45 白鯨−その3−

 日がとっぷりと暮れても、ジャンセンはまだ帰ってきませんでした。
「遅いなあ、ダンナは」
「どうせまただれかにケンカでもふっかけてるんでしょ」
 気まぐれマッコウのことはそれ以上気にかけず、クレアはダグラスと一緒にさっさと波の床に就きました。
「……」
 チェロキーは目を瞑ってもなかなか眠ることができず(その原因は、話の続きが気になるというのとは微妙に異なっていましたが……)、見張りがてらときおり真下の深みにチラチラと目を向けていました。ふと視線を水平に戻すと、なにやら緑色の燐光を帯びた大きな物体が自分たちのほうへまっしぐらに迫ってきます。
「ぎゃーっ、ディックが出たあっ!!」
 浅い睡眠に入っていた残る二頭は、臆病なザトウクジラの素っ頓狂な悲鳴にすぐさま飛び起きました。見ると、大きなマッコウクジラが輪郭を浮かび上がらせながら、波をかき分けるようにして近づいてきます。なんのことはない、ジャンセンでした。
「なかなか凝った演出だろ、え?」
 ニヤリと開いた下顎に並ぶ二列の歯が、きらびやかな碧の炎に包まれます。
「今宵はやけにウミホタルが騒ぎよるな」
 ダグラスが種をばらしました。動きに刺激されて発光液を振りまく微小な甲殻類が、彼の身体に奇抜なイルミネーションを施したのです。まったくこどもっぽいんだから。とてもお友達のことなんて言えないじゃないの……。
「ダンナァ〜、たちの悪い冗談はやめてくださいったら!」
「さて、じゃあ『白鯨』の続きを話すとしようか?」
「あ、別にまた今度でもいいっすよ」
 珍しくチェロキーがせがもうとしないので、ジャンセンは意外そうな顔をしました。
「そうか? でも、今度となるとまたいつ話す気になるかわかんねえぞ?」
 ははーん、なぁるほど……。チェロキーの心が読めたクレアは、彼に対してちょっぴり意地悪を働きました。「私はいま聞いちゃいたいナ」
 チェロキーはすまし顔のクレアのほうを見てあきらめたのか、げんなりと潮を吹くと、クレアとダグラスの間に身を割りこませました。
「ど、どうぞ」
 強ばった声でそう言ったチェロキーは、クレアが隣にいることを確かめでもするように、胸ビレを伸ばして彼女のヒレ先にそっと押し付けました。ウフフ、ここにもおチビさんがもう一頭──。


『白鯨』
「──宿命の敵に深手を負わされたディックは、回帰線付近の塩分濃度の濃い、鯨影も〈岩〉影もないひっそりとした内湾に引きこもり、二ヵ月ほど断食して静養した。おかげで肉づきはすっかり落ちたものの、遊泳力は元通りに回復した。ただ、〈岩〉にやられた怪我のせいで、潜水するときに変な具合に尻尾をよじる癖がついちまった。そして、彼の心にも微妙な変化が訪れた。
「これまでディックは、〈沈まぬ岩〉に対して微塵の恐怖も感じたことはなかった。だが、いまはある種の怖れに近い感情を抱くようになった。それは〈岩〉に対してというよりも、何者かによって自分の針路はことごとく決定され、そこから逃れることはできないのではないかという予感──運命に対する畏怖とでもいうべきものだった。
「『お前さんは実に不幸な星の下に生まれたね──』
「幼年の日にイライザに言い渡された予言が、いま、彼の突き貫かれた尾をグッと鷲づかみにし、ディックがいくらあがいても、自ら泳ぎ進む方法を決めることを許さずにいる。そして、彼の導かれる先には破滅が待ち受けている……。
「『お前さんはあるものと強く、強く惹かれ合い、それと対決せねばならん──』
「ディックはもはや手当たり次第に〈沈まぬ岩〉を見たら屠るということはしなくなった。力と勇気を保持するために、依然として〈岩〉との闘争をやめはしなかったが。不特定多数の〈岩〉ではなく固有の〈岩〉が、新たな目標として彼の前に立ちはだかった。その後の憤怒と苦悶に満ちた血みどろの鯨生(じんせい)を決してしまったあの悲劇の日から三〇年後に、彼はまるで不思議な運命の糸に操られるかのように仇敵と再会したんだ。
「以来、ディックはある奇妙な観念にしばしば捉われるようになった。殺された肉親のために自分が復讐を誓った例の〈巌〉は、もしや彼に対して逆襲を企てんとしているのではないか。自分が葬り去った〈沈まぬ岩〉や〈毛なしのアザラシ〉の仇を討とうとしているのではないか。その場であの世に送りこんでやった三つの〈ハタラキ岩〉と幾匹もの〈アザラシ〉、いや、それどころか、この三〇年間にディックの餌食となったすべての〈岩〉たちの無念を晴らすべく、白いクジラに制裁を加えんと捜しまわっているのではないか。いまや追う者と追われる者、復讐者とその仇との立場が逆転し、彼自身が守勢に立たされているのではないか……そんな疑念が、白い頭にまとわりつきだしたんだ。
「『いや、お前に俺が殺られるのではない。俺がお前を殺るのだ──』
「ディックは、この次に会ったときこそ必ず勝利して復讐を完遂してみせるぞ、といっそう憎悪の血をたぎらせた。同族の歯と骨で身を飾り立てたあの〈巌〉こそは、マッコウ一族を衰亡の危機に追いやった〈岩〉どもの負のエネルギーの集積であり、邪悪の権化、象徴なのだ。わが鯨生(じんせい)を狂わしめたにっくき流血の使途なのだ……。
「一つの幻影がディックを絶えず悩ますようになった。月の明るい晩、はるか水平線上に例の〈巌〉の三本の帆柱が月光を受けて仄白く輝いているんだ。クジラを襲って食らうあやかしの幽玄な光は、彼らの吹く潮のように覚束なげでありながら、なおかつしつこくつきまとって存在をちらつかせ、彼を嘲弄した。激昂したディックが敵めがけて何マイルも突っ走ってみると、決まって〈巌〉の影はかき失せてしまうのだった。
「一方、もう一つの問題が始終ディックの頭を占領した。それは〈毛なしのアザラシ〉の社会性についてだった。〈アザラシ〉と〈沈まぬ岩〉との関係はどのようなものか? 彼らの群れの構成にはなんらかの規則性があるのか? それは自分たちの〈学校〉やハーレムとどう違うのか? あるいは類似しているのか? それらは緊密な血縁の絆で結ばれているのか? それとも、入れ替わりの激しい流動的な集団なのか? 順位制やリーダー制といった他の種族で見られる社会形態を有しているのか? 索餌海域とは別の海域で繁殖や子育てを営んでいるのか? 彼らの社会に政はあるか?
「〈毛なしのアザラシ〉―〈沈まぬ岩〉複合体の狩りは、明らかに統率のとれた集団的行動といえた。とくに、〈ハタラキ岩〉を操っている六、七匹の〈アザラシ〉には非常に組織だったところが見られた。〈アザラシ〉たちが個体間で緻密なコミュニケーションを働かせる能力があるということを否定するのは難しかった。それ以上の判断はしようがなかったが。
「なんだってまた、ディックはそんなつまんねえことにこだわったのか? 彼がこれまで詳細にわたって〈沈まぬ岩〉の行動を観察してきたのは、あくまでその性能と限界を見極め、勝利をヒレにするためだった。だから、〈生物観察者〉のような、他の種族の生態に対する純然たる興味や、自分たちクジラ族の社会と比較するような視点は持ち合わせていなかった。いまや〈岩〉の戦闘能力を十分凌駕している彼にとって、〈アザラシ〉のそうした社会的性質を知っておく理由が殊更あったわけじゃなかった。
「だが、体重にして自分の一千倍もある怪物に向かってきた、そのおかげで彼のヒレによって半死半生の目に遭わされた無鉄砲な〈毛なしのアザラシ〉のことが、ディックの脳裏にこびりついて離れなかった。その個体の狂気じみた振る舞いの中に、彼はそのベースとしてあった個性や知性の片鱗のようなものを垣間見たんだ。自分自身を駆りたてているのと同じ怒りと悲しみを感じとったんだ。そう言えばいままでにも、〈ハタラキ岩〉から放り出してやった〈アザラシ〉を白い魔物≠フ顎門から救おうと、他の〈岩〉に乗った〈アザラシ〉たちが引っ張りあげようとしているのを見たような気もする……。
「いや、そんな考えは血迷っている。〈毛なしのアザラシ〉どもはルールを公然と蹂躙し、生物界を転覆させようとしている悪逆非道の輩だ。ディックはいかつい頭を振って疑問を払いのけた。
「幻影と妄執に捉われ、仇敵の〈巌〉に対する怯臆と怨恨の念に蝕まれつつ、ディックは悶々として日々を送った。前額のしわはさらに影を濃くし、年齢よりずっと老けて見えた。血走った紅い目は内に充溢する怒りを絶えず放射し、見る者を戦慄させる窓だった。だが、鬱積する負の感情を吐き出すには、その窓はあまりに小さすぎた。たび重なる〈沈まぬ岩〉との闘争による極度の緊張と憤懣と疲労が、彼の精神を著しく磨り減らしていた。あと倍も決着のときが延ばされていたら、彼の狂おしい心は活動をやめていただろう。だが、三年後にそれはやってきた。
(うしお)のように徐々に高まる予感を抱きつつ、ディックは前回の運命の出会いの場所である太平洋の一角、〈クジラ食の列島〉の沖合に、まるで見えざるヒレによって導かれるかのごとく泳ぎ来った。そして、そこで彼はあのときと同じく、父や母や仲間たちの匂い──それがつまりは宿敵の匂いだった──を敏感に感じとった。
「『やつがここに来ている!』
「たぎりたつ憤怒とは別に、今度は激した感情をふんわりと受けとめる緩衝材のようなものが彼の心を浸潤した。故郷のような、母親の脇腹のような、赤道の水のような、脳の奥底に宿る遠い記憶のような何かが、彼の耳元でささやきかけた。
「『運命なんてきみの思い過ごしだよ。きみはいつだってそこから脱け出せるさ。だれも責めたりはしないよ。さあ、ちょっと尾ビレを動かしてごらん。右でも左でも、好きなほうを選べばいいんだ──』
「『俺も歳を食ったものだ』
「ディックは波間に身を浮かべ、遠く岸打つかすかな潮騒の調べに耳をすませた。夏の終わりを告げる日差しが、彼の老いた背中に柔らかく降り注ぎ、この世にはまだ温もりというものが残されているのだと教えようとした。
「だが、復讐の一字にこれまでの全存在を費やし、戦いを欲してきた彼の精神、彼の意志が冷酷に言い渡した。『単なる疲労だ』
「全身をあばたのように覆う傷がうずき始めた。憎しみは再び優勢になった。彼は身についたソナーの送受信の作業を無意識のうちにこなしながら、潜水して獲物を待った。彼の音波探知網は、このマッコウ族の繁殖海域に群がる〈巌〉のうち、気になる一つを捕捉した。そいつはクジラの群れに積極的に接近して狩りにいそしむふうがなく、まるでその中から特定の相手を捜し求めているかのようだった。
「『ついに見つけたぞ! この身の痛苦を倍にして返してやるからな!』
「ディックは同族のハーレムに食いつこうとしていた手近な〈帆立巌〉の一つを急襲し、〈ハタラキ岩〉を木っ端に打ち砕いた。本番前の軽い準備運動のようなもんだった。ほどなく、ディックは件の〈巌〉の至近距離に入った。それは彼の求めていた真の獲物≠ノ間違いなかった。彼は深く潜行すると、速度を上げて〈巌〉の先に回り進路上に浮上した。宿敵に対する大胆な挑発だった。〈巌〉の側にはすぐに動きが見られた。三つの〈ハタラキ岩〉が彼の後を追って疾駆してくる。ディックは悠々と波を押し分け、彼の開いた海上の通廊に沿って追っ手はジリジリと距離を狭めてくる。象牙色の歯と同じ体色をしたそのクジラが、全身が先鋭な歯でできているかのごとく危険な相手だと知ってか知らでか、〈岩〉たちはバラクーダのように果敢に#窒「魔物に突撃していった。
「『さあ来い、虫ケラども! いまこそ貴様たちを打ち滅ぼし、忌々しい宿命の縛鎖を断ち切ってくれようぞ!』
「不意にディックはゴツゴツと盛り上がった背中を弓なりに曲げると、尾ビレを高々と威嚇的に振り上げてフルークアップダイブに入った。〈ハタラキ岩〉たちはその場に静止し、一時間後に凶暴なクジラが再び上昇してくるのを待った。ディックはそのうちの一つに狙いを絞った。敵も真下の死角から襲いかかろうというディックの企図を察知したのか、〈岩〉の向きを転じて銛の照準を彼の浮上位置に合わせようとする。だが、ディックのほうが一枚上手だった。〈アザラシ〉が〈岩〉を操っているのと違い、彼自身は舵をとる者と舵とが一心同体だからな。彼は〈岩〉の底に体当たりして〈アザラシ〉たちの気勢を挫き、次いで唯一危険な銛の発射部位である推進方向の先端をくわえこんだ。こうなると、〈岩〉はもう牙を全部もがれたシャチみてえなもんだ。それから、ゆっくりもてあそぶようにギリギリと顎を閉じ、〈ハタラキ岩〉の胴体を真っ二つに分断した。ディックは離れた位置でスパイホップして、〈岩〉の残骸と泡の中でもがいている〈アザラシ〉を気分よく眺めた。
「『さあ、まだ屈辱は十分与え足らないぞ。お前たちがクジラの天敵、最強の海の捕食者を自称するならば、俺めがけて再度挑んでくるがいい!』
「ディックは自ら泳ぐ力のない〈帆立巌〉を嘲るように潮を吹き上げると、彼らに対して親切と侮蔑の意をこめてわざと風下へ泳ぎ去った。
「次の日、快速で飛ばすディックに例の〈巌〉は再び追いすがってきた。狂気に冒された復讐者同士は、もはや互いの存在以外の何物も意識に上らせることはなかった。ただ二つの存在が世界を支配し、分かっていた。海は彼らの火花散る決闘の舞台としてのみ、永年月をかけて用意されたものだった。ディックはいま、自らの巨大な頭蓋をろくろとして三〇年間こね回され、煮詰められてきた怒気を一気に噴出させるようにブリーチした。
「新たな〈岩〉を加え再び三つの狙撃者が水面に降り立った。
「『死者を蘇らすか、それとも一晩のうちに増殖したか? あざといやつらめ。ならば、こちらとて容赦せぬぞ!』
「昨日と異なり、今日はディックの側から打って出た。秀でた額を水上に突き出し、下顎をくわっと開いて水をかき分け、彼は〈岩〉に体勢を整える隙を与えず突進していった。そして、みなぎる憎悪で張りつめた尻尾でもって、三つの〈ハタラキ岩〉をなぎ払いに出た。台風のように猛烈に荒れ狂うクジラに向かって、〈アザラシ〉たちは次々に銛を投擲したが、いずれも致命傷を負わせることはできない。のみならず、彼らは自ら招いた罠にはまってしまった。サルガッソーのホンダワラのように銛綱がからみ合いもつれ合いする中で、〈岩〉はディックの尾の射程内に引きこまれ、瞬く間に破砕された。三つめの〈岩〉を下から宙に弾き飛ばした後、満身創痍のディックは悠然と引きあげた。
「追撃から三日目、サメがウヨウヨと周囲を徘徊していた。ディックの身体から染みだす血を嗅ぎつけたんだろうが、マッコウの豪傑の懐に飛びこんで肉をかっぱらおうとする者はいない。じきにいやでもご馳走にありつけることを、彼らは経験的に知っていた。
「『お前らの胃袋を満たすのはこの俺か? それとも〈アザラシ〉どもか? いずれにしても、お前らにとって今宵は宴の晩となるな……』
「三つの〈ハタラキ岩〉はまたもや復活していた。ディックは憤怒を爆発させ、弧を描いてジャンプする。昨日受けた銛の傷がその怒りを絶えず急きたてているようだった。
「『しつこいやつ! これで決着をつけてやる!』
「すさまじい形相で〈岩〉のただ中へ乗りこんだディックは、昨日と同じ要領で、強力な腱の束でできた尻尾の打擲によってうちの二つにダメージを与えた。だが、ふくれあがった復讐心の一挙の漏洩が、永年蓄積されてきた疲労と、数々の古傷の痛みの集積とあいまって、ディックの戦術家としての奸智を、研ぎすまされた戦闘感覚を鈍らせていた。三つめの〈ハタラキ岩〉は、彼の噴気に呑みこまれんばかりに肉迫した。甲高い〈アザラシ〉の叫喚とともに銛が放たれた。深く横腹に突き刺さった銛は、妄想も幻影もすべて吹き払わんとばかり、鋭い現実の痛覚をディックに見舞った。彼は身を横ざまによじり、己が仇を破壊した。焼けるような痛みは、彼を現実から非現実へと再びいざなおうとした。自らの身体のように白く朦朧とした視界に、月下に見た幽鬼のような帆が入ってくる。
「『復讐だ!!』ディックは吠えた。
「『父よ! 母よ! 兄弟たちよ! いまこそ俺はみなの仇を討つぞ!!』
「白鯨は親族たちの亡骸を装った〈帆立巌〉めがけて猛然と突っこんでいった。ポッドの仲間たちの叫び声とも、〈アザラシ〉たちの恐怖の叫びともつかぬ騒々しい音で、耳の中がいっぱいになった。幾多の戦闘を切り抜けてきた慎重さは、その忌まわしい三三年の歳月とともにどこかへ消し飛んでしまった。これまでディックは〈巌〉をまったく無視してきた。それは〈ハタラキ岩〉のサポーターにすぎなかったうえに、さすがに頑丈にできており、無思慮に特攻したオスが頭部に損傷を来して早死にした例を、いくつか彼は知っていたからだ。だが、そうした知識も警告もいまの彼の頭には上らなかった。
「鈍重に転回しようとしていた仇敵の右の横腹に、驀進してきたディックは激突した。轟音とともに〈巌〉はよろめきかしぎ、彼の穿った穴から海水が奔流となってなだれこんだ。ディックは仕留めた敵の下腹部の下をくぐって回りこみ、とどめを差そうとグラグラする頭を振り、血の流れこむ紅い目で瀕死の標的の姿を見定めようとした。
「するとどうだろう。最後に残った小さな〈ハタラキ岩〉が、ゆっくりと水面下に没しなんとしている〈巌〉とディックの間に敢然とはだかっているじゃねえか! もはや助かる見込みのない〈沈まぬ巌〉の手前で、自らもまたディックによる打撃で壊れかかり、海水に満たされつつある〈岩〉が、彼の行く手を遮っている。数匹のか弱き〈毛なしのアザラシ〉が必死でそれを駆っている。身を盾にして巨大な化物の破壊槌から主を守ろうとばかりに。血まみれの仔クジラを背中で支える母クジラのように。傷ついた仲間のもとへ敵の顎門を恐れず寄り集まるポッドのメンバーのように。渦を巻いて沈みゆく〈沈まぬ巌〉に据え付けられた仲間たちの歯が、末期の悲鳴を発していた。
「『なんということだ!! 俺が復讐を誓った相手はいったい俺自身だったのか!?』
「深海の共鳴音のように頭の中がガンガンと鳴り響いていた。ディックの間近に迫った死にかけの〈ハタラキ岩〉は、最後の力を振り絞って銛を仇に向けて投じた。綱にしがみついた一匹の〈毛なしのアザラシ〉(それが果たして三年前ディックによって下肢をもがれた当の〈アザラシ〉だったかどうかは定かでない)もろとも、白いクジラは深みに向かって沈んでいった。それ以来、彼の姿を見た者はだれもいない──」


 話し終えたジャンセンは夜風の渡る水面に浮かび、闇と区別のつかない黒い頭から静かに潮を吹きました。月夜でしたが、百年前に滅びた〈帆立巌〉の幻は幸いどこにも見当たりません。三頭の仲間は波に揺られながら、ついに完結した長い長い物語の棚引く航跡を目で追うように、じっと感慨にふけりました。
「さて、クレア。何か感想はあるかね?」
 ジャンセンに言葉をかけられ、クレアは顔を上げました。夜の海中では声と音のビジョン≠ナしか互いの所在をつかめませんが、凝然とたたずむ大きな深海種族のオスの影は、深海や宵闇の一部を構成しているようでした。エコーがまだざわついているウミホタルによる視覚的な映像と重なって、幻想的な雰囲気を醸しだしています。年長のオスクジラが単なる気まぐれではなしにいまこのとき『白鯨』を語った真意が、クレアにもおぼろげながら汲みとれた気がしました。
「私は〈毛なしのアザラシ〉がますますわからなくなったわ。わからないけど、憎しみに駆られて復讐に走るのは身を滅ぼす愚かなまねだってことは認めるわ」半ば反省、半ば自棄といった声でクレアは両胸ビレを上げました。
「連中が何者なのかってのは、意外と単純な話かもしれねえぜ?」とジャンセン。
「ふむ。きみたちの物語が示唆するところ、〈毛なしのアザラシ〉は高度の社会性を有する陸棲哺乳類であるという説がやはり当を得ているようじゃな」ダグラスもうなずきました。
「わからないわねえ……。〈新種岩〉や〈血の浜〉の件はどうなるの? それに〈岩食岩〉は? その、ディックが見た〈岩〉が〈巌〉をかばったっていうのは本当かしら? たまたまそういうふうに見えただけじゃないの?」クレアの疑問はまだ解けないようです。
「おやおや。俺たちクジラが本当に傷ついた仲間を救おうとしているのか、よその連中にしてみりゃ疑わしいかもしれねえぜ? 俺たちが息の継げなくなった同族を背中で押し上げるのは、びっくりしたイソギンチャクがしぼんだり、イワシの行列がいっせいに方向転換したり、目ん玉に何かぶつかりそうになったら瞼を閉じるのと同じで、海面に何か浮かぶものがあると機械的に背中に乗っけて運ぶ習性がクジラにはあるんだとか。仔クジラの呼吸を母親が手伝うのも同じことで」
「まあ、失礼しちゃうわね! そういうこと言うクジラって、本能が何かなんて全然わかっちゃいないんだわ! きっとオスに決まってるわね」
「おいおい、そりゃねえだろうが。いまのは例え話だっての。まあ、幸か不幸か、俺たちゃ自分たちの背に乗っけるもんが何で、どうしてそうするかってことはわかってる。浮かぶ流木を玩具にするのと、けがをした同類を扱うのは同じじゃねえ。俺たちは必ずしもだれもが仲間を助けると限ったわけじゃねえしな。クジラと一口にいっても、同じ種族、同じポッドのメンバーとそれ以外とじゃ待遇がやっぱり異なってくるのは鯨情(にんじょう)として仕方ねえ。世の中にゃ物好きな〈社会学者〉がいて、救助活動の実態に関する統計調査なんてのを発表したことがあった。それによると、メスはこどもはまず救うが、オスの救助にはあまり関心がない。オスはメス(とくに被災者が美鯨(びじん)である場合には)を助けるのには熱心だが、相手が他のオスの場合は不熱心なんだとさ(その〈学者〉もまた余計なことするものね、とはクレアの感想でした)。
「俺がこども時代をすごしたハーレムの中に、一頭気の毒な若い母親がいてな。そのメスは死んだ自分の子の亡骸を一月もずっと背中に背負い続けてたのさ。おかげで自分は餌もろくに食えず、ガリガリに痩せちまった。潜るときには他の母親にその子のお守を頼んでくんだが、『だって、坊やが溺れてしまうわ』ってこればっかりで、周囲の言うことにてんで耳を貸そうとしなかった。サメにかっさらわれたおかげで彼女は危うく生命拾いしたんだがな。それから、どっかの気の強えミンククジラのメスみてえに、異種族に対してまで慈愛の精神に富みすぎて、危なっかしくて見てられねえやつもいる(彼が自分のほうを見ながら言ったので、クレアは顔を赤らめました)。
「ともかく、残念ながらそういった行動については、一頭一頭の自由意志と感性と良心次第ってわけだ。それがもし完全に自動的なパターン化した行動だとしたら、助かる生命は増えるだろうが(不都合もきっと生じるに違えねえが)、なんとなく味気ねえ気もするな。といって、ちっこい種族が味気ねえ行動をするように見えるからって、偏見をもって単純バカな下等動物だなんていけしゃあしゃあと抜かすやつは罰当たりってもんだ。メタ・セティは何はともあれ、個々の種族、あるいは一頭一頭ごとに個性を与えちまった。それがいいのか悪いのかはわからねえ。だが、それで世の中がおもしろくなったってのは確かだ。たまにディックみてえのが出ちまうこともあるがな。
「さて、そこで〈毛なしのアザラシ〉だ。連中はつまるところ極端なんだよ。いいか、クレア、これはみんな〈アザラシ〉だからな。〈沈まぬ岩〉を操ってクジラを屠るのは〈アザラシ〉だ。そのあげくに〈郡〉を全滅させるのは〈アザラシ〉だ。イルカたちを追いあげて浜を血まみれにするのは〈アザラシ〉だ。魚をどっぱりかっさらっていくのは〈アザラシ〉だ。海を糞尿で汚すのは〈アザラシ〉だ。〈黒い脂〉を撒き散らしてたくさんの生きものを苦しめるのは〈アザラシ〉だ。他の種族を巻き添えにして派手な戦争をおっ始めやがるのも〈アザラシ〉だ。それから……クジラを観てはしゃぐのは〈アザラシ〉だ。〈歌う石〉を奏でてシャチをうっとりさせるのは〈アザラシ〉だ。自分も仲間も死ぬとわかってるのにかばい合うのは〈アザラシ〉だ。全部〈アザラシ〉だ。
「いまのところ、俺たちに見えるのはどっちかってえと──なんて言うと買い被りすぎかもしれねえが──いけ好かねえところのほうが多い。だが、連中の中にもひょっとしたら、クジラを食べるより貝やアマモや陸上の植物や、自分たちの世界で前肢()に入る性に合った食い物のほうがマシだと考えてるやつがいるかもしれねえ。ブリーチを観て歌を聴いてそれで満足だというやつもいるかもしれねえ。これ以上海を汚しちゃヤバイと思ってるやつがいるかもしれねえ。自分たちは殺し合いには全然向いてねえし、戦争なんざまっぴらごめんだと思ってるやつもいるかもしれねえ。異種族に対してまで扶け合いの精神の旺盛なやつさえいるかもしれねえ。
「要するにだ、連中はとことんまでどうしようもねえんだよ。どうしようもなくイカレた生きもの≠セ! 俺はこんなイカレた二重鯨格(じんかく)の野郎は大っ嫌えだ。だがな、連中がエイリアンなり非生物だったとしたら、怒ったり憎んだり嫌ったりしたって何の意味もありゃしねえだろ? 〈毛なしのアザラシ〉のやつらにまだ救いようがあるのか、ないのか、俺にはわからねえ。だが、まだ何もかも捨てちまうとこまではいってねえ気がするのさ……連中が俺たちと同じ生きもの≠ナある限りはな」
 ジャンセンの後を継いでダグラスも自分の意見を述べました。
「うむ。おそらく、彼らがある意味でわしたちと似通っているというのは重要なポイントじゃろう。それも単に分類上ということではなく、社会形態としてわしらと近いものがある。たぶん〈毛なしのアザラシ〉の一族も、どちらかといえば、群集性魚類やプランクトンのような、集団の持続的繁栄を支える連環の一部としてメンバーが貢献する度合いが高い、食物連鎖の底位にあって生態系の基盤をなす種族よりも、わしたちクジラ族のように、繁殖力がそれほど高くはなく、長寿命で自由度の高い個体の生命に比重を置くタイプ、個体数が少なく生態系のバランサーの役割を果たす種族だったんじゃろうな。それでも、生物的な脆弱さと生態的な不利を克服するために、厳しい自然環境の中で一族を生き延びさせていくために、メタ・セティの掟を破って生きものとしての範囲を越え出た能力を開発する道を選んでしまった哀しい生物種なのかもしれん──ディックのように。
「もっとも、わしたちはお互いに海と陸という異なる環境に適応し生活している別個の種族であって、意思の疎通を図ることは難しいかもしれん。わしたちクジラは情報の伝達手段を主に聴覚イメージに頼っているのに対し、彼らは可聴域も全然違うじゃろうし、わしたちとは視覚と聴覚の重みが逆転しておるじゃろう。わしたちはどのようにしても、〈毛なしのアザラシ〉を主観的にしか理解することはできない。両種族の間は、水と空気との境界面のようにさまざまな意味で壁に阻まれておる。向こうのほうでこちらとのコミュニケーションを望んでいないかもしれん。もっとも、それはどの種族、個体の間であっても同じことじゃがな。シロナガスクジラ族とミンククジラ族の間でも、クレアとジョーイの間でさえ。
「さりとて、わしたちはそれで充足しておる。認識の壁という制約を越えた、共通のものがある。真の多様性とは、お互いを排斥するのではなく、より深め合うものじゃ。それが、ジャンセンがさっき言った世界のおもしろさ≠ノ通じているんじゃろう。その方向性が、メタ・セティが生きものたちに課した唯一の味気ない&舶ェかもしれん。そのおもしろさ≠フ故に、〈毛なしのアザラシ〉がこの星の上に誕生してしまうことにもなった。彼らは自然の世界のおもしろさ∴ネ外のものに目がいってしまった──そして、そのオモシロサ≠フ背後にある罠には目がいかなかった。味気なさ≠ェ不満じゃったのかな、味気ないように思えても尽きない味があるんじゃがねえ……。ともかく、それが今日見られる〈アザラシ〉の異端性に発展してしまったんじゃないかな。生きもの≠ニしての彼らにわしたちとしては期待するしかなかろう。ディックが最後に気づいたように、〈アザラシ〉たちも自らのたどってきた道を振り返って針路を誤ったことに気づき、再びおもしろさ≠ノ目を向けてくれればよいと思うが……」
 ここで、ほとんどヒレをクレアに重ねていたチェロキーがジャンセンに訊きました。
「ところで、ディックはその後どうなっちゃったんですか? 過去に囚われて、自分の運命に負けちゃったんですか? それとも……」
 暗がりの中でジャンセンはチェロキーの目をじっと見、クレアとダグラスをじっと見つめました。彼らしくもなく自信なげな、半ばかすれた声で語り手は答えました。
「わからない。わからないんだ……」

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