37 北の海の宴

 〈脂食の巌〉の流した〈黒い脂〉は、その後何日も何日もとどまることを知らず、百マイル以上にわたって流れ続け、アラスカ湾から半島部にかけての沿岸に漂着しました。おりしも〈表の一族〉にとっては収獲期に当たる時期で、〈豊沃の海〉に多くのクジラが押し寄せていただけに、このニュースは北太平洋に住むクジラ族に広く知れ渡るところとなりました。脂の海を一目見ようと野次クジラでやってきたり、知己の無事を確認しようとして、クジラたちはせわしく行き交いました。もっとも、年に一度の書入れ時にヒゲを休ませるわけにもいかず、まだ〈巌〉の汚物に汚染されていない使用可能な〈食堂〉には大勢のクジラが詰めかけ、そういった場がまた情報交換に用いられもしました。
 思わぬ騒乱のために、あと一泳ぎというところで再びジョーイの姿を見失ってしまったクレアと三頭の仲間は、この機会を利用してジョーイとシャチたちの行方を尋ね回りました。彼女たちはそれぞれ〈表〉に属する自分の同族から情報を収集し、ときどきアラスカ半島の先端にある島の近くの〈食堂〉で落ち合っては、互いの状況を教え合いました。
 クレアは数日の間、あの海鳥やラッコの子のように真っ黒になって横たわるジョーイの亡骸を夢に見ては、うなされて目を覚ましました。さすがにもうあの死の水域に潜入する気にはなれませんでしたが、彼女はときどき付近を泳いで息子の名を呼んでみずにはいられませんでした。これは勇気のいる仕事でしたが、岸辺に打ち上げられたクジラの死体がないかどうかも確認を怠りませんでした。幸いにして、ミンククジラの子が流れ着いたという凶報はいまのところ耳にしませんでした。
 鯨見知(ひとみし)りしないチェロキーは、やはり開放的な〈表〉のザトウ一族の仲間とすぐに仲良くなりました。〈豊沃の海〉には、〈抱擁の海〉を異にする北太平洋の三つの〈大郡〉──メキシコ沖、ハワイ、リュウキュウ/ボニンからザトウクジラたちが集まってきます。はるばる〈裏〉からやってきた〈大大詩鯨(だいしじん)〉の語る冒険譚に、若いザトウクジラたちはハラハラしながら聞き入りました。チェロキーとしては当分の間話のストックを切らさずにすみそうですし、聞き手のほうも世界の裏側に住む同族の珍しい話に喜んで耳を傾けました。ただ、チェロキーにとって一つ残念だったのは、せっかく自分がザトウクジラ一族初の〈毛なしのアザラシ・ウォッチャー〉に違いないと思っていたのに、三つの〈抱擁の海〉でもすでに〈ウォッチング〉が始まっていたことでした。
 ダグラスの一族は〈食堂〉では佳賓でしたが、彼は〈表〉にいる友鯨(ゆうじん)の何頭かと接触することができました。そのうちの一頭は知遇を得ていた同業者で、例の〈沈まぬ巌〉の脂垂れ流し事件の様相を伝えるとともに、それぞれの集めた歴史情報を交換し合って久闊を叙しました。
 ジャンセンはというと、もうさっそく他のオスとヒレ合わせをしたようでした。彼らマッコウ族の場合、〈豊沃の海〉にはメスこどもは来ないので、彼にとっては不足のない相手と心置きなくケンカができるというものです。彼は連日のように傷だらけで落ち合い場所にやってきました。
 こうして三頭のクジラが各々〈表〉の仲間と和気あいあい(ジャンセンはまあちょっと違うかも……)とやっている中で、クレア一頭だけは同族の中に十分溶けこめずにいました。〈表〉のミンククジラたちは、〈裏〉からの訪問者であるクレアを温かく迎え、いろいろと親切にしてくれました。でも、クレアは彼らの中に親子連れを見かけるたびに、胸がチクリと痛むのです。冬に生まれた当歳児は、いまはもう多くが離乳を終えていましたが、まだ母親のそばで甘えている子もいました。ジョーイが消息を断ったのは、ちょうどそのくらいの時期でした。坊や……ちゃんと食事をとらせてもらっているかしら? 友達はできたろうか? ああ、生きているのなら、もう一度、一目だけでもいいから会いたい! 子別れもまだすませていないのよ……。母親と距離をおきながらも、ときどき戯れかかってはたしなめられる仔クジラたちを見ていると、彼女はどうしても息子のことを考えてしまい、いたたまれない気持ちになるのでした。


 せっかく〈豊沃の海〉に来ているということもあり、四頭はジョーイ捜索の合間のヒレが開いている時間を食事に費やしました。しかし、これもクレア一頭だけは、諸々の理由でなかなか食が進みませんでした。最大の理由はもちろん、ジョーイのことで頭がいっぱいで食べる気になれないということでした。脂のただ中に突っこんだためか、口とお腹の調子があまりよくないということもあります。ただ、このほかにも基本的な障害が存在しました。季節が半年分ずれている〈裏〉から来たクレアにとって、本来いま時分は食欲の季節≠ナはなく、絶食期の子育ての季節≠ノあたっているはずなのです。彼女は〈豊饒の海〉での食事を中途で切り上げてきましたし、かなりエネルギーを消耗する長旅をしてきたわけですが、生理的にどうしても食欲がわかないのでした。
 もう一つの問題は、〈表〉のミンククジラとの献立の違いです。彼女はいままでナンキョクオキアミ以外の餌を食べたことはほとんどなく、実際それで身体を養うには十分でした。ここでもオキアミやカイアシ類などの小さな甲殻類が獲れはしますが、〈豊饒の海〉と違って量はあまり多くはありません。それで、〈表の一族〉のミンクたちは、もっと収獲のあるニシンやシシャモ、コマイなどの種々の表層に住む小魚を餌にしていました。しかし、クレアにはそうした魚を口にするのはちょっと抵抗感がありました。だって、背骨があるじゃない? 大きいし、なんだかヒゲに詰まっちゃいそうだわ。もちろん、〈表〉と〈裏〉の一族のミンクのヒゲは、色が多少異なるだけで構造的にはほとんど差がないのですから、これは彼女の単なる先入見にすぎませんが。
 ときには、チェロキーについていって漁の様子を見学することもありました。彼はまだ若くて柔軟性があり、〈表〉の友鯨(ゆうじん)と一緒に漁に出かけるのもやぶさかでなかったのです。
 ザトウ一族はバブルネットを使った見事な漁をします。餌になる魚の群れを見つけると、彼らはその下に回りこんで噴気孔から泡を出しながら、らせん状に旋回します。すると、魚たちの周りに円筒形のエアカーテンができあがり、立ち昇る泡を恐れる魚は中央に密集することを余儀なくされます。そうしてまとまった魚を、下からガブリと一呑みにするわけです。漁は一頭でもできますが、一〇頭ぐらいのグループでやると直径三、四〇メートルの大きなネットが張れ、中の魚を一網打尽にできます。これは〈ウロコ派〉のシャチのサケ漁と同じように、やはりグループのクジラ同士の協調が鍵になる漁法です。ちなみにこの漁は、たちどころに消える空気の泡を使っていますから、環境上まったく安全でもあります。
 上からこの漁の模様を眺めると、実に壮観です。まず、静かな海面に白い泡がボコボコと沸き起こり、列をなして次第に巨大な円を描いていきます。円が完成すると、泡の網に囲まれた池の中央では、魚たちが文字どおり泡を食ってピチピチと飛び跳ねます。カモメがすいとやってきては、跳ねた魚を失敬していきます。不意に海面を突き破って、クジラたちが大口を開けて次々に飛び出してきます。ザトウたちは下顎をオタマジャクシのようにいっぱいに膨らませ、獲物をたらふく呑みこみます。ご馳走に囲まれながら、それを頬張るクジラたちはいかにも、鯨生(じんせい)は食にあり! と謳歌しているように見えました。
「ねえ、アネさんもやってみない?」
 餌を呑みこんで棒立ちになったところでちょうどスパイホップの格好になり、クレアと目が合ったチェロキーが彼女に誘いかけました。
「ううん。私、お魚は遠慮しとくわ」
「アネさん、ここんとこあんまし食べてないでしょ。しっかり食べとかないと後で困るよ?」
「そうじゃよ、クレア。この旅がこの先どうなるかわからんが、もし次の〈裏〉の夏までに〈豊饒の海〉に帰れなければ、あと一年はまともな食事にありつけなくなってしまうよ。仲間と同じ食事にも少しは慣れておかんと」一緒に見物していたダグラスも促します。
「でも……」
 躊躇しているクレアに、チェロキーのグループのザトウが勧めました。「そうですよ、クレアさん。簡単だからすぐに覚えられます。飛び入り大歓迎ですよ」
 チェロキーはとうとうクレアの背中を押して、無理やり輪の中に連れてきてしまいました。
 ザトウクジラの漁は、まず始める前に、音頭をとるリーダーが大体の配置をメンバーに音声マップで指示します。魚群を見つけたら、合図の歌で作戦開始です。獲物に近づく際は、最初から驚かさないように慎重に潜水します。このときにちょっとでもゴボリとやると、魚たちはパッと散って逃げてしまうからです。静かに魚群の真下に来たら、頃合を見計らって手順どおりにみなで息を吐き出します。水中で息を吐き出すのって、なかなかコツが要るのよね。あら、私のバブルネットの形、なんだかちょっとねじけちゃった。
 さあ、ネットが完成しました。上を見上げると、水面から差しこむ光のゆらめきを遮って小さな黒い影がビュンビュン飛び交い、白い壁に閉じこめられた魚たちが右往左往しているのがわかります。リーダーが一番手を行きます。泡のカーテンの中央の位置につくと、尾ビレをぐんと打ち振って真っすぐ上昇します。海面が割れる音、口の両脇から滝のようにこぼれ落ちる水の音が、クレアの耳元にも届きます。二番手、三番手のクジラが後に続きます。魚たちは運よく敵の大顎からこぼれて逃れても、自分たちを襲うクジラの数だけ運試しを続けなければなりません。チェロキーの番なりました。
「アネさん、ぼくが行ってから十数えたら来てくださいよ。大丈夫、ぼくだって〈裏〉じゃオキアミばっかし食べてたんだから。同じようにやりゃいいんです」
 そう言ってクレアを励ますと、彼は獲物の中に飛び上がっていきました。ブリーチングのときほどではないけれど、クレアはなんだかドキドキしてきました。メンバーのザトウたちが脇に寄って彼女を見守っています。十。ええい、こうなったらやるっきゃないわね。
 スタート台についたクレアは、白い泡の円筒の中心軸に沿って思いきって上昇を開始しました。下顎を開くと、濃密な固まりになった魚たちが口の中にどんどん入りこんできます。水面が近い……と思った次の瞬間には、彼女は太陽の下に躍り上がっていました。魚たちが飛沫とともに銀色の腹を見せて宙を舞います。
「どうですか、ニシンの味は?」クレアがぐっと餌を呑みこんだところで、リーダーが尋ねました。
「おいしかったぁ!」
 ヒゲクジラの舌には味蕾がなく、餌を丸呑みにしますから、食物の味を味わうということはできませんが、みなと一緒に楽しく漁ができたことで、クレアはおいしさを感じることができました。なんだか、初めておとなと一緒に漁に参加したザトウのちびっこになったような気分です。ダグラスも目を細めて彼女の食べっぷりを眺めています。
 魚群の密度が適当に減るまで、仲間が下でブローを続けて漁は継続されます。クレアはチェロキーたちと一緒にあと数回ご馳走めがけての急上昇を繰り返し、実に何ヵ月ぶりかの満腹感を味わいました。ごめんね、お魚さん。
 最後に締めでチェロキーが大漁節を披露し、宴会はお開きとなりました。


 そうこうするうちに、日はたちまち過ぎていきました。クレアはときおりベーリング海やアリューシャン列島の西の端にまで遠征したり、あるいはカナダ沿岸に戻ってジョーイの行方を捜しましたが、彼を連れ去ったシャチたちの足取りは一向につかめませんでした。〈黒い脂〉の影響はまだ消え去る気配がありませんでしたが、事件そのものはクジラたちの話題に上ることも少なくなり、次第に過去のニュースとなっていきました。
 ある晩、クレアはまた例の夢を見ました。何かとてつもなく巨大なものが逃げるジョーイに襲いかかる夢です。その怪物は、思い起こしてみると、炎の中で揺らめいていた〈脂食の巌〉に似ていたような気もします。夢はこのことを告げていたんだろうか? ジョーイはあの脂の海の中で本当に死んでしまったのだろうか??
 そう思う一方で、クレアはやはり夢に出てくる怪物が〈巌〉ではなく、未だ見たことも遇ったこともない未知の存在であるという気がしてなりませんでした。夢のビジョンはますますはっきりとし、真に迫ってきています。そして、まだ結末を迎えていません。ジョーイは逃げ続けており、彼女の助けを求めている──。


 クレアが鬱々としているのを見て、なんとか彼女を元気付けてあげなくちゃ、とチェロキーは思いました。そこで、あるとき彼は妙案を思いつきました。
「ねえ、アネさん。歌をやっていないかい?」
「なあに? ブリーチングもやって、バブルネットの漁もやって、そのうえ今度は〈歌鯨(ボーカリスト)〉のまねまでやらせる気? そんなことしてたら、そのうち私、ミンクじゃなくてザトウになっちゃうじゃないの。いくら頼まれたって、私はあなたのお嫁さんになんかなりませんからね」
 口をとがらせるクレアに、チェロキーはあわてて否定しました。
「違う、違うったら! やだなもう、アネさんてば早とちりなんだから。あのね、ダグラスのオヤジさんとジャンセンのダンナも一緒にやるんだよ」
「?」
 チェロキーの妙案とはつまり、四頭でコーラスをやろうというのでした。歌を歌って気をまぎらすのが、こういうときには最良の薬というわけです。彼はダグラスとジャンセンに、クレアのためだからと言って拝み倒して合唱団への参加を承諾させたのでした(ダグラスは快く引き受けましたが、ジャンセンは渋々でした)。チェロキーとしては、あくまでクレアを元気にさせるためというのが第一の目的ではありましたが、もしこれが成功したならば、評判を呼んで自分の〈歌鯨(ボーカリスト)〉としての株も上がるというものです。なにしろ、四種族混成の四重唱(カルテット)というのは世界でも初の試みです。いままで一緒に危難を乗り越えてきた旅の仲間ならきっとうまくいくと、チェロキーは踏んだのです。何日か練習してうまくなったら、〈豊沃の海〉を舞台にコンサートを開こうというのが、チェロキーの目論見でした。
「合唱をやるとなると、やっぱり雌性(じょせい)のパートもあったほうがいいすからね。アネさんはアルトかな、ソプラノかな、それともメゾソプラノ?」
 クレアは最初あまり乗り気ではありませんでしたが、彼女も音楽は嫌いなほうではなかったので、チェロキーに誘われるままに歌の練習を始めました。そうするうちに、少しずつ心がほぐれてきました。〈小郡〉にもやはり歌の先生を職業にしているクジラがいて、その先生と同じことをチェロキーも説きました。さすがに彼も〈歌鯨(ボーカリスト)〉を自称するだけのことはあります。
「心を空っぽにして、自分自身が歌声になった気分で。そう、ブリーチングと同じ要領ですよ、アネさん」
 そのように無心に歌っていると、確かに殺鯨(さつじん)シャチや〈沈まぬ岩〉のことを、一時でも忘れることができます。それでクレアも、自分から歌の練習に精を出すようになりました。
 一週間ばかりして、チェロキーは本番の前に予行演習をやろうと考えました。歌に適した島影の浅海を選び、彼が親しくなった何頭かの〈表〉のザトウクジラを呼び集めます。
「それでは、これからみなさんにクレア&ハーフレンズ≠フコーラスをお届けします。曲目は『旅鯨のバラード』!」
 四頭は並んで位置につきました。合唱団の名前はチェロキー&ヒズフェローズ≠ノ本当はしたかったのですが、ここはクレアの顔を立てることにしました。曲のほうも、母子の愛を讃えた彼好みのメロディーがあったのですが、ジョーイのことを思い出させてはまずいということで、これに決めました。世間ではそれほど名が通っていませんが、不思議に胸を打つ詩を幾編も著しているシロイルカの〈吟遊詩鯨(ぎんゆうしじん)〉、マイラの作った歌です。
 海のカナリヤ≠ニも呼ばれる美しい声の持ち主、シロイルカの一族は、主に北極地方の沿岸や河口のそばで暮らしていますが、それ故に受難の星を背負っていました。〈クジラ食〉に狙われたり、皮の様相の変化や〈岩〉の往来にも悩まされていたのです。最近はとくに〈疫の精霊〉が静かな猛威をふるい、不治の病が流行したり子をはらめなくなったメスが多くなって、〈郡〉によっては血が絶えてしまうのではないかと危ぶまれていました。
 そんな暗い時代にあって、マイラはさすらいの〈雌流詩鯨(じょりゅうしじん)〉として北の氷海の同族の間をあちこち訪ね泳ぎました。そして、種族と自身を見舞った不運にもめげず、生の喜びを表現して希望の種を播き続けてきたのでした。〈豊沃の海〉にやってきてから、マイラの透明感のある詩を耳にしたチェロキーは、すぐさま彼女の大ファンになったのです。中でもお気に入りのこの曲は、旅鯨(たびびと)の感受性を通して世界のミラクルを歌いつづったもので、クレア&ハーフレンズ≠フデビューを飾るにはまさにぴったりといえるでしょう。


『旅鯨のバラード』


 ──自由への渇きを激しく感じたら
    さあ、旅に出かけよう
    行く先は水平線
    荷物は胸いっぱいの期待とちょっぴりの不安だけ
    ほかには何も入用じゃないさ
    どこまでも真っ青な海が待っているもの
    用意ができたらfluke up
    胸ビレ広げて未知の海原へ分け入ろう


    水の色が変わったのに気づいたかい?
    君はもう、昨日までの君じゃない
    彼方まで広がる水壁のグラデーション
    海藻の間に間に見え隠れするプラチナの踊り子たち
    細胞の音符が奏でるプランクトン協奏曲(コンツェルト)
    green flash
    黄昏にエメラルドの宝石がきらめく


    沈みゆく真赤な太陽を
    ただ一頭見送りながら
    君は何を想っているの?
    いま目にしている光景を
    波に乗せて届けたいあの(ひと)のこと?


    I'll travel alone forever
    星々のスコールが夜空から降りしきる
    We'll travel together forever
    時を越えて繰り返されるメロディー
    夢を信じて旅を続けるなら
    いつかきっと出逢えるだろう
    君だけのhappiness


    自分自身を見失いかけたら
    さあ、旅に出かけよう
    針路は全方位
    頼りは自分の尾ビレと気まぐれな風だけ
    怖れることは少しもないさ
    果てしなく広い海が呼んでいるもの
    心を決めたらfluke up
    背ビレを掲げて潮の流れを突っ切ろう


    星座の位置が変わったのに気づいたかい?
    君はもう、昨日までの君じゃない
    波間に揺らめく月影の幻燈
    七色の神秘に触手を震わせる透き通った妖精たち
    黒い深海魚が語る太古の回想録
    ocean fog
    オールグレーの異次元世界が誘う


    岸打つ波のかすかな響きに
    ただ一頭耳を澄ませながら
    君は何を想っているの?
    いずれは数々の思い出を
    携えて帰り着くだろう故郷のこと?


    I'll travel alone forever
    水平線が星の海に溶けてゆく
    We'll travel together forever
    銀河を越えて流れゆくメロディー
    夢を信じて旅を続けるなら
    いつかきっと出逢えるだろう
    光のoneness──


 コーラスは主旋律のテノールをチェロキーが、バスをダグラスが受け持ち、ジャンセンはクリック音でリズムをとります。クレアはバックの雌性(じょせい)パートを担当しました。チェロキーの見込んだとおり、四頭のコーラスは一つのポッドのように息が合い、曲は二番の途中まで順調にいきました。ああ、坊やにもこの曲を聞かせてあげたい。いえ、一緒に歌うことができたらどんなに素敵でしょう……。
 クレアはそこではたと声を出すのをやめました。
「あ、あら? アネさん、どうしちゃったの? 歌詞を間違えたかな?」
「歌えない……坊やがいないと私、歌えない……」
 彼女はそこでわっと泣きだしてしまいました。三頭の仲間も気まずくなり、合唱はそれでおしまいになりました。
「やめだやめだ。歌ってのは、やっぱり一頭で歌うもんだぜ」ジャンセンはそう言うと、グループから離れて潜っていってしまいました。
「あ〜あ、せっかくいい調子だったのになぁ」チェロキーが口惜しそうに言います。
「ごめんなさい……」
 クレアはしゃくりあげながら謝りました。


 それからのクレアは一層寡黙になり、仲間たちと顔を合わせることも少なくなりました。一月が経ち、季節はそろそろ秋に向かって泳ぎを早めだしました。
 クレアはときどき思うようになりました。ジョーイのことはもうあきらめたほうがいいのではないだろうか。〈裏〉の海ではリリが母親の帰りを待っている。こんな北の果てまではるばるやってきて、もう自分にできる限りのことは尽くしたのだから、レックスもきっと許してくれるだろう。いままでだって自分の子を全部育てきれたわけではないし。また別に新しく子をもうけたほうが、一族のためにも、自分のためにもなるのではないか……。
 せめて例の夢がもう少しヒントを与えてくれたなら……。あるいは、また以前と同じように、母子の間で心から心へ通信を送るチャンネルを再開することができたなら……。自分が母として坊やのことを強く(おも)っていないから、テレパシーを受信する能力がなくなってしまったのだろうか? それとも、これまでのことは自分の勝手な思いこみがたまたま当たっていたにすぎなかったのだろうか?
「少なくとも、ジョーイが不幸にあったという証拠は何もないんですから、気を落としちゃいけませんよ」チェロキーは言います。
 しかし、ジョーイが無事に生きているという証拠もありません。時間が経てば経つほど、その可能性はますます乏しくなっていくのです。
 いったいどうすればいいんだろう? 絶えず湧き起こる疑問に対してすぐに用意される、きっぱりあきらめてしまえ──という唯一の回答は、いつまでも保留にされ続けました。クレアはなぜかそうする気にはなれなかったのです。このままではいけない、と思いつつも、彼女は宙吊りの状態からズルズルと抜け出せずにいました。


 ある日、クレアはダグラスのもとを訪れました。
「……ねえ、ダグラス。私はこの先どうしたらいいと思う?」
 ダグラスはじっと考えこみながら水平線を見やっていましたが、おもむろに静かな口調で答えました。
「力を抜いてじっと水に身を任せることじゃ」
「何もするなっていうこと?」
「そうじゃ。いまほかにできることは、わしには思いつかぬ」
「……私ね、時間が停まってしまったのよ」クレアも水平線の彼方を見つめて言いました。
「このまま永久に停まり続けるんじゃないかしら?」
「だれにでもそういう時があるもんじゃ。じゃが、世界は常に動いておる。変化しておる。じゃからこそ、ところどころで時が停まるところも出てきよる。一ヵ所で一時、水が滞ることはある。じゃが、すべての海の水が流れを一切止めてしまうことはない。時間には、潮の満ち干や季節の移り変わりのように周期的に繰り返されるものと、噴火や津波のように唐突に訪れる変化とがある。歴史のパターンというものはな、クレアよ、そうした秩序あるリズムと予期せずに起こる事件との組み合わせで成り立っておるんじゃ。わしは前に、わしたち一頭一頭のクジラが歴史を作っておると言ったが、それ以外にいくらあがいてもどうにもならない要素も、残念ながらある。シロナガス族にとっての〈沈まぬ岩〉がそうじゃったし、お主にとっての今度の〈脂食の巌〉の事故もそれにあたるじゃろう。そんなときに、わしたちは面食らい、思いどおりにゆかぬ時間に対して焦りと憤りを感じる。じゃが、物事はなるようになるし、ならないようにはならん。動くときには動く。動かんときには動かん。じゃから、もしいま時間が停まっていると感じたならば、水に、波に、風に、雲に、すべてを委ねておればよい。そうすれば、時計の針はいずれ必ず動きだす。何かが変わる。そなた自身が変わるかもしれぬ。永久に止まっていることはありえぬ。……そなたの不満を和らげるに十分な返答ができずに、すまぬが」
 クレアはうつういてポツリとつぶやきました。「ごめんなさい。私、あなたの期待に添えなくて……」
「ホッホッ、だれもそなたが歴史を変えるスーパーヒロインだと言うつもりはないよ。じゃが、今度の一件がこれでもうすべて(おわ)ってしまったとは、わしは考えておらん。いずれにせよ、歴史は決して了ることはないんじゃ。たとえわしやお主が死のうと、一族が滅びようと。メタ・セティが再び永い眠りに就かれるまではな」
 二頭はそれきり口をきかず、再び海と空との混沌とした境に目を向けました。


 それから幾日か経って、クレアは久しぶりにジャンセンと顔を合わせました。
「よう、アネ御。どうしたい、シケた顔して?」
 ジャンセンがいつものように口の端をニヤリと歪めて軽口をたたいても、クレアは視線を落としたまま返事をしませんでした。
「もうやめにしたのか? ジョーイを捜すのは」
 ジャンセンが自分のほうからジョーイの話を持ちだしたのは、〈豊沃の海〉に来て以来これが初めてでした。クレアは哀しげな瞳を彼に向けましたが、再びうつむきました。
「するってえと、俺はもうお払い箱かな?」
「そうなるかもしれないわ……」ここでやっと、クレアは低い声でつぶやきました。
「そいつは残念だな。あんたには正直がっかりしたぞ」
 ジャンセンは真顔に戻って言いました。彼の台詞を聞いて、クレアはちょっぴり胸がチクリとしました。
「あんたはもうちっと骨のあるメスだと思っていたんだがな。もっとも、異種族のメスに何を期待したって始まらねえけどよ」
「どうしたらいいのかわからないのよ!」彼女は言葉どおりの表情で訴えました。
「シロナガスのじいさんのところにゃ行ったのか?」
 クレアはうなずきました。
「なんて言った?」
「じっとして何もするな、そうすれば時間のほうがひとりでに動くって」
「ふむ……。俺がもう一つのやり方を教えてやろう。もっとも、じいさんのとほとんど変わらねえけどな。動くんだよ」
「え?」クレアはジャンセンを見上げて問い返しました。
「動いて動いて動きまくるのよ。なんで動いてるのか、なんて考える間もねえぐらいに。何をやったっていい。歌っても、わめいても、ブリーチしても、ぶっ飛ばしても。ケンカだっていい。オスなら、こいつがいちばんすっきりするとこだがな。要は、思い煩ってる暇を与えなきゃいいのよ。じっと動かねえでいてもいいんだが、どっちが合うかはそいつのタイプによって違う。俺は、あんたは動いたほうがいいタイプだと思うね。結果はどっちだって同じだ。そのうち周りでも何かが動く。勝手に動いてくれる」
 クレアにはまだ彼の言っていることがよく呑みこめないようでした。
「まあ、あんたがどうしてもあきらめるってんなら、俺は何も言わん。あんたが決めることだからな。ただ、決めたことを後で後悔するなよな。ここまで来ちまったからには、もう何をやろうと同じことなんだぜ。何をやっても同じってのは、がむしゃらにとことんやり抜いても、すっぱり投げ捨てちまってもってことだ。わかるか?」
 クレアはただキョトンとしてオスマッコウの大きな横顔を見つめました。ジャンセンはいつになくやさしい笑みを浮かべると(それでも、ニヤリ、には違いありませんでしたが)、一呼吸して深みに降りていきました。


 北半球での収獲の季節が終わりを告げるまであと一月ばかりとなりました。その日、チェロキー、ダグラス、ジャンセンの三頭は急にクレアの呼び出しを受けました。
「私、決めたの」
 彼女はしばらく聞かなかった明るい声で三頭に向かって言いました。その朗らかさには、やや無理して取り付けたようなところがうかがえました。
「私はジョーイを捜しにいきます。あなたたちは食事を続けていて」
「なんだって!? アネさん一頭で捜索を続けるっていうんですか!? そらまたいったいどうしたわけです? いくらなんでもそいつは無謀だ! せっかくここまで一緒にやってきたってのに、何かぼくらに不満でもあるっていうんですか!?」
 びっくりしたチェロキーが、長い胸ビレをいっぱいに広げてまくしたてました。クレアは首を横に振って静かに答えました。
「これはそもそも私一頭の問題なのよ。私自身が、私自身の責任においてやらなければならないことだわ。ジョーイの居所を教えてくれる具体的な手がかりが一つもなくなった以上、これから先は何もかも自分の勘に頼っていくしかない。これ以上あなたたちを巻きこむわけにはいかないのよ。あなたたちにはもう十分すぎるくらいお世話になったわ。まあ、チェロキーのおしゃべりや、ダグラスの助言や、ジャンセンの『白鯨』の続きが聞けなくなるのは、ちょっと残念だけど……」彼女はここでいったん声を詰まらせて顔をしかめましたが、再び面を上げて残りの言葉を搾りだしました。
「みんな、いままでありがとう。あなたたちに一緒に来てもらって、とても助かった。私、どんなに心強かったことか……」
 クレアは茫然としている三頭の顔を、瞼の裏に焼き付けるように一頭一頭順番にじっと見つめ、精一杯の笑顔を振り撒きました。が、その声はかすれて上擦っていました。
「ありがとう、本当に……私、あなたたちのこと、きっと忘れない……」
 しまいまで言いきることができずに、クレアは尾ビレを思い切り打ち振って反転すると、そのまま全速力で仲間たちのもとを泳ぎ去りました。真っすぐ西を目指して──

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