39 クレアの危機

「みんな、さよなら……」
 〈豊沃の海〉で仲間のもとを飛びだしたクレアは、そのまま勢いに乗って何十マイルも快速で飛ばし続けました。泳ぎ止まると、三頭の友鯨(ゆうじん)との苦しくも楽しかった冒険の日々をつい振り返ってしまいそうだったからです。それによって、これからは一頭きりで旅を続けなくてはならないのだと改めて思い知らされ、辛くなるのがいやなのでした。アリューシャン列島の西端を過ぎてカムチャッカ半島の東岸へ、西から南西の方角へと向きを変えて次の列島にさしかかるところまで、彼女は速度を緩めずにヒレを動かし続けました。
 その島々を隔てるいくつもの海峡越しには、満々と水をたたえる海の存在が認められました。荒涼とした北辺の島々にはオットセイの繁殖地があり、晩夏を迎えもうじき子育ての季節を終えようとしている彼らの咆哮が、ときおり風に乗って海上にまで届いてきました。〈表〉の地理について不案内なクレアは、このまま列島を右に見て西南に進むべきか、海峡を通り抜けて向こう側の海に入るべきか、判断に迷いました。こんなとき、ダグラスがいてくれたら……。
 しかし、すべてのてがかりを失ったいま、クレアとしても焦って性急に動く必要は何もありませんでした。とりあえず、付近に住む同族を探して周辺の海の様子を教えてもらってから、針路を決めるのが賢明だろうと、彼女は考えました。こうなったら、たとえあなたが成鯨(せいじん)するまでかかろうと、絶対に見つけだしてみせるわよ、ジョーイ……。
 南半球では〈豊饒の海〉の〈大食堂〉に餌のオキアミが集中していますが、北半球では〈豊沃の海〉よりもっと緯度の低いところにも、海流のぶつかり合う場所など魚がたくさん獲れてクジラたちの餌場となる海域があります。いまクレアのいる列島の周辺もそうした豊かな漁場の一つでした。そのため、〈裏の一族〉がはっきりした季節的な長距離移動型の回遊をするのに対し、〈表の一族〉のミンククジラには、わざわざアラスカ沖や北極海にまでヒレを運ばずに短い距離を回遊する〈郡〉もいくつかあります。彼らは、クレアが島々の向こうに見たオホーツク海や、その南にある内海などで夏を過ごします。そこで彼女は、南西にゆっくり下って出会った同族と話をしてみようと決めました。
 ほどなく行き着いた〈食堂〉の一つで、餌を漁っていた〈表〉のミンククジラにクレアは遭遇しました。その五頭のメスたちは、何気ないあいさつだけ送って通過しようとしましたが、接近してきたクレアがこの辺りの〈小郡〉で見慣れない顔であることに気づきました。
「おや、あなたは?」
「私は〈裏〉のロス海〈大郡〉からやってきたクレアといいます。息子を捜してるんですけど、この辺の海のことをあまり詳しく知らないもので」
「〈裏〉からですって!? まさか……あまりクジラをからかうものではありませんよ」
 グループの中にいた年配のメスが、すがめるような目つきでクレアをじっと見つめました。よく見ると、クレアの身体は自分たちより一回り大きく、腕輪と肩掛けの模様はくすんではっきりしません。ややあって、そのメスはいかにもびっくりした表情で口を開きました。
「!? 驚いた……確かに、その身体つきは〈表の一族〉のものではありませんね……」
 出自に理解が得られたところで、クレアは彼女たちにも、これまで種族を問わず何頭ものクジラに語ってきた迷子探しの物語を聞かせました。もちろん、一万マイルも隔たった異郷の海に住むとはいえ、同族の仲間に対して包み隠すところなどありません。そしててっきり、何か役に立つ情報があれば、彼女たちのほうでも快く提供してくれるものとクレアは信じこんでいました。ところが、その〈表〉のミンクのメスは、彼女の話を聞き終えると、厳しい顔つきを変えずに次のように言い渡しました。
「クレアさん、あなたはこの先の海にはお行きにならないほうがよろしいですわ。私たちの〈郡〉としては、そのような事件に関わりを持ちたくはありません」
 今度はクレアのほうがびっくりする番でした。彼女は当惑して尋ねました。「あの……どうしてなんですの? 理由を教えていただけません?」
「この辺りの海に不慣れなあなたが来られれば、危険な目に遭う可能性が高いですから」
「私、言ってはなんですけど、もう何度も死ぬような場面をくぐり抜けてきたんです。サメやシャチや、凶暴な〈沈まぬ岩〉に襲われたことだってありましたわ。息子のためなら少々の危険は顧みないつもりです」
 メスは一層険しい視線でクレアを見据えました。「あなたが平気だと言われるのは、それはあなたの勝手ですわ。でも、責任を持てない以上、よその〈大郡〉の者であるあなたを迎え入れたくはないし、災いを招かれて私たちまで巻き添えになるのはごめんなのです」
 そのとき、年長者に応対を一切任せていたグループの中の一頭が急に沈黙を破りました。彼女はクレアよりまだ若いくらいのメスでした。
「あ、あの……私もこどもを誘拐されたんです! 去年、初めての坊やを!」
 自分の子のことを思い出して悲嘆に暮れている若いメスをちょっとにらんでたしなめると、年長のメスはまたクレアに目を向けました。彼女はかすかにため息潮をつくと、あきらめたように異邦鯨(いほうじん)に対する警戒と拒絶の理由を明かしました。
「……この辺りはね、〈沈まぬ岩〉やらシャチやらが多くて、変則的な行動をよくするのですよ。こどもが行方不明になることも稀ではありません。こんな話を広めたくはなかったのですが……この先南に向かって続いている大きな島々は、〈クジラ食の列島〉と呼ばれているんですよ──」
 憂いを込めたそのメスの言葉を聞いて、クレアは一瞬ドキッとしました。
「私たちは、不幸にも貪欲な〈沈まぬ岩〉のテリトリーのただ中に生を享けてしまったのです。これも運命と受け入れるよりほかないのでしょう……。悪いことは言いません、クレアさん。〈豊沃の海〉までお引き返しなさい。そして、太平洋の東側なり、〈裏〉の海にお戻りなさい。その坊やのことはあきらめたほうが身のためですよ」
 そう忠告すると、リーダーメスはグループの他の者を連れてそそくさと場所を移動していきました。できたら、あの若いメスにもっといろいろ状況を尋ねたかったんだけど……。種族の将来を半ばなげうってしまったような、沈んだ泳ぎ姿で去っていく北の同族を見て、クレアは悲しく思いました。〈豊饒の海〉でと同じように、ここでも〈沈まぬ岩〉の存在が──大きな種族をたいらげた後のデザートとして自分たち一族が選ばれたことが、〈郡〉内の雰囲気から明るさを奪っていたのです。本当は私たちミンククジラは、イルカに劣らず水の中を自由に、快活に泳ぎ回ることが大好きな種族だったのに……。
 とまれ、クレアにとってもう針路は決定されたも同然でした。〈表〉のミンクのこどもたちを誘拐している犯鯨(はんにん)も、影のように暗躍するあのシャチたちに違いありません。この先のどこかにきっとジョーイがいるのだ、と彼女は確信しました。〈クジラ食の列島〉か……口ずさむだけでも震えが止まらないわ。まさしく旅の終点にふさわしい呼び名じゃないの?


 幾日か続いていた霧がようやく薄れかかってきたある昼下がりのことでした。クレアは針路をさらに南へとり、勢力の強い寒流に乗って〈クジラ食の列島〉の懐深く入りこんでいました。どこからかこの霧の向こうから、あの化物シャチか〈沈まぬ岩〉が襲いかかってこないかと、クレアの不安はいや増して強まりました。こんなとき、調子っ外れでもいいから、チェロキーが歌ってくれれば元気づけられるんだけどなぁ。あ、調子っ外れなんて言っちゃった。まあ、いっか。どうせ本鯨(ほんにん)はいやしないんだもんね……。
 不意に海面がざわめきだち、動くものの接近を告げました。クレアはさっと緊張して流線型の身を強ばらせましたが、その必要はなかったことを知りました。白波を立ててやってきたのは陽気な、いや、陽気なはずのイルカ族の群れでした。
 そのイルカたちはイシイルカの一族でした。イルカの仲間はイルカとネズミイルカの二種類に大別されます(このうち前者には、大型でくちばしが短く、クジラとイルカの中間に相当するゴンドウがいます)。ネズミイルカ類は、イルカの多くが持つくちばしがなく、小柄で体長が二メートルを越えることはほとんどないのが特徴です。また、イルカは歯が円錐形で尖っているのに対し、ネズミイルカの歯は先端が平らでスペード形をしています。ネズミイルカとしては割合大きなほうに属するイシイルカは、体表にシャチのように鮮明な黒白模様が見られます。彼らの種族には、腹側の白色部分の大きさが異なるイシイルカとリクゼンイルカの二つの亜種族があり、それぞれさらにいくつかの海域ごとに分かれる〈大郡〉を含んでいます。
 イシイルカは、ジャンプ競技が二度のタラやイカの食事よりも好きというくらいのジャンプ狂です。イルカたちは次から次へと空中に連続ジャンプをし、文字どおり海面を跳ねていきます。ポーパシングと呼ばれる、海面スレスレの位置で空中ジャンプを連続的に行いながら進むこの遊泳方法は、水の抵抗を減らしてスピードを出すのに適しています。大勢のイルカが競って飛び跳ねるのを見ていると、大きなヒゲクジラたちもつられてなんだか浮き浮きした気分になるものです。しかし、いま前方からやってくる一〇頭くらいのイシイルカのグループには、どことなくさっきのクレアの同族に似た悲壮感が漂っていました。
「〈ツキンボ〉が来るよ!」
「〈ツキンボ〉だよ!」
「ぼくらを殺すよ!」
「殺されるよ!」
「恐いよ、恐いよ!」
「ぼくらを滅ぼすよ!」
「滅ぼされるよ!」
「恐い〈ツキンボ〉だよ!」
「滅びの日まであと幾年!」
「滅びの日まであと幾日!」
 イルカたちは口々に叫びながらクレアの横を通過していきました。泣き叫びながら去っていくイルカたちを不可解の目で見送りながら、クレアは首をかしげました。甲高いイシイルカの言葉は細かいところまで聞きとれませんでしたが、歌詞の中で「殺す」「滅ぼす」という語句がはっきりと口にされていました。もっとも、〈ツキンボ〉という単語──何かの名前を指しているようでしたが──の意味はまったく不明でした。それにしても、かわいらしいイルカたちがジャンプをしながらこんな殺伐とした歌を歌っているなんて……。
 クレアが沈んだ気分で考えごとに耽りながらゆっくり進んでいると、やがてまた別のイシイルカの群れに出くわしました。今度のイルカたちは哀しげな歌を歌ってはいませんでした。しかし……無機質の同伴者──〈沈まぬ岩〉と一緒でした。イルカたちは、〈岩〉が波を蹴立てて海面を滑走しているのを見ると、一緒に波乗りしたくなって全身がウズウズしだし、ついそばへ寄ってしまう癖があるのです。
 クレアは用心深く距離を置きながらも、水面から顔を出して彼らを観察しました。〈魚食〉の一種と見受けられるその〈岩〉は、イルカの群れのただ中に乗り入れていました。〈岩〉の進行方向の先端の上に小柄な生きものが一匹乗っているように見えます。あれが〈毛なしのアザラシ〉でしょうか!? 何か細長いものを、ラッコよりもっと長くて滑らかさのない前肢につかんでいます。それは……宙を飛んで、〈沈まぬ岩〉の真ん前をかすめて横切ろうとしたイルカの腰の辺りに突き刺さりました。
 ──〈イルカ食〉!?──
 クレアの瞼の裏に、レックスの死の生々しい情景がよみがえりました。
 刺し貫かれたイシイルカは、急所を外れたのか、甲高い悲鳴をあげながらなおも泳ぎ続けていましたが、二番目の細長いもの──〈ツキンボ〉が再び彼に襲いかかります。小さなイルカは軽々と〈岩〉の背面上に引き揚げられました。他のイルカたちは何が起こったのか状況をさっぱり理解できないらしく、「〈ツキンボ〉!? 〈ツキンボ〉!?」と唱えながら仲間を呑みこんだ〈沈まぬ岩〉の周囲にまとわりついています。
 もう、なんてバカなイルカなの!? 遊ぶことにかけては天才なのに、肝腎なときになるとどうして頭が働かないのよ! 業を煮やしたクレアは、彼らをこのまま放ってはおかれないと、同族の赤ん坊よりも小さなイシイルカたちに向かって大声で怒鳴りました。
「そこから、〈岩〉のそばから離れるのよ! 早くこっちへ来なさい!!」
 しかし、彼女のほうへやってきたのはイルカではありませんでした。
 〈表の一族〉のミンクの噴気はほとんど目に映らないのに対し、南氷洋では彼女たちの白い潮が二〜四メートルも吹き上げられるのがはっきり捉えられます。気温のせいか、北半球の水滴は恥ずかしがり屋なのか、〈表〉の海に来て以来クレアの噴気も心なしか薄くなっていましたが、それでも彼女のブローは、やはり噴気を目当てに獲物のイルカを探しだす〈沈まぬ岩〉の注意を惹くのに十分でした。
「うそっ!?」
 〈イルカ食〉はクレアの吹いた潮を発見して突然気が変わったらしく、常食していたイシイルカに前肢を出すのをやめ、クレアのいるほうへコースを変えました。
「や、やめてよね。私、坊やを捜すのに忙しいんだから。ほ、本当にあなたにかまってる暇なんてないんだから──」
 クレアは反転して水中に潜りました。ヤバイことになっちゃった。まだ到着したばかりだっていうのに、さすが〈クジラ食の列島〉と呼ばれるだけのことはあるわね……。クレアはスピードを上げて〈岩〉の追跡をなんとか振り切ろうとしました。あ、そうだ。レックスに言われたことを守らなきゃ。針路をムチャクチャにとるのよね。
 ところが、その〈沈まぬ岩〉はイルカの群れにくっついていた珍しい大物に俄然強い興味を覚えたらしく、執拗にアタックしてきました。ふとこのとき、クレアの脳裏にダグラスの言葉が思い浮かびました。〈クジラ食〉の中には〈魚食〉や〈イルカ食〉を装っている〈岩〉もおる──。彼の言っていたのはこういうことだったのね!
 そう、クレアの思い至ったとおり、〈クジラ食の列島〉には正真正銘の〈クジラ食の岩〉ばかりでなく、他の〈岩〉に擬態した〈クジラ食〉や、イルカなどを獲物にしつつときに〈クジラ食〉に早変わりする〈岩〉がウヨウヨしていたのです。アウトサイダーの〈クジラ食〉まで蔓延る理由の中には、モノ・セティのこしらえた仮想上の海で、一部の〈アザラシ〉たちが彼らの〈政を司る者〉たちのお座なりな監督の目を逃れ、クジラの肉を好き放題やりとりしているという裏事情がありましたが、もちろんそれはクレアたちの預かり知らぬことです。
 いまや〈沈まぬ岩〉はクレアに伴走する形でぴったりとつき、銛と同様の〈前肢の延長〉である〈ツキンボ〉を放つ機会をうかがっていました。動悸がして胸がキリキリと痛みます。ブローの間隔もだんだん縮まってきました。運の悪いことに、この暖かい海では南氷洋と違って逃げこめる氷の避難所はどこにもありません。陸は三〇マイルほど西にありますが、それこそは〈岩〉の本拠である〈クジラ食の列島〉なのでした。温めの海水は、スピードを出し続ける間にますます熱く感じられ、全身がゆだってしまいそうな気分です。ロス海の外れでの悪夢のような追走劇がまざまざと思い起こされました。残ったイシイルカたちを救った代わりに、この分ではどうやら自分が〈沈まぬ岩〉の今日の献立になりそうな気配です。
 やだ、また前と同じパターンじゃないの。私、〈沈まぬ岩〉に何か因縁でもあるのかしら? 今度はもうかばってくれるレックスはいないし……。ジャンセン、助けて! といっても聞こえるわけないわよね。私ってバカ。
 背中越しに、〈毛なしのアザラシ〉が二本の後肢で立っているのが目に入りました。太陽の陰に入って黒いシルエットになって見えます。ワレカラのようにひょろっとした、獲物のイシイルカほどの体長もないくらい小さな獣──。初めて間近に見るその生きものは、〈岩〉の背に揺られていまにも落っこちそうになりながらも、前肢に恐ろしい細長いものを携えていました。
 お願い、〈アザラシ〉さん。どうか見逃してくださらない? 私、いま殺されちゃうわけにいかないのよ……。しかし、クレアの必死の懇願も……絶え絶えの潮吹きも、心臓を酷使して泳ぎ続けた八メートルの身体の喘ぎも、波間を上下に揺れる眼差しも、〈毛なしのアザラシ〉に対しては訴える効力を持たないらしく、彼は感情のうかがい知れない目で滅多にない大きな獲物にじっと狙いを定めています。
 ごめんなさい、レックス。私、あなたとの約束を果たせなかった──

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