クレアたち四頭は、アラスカ湾の最深部まであとわずかの距離に迫っていました。〈ウロコ派〉のシャチに教えてもらったとおりに北上してきたクレアは、そろそろ誘拐犯がずっと同じコースを維持してきたのかどうか怪しみ始めていました。
水面下では、海岸にそって巨大に成長したケルプの林が広がり、水面上に目を転じれば、北の大地を覆う針葉樹の梢の向こうに雪を頂いた峰々が連なっています。北国の自然を代表する陸と海の二つの植生をつなぐ潮間帯には、赤や褐色の藻類が満潮線ギリギリのところまで岩に貼りついています。緯度六〇度に近いこの地方の豊かな緑を育んでいるのは、冷たいカリフォルニア海流の北方に割りこんで湾内をぐるっと一周する比較的暖かなアラスカ海流です。
豊富な魚類を求めて、種々の海鳥たちが波の上を飛び交います。岸辺に並ぶモミやトウヒのてっぺんに巣を作っているのは、魚食専門の猛禽類、ハクトウワシです。海獣類では、なじみのあるアザラシの仲間に混じって、クレアやチェロキーたちには見慣れない動物がいます。トドは南半球に住むオタリアに似ていますが、もっと大柄で獰猛そうです。
クレアがそれに類する生きものを一度も見たことがなかったのはラッコでした。彼らはトドと違ってちっぽけなひょうきん者で、数十頭から数百頭の〈小郡〉単位で暮らしています。日中は餌を食べているか、泳ぎ回って遊んでいるかしていますが、夜はケルプの毛布にくるまれて海面に浮かんで眠ります。あれがダグラスの言っていた〈前肢の延長〉を使う獣ね。そのうち一度、貝割りを実演するところを拝見させてもらいましょう。確かに、彼らは胸ビレの代わりに小さくても器用そうな前肢を持っています。見るからに無邪気そうなラッコたちは、全身がビロードのような毛皮に包まれていて、しょっちゅうグルーミングをしています。彼らは空気を溜めこむことのできる密生した毛皮のおかげで、冷たい海水に始終浸かっていながら体温を保持できるのです。そして、同じくこの美しい毛皮のおかげで、毛皮を持たない、彼らと違って〈延長〉を過度に使用したがる種族によって、ラッコの一族は一時根絶やしにされかけたのでした。
四頭のクジラは、同族を含むそれら地元の生きものたちに、ジョーイとシャチたちの行方を尋ね回りました。待望の情報が彼らの耳に入ったのは、ジョンストン海峡を出てから十日余りが過ぎた日のことでした。情報源はほかでもないラッコたちでした。体長が一メートル強しかないラッコは、自分たちの一〇倍も二〇倍もある大きな生きものがやってくると、ケルプの茂みに隠れて通過するのをやり過ごそうとしました。ここでチェロキーが、バンクーバーのシャチに習ったケルプを使った遊びをいろいろ演じてみせました。
「ほうら、ザトウの海苔巻ぃ……いや違った、新体操だよ〜。見てごらん」
チェロキーも、若シャチとの戯れごとがこんなところで役に立つとは思いませんでしたが、もともと遊び好きなラッコたちは、若者を中心におどけたザトウクジラに興味を引かれて出てきました。彼らはたちまち打ち解け合い、一緒にゲームまでするようになりました(だいたい彼は低年齢の動物とウマが合うようです)。哺乳類の海棲種族の中では海に進出してきた歴史の比較的浅いラッコたちは、〈潮吹き共通語〉を片言でしかしゃべれませんでしたが、身ぶりヒレぶり前肢ぶりを交えてなんとか意思の疎通に成功しました。本題に入ろうとして、チェロキーがシャチのホイッスルをまねすると、いままで気を許していたラッコたちは、みな一散にケルプの林の中に飛びこんでしまいました。
「おおい、どうしたんだい? ぼくがまねしただけだよ。大丈夫だから出ておいで」
ラッコたちはビクビクと周囲をうかがいながらおそるおそる顔を出しました。
「彼女たちもやっぱり〈毛皮派〉のメニューに入っておるからな」
「それにしちゃ、神経過敏にすぎやしねえか?」
一匹のラッコのメスが震える声で言いました。「恐イしゃち、一昨日来タ。おすノ〈郡〉、全員殺サレタ」
ラッコたちはふだん、雌雄が別々に暮らしているのです。このラッコたちはみなメスとこどもばかりでした。
「そのシャチたちは、私に似たクジラを連れていなかった?」
「イタカモシレナイ。ワカラナイ。林ノ中、隠レテタ。昨日、死ンダおすノ葬式、けるぷニ巻イテ流シタ。悲シイ……」
悲嘆に暮れるメスラッコに、クレアはやさしくなだめるような声で尋ねました。「ごめんなさい、後一つだけね。シャチたちがどっちへ行ったかはわかる?」
「西ニアル湾ノホウ」
かわいらしい前肢で、そのラッコは殺戮者のシャチたちの去った方角を指し示しました。クジラたちは顔を見合わせてうなずきました。例の殺鯨狂のシャチの一団に間違いありません。彼らはケルプや石を玩具にするように、ラッコを一群れなぶり殺しにして遊んだのでしょう。
「ありがとう、ラッコのみなさん。どうか元気を出してね」
ラッコたちに辛いできごとを思い出させてしまったことに後悔を覚えながら、クレアたちは彼女たちのもとを後にしました。せめて、チェロキーが教えたシャチ譲りの新しいゲームで悲しみをまぎらせ、陽気さを取り戻してくれるといいのですが。
四頭のクジラはさっそく真っすぐ西を目指しました。いよいよジョーイとの対面だと思うと、クレアは身の内が熱くなるのを感じました。
一行はハイペースを保って泳ぎ続け、日暮れ前にはラッコたちの言っていた湾に到着しました。高緯度地方の遅い日の入りが数分後に迫ったとき、ダグラスが前方に送っていた低音ソナーに何かが引っかかりました。全長八、九メートルほどの影が二〇ほどと同じくらいの数の小さな影が、自分たちとほぼ等しい速度で前方へ移動しています。ジャンセンも追認しました。ついに追い着いたのです。
クレアも息子の影を一耳¢ィえようとソナーを送りました。あの小さな影のうちの一つがジョーイなのでしょうか? 色めきたった彼女が息子の姿をもっとよく聴よう≠ニ耳を凝らしたとき、別の巨大な影がぬっと視界≠ノ立ち現れました。
それはダグラスの一〇倍以上もあろうかというとてつもない大きさの〈沈まぬ巌〉でした。実は、彼らがさしかかった湾の岸辺には〈毛なしのアザラシ〉の巣があり、大小の〈岩〉が頻繁に出入りしていたのです。万難を排除して驀進してきた無法者のシャチたちも、さすがにこのバカでかい〈巌〉に挑戦する気はないとみえ、針路を変えようとしました。〈沈まぬ巌〉のほうはクジラたちの存在にいっかな頓着せず、真っすぐ突き進んできます。日が落ちるのと、それを〈巌〉の影が覆い隠すのと、ほとんど同時でした。突然、ガリガリッ! という海底を揺るがさんばかりの大音響が前方よりとどろきました。クレアにはその瞬間、巨大な〈巌〉が身悶えしたように見えました。
「やりおったわい!!」
「あの野郎、どこに耳付けてやがんだ!?」
二頭の年輩クジラがほぼ同時に叫びました。
湾の入口付近の海底にはところどころ岩礁があり、海面近くにまでせり上がっていました。〈沈まぬ巌〉は危険に気づかずに進んできたのか、おりしも高まりつつあった荒波と強風のせいで舵を取り損なったのか、その一つに乗り上げてしまったのです。岩礁にぶつかったその巨大な〈巌〉は、体躯を傾けたきり動かなくなりました。
「おい、ヤバイぜ」ジャンセンが短い舌を打ち鳴らして言いました。
「えっ?」
向こう見ずのジャンセンが珍しくたじろいでいるので、クレアは彼を振り返りました。
「あいつは〈脂食〉だ。こいつはドえらいことになってきたぞ」
「ク、クジラの脂を食うんですか!?」チェロキーがびっくりして訊きます。
「そうじゃねえ。そいつは普通の〈クジラ食の巌〉の話だ。いま俺たちの前にいやがるやつは、〈メタ・セティの子〉の脂をたらふく食ってやがるのよ」
「〈メタ・セティの子〉の脂??」
「俺たちが住まいを借りているこのお星さんにも、どういうわけか皮下脂肪がある。海の中にゃ、インド洋の端っことかメキシコ湾の一角とか、そいつが少しずつ染みだしてきている場所もある。〈沈まぬ岩〉の野郎は、〈メタ・セティの子〉の皮膚をほじくって、彼女の脂をヤツメウナギみてえに吸いだしてやがるのさ。どの〈岩〉も多かれ少なかれ脂を食ってやがる。〈メタ・セティの子〉の脂のおかげで、生命を持たねえ〈岩〉が沈まずに動き回れるんだって噂もある。そして、連中は海を進みながら脂のクソを垂れやがるのよ。汚え話だが、連中のクソは球状に固まってなかなか消えずに波間を漂ってやがるんだ。うっかり呑みこみでもしてみろ、まず確実に腹を壊すこと請け合いよ。カメや鳥だったら生命とりになりかねねえ。〈岩〉の通り道になっているところだったら必ず浮かんでいるから、お前らも今度よく注意してみるんだな。まったく、〈岩〉のクソはどの生きもののクソとも違ってばばっちいったらありゃしねえ。それに比べたら、俺たちのはすぐに分解するし、ほかの生きものの食い物にもなる。きれいなもんさ。ともかく、〈沈まぬ岩〉どもは勝手におっ死んだりクソしたりして、毒を海に撒き散らしてやがる。この種類のでけえ〈巌〉は、中でもケタ違いの量の〈脂〉を溜めこんでやがるやつなのさ」
「うむ。〈脂食の巌〉はこれまで方々の海で岩礁に乗り上げたり、〈岩〉同士で衝突したり、航行途上で病気になって往生したとの記録がある。〈巌〉が傷を負うと〈黒い脂〉が大量に流れ出て、数知れぬ生きものがその毒気にやられて死ぬ。わしも〈巌〉の死体を見たことがあるよ。そこで死んでからだいぶ経っていたから安心じゃったが。もし〈豊饒の海〉の間近で〈脂〉を流されでもしたら、わしたちはたまったものではないな。聞くところによると、〈脂食の巌〉が死んだ周辺の海域では、何年もの間収穫がガタ減りになるそうじゃ」ダグラスもジャンセンの説明に補足しました。
若いクレアとチェロキーは、何やらたいへんそうな事件が勃発したらしいうえに、いままで知らなかった突拍子もない知識をいっぺんに詰めこまれて、頭の中が混乱してしまいました。
「脂は〈メタ・セティの子〉の身体ん中に収まっていてこそ正常なんだ。明日になりゃいやというほどわかる。それより、俺たちもずらかったほうがいいぜ。さもねえと──」
そのとき、突如眩しい光が暗い海面から立ち上りました。まるで一度沈んだ太陽が西から再び顔を出したかのようです。しかし、光の出所は〈巌〉にほかなりませんでした。その光は、空気を通して見ているのに、水面下で目にしているかのごとくユラユラとうごめいており、次第に横へ伸び広がっていきました。
「な、なんなの、いったい!?」
夜の闇に挑みかかり、それを引き裂こうとあがく光を、クレアは半ば畏怖に打たれつつ水面に上がってじっと見つめました。
「あれは生きものが触れちゃいけねえ光さ。俺は深海に住む篝火を備えた多くの生きものを知っている。だが、そいつらの持っているのはすべて月やオーロラと同じ冷たい光だ。お前さんは太陽がどんなもんだか知ってるか?」
「あれはメタ・セティの産褥の熱でしょう?」クレアは魂を奪われたように、メラメラと燃え上がる炎に見入りながら、抑揚のない声で応じました。
「そうだ。俺たち全生物のおっかさんの産みの苦しみからできてるんだ。だから熱い、ものすごく。宇宙の彼方で光っててくれてるからこそ、まだ俺たちに恵みを与えていられるってもんだ。近づいちゃ絶対いけねえんだよ。あれはその太陽から降り注いでいるのとちっとばかり似た性質の光だ。前に、あれみてえにぶっ壊れて熱を発している〈沈まぬ巌〉に好奇心を抱いて寄っていったバカな若者がいた。そいつは近寄りすぎて、鼻孔を焼かれて肺に海水が入り、溺れっ死んじまったのよ……クジラのくせにな」
炎は〈巌〉を包み、さまざまに姿形を変えながら海面を這いずり回り、天につかみかかりました。風がゴオーッという嵐のような音を運んできます。じっと目を凝らしていると、まばゆい光は、逆説的なことに、暗闇を生産しているように思われました。空にも海にも真っ黒い異様なものがどんどん広がっているようなのです。しかし、赤々と燃え上がる炎は、自らの落とし子の姿を鮮明にさらけ出そうとはせず、臨終を迎えた〈巌〉の不気味な影だけを亡霊のように浮かび上がらせていました。目前で繰り広げられるこの世のものとも思えない光景に、クレアは呆然となりました。私、いつ潮吹きをやめたんだろ……。
「さあ、行くぞ。こんなとこにいちゃいけねえ」
ジャンセンが彼女の脇腹をぐいと押しました。クレアははっと我に返り、狼狽した声で叫びました。
「ジョーイが危ないわ!!」
そう、誘拐犯の一行は〈沈まぬ巌〉にずっと近いところにいたのです。事故の直前に捉えた彼らの影は、すでにどちらへ向かったか確認できなくなっていました。もしまだ〈巌〉のそばにとどまっているとすれば、炎熱か脂の毒気が確実にジョーイを死に追いやるでしょう。
「バカッ!! あのずる賢い悪党シャチどもがあんなところでグズグズしてるもんか! 脱出したに決まってる! 後で捜せばいい!」
「だめよ!! シャチたちはジョーイを置き去りにして逃げてしまったかもしれないわ! そうなったら、私しか坊やを助けられるクジラはいないのよ!?」
クレアは無我夢中で駆けだそうとしました。一瞬早く、ストッパーの付いたジャンセンの顎が彼女の胸ビレを挟みました。
「放して、お願い!!」
「おい、お前らも手伝え! 悪いが、初めてメスに暴力をふるわせてもらうぜ」
ジャンセンは必死に身をもがくクレアのヒレを、傷つかない程度にがっちりと顎でくわえて押えこみました。ダグラスとチェロキーも壁を作って彼女を押し戻そうとします。
「クレア、いまはこらえるんじゃ!」
「ジョーイ坊やならきっと大丈夫なはずですよ!」
「ジョーイ! ジョーイッ!」
静かな北の野生の楽園に突如として災厄が降りかかったその日、無数の生命を貪る死と苦悶の狂宴の開催を告げるファンファーレのように、炎は夜空を焦がして乱舞しました。その非情な輝きに、束の間まみえた息子との再会を阻まれた母クジラの泣き叫ぶ声が、沈黙させられつつある海に虚しく響き渡りました。
「ジョォォーーイッ!!」
三頭のオスは〈巌〉から十分安全と思われる距離まで、ヒステリー状態にあったメスのミンククジラを強引に連れていきました。一夜明けて状況が判断できるようになるまで、彼らは海流の上手側の沖合で待機していることにしました。風と潮の向きにもよりますが、岸辺には〈黒い脂〉が吹き寄せられる可能性があるからです。
いくら暴れても無駄だと悟ったクレアは、ぐったりと眠ったふりをしてときどき不意に力を込め、ジャンセンの両顎から逃れようとしました。が、同じく眠ったふりをしながら、世慣れた年上のオスクジラは決して力を抜こうとはしませんでした。
「おい、クレア。俺を出し抜こうなんざ十年早えぜ」片目を開くと、クレアに向かってニヤリとします。
「雇い主に歯向かって、そのうえ行動の自由を奪っておいて、よくも用心棒だなんて言えたわね。後で覚えてらっしゃいよ!」
「俺はいまだって立派にボディガードの勤めを果たしてるぜ。違うかい、ご主鯨さんよ?」
クレアは大きさも力も自分の比ではない離れマッコウをきっとにらみつけました。泳ぎは私のほうが速いんだから、あの顎からヒレを外せる隙さえあればいいんだけど……。
四頭はそうやってまんじりともせず夜を明かしました。朝になってみると、全員の目に惨状がはっきりと明らかになりました。昨日まできれいな細波模様を描いていた海面は、一面をどす黒い液体で覆われ、異様に凪いでいました。これが〈メタ・セティの子〉の脂、彼女の体外へ出ると毒に変わる〈黒い脂〉なのね……。〈巌〉から流れ出た脂は南西の方向に黒い帯となって伸びていました。その長さはたった一晩の間に一〇マイルに及び、なおも拡大しつつありました。
当の遊泳不能となった〈沈まぬ巌〉は、依然として惨めな巨躯を乗り上がった岩礁の位置にさらしていましたが、周りには小型の〈沈まぬ岩〉や〈落ちぬ岩〉が群がっており、いつの間にか火は消し止められていました。生命を寄せつけぬ灼熱の業火も、〈毛なしのアザラシ〉には免疫があるばかりか、その輝きを鎮めてしまう能力すらあるようです。しかし、その〈アザラシ〉とても、〈巌〉から流失してしまった脂を、エントロピーの神に逆らって元通りに〈巌〉の腹に収めることはできない相談でした。
薄気味悪い光景を遠巻きに眺めながら、四頭のクジラたちは脂の流れの外縁に沿ってゆっくりと移動しました。
「地獄を見たけりゃ、〈脂食の巌〉についていけ、たあよく言ったもんだぜ」
「ねえ、ジャンセン。お願いだから放してちょうだい。無茶なことはしないから。それよりも、みんなで手分けしてジョーイを捜しましょうよ」結局、一晩中胸ビレをくわえて自分を解放しなかった用心棒に、クレアが懇願しました。
「どうする、じいさんよ?」彼はダグラスに目を向けました。
「ううむ……まあ、よいじゃろう。クレアよ、その代わりよく聞きなさい。海面が黒くて波を立てぬ水域に入ってはならぬぞ。脂は噴気孔を塞いでわしたちクジラを窒息させてしまう。脂が水中に漂っているところでは目も開けてはならん。つぶされてしまうからな。口も閉じていなさい。ひげに粘りついて餌が摂れなくなるし、呑みこめばジャンセンも言ったように消化器を壊す。いずれにしても、くれぐれも用心するように。呼吸しに浮き上がるときは、海面が脂で満ちていないかどうかちゃんと確認し、噴気孔をしっかり空気中に現して潮を吹くこと。もし万一、ジョーイか他のクジラを見つけた場合は、一頭で助けようとせずに必ず仲間を呼ぶこと──これは念を押しておくぞ。約束してくれるかね?」
「約束するわ」
クレアはようやく釈放され自由の身になりました。灰色の斑のある胸ビレの裏に、ズラッと二列に並んだジャンセンの歯の跡がくっきりとついています。
「ヘヘ、勲章ができちまったな」
「もう! ああ、私も歯クジラに生まれてればよかった」
四頭はさっそく危難の海でジョーイ捜索にとりかかりました。
「ジョーイ! ジョーイ!」
「ジョーイ坊や! お兄さんたちが助けにきてあげたよ!」
クレアは仲間と別れ、黒い帯を迂回しながら息子の名を呼び続けました。潮吹きに上がって息を吸いこむと、大気中に胸の悪くなる成分が混じっている気がします。途中、コククジラのグループが岸辺のほうからほうほうの体で逃げだしてくるのとすれ違いました。
「かなわんな、もう。泥の中にもすっかり脂が染みこんどる。ゴカイもヨコエビも脂まみれやんけ」
「しまいや、しまいや。〈豊沃の海〉は店じまい、この世はおしまいや」
「冗談言うとる場合か、アホ!」
彼らはブツブツ文句を垂れながら沖合へ退避していきます。クレアはほかにもアザラシやイルカの避難民に出会いました。ミンククジラの子とシャチを見かけなかったか? とクレアはそれらの動物たちに尋ねましたが、だれも他鯨のことにかまっているどころではなく、色好い返事は返ってきませんでした。
いまいる海面はまだ黒く染まってはいなかったものの、マリモのような脂の塊がところどころ浮き沈みしていました。異様な静けさの中で、クレアは息子の声が聞こえやしないかと聞き耳を立てました。耳をじっとすますと、沈黙しているように思われた黒い海のほうから、非常にかすかな物音が捉えられました。何かの歌声のような──。
音の正体が明らかになったとき、クレアは青ざめました。彼女は前にもこれに近いものを耳にした記憶がありました。それは南太平洋で長大な〈ゴースト〉に出くわしたときのことでした。高く低く震えながら尾を引くかすかなその声は、死にゆくさまざまな生きものたちの苦痛のうめきだったのです。彼女が音の意味を理解するのを待っていたかのように、苦悶の歌は黒く濁った海のあちらこちらから聞こえ始め、やがて海の中はうめき声の大合唱で満ちあふれました。
クレアは思わず耳をふさぎたくなり、目をあけて前方の視野に注意を集中しました。すでに水面には薄い脂が膜状に広がっており、それは太陽の光を受けて虹色の光沢を放っていました。しかし、七色に変化する渦模様は生ある者を油断させる罠以外の何物でもありませんでした。先へ進むにしたがって厚みを増していく脂は、かさぶたのようにどす黒く光を吸収し、どんよりと流れていました。海中に沈みこんだ脂は、海藻やそこを住みかとする小さな生きものたちの頭上に恐怖の雨となって降り注ぎます。海底の岩場にはすでに脂がうずたかく覆いかぶさっていました。ケルプの林にも黒々とした靄が立ちこめています。比重の重い沈んだ脂と軽くて水面に広がった脂の間を、水に溶けない脂は、海水の中に投げこまれてもがき苦しんでいるみたいにモヤモヤと淀んでいます。その苦しみが、生きものたちにとり憑いておぞましい死へといざなうのでした。
水面を天蓋のように覆う脂のせいで、水の中はかなり見通しが悪くなっていました。クレアはダグラスの言いつけにも背いて、薄暗い海中に目を凝らしました。瞼を閉じて音にだけ意識を向けていると、無数の悲鳴に呑みこまれて自分も悲鳴をあげてしまいそうだったからです。すると、何かが前方の水面近くで動いたように見えました。
おそるおそるそばへ寄ってみると、それは一羽の海鳥でした。全身を真っ黒い脂でべったりと覆われ、種族の区別もつきません。罠であるとも知らず、穏やかな波のない海面だと思って羽根を休めようと降り立ったばかりに、この鳥は二度と飛びたつことができなくなってしまったのです。ときどき苦しげに頭をもたげ、なんとかいま一度空へ帰ろうと必死に天を仰ぎますが、翼は黒く粘り気のある海面を虚しく掻くばかりでした。あと数分もすれば、羽毛の中に水がしみこみ、鳥は凍えるか溺れるかして息絶える運命にあるのです。
クレアは首を横に振ってそこを離れました。今度はもっと大きめの影が見つかりました。それはあの陽気なラッコのまだ若い個体でした。早く岸の上に避難していればよかったのですが、仲間とはぐれてまだ波間をウロウロしているうちに脂の黒い触手が襲いかかったのでしょう。やはりせっかくの滑らかな美しい毛皮を脂で台なしにされ、藻屑の固まりと見まがうほどの哀れな姿と化したラッコは、不自然に身体を痙攣させていました。そのラッコの子が、弱々しい声でつぶやきました。
「オカアサン……」
クレアは我も顧みず〈沈まぬ岩〉の汚物の中に突進しました。なんとかして風前の灯となった幼い生命を魔の黒い海の上に押し上げようとしますが、ラッコの身体は波にあおられ、大きな背中を滑るばかりでした。ようやく持ち上げるのに成功したときには、その子の身体は動かなくなっていました。平常なら空気の層を作って保温の役目を果たしている毛皮の間に冷たい水が染みとおり、小さな身体から体温を奪い去ったのです。
「ああ……」
辺りを見回すと、たくさんの動物たちが真っ黒い不透明な鏡のような海面にはまってうごめいていました。彼らは、永久停止へと向かうプロセスで断絶的なのたうちを見せる絶命のダンスを踊っているのでした。海は脂と死で充満していました。
「ジョーイ! 坊や!」
クレアは気が狂ったようになってうめき声と苦しみに満ちた暗い海を泳ぎ回りました。死にかけた動物やすでに死んでしまった動物を見かけると、ただちに駆け寄って息子かどうか調べ、違うとわかるとまた次の死体を確かめにいきます。すでに彼女は脂の帯の真っただ中に入りこんでいました。浮上するたびに脂を吸いこんでむせ返りながらも、涙の流れない目に脂が飛びこんでも、彼女はなおも闇雲に黒い海の中を突き進みました。
「坊や……」
一つの〈沈まぬ巌〉のちょっとした不注意による怪我がもとで、アラスカ湾の一角に住む生きものたちは未曾有の大災害に見舞われました。三万羽以上の鳥が死にました。この数は、羽づくろいをするときに付いた脂を呑みこんで致命的な胃腸障害を引き起こす者を含めると、さらにふくれあがるでしょう。五千匹のラッコを含む何千頭もの海獣たちが、やはり脂の犠牲者となりました。さらに、海中に住む魚やプランクトンなどおびただしい数の小さな生きものが、呼吸困難になったり毒気に当たったりして生命を落としました。
〈巌〉の流した〈黒い脂〉による被害は、その場限りのものではすみませんでした。脂を呑みこんだ魚たちを食べて、陸上の鳥や獣たちにまで毒は伝播していくでしょう。砂浜や海底にしみこんだ脂はいつまでも分解せず、波が洗うたびに浸出してくるでしょう。種族としてのタフさを持つ小さな生きものたちは、何ヵ月かすればまた生の営みを見せ始めるでしょうが、以前と同じ豊かな海が復旧するまでには何年かかるかしれません。〈豊沃の海〉を〈食堂〉として毎年のように利用していた者は、当面の間減配を食らう覚悟をしなければならないでしょう。うめき声が止んだとしても、この海から嘆きの声が聞かれなくなるのはいつのことになるか、だれにもわかりませんでした──。
意識が戻ると、クレアは三頭の仲間に囲まれていました。目の前にはまだチラチラと黒いものが漂っているような気がします。が、ここはもう脂のないきれいな水中でした。新鮮な空気が肺に流れこんできます。彼女は喘ぐように潮を吹いて、その空気を貪りました。皮膚には脂がこびりついており、口の中のヒゲもねばねばした感じがするうえ、胸がむかついて吐き気がしました。
「ここは……」
「気がついたようじゃな」
「このメスはもう、ヒレに穴を開けてつなぎ止めとかねえとだめだぜ」彼女が黒い帯の中で気を失って漂っているところを見つけ、運びだしてきたジャンセンが言いました。
「みんなで方々捜したんですよ、アネさん。まったく無鉄砲なんだから」
「ジョーイは……?」クレアはまだはっきりしない頭でぼんやりとつぶやきました。
三頭は黙って互いを見交わしましたが、やがてダグラスが重々しく口を開きました。
「まだ見つかっておらん」
「そう……」
クレアはそのまままたおとなしくなり、じっと押し黙っていましたが、ふといま急に眠りから覚めたように仲間に向かって話しかけました。
「私ね、とっても恐い夢を見ていたわ。夜だというのに、太陽みたいに眩しい光が波の上で輝いていて、ユラユラ揺れているの。吸いこまれそうなくらいきれいで幻想的な光で……。そこから何か得体の知れない黒いものが海の中にあふれだして、どんどん押し寄せてくるの。それは生きものたちをとりまいて、恐ろしい毒で苦しめて殺してしまうの。たくさんの、たくさんの生きものが死んでいったわ。海鳥も、ラッコも、アザラシも、魚も……オスも、メスも、小さな赤ちゃんも……。あの中にジョーイはいたのかしら?」
それから彼女は、三頭の目を見て哀願するように問いかけました。
「ねえ、あれは全部夢だったのよね?」
みなは無言のまま、クレアの視線を受け止めることができずに目を伏せました。
「ねえ、お願い、夢だと言って。お願い……!!」
一頭のメスクジラのすすり泣く声をかき消すように、一陣の夏の風がアラスカの海の上を吹き渡りました。