40 危難の島々

 〈毛なしのアザラシ〉がいましもクレアの背中に〈ツキンボ〉を放擲しようとした刹那、不意に近くでバシャッと大きな水音がしました。その〈アザラシ〉が右舷のほうを振り向くと、〈沈まぬ岩〉から三〇メートルほど離れた海中から、白黒模様の巨大な柱のようなものが立ち上がり、差し招くようにユラユラと揺れながら水面をたたきつけています。
「ほうら、〈岩〉さんこ〜ちら!」
 〈アザラシ〉はいったい何事かと前肢()を止め、くびれた首の上にちょこんと乗っかった小さな頭を傾げました。
 目前の獲物より一・五倍ほど大きいクジラの胸ビレが水面下に姿を消したかと思うと、今度は左舷に一〇メートルに達しようかというみごとな水煙が高々と吹き上がりました。
「こっちじゃ、こっちじゃ」
 海面越しに、やや青みを帯びた白っぽい背中が滑らかに動いていくのが目に入ります。その大きさはいまのザトウクジラのさらに二倍をゆうに越えていました。いままでその〈アザラシ〉はクジラ族中最大の種族を見たことがなかったらしく、混乱したように〈岩〉の上で立ち尽くしました。右を見、左を見しながらオロオロしていると、突然目の前の海面が割れて黒い壁がぬっと突出しました。
「!!」
 巨大な頭の歯クジラは、ブリーチする格好で〈岩〉の先端をかすめるように伸び上がり、〈毛なしのアザラシ〉の背丈の倍以上ある高所からギロッとにらみつけました。
 〈沈まぬ岩〉の端に危なげに立っていた〈アザラシ〉は、〈岩〉が大きく動揺したのと腰を抜かしたのとでひっくり返りました。クジラに前肢()を出そうとした〈偽イルカ食〉は、一目散に奇怪なクジラたちの出没する海域を離れました。
「へっ、ざまあ見ろってんだ。泡食って逃げてきやがった」
 三頭のクジラは危うく突き殺される寸前だったクレアのもとへ駆け寄りました。
「いやあ、間に合ってよかった。大丈夫ですか、アネさん!? ぼくら、あれからすぐ後を追っかけたんですよ。アネさんたらムチャクチャ飛ばすんだもん」
 クレアは遠ざかっていく〈沈まぬ岩〉の後ろ姿を茫然と見送り、次いで気が抜けたような表情で三頭を見比べました。が、いきなり烈火のごとく怒りだしました。
「チェロキー!!」
 へ? という顔で目をしばたたかせているチェロキーに、クレアは猛然とまくしたてました。
「臆病者のあんたがいったいなんのまねなの!? 肝試しのつもり? ああいう無鉄砲なことをすればお嫁さんの来手があると思ったの? それとも、あの〈毛なしのアザラシ〉が無害だと思ってウォッチしようとでも思ったわけ!? ヘロヘロと笑って、胸ビレなんか振って! あんたは私がどういう目に遭わされかけたか目に入らなかったの!?」
「あ、あらら……?」チェロキーはタジタジになって後退します。
「それからダグラス!!」
 クレアは続いて、自分の五倍近く生きている尊敬すべき種族の一名にきっと目を向けました。
「よりによってあなたみたいな慎重なクジラが、あんなまねをみんなに平然とさせるどころか、自分まで一緒になってやるなんてどういうこと!? あなた〈歴史家〉なんでしょう? 七〇年も生きてるんでしょう? いい歳してよくもあんなことができるわね! それとも、もうそんなこともわからないくらいボケボケにボケちゃったの!? こんな辺境の海で〈岩〉に殺されて、いままでの鯨生(じんせい)と一族の歴史を台なしにしちゃいたいわけなの!?」
「いや、わしは、その……」
 今回のクレア救出作戦を案出したのはそもそもダグラスで、〈偽イルカ食〉ならクジラ相手の経験も浅いはずだし、ミンクならまだしも彼ら三頭は獲物としては大きすぎて曳航できないからまず安全だと、慎重に計画を練ったつもりだったのですが……。
「ジャンセンッ!!」
 ケンカ慣れした離れマッコウに、クレアは決闘でも挑まんばかりに食ってかかりました。
「あなたはなんなの!? さっきのはあれ、どーゆーつもり!? 〈岩〉に自分のたくましい肢体を見せびらかしたいの? 〈アザラシ〉に自分の勇敢さをアピールしたいの? 雄前(おとこまえ)のところを見せたいの? そのあげくにあっさりとイチコロにされたいわけぇ!? あんた、〈岩〉に対してもつっかかるだけしか能がないの!? そんな大きな頭をして、いったいどれだけの脳ミソが入ってるのよっ!!」
「なんだなんだぁ? いったいどうなってんだ? せっかく助けてやったってのによ」ジャンセンはボソボソと不平を漏らしましたが、クレアのものすごい剣幕の前に、さしもの風来坊もかたなしです。
「あんたたちはそろいもそろって大バカも大バカよ!! 大バカクジラよ!! もし、あなたたちが〈岩〉に殺されてしまったら、私のせいで、私のせいで、レックスばかりじゃなくてあなたたちまで失ってしまったら、私、本当にどうしたらいいのか……あんたたちなんて、あんたたちなんて……」
 クレアは言葉に詰まってしまい、アオザメのような形相で三頭をにらみつけると、プイと後ろを向いてスタスタと泳いでいってしまいました。
「ええい、わけわかんねえなぁ。これだからメスってのは嫌えなんだ。俺はもうぜっってえハーレムなんか持たねえぞ!」ジャンセンがぼやきます。
 三頭はやれやれ仕方ないとばかり胸ビレをすくめると、距離を空けながらトボトボとクレアの後についていきました。クレアは仲間たちのほうを振り返ろうともせず、ヒレを緩めることなく黙々と泳いでいましたが、ちょっと先へ進んだところでスピードを落として止まりました。三頭が、これはまた雷が落ちるかな、とドキッとして身がまえていますと、彼女はゆっくりと振り向き、うつむき加減に先ほどとは打って変わったしおらしい声で言いました。
「あの……さっきは怒鳴ってごめんなさい。助けてくれてありがとう。私、独りぼっちになってから、どうしていいのかわからなくて、とても心細かった……。あなたたちが来てくれて、とってもうれしい、です……」
 三頭のオスは互いに顔を見合わせ、照れ笑いをしました。
「アネさん、別に気にすることないすよ。旅は道連れと言うじゃありませんか。ぼくらはもう、とことんまでアネさんに付き合うことに決めたんです。文句ありませんよね?」
 クレアはにっこりと微笑みました。恐い思いをした直後だっただけに、三頭の仲間の心づかいが身に染みてありがたく思えました。
「さあ、それじゃあジョーイ捜索隊の再結成を記念いたしまして、ぼくが一曲──」


 ──坊やが助けを求めてる〜
    どこかで坊やが叫んでる〜
    ミンク! ザトウ! シロナガス! マッコウ!
    急げ〜 仔クジラ捜索隊!
    頭にひらめく応援歌〜
    闘いの海はヒゲで泳げ〜 泳げ〜
    悲しみの海は愛で泳げ〜 Ah!
    シャチも〈岩〉も何のその〜
    小さな命を守るため〜 愛と勇気の潮を吹く〜
    クレア! チェロキー! ダグラス! ジャンセン!
    Oh! 我らがジョーイ捜索隊〜!


    坊やが救いを求めてる〜
    どこかで坊やが泣いている〜
    アネさん! オヤジさん! ダンナ! 若き天才〈歌鯨(ボーカリスト)〉!
    進め〜 仔クジラ捜索隊!
    不敵なおでこは真っ黒け〜
    嵐の海はヒレで泳げ〜 泳げ〜
    涙の海は愛で泳げ〜 Ah!
    サメも〈巌〉も何のその〜
    幼い命を守るため〜 夢と希望の未来を願う〜
    クレア! チェロキー! ダグラス! ジャンセン!
    Oh! 我らがジョーイ捜索隊〜!──


 ああ、やっぱり調子っ外れでも心が和むわぁ。あ、本鯨(ほんにん)の前でそんなこと思っちゃいけないわよね……。


「ク、ク、ク、〈クジラ食の列島〉!?」
 チェロキーのいる前でその呼び名を口にしてから、クレアはちょっとマズったかな……と後悔しました。
 四頭のクジラたちは親潮と呼ばれる強い寒流に乗って、その曰くつきの列島の北から二番目に位置する最大の島の東方沖を、南に向けて泳いでいました。親潮は、クレアたちが通ってきたのとちょうど同じコースに沿って、列島の東を時速半ノットの勢いで流れています。〈豊沃の海〉のような冷たい海域で付け足される養分をたっぷり含んだこの海流は、さすが親の潮≠ニ呼ばれるだけあって、たくさんのプランクトンやそれらを食べる魚たちを育みます。いまクレアたちのいる辺りから沖合に向かっては、親潮が反対の南側からやってくる強勢の暖流、黒潮とぶつかって潮目を形成しています。北方出身と南方出身の生きものたちが出会う潮目は、魚食のクジラ族にとっても、また〈沈まぬ岩〉にとっても絶好の〈食堂〉となります。このため、〈クジラ食の列島〉の東岸には、〈魚食岩〉の根城にしている入江が点々と並んでいました。その中には比較的最近にできた〈クジラ食〉の巣もあり、ほんのしばらく前まで活動していました。
 チェロキーが青ざめてまたしゃっくりを始めたので、ダグラスが落ち着かせるように言いました。
「大丈夫じゃよ、チェロキー。わしと君の種族はだいぶ前から〈沈まぬ岩〉のメニューの中から外されておるし、クレアとジャンセンを屠っていた〈沈まぬ岩〉も、数年前に活動をやめたらしいと、〈豊沃の海〉で同業の友から耳に挟んだよ」
「で、でも、さっきアネさんをねらったやつみたいに、アウトサイダーの〈岩〉ってのがまだいるんじゃないすか!?」
「うむ。それも少々危険が残っているのはクレアだけじゃ。お前さんが気に病むことはないよ。クレアだって、一目で彼らも異種族とわかるわしたちが一緒にいればまず安心じゃろう」
 実はダグラスは、チェロキーに不安を与えまいと嘘をついていました。〈魚食〉の多いこの〈列島〉の周辺を通る〈表〉のクジラ族は、クレアたちミンクに限らず、ナガスやイワシ、そしてチェロキーたちザトウも、ときどき〈ゴースト〉に絡み捕られる被害に遭っていたのですが、ときにはわざとクジラを捕らえる目的でこっそりと〈ゴースト〉が仕掛けられることもあったのです。
「クレアがまた追っかけられたらよ、今度は小僧が〈岩〉の前でブリーチしろや。オスが上がるぜ」ジャンセンがニヤニヤしながら言います。
「ダンナ〜、冗談でしょう!?」
「だめよ! さっきみたいなまねはもうやめて。いくら慎重に計画したっていったって、私、やっぱり心臓によくないわ。一頭でいなければ大丈夫よね、ダグラス?」
「うむ。まあ、単独行動を避けて、お互いの安全を常に確認しつつ、常時だれか一頭が耳をそばだてて周囲の監視に努めるようにすれば、リスクはかなり下げられるじゃろう」
 クレアは〈列島〉のほうに耳をすましました。ときおり〈岩〉の耳障りな鳴音が聞こえる以外、不気味な静けさを保っています。右目には、リアス式の海岸が遠く霞んで見えます。そこに隠れた小さな入江に、イシイルカを餌食にしている〈ツキンボ岩〉の巣があることなど、彼女には知る由もありませんでした。
「……みんな、さっきも言ったけど、私は坊やをさらったシャチたちを捜す鍵が、ここにあると思うの。この〈クジラ食の列島〉の周辺に住んでいる私の一族の間でも、幼児の行方不明事件が起こっていたのよ。ここが〈クジラ食〉の〈沈まぬ岩〉の本拠地であることも、とても偶然の一致とは思えない。やっぱりあのシャチたちは、〈岩〉や〈毛なしのアザラシ〉と何らかのつながりがあるのかも……。ダグラス、この島々に関してある限りのあなたの知識を、〈表〉に住むお友達の話と合わせて、教えてくださらない?」
 ダグラスは流れるような動きで鼻孔を水面に突き出して一潮吹くと、大きな頭の中に収められた幾編もの史書をひもときながら言いました。
「ふむ……やってみよう」


シロナガスクジラ族の歴史──近代章小篇:『危難の島々』
「──そもそも、北太平洋西部の一角を占める、四つの主な島から成るこの列島が〈クジラ食の列島〉の名を冠するようになったのは、およそ四百年ほど前からのことじゃ。それ以前から、ここに生息する〈毛なしのアザラシ〉はイルカを含むわしたちクジラ族を餌にしておった。それは千年以上も昔のことじゃったが、彼らは浜に打ち上がったクジラを利用していたにすぎず、せいぜいが内湾深く迷いこんだクジラを原始的な〈岩〉で追い上げる程度じゃった。わしが前に話した、〈アザラシ〉が急変貌を遂げる前の段階といっていいじゃろう。じゃが、その先住者の〈アザラシ〉の〈郡〉は何か不明の理由で消滅してしまった。一説によると、大陸方面から進出してきたとみられる〈アザラシ〉の一群に、先住者たちが駆逐されてしまったともいわれておる。いちばん北の島には、ステラの物語に出てきたような〈アザラシ〉がしばらく残存しておって、わずかにクジラ族を狩っていたようじゃ。これはわしたちの〈郡〉に影響を及ぼすような規模のものではなかったが、彼らもとうとう滅ぼされてしまったらしい。少なくとも、以前のような性質は持たなくなったようじゃ。
「新たにこの島々に移入してきた〈アザラシ〉は、住み着いた海岸の巣でごくたまにクジラを消費することはあったようじゃ。その様相が変化し始めるのは四百年ほど前、〈ツキンボ岩〉の元祖が登場する辺りからじゃ。もちろん、〈沈まぬ岩〉は新型の高速タイプではないから、彼らの獲物は……さて、復習じゃ、チェロキー。〈毛なしのアザラシ〉が最初に目をつけたクジラはどの種族じゃったかな?」
「えっと〜、あの陽気なコククジラとおっとりしたセミクジラでしたね」
「正解。君はきっと叙事詩が立派に歌えるようになるよ。前にも述べたように、コククジラの一族は北太平洋の東と西にそれぞれ〈大郡〉を持っておった。西の〈大郡〉は、この〈クジラ食の列島〉の三つの島に囲まれた内海を昔〈抱擁の海〉に利用していたとも聞く。それが〈ツキンボ〉が出現して年に百頭も二百頭も捕りだしたために、たちまち彼らの鯨口(じんこう)はガタ減りし、〈アザラシ〉たちにとっての獲物は底をついてしまった。〈列島〉最大の島の中央近くにある一湾を発祥とした〈ツキンボ岩〉は、以後この地で絶滅してしまう。
「〈クジラ食〉はその後よその巣に移って、〈列島〉の西部を中心に増殖し始めた。〈ツキンボ〉の次に、その出現からわずか一世紀を経ずして現れたのが〈ゴースト〉じゃ。現在のようにエコロケーションにも引っかからないような代物ではないが、わしたちが渾身の力を込めて暴れてもなかなか脱け出せないくらい強靭ではあったようじゃ。なぜ、〈ツキンボ〉に代わって〈ゴースト〉が登場したのか? これは、ヒレの遅いクジラが減少して前肢()に入りにくくなったために、〈アザラシ〉が嗜好を変えたことと関係がある。次に獲物としてねらわれたのはどの種族かな、クレア君?」
「はい。チェロキーたちザトウクジラでぇす」
「うえ〜〜」
「そのとおり。彼らはまず〈沈まぬ岩〉でクジラを追いたて、獲物が〈ゴースト〉に自ら突っこむように仕向けたんじゃ。これならば、いくら泳ぎの速いクジラでも容易に捕まえることができる。〈クジラ食の列島〉の〈毛なしのアザラシ〉たちは、世界のどの陸に住む〈アザラシ〉よりも逸早く、ザトウのみならずナガスやわしたちシロナガスまでも屠ることができるようになった。そうやって、彼らは内湾に引っこんでいることをやめ、他の種族のクジラにも前肢()を伸ばすようになった。最盛期には〈列島〉の各地に四十余りの〈岩〉の巣ができ、合計で年間八百を越えるクジラが餌食になったといわれておる。〈ゴースト〉の出現から一世紀半ほどのことじゃ。
「しかし、彼らにとってほくほくの時代は長くは続かなかった。最もよく捕られていたセミクジラ族の鯨口(じんこう)は次第に減少していき、それを埋め合わせるようにナガス族の犠牲者が急増した。これは必ずしも〈列島〉の〈アザラシ〉のせいばかりではない。ジャンセンたちマッコウ族を追って世界中を荒らした〈帆立巌〉がこの付近にもやってきていたんじゃ。それらは専らマッコウを捕食しとったが、獲物のないときはたまにセミクジラにも前肢()を出しておったんでな。〈帆立巌〉が積極的に外洋に繰り出す攻めの〈クジラ食〉だったのに対し、〈列島〉の〈ゴースト岩〉は自らの巣の近海から出ることはなかった。別の意味では、非常に効率的な〈クジラ食〉だったともいえる。わしたちが何千年も昔から決めている回遊路に、彼らは単に〈ゴースト〉を張って待ち伏せしておればよかったのじゃからな。
「彼らがわしたちを屠った方法についてじゃが、一匹の〈毛なしのアザラシ〉が銛を撃ちこんだクジラの背にとりついて鼻孔と背ビレに穴を穿ち、そこに綱を通して〈岩〉に結わえ付けたという。獲物に定められたクジラも不運じゃが、〈アザラシ〉もさぞかし悪戦苦闘したじゃろな。まあ、クレアもいることじゃから詳述はすまい──」
 あんなちっちゃくてひ弱そうな陸の獣なのに、ずいぶん獰猛なのね。鼻に穴を開けられるなんてぞっとしちゃうわ……。クレアは〈沈まぬ岩〉の上に仰ぎ見た〈毛なしのアザラシ〉の姿を思い返し、身震いしました。
「──じゃが一つ、規模の大きな〈クジラ食〉が世界各地で使った常套手段を、彼らも好んで用いた。母と子の絆を利用するやり方じゃ。彼らの目当ては当然肉のたっぷり付いたおとなのクジラじゃったが、仔クジラのほうが断然仕留めやすい。そこで、子連れのクジラはこの〈列島〉においても格好の標的とされ、子を先に傷つけて母が逃れられぬようにしたのじゃ。もっとも、子を守ろうとする母は危険このうえないから前肢()を出さないほうが無難だと、見送る向きも一部にはあったようじゃが──」
「何よ、それぇ!」クレアが憤慨して言います(その彼女の様子を見て、二頭の聞き手のオスは〈毛なしのアザラシ〉の懸念ももっともだと内心思ったのでした……)。
「──さて、旧タイプの〈クジラ食〉が急速に廃れていってほっとしたと思ったら、それはとんでもない大間違いじゃった。それらの絶滅と機を同じくするように、北大西洋で最初に出現した新種の〈沈まぬ岩〉、シャチをも寄せつけぬ強力な殺傷能力を有する〈岩〉が、この〈列島〉でも恐ろしい産声をあげたのじゃ。百年足らず前のことじゃ。大洋と大陸をいくつも隔てたはるか〈メタ・セティの子〉の裏側にまでも、それらは瞬く間に子孫を送りこんで増殖しよる。まあ、無生物相手にこうした比喩を用いるべきではないがな。
「旧い〈岩〉と新しい〈岩〉との間にどんな関係があるのかは知らぬが、中身は実質的に似ても似つかぬものじゃ。〈岩〉の巣にも再編成があったようじゃ。いままでなかったはずの〈列島〉の北部にも巣がはびこった。しかも、それらは遠洋に進出せぬという従来のルールを丸っきり無視した。あるいは、単に外へ出る能力がなかっただけで、そもそもそんなルールを種族のしきたりとして尊重などしていなかったのかもしれぬ。それらはどんどん餌場を拡大していき、〈列島〉周辺の全クジラ族が軒並大きなダメージを被った。コククジラの太平洋西側〈大郡〉は駄目押しの打撃を食らった。北太平洋を住みかとするわしやチェロキーの種族は、主にこの時期の〈クジラ食〉によって滅亡の危うきを見たといっていい。クレアの仲間も、〈豊饒の海〉でよりも早くここで前肢()がつけられていたようじゃ。新型〈岩〉は三〇にも満たなかったが、それでもわしたちを葬り去るに十分な数じゃった。結果的に、急激な淘汰が起こって〈岩〉たち自身も数を減らすことになった。
「これは〈表裏〉双方にまたがることなので、わしたち〈歴史家〉としても調べをつけるのが非常に難しいんじゃが、〈豊饒の海〉に〈巌〉を送りだしていた主要な〈アザラシ〉の〈郡〉の一つが、実はこの〈クジラ食の列島〉じゃったらしい。他の〈郡〉よりは出遅れたようじゃが、多いときには七つも〈巌〉を送りこんで苛烈な〈クジラ食〉競争のトップに登りつめ、〈豊饒の海〉の豊かさを絞り尽くす役割を果たしたといわれる。いま、クレアたちをねらっている地上最後の一つとなった〈巌〉も、どうやらここを本拠にしているようじゃ。確かなことは言えんがな。
「〈巌〉を〈豊饒の海〉へ送りこむのと並行して、〈列島〉近海ではクレアとジャンセンの種族が主に殺され続けた。ほかにイシイルカその他のイルカたち、ゴンドウやツチクジラもメニューに含めているようじゃ。これはちょっと眉をひそめたくなる話じゃが、イルカやゴンドウのポッドを岸に追いこんで、老若雌雄(ろうにゃくなんにょ)問わず一網打尽に虐殺する〈血の浜〉がいくつか沿岸にあるらしい。ミンクとマッコウを食らう〈岩〉は、先だって友鯨(ゆうじん)から仕入れた情報を信ずるならば、さっきも言ったようにとりあえず数年前から鳴りをひそめている。実際には、同じ〈岩〉が君たちの代わりにツチクジラとゴンドウを捕っていて、胃袋を再び拡げる隙をうかがいつつなおも生き永らえているというのが真相のようじゃがな。大体こんなところじゃ。マッコウ族対象の〈岩〉については、ジャンセンのほうがよく知っておるじゃろうから、彼に譲ろう」
 そう言ってダグラスはジャンセンに講義をバトンタッチしました。
「そうだな……俺は〈歴史家〉じゃねえから細かいことまでは言えねえが、ここの同族の連中から耳にした程度のことなら教えてやれる。〈帆立巌〉が世界中の海から俺たちマッコウ一族を殺し尽くそうとしたのは、じいさんからも聞いてるだろう。あのディックの時代だ。だが、新手の〈岩〉はもっといけ好かねえ野郎だった。俺たちがやっと〈帆立巌〉の打撃から立ち直ろうとしかけたときに、やつらは牙を剥いて襲いかかってきやがった。ちょうどたったいま俺たちのいる辺り、ここに来遊していた二つの〈郡〉のうち、一つは潰されてちまったよ、〈岩〉のやつらに。だから、連中のほうでも殺戮場を南に移さざるをえなくなった。やつらは野郎がお好みでな。主にオスの〈学校〉を狙い撃ちして、でけえのばかり殺していったのよ。おかげで、いまじゃ俺くらいの体長だってヘビー級だぜ。昔だったらミドル級に入れられてたところだが。骨のある対戦相手を探すのにも苦労すらあ」
「どうしてオスばかりを?」クレアが尋ねます。
「そんなこたあこっちが知るもんかい。ただ、前にも言ったように、俺たちは雌雄でポッドが別々に分かれているから、オスだけ捕ろうと思やそう難しくはねえ。だがな、やつらがメスこどもに情けをかけただなんて間違っても思うなよ。俺たちの種族はメスに比べてオスの数が極端に少なくなった。どうなったと思う? マスターを殺られ、その候補になるオスを殺られたおかげで、メスはこどもを授かることができなくなっちまったんだよ。マッコウの鯨口(じんこう)は減る一方だ。俺たちが成鯨(せいじん)するまでにかかる時間を考えると、当分この状態を脱却することはできねえだろう。愛する者を奪われ、次の世代を産みだすことのできなくなったメスが、悲しまなかったと思うか? 泣かなかったと思うか!?」ジャンセンは怒りをぶつけるように、水面を尾で一打ちしました。
「ううん、聞けば聞くほど恐いところだなあ。ぼくらの同族のみんなは大丈夫なんだろか? リュウキュウとボニンってこの近くですよね?」チェロキーが不安げな面持ちでダグラスに確認します。
「両方とも三〇年くらい前まではザトウを捕る〈岩〉がおったようじゃよ。いまはもう君たちの仲間は一応安全なはずじゃ。じゃが、ボニンでは近年までニタリの一族が屠られておったし、リュウキュウでは〈パチンコ岩〉というのがコビレゴンドウを殺しておる」
「ふうん……」クレアは鼻梁に三本の筋の入ったニタリクジラのように、額にしわを寄せて考えこみました。
「……なぜ、この〈列島〉の〈毛なしのアザラシ〉たちは、私たちを殺すことにそれほどまでにこだわるのかしら? 何かこう、クジラに対して……私たちが〈郡〉の中で大切に維持してきた語りや職業やしきたりのような、伝統≠ンたいな執着観念があるのかしら?」
「なにィ、伝統≠セぁ!?」ジャンセンが片目を吊り上げ、いかにも鼻持ちならぬという風情で噴気孔を鳴らしました。
「おい、クレア。ふざけたことを言うんじゃねえぞ。いいか、耳垢栓かっぽじらなくてもいいからよく聞けよ。こっから南へずぅっと下っていって、赤道をちょいと越えた辺りに小さな島々が並んでやがる。俺たちの〈小郡〉の一つがそこに回遊している。俺は一度そこに顔を出したことがあって、そのとき話を聞いたんだが、その島の一つにも〈毛なしのアザラシ〉の巣があってな。連中は原始的でちっぽけな〈岩〉と前肢()打ちの銛で、年に四、五頭くらい俺たちを狩る。そうやってずっとずっと同じように俺たちを捕り、生活してきた。ステラの物語に出てきた兄弟たちに近い連中だな。ある年、一回だけその〈アザラシ〉たちが新種の〈岩〉を使ったときがあった。マッコウはたくさん獲れた。で、やつらは反省して、それっきり二度と新種〈岩〉を持ちだそうとはしなかったんだとよ。
「いいか。ここの〈列島〉のやつらを、その南の島の〈アザラシ〉やもとから住んでた先住〈アザラシ〉と一緒にするなよ。もし、ここの連中が曲がりなりにも伝統と呼べるものを持っていたんなら、どうしてコククジラやセミクジラからザトウ、シロナガス、ナガス、イワシ、そして俺やクレアの一族、それでもだめならツチクジラって具合に、次から次へと殺す対象を乗り換えてったんだ? どうして俺たちの数が少なくなっても、自分たちの獲り分のほうを確保しようとして、俺たちに回復の機会を与えようとさえしなかった? どうして沿岸にとどまってねえで、どんどん沖に出ばっていったんだ? 何千マイル離れたこの星の裏側の〈豊饒の海〉にまで? そうやって〈沈まぬ岩〉の数をバンバン増やして、胃袋をふくらましていったのはどうしてだ? どうして〈ツキンボ〉が潰れたら〈ゴースト〉、それでだめなら新種〈岩〉や〈巌〉って具合に、次々にヒレを変えていったんだ? ソナーだの〈空飛ぶ岩〉だのまで持ち出してよ。なんでまた〈偽クジラ食〉をのさばらせておくんだ?
「俺たちが何千年、何万年となく定めてきた回遊の道筋や〈郡〉の仕組みみてえな習慣やしきたりは、確かに伝統≠ニ呼ぶに価するさ。お前さんがオキアミを食い、俺がイカを食ってるのは、間違いなく伝統だ、食文化だと胸を張って言えるとも。だが、連中がたかだか数百年の間変えなかったことといや、ただクジラを殺し続けることだけじゃねえか!? そいつが自分たち一族の誇りや生き方とどう関わってくるのかちっとでも考えていたなら、こんなでたらめな歴史になるわきゃねえもんな。生物としてのルールの初歩も守れねえようじゃ、伝統なんて口にする資格があるわけねえ!」
「うむ。確かに、〈列島〉の〈毛なしのアザラシ〉たちにとってのクジラが、わしらにとってのオキアミのような基礎食糧でない、生命を支えるために必要とし、種族の文化にも密接に結び付いたものではないということは、はっきりしておるな。さもなくば、そのような融通が利くわけもなかろう。伝統と呼ぶものを仮に彼らが持っていたとしても、それはメタ・セティの創った世界をあるがままの形で継承したいと願っているわしたちすべての生きもののように、不利な側面も含めた生活様式そのもの、自分たちの種族の在り方というみなし方は、おそらくしないのじゃろうな」と、ダグラスも付け加えました。
「ともかく、ここの〈毛なしのアザラシ〉はそういう輩よ! 〈アザラシ〉の中でも最低の連中だ! 二四重鯨格(じんかく)だ! 俺がいっちゃん嫌えな野郎だ!!」
 ジャンセンは、ふざけやがって! 気に入らねえ! を連発しながら、ズンズン先へ行ってしまいました。クレアたちは首をかしげましたが、とにかく彼の後に従いました。彼の〈アザラシ〉嫌いは以前から承知していましたが、今日はとくに虫の居所が悪そうです。
 それからジャンセンは、〈毛なしのアザラシ〉に対するけなし言葉も底をついたのか、むっつりと黙りこくったまま真っすぐ前を向いて泳いでいました。が、急に三頭の仲間に向かってしんみりした調子で打ち明けました。
「あのなぁ、俺の親友(ダチ)が昔、ここで殺られちまったんだよ……」
 三頭は黙って彼の横顔を見つめました。
「俺と同じで、自由と孤独を愛した……旅を枕に生きてるような、一つ所にじっとしちゃいられないたちだった……。恐れ知らずで、ガキみたいなとこをしこたま残してやがった。三〇過ぎのいいオスがよ。いいやつだった……。ケンカもよくした。やつも強かったが、俺のほうが一つ白星が多かったな」
「『おい、ジャンセン。次に会ったときゃあ、てめえのその生意気な下顎をへし折ってやっからな!』
「『おう、いつでも来いや。歓迎してやらあ』
「それが最後だった。ちっとやそっとのことでくたばるやつじゃなかった。だが、〈沈まぬ岩〉には……」
 ジャンセンはふだんの大潜水と違いほんの数回潮を吹いただけで潜水の姿勢に入り、深みを指して潜っていってしまいました。いつも彼が一頭で離れるたびにヤキモキさせられるクレアでしたが、今日だけは声をかけずにそっとしておいてあげたいという気になりました。

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