とうとうその日がやってきました。
数日来、〈執務室〉は上を下への忙しさで、シャロンもステラも忙殺されていました。チェロキーの一件が落着してシャロンとのよりを戻したクレアは、自分も彼女を手伝いたいと思いましたが、やはり異種族には邪魔をしないでいることが精一杯のようです。それでも、クレアが元気を取り戻して「何か私にできることない?」と申し出てきたときには、シャロンもほっと安堵しました。それで、「他鯨のことにくちばしを挟むよりも、この海域にいる同族とコンタクトをとってみたほうがいいんじゃない? もっとも、あなたにはイルカみたいに挟めるくちばしはないけれど」と冗談を飛ばしました。クレアはありがたく彼女の助言に従うことにしました。
チェロキーにつきあっていた二頭の若シャチも、期日が迫るとソワソワし始め、連れだってラビングビーチへ出かけることはなくなりました。といっても、それぞれ相手に内緒でこっそり行っては、身だしなみを整えることに余念がなかったのですが。
さて、このスーパーポッドというのは、年に一度、初夏のとある一日に開かれるバンクーバー〈ウロコ派〉一族最大の祭典です。スーパーポッドの日取りは南北の〈小郡〉の〈行く末の語り手〉が決めることになっています。この日、両〈小郡〉に属する一五ポッド、約二百頭余りのシャチたちが、ジョンストン海峡の中央部に集合します。その名のとおり、〈大郡〉のメンバー全員が巨大な一つの家族になる日なのです。病気で行けない者やその年のうちに縁者を亡くし喪に服している者、ジャンセンみたいな性格で集団行動をとりたがらない気まぐれ者を除いて、この海域に住むほぼすべてのシャチが出席します。
シャロンたちが用意しているイベントはどれも重要なものばかりですが、なんといってもこのスーパーポッドのいちばんの眼目はペアリングです。シャチ族の社会は、多くのクジラ族の社会の例に漏れず、メスの血統を柱に据えています。緊密な血縁集団であるポッドは、数頭から多いものでは四〇頭のメンバーを擁していますが、基本はいくつかの母子グループから成り立っています。彼女たちは血のつながった姉妹かおばと姪であり、各ポッドに必ずいる老いたメスの〈家長〉が、すなわちメスたちの産みの母にあたります(〈政を司る者〉はこの〈家長〉の中から選出されます)。一つのポッドに、親、子、孫、ときには曾孫までが同居することもあります。メスはこのようにして、代々同じ〈家紋〉(シャチたちの家紋とはポッド固有の音声コードです)を受け継いでいくのです。一つのポッドの構成員は非常に安定しており、ポッドの大きさが膨れあがりすぎて分裂する場合を除けば、ポッド間でメンバーが動くことはほとんどありません。あるポッドに生まれ育ったメスは、生涯をそのポッドの一員として過ごすのが常です。
それに対し、オスはおとなになった時点で生まれたポッドを出て、他のポッドに婿入りします。婿に行った先のポッドではメンバーとして温かく迎えられ、そこを自らの家としてその後の鯨生を送ることになります(不倫をしなければ、の話ですが……)。これは、漁をはじめ多くの理由で必要な統率のとれたグループを維持しつつ、血が偏らないようにするための、たいへん都合のよい交配システムといえます。そして、一頭一頭のシャチにとって大事なパートナー選びをするのがこの日なのです。つまるところ、スーパーポッドとは集団見合いにほかなりません。
他のクジラ族に比べて雌雄関係の安定しているシャチにとっては、ペアリングの相手はいい加減に選ぶわけにいきません。生涯の伴侶となれるかどうか、お互いの性格をよく見極める必要があります。ある意味ではポッドぐるみのつきあいでもあるので、交際相手を選択するにあたってはポッドの仲間もいろいろと口を出します。ですから、実際には一回のスーパーポッドだけでペアがすんなり決まるとは限らず、何年もかけて親交を深めたうえでゴールインするカップルもいます。その一方で、一度入籍しながらうまくいかずに出戻ってくるオスもたまにはいます。毎回ペアにあぶれる若者が何頭かいますが、彼らを慰めるために「また来年もあるさ」パーティーの場まで用意され、ここでちゃっかり最後のチャンスをつかむ雌雄もいます。各ポッドに必ず一頭くらいはいる適齢期の若者たち(メスで一〇歳前後、オスだと一五歳前後)にとっては、この日は自分の一生を左右する真剣勝負の日であり、だれもが神経を昂ぶらせつつも、出会いへの期待に胸をふくらませるのです。
この辺りの、込み入った手続きを踏まなければならないペアリングの事情というのは、たいていの場合、求愛の季節一回限りの関係でしかないクレアたちのそれからすると、ずいぶんまどろこしいものに思われるかもしれませんが、誇り高き種族の雌雄交際のあり方としてはふさわしく、また望ましいものでもあるのでしょう。
うまく婚約が成立したペアがあれば、スーパーポッドがお開きになった後に、花嫁方のポッドで内輪だけの厳格な受け入れの祝儀が執り行われます。また、花婿の生家のポッドでは、十数年間ともに暮らしたメンバーとのちょっぴり悲しい別れの儀式も……。
しかし、スーパーポッドとは、こうして離れ離れになった家族の、年に一度の再会の日でもあるのです。幼少時代をともに過ごした兄弟姉妹や従兄弟たちがめぐり合い、近況を報告し合ったり、思い出を語り明かして時を過ごします。毎年のスーパーポッドのたびに、知り合いのだれかがペアを組んだり、新しい生命が生まれたり、あるいはメタ・セティのお迎えにあったのを知るにつけ、シャチたちは時の無常の移ろいを感じ、限りある生をせめて精一杯生き抜こうとの思いを新たにします。そして、翌年の無病息災を互いに祈るのです。
スーパーポッドのもう一つの重要な要素は、この一年間に生まれた当歳児の命名の儀式です。母親となるシャチはこどもをおよそ一五ヵ月もの間お腹に宿し、生まれて一年間授乳した後も面倒を看続けます。母親にしてみれば、それこそ目に入れても噴気孔に入れても痛くない赤ちゃんシャチは、ポッドにとっても重要な後継メンバーであるだけでなく、バンクーバー〈ウロコ派〉一族にとってかけがえのない財産なのです。シャチのメスは短くても三年に一回、平均すれば八年に一回くらいしか子を産めず、生まれる赤ん坊の数は南北の〈小郡〉を合わせても年間で数頭、一頭しか生まれない年さえあります。ですから、新しい生命の誕生は何事にも勝る吉事であり、一族をあげて祝福がなされます。
その後も母シャチたちは、歯が生えたり乳離れしたり、〈学校〉に通い始めたりと、ことあるごとにお祝いをしたがります。天敵もなく家族に見守られて育つシャチは、生物界では比類のない幸運な幼年時代を送れる種族であるわけですが、やはりわが子が各段階を無事に通過し、成長してくれたことを、メタ・セティに感謝せずにいられないのが母親の心情というものなのでしょう。シャチたちの儀式好きの傾向は、成鯨、ペアリング、出産から、果てはペアリング何周年や何歳長寿記念といった具合に、おとなになってからも続きます。それらの儀式の類いも、スーパーポッドの日にまとめて行なうのが通例です。
こうした中心行事をさらに盛り上げるために、実に多くのアトラクションが企画されています。ブリーチングやレスリングなどの各種スポーツ競技、ダンスやパフォーマンス、詩や歌の技術を競うコンテストは、南北対抗で各ポッドから代表選手を出すことになっています。入賞者のポッドには相応の栄誉がもたらされますが、あくまでもこれらは余興であり、ともかく楽しめることが第一です。このほか、各職業種ごとに交流会があります。〈語り手〉や〈歴史家〉は、この一年で新たに付け加えられた物語や歴史のリストを交換します。南北の施政者のグループと全ポッドの〈家長〉による合同ミーティングも開かれ、一年を総括した反省と来年度の年次計画が話し合われます。もちろん、政に関してはこの日に限らず年に何度か会合が持たれていますが。このように、オスもメスも、赤ちゃんも年寄も、参加メンバー全員が楽しめるところにスーパーポッドの醍醐味があるのです。
海峡を覆っていた朝靄は日が差しこむとともにたちまち晴れあがり、夏空がすっきりと広がりました。予言どおりの好天です。きっとみなの行いがよかったのでしょう。
当日いかにスタミナを消耗するかを知っていて、前の晩早々に仕事を切り上げ休んでいたシャチたちは、朝になるとだれからともなくこの海域の主脈であるジョンストン海峡に集まってきました。ずらりと整列した北〈小郡〉のシャチたちは、東へ向かってゆっくり移動しました。シャロンのポッドの仲間と一緒に夜を過ごしたクレアは、彼女と並んで行列の先頭を泳ぎました。道々、海峡に通じる大小の水路から各ポッドが合流し、行進に加わるシャチの数は見る見るうちに百頭を越えました。水面に落ちる木々の陰をかき乱しつつ、黒い小旗の列は静かに、厳かに連なって進んでいきます。クレアは傍らのシャロンのキラキラした瞳の輝きを見て、彼女のスーパーポッドに寄せる期待には、単に〈施政者〉の一頭として祭典の無事成功を望む以外の動機が含まれていることを読み取りました。そういえば、彼女にはまだこどもがいませんし、パートナーの話も聞いていません。
スーパーポッドの会場となるのは、北と南の〈小郡〉の境界より北寄りの、水道の幅がやや広くなったところに位置する指定の峡湾です。つまり、南〈小郡〉のシャチたちが境界を越えて北の領海内に入ってくるわけです。ほどなく会場が、そして、その彼方に南の仲間たちの吹き上げる噴気が見えてきました。
感動の再会は、しかし、予想外に静かに進行しました。双方のシャチは無言のまま海峡の幅いっぱいに広がり、そのまま距離を縮めていって、しまいにはその針路が交錯しました。北と南、一五のポッドは互いに入り乱れ、完全に混じり合わさった状態で静止しました。こうして彼らは双方の壁を取り払ったのです。二百頭のシャチたちはいま、一つの家族≠フ一員となったのです。クレア、チェロキー、ダグラス、ジャンセンの四頭も、種族の壁を越えてシャチ族のみなと一体になっていました。すべてのクジラは兄弟であり母子でした。二百の息吹が合わさって、大気を白く染めました。
お互いの緊張をほぐしたシャチたちは、ここでようやく旧知の者同士で胸ビレをたたき合って久闊を叙しました。こどもたちは同年齢層の者が集まって、大鯨数が揃うこの機会でしかできないスケールのでっかいゲームに没頭します。若者たちは逸る気持ちを押えつつも、互いに気に入ったペアの相手を探します。早くも一目惚れで意気投合したカップルもいれば、気が弱くて異性に声がかけられず、一頭でオロオロするばかりの者もいます。成熟する一泳ぎ前の思春期のシャチは、数年後に備えてBFやGFと恋鯨ごっこを始めますが、まだ胸ビレをつないで一緒に泳ぐ程度で満足しており、真剣に愛のささやきを交わすおとなの恋鯨同士を目の当たりにすると、気恥ずかしくなってヒレを引っこめたりしています。老いた者たちは、こどもや若者たちの健気な振る舞いを目を細めて眺めながら、もはや自分たちがその狂騒の宴に加わることはなくとも、そうした種族を支えるエネルギーの未だ衰えぬ奔出を喜ぶのでした。
会場ではさっそく諸々の催しがスタートしました。各担当者は施政者によってあらかじめ分担されたとおりの配置につきます。違うポッド、違う〈郡〉の者同士が、行事を成功させるべく一致協力してことにあたります。たまに思いもよらぬ失敗や手違いもありますが、みなしくじった者を責めずに大目に見ています。スーパーポッドにハプニングはつきもの、だれもつまらないことでお祭り気分を台なしにしたいとは思いません。
峡湾の岸辺の随所には、とくにこの日のために設けられた〈食堂〉があり、銘々腹を空かせるとやってきて餌をついばみます。デートスポットにもなっていて、相手の漁のヒレ前をここで確かめることができるというわけです。〈臨時食堂〉では、太っちょシャチが追いこんだサケの番をしており、ときどき自分たちだけでつまみ食いをしています。
「それじゃ、私はちょっと回ってくるわね。また後で会いましょう」
上気して目的の場所、あるいはシャチのもとへ向かう友鯨を見送った後、クレアは、三頭の仲間はどうしてるかな? と水面で背伸びをして見回しました。
いました、いました。ダグラスは、〈歴史編纂者〉の学会発表を聞いてノートをとっています。チェロキーは、ちゃっかり歌謡コンテストの特別ゲスト審査員の席に収まっています。そのうちきっと、彼の独唱がここまで聞こえてくることでしょう。ジャンセンは……おやおや、何を騒いでいるのかしら?
「俺はよその種族とやる気はねえよ」
「ジャンセン殿、どうかそのようなことを言わずに拙者と一戦ヒレ合わせを願いたい」
その一角では血気盛んな若いオスシャチが、組んずほぐれつのレスリングを展開していました。こうした武闘は、やはり同年代のメスに自分の強さを示して気を惹きたいオスのために用意されたのでしょう。ジャンセンは見物だけしていたところで、一頭のオスにからまれたようです。そのオスも、マッコウクジラのオスに挑むことで、自分の勇気をアピールして得点を稼ぎたいものとみえます。
「しつけえな。俺ぁ勝つとわかってるケンカはしねえんだ」
「ムムム、なんたる侮辱! なんたる不遜! なんたるけしからん言葉づかい! これがわがシャチ一族の誇りに対する愚弄でなくてなんであろうか! もう我慢ならん、かくなるうえは決闘を申し込む!!」
小うるさいチビだ(彼にとってはシャチといえどもやっぱりチビに違いありません)と思いながら、ジャンセンはうなりました。「うう……いいか、俺たちマッコウの決闘は頭突き一本勝負だ。そんなにやりてえんならかかってきな」
オスシャチはすごすごと引き下がりました。どうやらジャンセンの不戦勝となったようです。
さて、私はどこに入れてもらおうかな? やっぱりこどもたちのところがいいわね。命名の儀を終えて一緒に戯れている幼子たちは、いままで見たこともない数の仲間のおとなたちが、飛沫を上げて祭りに興じているのを前にして目を見張っています。おとなに比べてくちばしが短くて丸顔をしており、実にあどけない表情をしていますが、好奇心に満ち満ちた小さな瞳の奥にかすかに知性のきらめきを灯しているのがわかります。レックスの考えた〈シャチごっこ〉のレパートリーでも教えてあげようかしら? あらやだ、私ったら、シャチを相手に〈シャチごっこ〉だなんて……。でも、彼らにとってもためになるかもしれないわね、獲物を追うほうの練習に。
各種の競技会、競演会は、いまやクライマックスを迎えていました。熱い噴気が会場いっぱいに立ちこめ、海面が霞んで見えます。今日一日の喜び──それは一年の喜びを凝縮したものでもあるのですが──を表現するブリーチングがそこかしこで飛び交います。キーキー、キューンキューンというコーラスが、峡湾中に響き渡ります。雄大な森と海峡の大自然が、シャチたちをやさしく見守っています。だれもが、この時間が永遠に続くといいという思いを抱いていました。しかし、祭りの一日は矢のごとくヒレ早に過ぎていきます。もうまもなく饗宴の幕は閉じられようとしていました。
競泳の優勝者が決まったようです。二メートル近い背ビレをそびえさせた威風堂々たるオスです。クレアが見ていると、若いメスたちの熱い視線を集めながら、そのオスは一頭のメスのもとに近づいていきました。なんとシャロンです。
傍らにいた彼女の親族の一頭がクレアに耳打ちしました。「彼はね、オスだけど政の才覚があって、南〈小郡〉の執政グループのナンバーツーなんですよ」
なるほど、彼女の恋も一筋縄ではいかなそうね……。
日は西空に傾き、海峡を満たす水を茜色に染めました。黒く艶光りするシャチたちの背中にも紅が差し、吹き上げたブローは黄昏色に弾けます。いまシャチたちは、最高潮に達した興奮をゆっくりと冷ますように、水面に身を並べて浮かんでいます。遊び疲れたこどもたちはぴったりと母親に寄り添い、眠気と必死に闘っています。再び言葉もなく交わされる目と目──。スーパーポッドは、始まったときと同じように、いつのまにか個々のポッドに分かれていました。やがてゆっくりと、彼らは自分たちの領分へと帰っていきました。ポッドが一つ、また一つと宴の場を去っていきます。南〈小郡〉の者たちの最後列の背ビレが海峡に突き出た岬の向こう側へ姿を消したのは、夜の帳が降りて海と空との境目も区別がつかなくなったころでした。だれも後ろを振り返る者はいませんでした。同じ〈小郡〉の者なら、またときどき海峡ですれ違ったときにあいさつを交わすこともできるでしょう。それに、一年後があります。
この日一日のできごとは、クレアにとって生涯忘れることのできない思い出となりました。シャロンの気概とやさしさ、ステラの恭虔さと智慧、チェロキーたちと戯れていた若シャチたちの無邪気さ、今日目にした二百頭のシャチたちの沸き返るような感情の交流──ありのままの生命の輝きを包み隠さず見せてくれたシャチたち──。それこそは、真の誇り高き種族でした。南氷洋の〈毛皮派〉が彼女の一族にとって依然恐ろしい天敵であることに変わりはありませんが、それでも、彼らをいままでとは違った目で見られるのではないかと、クレアは思うのでした。
一日中熱気に包まれた祭りの後に訪れる心地よい倦怠感に身を委ねながら、クレアとシャロンは並んで帰途に着きました。他のポッド仲間との再会を約した別れはまた、客鯨との永遠の別離でもあることを意味しました。シャロンは、まだクレアに話していなかったことを、いまこそ彼女に打ち明けることにしました。
「ごめんなさい、クレア。私、あなたに本当のことを言ってなかったことがあるの。お友達に嘘をついてたんじゃ、高貴な種族失格よね」
「え?」クレアは何のことかわからず、彼女のほうを見て尋ねました。
「私の母ね、〈毛皮派〉なんです」
「えっ!? じゃあ、もしかしてあなたのお祖母さんて……」
「そう、ステラよ。私は彼女の孫娘。あら、彼女はあなたたちに母のことを話したのね」
「ええ、理由までは聞かなかったけど。でも、なぁんだ、あなたたち二頭とも全然そんな素振りを見せなかったじゃない?」唖然とした顔になってクレアが言います。
「仕事に私情を挟むのは禁物よ。とくに〈施政者〉はね、フフ」
シャロンは微笑むと、一呼吸しました。それから、三代の母子のたどった劇的な生涯の物語を、ヒゲクジラの友鯨に語って聞かせました。
「ステラ──祖母はね、若いころから〈政を輔ける者〉として激務に就いていて、ペアリングが一五年遅れるほど仕事一筋のシャチだったの。その彼女の第一子が母でね。祖母は母を非常に厳しく教育したわ。彼女は早くから〈政を司る者〉に任命されると、娘を後継者にしようと考えたの。まだおとなにならないうちから、友鯨と遊ばせることも花嫁修業もさせず(私たちの種族の場合は花婿修業のほうが大事だけど)、〈郡〉のシステムや掟、政務についてみっちり仕込んで覚えさせようとしてね。祖母は当事〈鬼の施政長〉って呼ばれてたのよ。今の穏やかさからは想像もつかないでしょうけど。
「そういう祖母の気持ちも、私にはわかるんだけどね。バンクーバー〈ウロコ派〉のシャチは二百頭ばかり、あっという間に滅びてしまいかねない数だわ。そのうち三分の二は北〈小郡〉に属している。まさに種族の存亡が彼女の双肩にかかっていたわけ。当事は〈岩〉による誘拐事件が発生したりもしていたし、非常に責任のある地位にいて、彼女も重圧を感じてたんでしょうね。自分に何かあったときには一族の命運が危うくなってしまう。早く自分の後を引き継げる者を育てなければって……。いまはうまく自然体でこなしているけど、これは年季を積んだせいね。私だって、まだまだ〈施政長〉としての重荷にはとても耐えられない。
「だけど、母は激しく反発したの。自分の青春を、鯨生をどうしてくれるのよ! 〈郡〉のために犠牲になるのはまっぴらごめんだわ!ってね。祖母は母に無理やりペアリングを組ませた。彼女の有能な右ヒレで、ハンサムなうえに気立てもいいオスではあったんだけど。ま、一種の政略ペアリングよね。そして、二頭の間に生まれたのが私ってわけ。
「しばらくたったある日、〈毛皮派〉のポッドがこの海域にやってきたの。ちょうどスーパーポッドを間近に控えていた時期で、彼らは短期間の逗留を申し込んだ。その中に、一頭の鯨目を引くオスがいたの。〈毛皮派〉のシャチは私たちよりやや大柄で、背ビレが少し短くて先が鋭く尖っている点が特徴なんだけど、それよりも目立つのは、オスなんか噛みつかれた傷痕があったり、ヒレの先が食いちぎられたりしてるのが多いのよね。そのオスも、背ビレに深い切れこみがあった。堂々とした体躯で、言葉少なで、無駄な動きは一切しない。いかにもダンディーなヤクザ者って感じ。母は、彼と熱烈な恋に落ちたの。もう政もポッドも顧みない。それで、彼女の肝煎りで、その〈毛皮派〉のポッドの者たちはスーパーポッドに参加したいと申し出たの。祖母は激怒してね。参加したければ、オスを一頭北〈小郡〉に移籍させろ、それ以外は絶対だめだと突っぱねた。そのポッドのメンバーは五頭だけで、オスは彼しかいなかったから、そんな条件を呑めるはずもない。
「そこで、父とその母の愛鯨が決闘をすることになったの。父が勝ったら、彼のポッドは〈ウロコ派〉に編入される。〈毛皮派〉の彼のほうが勝った場合は、母がそのポッドのメンバーに加わる。決闘が行われたのは折しもスーパーポッドの前日。二頭はほとんど互角だった。でも、父は母の心が相手に傾いているのがわかって、力を出しきれなかった。結局、父が敗けて、母はそのオスに嫁いでいってしまったの。〈施政長〉の後継ぎと目されていた長女が〈毛皮派〉と駆け落ちしたなんて前代未聞の不祥事で、次の日はもうスーパーポッドどころじゃなくなったわ。祖母が政務に就いてからスーパーポッドがお流れになった三回の事例のうちの一回が、ほかでもないその年だった。後の二回は〈沈まぬ岩〉に引っ掻き回されたんだけど……。
「それからの祖母はちょっぴり変わった。まあ、歳のせいで角が取れたっていうのもあるけど。私も政の勉強をさせられたけど、母のときよりもっと慎重で寛大になった。彼女のときだってそうしていれば、あるいはいま祖母の後を継いで〈政を司る者〉になっていたかもしれないわね。父はそれから南〈小郡〉に移って、達者で暮らしているわ。でも、スーパーポッドには苦い思い出があるから二度と出席したがらない。私はときどき会いにいってるけどね。母は……例の彼は早死にしたらしいけど、その後も〈毛皮派〉の〈家長〉として、立派にポッドを切り盛りしてるって、風の噂に聞いているわ……」
シャロンは水面にぽっかり浮かんで夜空を見上げました。まるで天の向こう側の世界に母がいるかのように。天球をとりまく針葉樹の鋸歯のようなシルエットの上に、夏の北天を盛大に飾る銀河、夜空を分かつ星々の大潮流がさんざめいています。夜光虫が、漆黒の闇の中で彼女の輪郭をおぼろげに浮かび上がらせます。
「祖母は種族を守るという自分の信念を譲らなかったし、母は自分自身の心の自由を奪われることを頑として拒否した。まったく逆の生き方だったけど、結局どちらも頑固者で意志を曲げなかったってわけ。やっぱり血筋なのよねぇ……」
クレアは感慨に打たれて燐光を放つ彼女の横顔をじっと見つめていましたが、おもむろに尋ねました。
「あなた自身はどうなの? お母さんほどではなくても、雲行きが怪しくなりはしない? 話はちょっぴり聞かせてもらったけど……」
シャロンは、おやおや耳聡いといった様子で片目を吊り上げてみせてから、自信たっぷりに言い切りました。「大丈夫よ。私は恋に夢中になって仕事をほっぽりだしたりはしないから。政の業務は責任をもって続けます。もちろん、彼にはこっちへ来てもらわなくちゃならないでしょうけど。フフ」
なるほど、やっぱり血筋なのねえ……。クレアもシャロンに微笑を返します。
「もし万が一、〈毛皮派〉のシャチに襲われるようなことがあったら、そのときは、『私はバンクーバー〈ウロコ派〉出身の〈毛皮派〉の〈家長〉フレビアの娘、シャロンの親友です!』って怒鳴ってちょうだい。きっと生命は助けてもらえるわ。ジョーイの誘拐犯には通用しないだろうけど。あっ、それから断っておくけど、この切札のことはあなたたち四頭以外のクジラにはオフレコにしといてね。母を飢え死にさせるわけにはいかないから」
「フフ、恩に着るわ」
二頭はまだ余っているエネルギーをその日のうちに全部発散しきってしまおうとばかり、競走で夜の海峡を駆け抜けました。
翌日、ステラに〈執務室〉に呼ばれて、三頭のクジラ(チェロキーはどこへいるのかまた姿が見えません)は彼女の前に進み出ました。
「クレアさん、喜んでください。情報が入りましたよ。あなた方がここへやってくるちょうど二日前、南〈小郡〉のパトロールが、バンクーバー島の西の沖合を東岸と並行に北上する〈毛皮派〉らしいシャチの一群を見ていました。いつも訪れる〈毛皮派〉の顔触れではなく、あいさつ一つよこさずにこちらを完全に無視して通り過ぎていったのと、ソナーのスクリーンを張りめぐらせていたので記憶に残っていたそうです」
「スクリーン?」クレアとダグラスが同時に聞き返します。
「ソナーに干渉させて映像≠撹乱する音波の幕のことです。自分たちの姿をエコロケーション能力のある相手から聴え≠ノくくするためのね。相当熟達した音の使い手にして初めてなせる技です。もしかして、ジョーイたち虜のクジラを連れているのを知られたくなかったのかもしれませんね。彼らは速度を変えずにひたすら北を目指していたとのことです」
これでようやく目標を再設定することができました。二週間前なら、少し飛ばせば十日で追いつけるでしょう。
「本当にいろいろとヒレを尽くしていただいて、お礼の言葉もありません」
「こちらこそ、この程度の援助しかできなくて申し訳なく思っています。どうかお子さんの無事救出が果たされますように。お気をつけて旅をなさってください」
クレアは毅然とした態度でうなずきました。
ステラの横に並んでいたシャロンと視線が合うと、彼女も力強くうなずいてから微笑みました。クレアも笑いかけようとしましたが、それがそのまま泣き顔になってしまいそうだったので、思わず顔を背けてしまいました。彼女のほうも泣くのをこらえているようです。獲物にとっては血も涙もない無情の食肉獣と見られるシャチが、いま一頭のヒゲクジラと悲しみを分かち合っているのです。彼女と初めて打ち解け合えるようになったときの会話が、クレアの脳裏に鮮やかによみがえりました。本当に、こんな数奇な運命さえなければ絶対に出会うはずのなかった南氷洋のミンククジラとバンクーバーのシャチ。この先も二度と会うことはないでしょう。でも、あなたが、あなたたちの種族が、ここで自分たちの生き様を生きているということを、私は決して忘れはしない──。
クレアたち三頭がジョンストン海峡を後にしようとしていると、チェロキーの叫び声が後ろから聞こえてきました。
「おおーい、ひどいよう! 待ってくれーっ!」
徐行して泳ぐ三頭に、チェロキーはひいひい潮を吹きながら追い着きました。案の定、お腹には真新しい白い筋があらわになっています。やっぱりね。ラビングの仕納めってわけ……。
「あら、シャチたちのところに残ってきてもよかったのに。きっと肌がきれいになってピカピカのザトウクジラになれるわよ」
「またアネさん、意地悪を言う〜」
「フフフ」
次第に小さくなるバンクーバー島を振り返って、ふとクレアは思いました。
ひょっとして私、シャチと友情を結んだ世界で唯一のミンククジラかもね──