのですから──』
「マッコウ族の長老たちは、神妙に偉大なるメタ・セティの説教に聞き入っていた。中の一頭がふと隣を見やると、驚いたことに、ダイオウイカたちも自分たちと同様に長い腕を縮こませて平伏しているじゃねえか。そのクジラはハッと気づいた。彼らの目には、メタ・セティはクジラではなく、イカの姿に映っているんだと──。
「こうしてダイオウイカ族とマッコウクジラ族は停戦し、互いに協定を交わした。俺たちマッコウは、決して無益にイカの生命を奪ったり、贅沢のために殺したりはしないと誓った。イカたちも、彼らの種の存続が脅かされない限り、俺たちの餌として素直に食べられることを承知した。メタ・セティはこの教訓を忘れないようにと、俺たちマッコウクジラから上顎の歯を抜き取った。公平を欠くことのないよう、ダイオウイカからは腕の筋力を奪った。以来、俺たちは両方とも一度だって誓約を破っちゃいない。その証拠に、こうして滅びることなく生き延びてるってわけだ──」

「──これが、俺たちのたった一度の戦争の話さ」
 ジャンセンは一潮吹いて物語を締めくくりました。
「ダンナ、ちょっと歯を見せてもらってもかまいませんですかね?」
 チェロキーがそう頼むと、ジャンセンは快く応じて細長い顎を開きました。チェロキーとクレアは恐る恐る彼の口の中をのぞきこみました。確かに、下顎には円錐形の歯が二〇本ぐらいずつ左右二列に並んでいますが、上顎には何も生えておらず、歯がちょうど収まるポケットのような具合になっています。
「実際には、俺たちの上顎の歯は歯肉の中にうずもれてるのさ。たまにチラッと生えてくるやつもいるが、いずれにしろ役に立ちゃしねえ」
 当の持ち主が説明を加えます。
「ちょうど私たちのヒゲと逆だわね」
「ダンナたちはこんなんでよくイカを捕まえられますね」
「なぁに、くわえられさえすりゃいいのよ。俺たちの歯はむしろ、オス同士のケンカに使うためのもんだ」
 そこでジャンセンはガチンと歯を鳴らして顎を閉じました。びっくりして飛びのいたチェロキーを見てニヤリとします。
「ねえ、あなたたちは普段どうやって獲物を捕るの?」
 クレアやチェロキーにしてみれば、闇のベールに閉ざされた深海でのマッコウクジラの食事風景がいったいどのようなものなのかは興味深いテーマでした。二頭はジャンセンの返事を待って、食い入るように彼に注目しました。ジャンセンは彼女たちを焦らすように少しの間ニヤニヤしていましたが、やがて回答しました。
「俺たちの潜水時間は大体四〇分から長いときで八〇分だ。仮に一時間とすると、往復の潜水で一五分かかるとして、残りの四五分はただじっと餌がやってくるのを待つ」
「えっ、追いかけてとっ捕まえたりはしないんですか?」
「俺たちが餌場にしている潮の通り道の下や上昇流のある大陸斜面は、イカたちの産卵場にもなっていて、連中がウヨウヨしているんでな。こうやって口をあんぐりと開けているだけで、向こうのほうから群れごと飛びこんできてくれる。〈生物観察者〉の中にゃ、イカたちは俺たちの口の周りの白斑や歯に引き寄せられてくるんだというやつもいる──まあ俺の知ったこっちゃねえが。連中は身体をピカピカ光らせやがるし、こっちにゃソナーもあるから、暗闇の中だろうと獲物の居場所はわかるが、やたらと動きまわったりはしねえよ。チョロチョロと方向転換ばっかしてやがるちっぽけな十本足を追っかけまわしたって、くたびれるだけだからな」
「さっきの話に出てきた超音波ビームってのは使わないんですかい?」
「俺たち歯クジラ族はみんな、額からの超音波を集約してイカや魚をちょいと失神させるくらいのことはできる。測響音の転用ってやつだな。だが、そんなもんをやたらと使いまくってたら、契約違反になっちまうじゃねえか」
「もし、イカが来なかったら?」とクレア。
「そんときゃ、仕方がねえから腹を空かしたまま上に上がるまでよ」
「ふうん……。私、あなたたちマッコウクジラは深海で大イカと大格闘を演じているんだとばかり思ってたわ」
 クレアはさも感心したという口ぶりで言いました。
「イカたちはたいてい契約どおり、たいしてこっちをてこずらせもせずにあっさりと食われてくれらあ。たまに吸盤で吸い付かれたりくちばしで噛まれたりするくらいでな。俺たちの身体についてる傷も、ほとんど仲間同士のケンカがもとさ」
 三頭のヒゲクジラは、マッコウクジラに対してこれまで抱いていた海の荒くれ者というイメージをすっかり改めました。しかし、その彼らがかつて戦争まで引き起こしたというのです。クレアは再びジャンセンの物語を反芻して、そこに含まれる含蓄を汲み取ろうとしました。彼女はそこで一つの疑問に突き当たりました。
「……ねえ、ジャンセン。メタ・セティはどうしてあなたたちが戦争に突入するほどひどい状態になるまで放っておいたのかしら? そればかりか、彼女はそれまでのあなたたちの願いを気安く引き受けていたじゃない? 最初にあなたたちがより優れた能力を求めたときに戒めていたら、そんなに大勢の犠牲を出さなくてもすんだのに」
「いかにもお前さんらしい質問だな。まあ、そいつはメタ・セティのみぞ知るってところだが、一応の解釈はある。一つは、なにしろ俺たちの種族もイカ族も海の中じゃずいぶんデカイ面をしてたから、反面教師の役を買わされたんじゃないかってことさ。それと、もし俺たちの要求がはなから拒絶されていたら、俺たちは単に彼女に不満を抱くだけじゃなかったかってことだ。もちろん、取り返しのつかない事態を招く前にヒレを打つことはできたろうが、それにはメタ・セティにばかり頼らないで、自分たちで己れの欲望をコントロールできなきゃならなかったのさ。俺たちの戦争があって以降、ある種族がメタ・セティに何かささやかな能力を授けてもらえるよう願をかけても、それがかなえられるまでには五〇世代や六〇世代じゃきかねえほど長い時間がかかったし、餌や天敵にあたる種族の要望も平等に聞き入れられた。抜け駆けは許されねえってことだな。なんだかんだいっても、それで世の中うまく回ってやがる。
「ともかく、いまじゃ当事の細かい様子まで記録に残っているわけじゃねえが、戦争時代の先祖の生活は相当悲惨で殺伐としていた。その虚しさ、惨めさは、マッコウクジラ族の子孫に永々と伝えられ、一頭一頭の骨の髄にまでしっかり刻みこまれている。現代に生きる俺たちは、全員戦争体験を有してはいないが、戦争だけはまっぴらごめんだとだれもが思ってる。たとえたまにしか大物にありつけなくても、契約を破棄しようなんて言いだすバカは一頭もいない。イカたちのほうでも同じだ。七千世代を経たいまでも、契約は揺るぎもせず有効なのさ」
「うむ。確かにお主たちとイカ族との関係は、捕食者と被食者の種族同士の良好な関係が互いの繁栄を約束するという、一つのお手本として扱われることが多い。いってみれば、すべての生物種族同士がとり交わす契約のモデルケースにあたるものじゃな」
 ダグラスがうなずきます。
「そいつが俺たちの誇りでもある。もっとも、生きものの中には、契約を結び、それを守り通すことの意味を理解できないやつらも稀にはいるようだが……」
 ジャンセンの言葉を聞いて、ダグラスは思い当たる節でもあるように目を伏せました。
「ダンナの話は、〈毛なしのアザラシ〉と関係があるんですか?」
 チェロキーが思い出したように尋ねました。ジャンセンは再び彼の目をじっと見つめ、数秒間黙していましたが、「そいつは自分で考えるんだな」と思わせぶりな台詞を一つ残すと、尾ビレを返して三頭から離れようとしました。
「どこへ行くの!?」
 また彼がどこかへ行ったきり帰ってこないのではないかと不安に駆られ、クレアはあわてて呼び止めようとしましたが、ジャンセンは振り返って一言言い放っただけでした。
「腹が減った。飯だ」
 彼の姿はそのまま、所詮クレアたちには物語の中でしかうかがい知ることのできない世界──夜よりも暗黒に近い海の底へと消えていきました。

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