50 王

 海面をのぞいて周囲をすべて白い液体の壁に取り囲まれた中で、歯とヒゲをともに持つ怪鯨と二頭きりになったクレアには、自分がクジラを前にしたオキアミよりもずっと無力ではかない存在に感じられました。滑らかな体表を走りぬける震えがなかなか収まりませんでしたが、それでも彼女は勇気を奮って口を開きました。
「あ、あなたが〈脂の樽〉さん?」
〔そうだ〕
 この世のものとも思えない低く響く声で巨鯨は答えました。すでに光を失っているに違いない白濁した目は、それでもクレアにピタリと向けられていました。
「あなたは何……なの? 私たちの仲間??」
〔余は王だ〕
「王……って?」聞き慣れない単語に触れて、クレアは首をかしげながら訊きました。
〔クジラ族の持たぬ概念だ。すべての種族、すべての生物を治める長という意味。〈毛なしのアザラシ〉ならばよく知っておろうがな〕
 クレアはまだその意味をはかりかね、じっと考えこみました。が、それはさておいて、彼女がここまでやってきた本来の意図、九ヵ月余りをかけ二万マイルもの距離を旅してきた目的をかなえるべく、単刀直入に切りだしました。
「ジョーイを、息子を返してください!」
〔だめだ〕王を名乗るクジラはきっぱりと断じました。
「なぜ!?」
 悲痛な眼差しで尋ねるメスに、ミンク大王は答えました。〔余が王だからだ。余は彼を必要としている。王の命令は絶対なのだ〕
「どうして!? あなたが王だかなんだか知らないけれど、私はジョーイの母親よ!? 母親として息子を返すよう要求する権利があるはずだわ!」
 おそらく自分を一噛みで殺すことができるであろう牙の生えた全長三〇メートルのクジラの揺るがぬ返事に、怖気づきそうになるのを必死でこらえ、クレアは食い下がりました。〈脂の樽殿下〉は大きな口を開き、ヒゲと歯と自信に満ちた笑いをのぞかせました。
〔汝に王とはどのようなものか、その力を見せてやろう〕
 ハッとクレアが気づくと、いままで陽光の差しこんでいた海面がフッと消え、四方や下方と同じ濃密な白い液体に覆われました。クレアは急いで尾ビレを振って水上を目指しましたが、どれほど泳ぎ続けても波の揺らぐ平面に到達しないどころか、ヒレ一つ動かさずにいるミンク大王のそばから少しも離れることができないのです。このままでは息が詰まってしまう!! と思いきや、不思議なことに息苦しさはいつまで経っても訪れません。
〔いま、お主のメタボリズムに関わる時間の経過を遅延させた。しばらく呼吸の必要はない。意識を司る時間の流れは余のそれに同調させてある。余は時空間を少しばかりいじくれるのだよ。フフフ〕
 クレアは上昇しようとあがくのをやめ、一層の恐怖の入り混じった目で不可思議な能力を持つクジラを見つめました。いましがた彼女の垣間見せられた力は、彼の見かけよりもはるかにグロテスクなものでした。
〔これでわかったか〕
「どうしてジョーイが必要なのか教えてください……。私は息子に一目会うために、幾度も危険を乗り越え、死ぬような思いをしながらやっとここまでたどり着いたんです。なぜ私たちが引き離されなければならないのか、せめてその理由を教えてください……」
 強大な力を見せつけられ、彼に要求を受け入れさせるのはとうてい無理だと悟ったクレアは、深くうなだれてやっとの思いで声を絞りだしました。
〔息子に会いたいか?〕
 クレアは顔を上げると、懇願するようにうなずきました。
〔会わせてやってもよい。いや、それどころかそばにい続けることさえ許可しよう。お主が余の提示する条件を呑むならば、な〕
 一縷の望みに賭けるように目を見開いて次の言葉を待っている母クジラに、ミンク大王は続けました。
〔余は自分の寿命が短いことを知っている。余の仕事が、〈死の王国〉の建設事業が完成するまで永らえるかどうかすら疑わしいことを。その前に余の後を継ぐ者が欲しい、なんとしても。世継が必要なのだ〕
 白く濁った目で自分をじっと見据える巨大なオスに、クレアは戦慄を覚えました。まさか、このクジラ……!! 身をすくませた小さなメスクジラの心を読んでか、王のクジラは薄笑いを浮かべて彼女の懸念を否定しました。
〔フッフッ、案ずるな。モノ・セティは余に他の生物にない力をもたらしてくれたが、同時に子をもうける力のほうは余から奪ってしまった……〕
 ホッと安堵したのも束の間、次の彼の言葉はクレアにとって衝撃的なものでした。
〔王の後継者はお主の息子だ〕
「なんですって!?」クレアは青ざめた顔を振り上げ、かすれた声で叫びました。
 巨大なクジラは〈御所〉の中をゆっくり円を描いて泳ぎながら話し続けました。
〔ここ数年、余は後継ぎにふさわしいミンククジラの幼体を求め、配下のシャチたちに狩り集めさせた。だが、〈クジラ食の列島〉周辺の〈小郡〉から北太平洋の西、東とヒレを伸ばして数百頭の稚児を連れてきたにもかかわらず、いずれも死んでしまった。〈死の精霊〉の洗礼に耐えられる者はいなかった。そこで余は、〈裏の一族〉にまで対象範囲を広げ、太平洋を三分の二周する試練の旅をくぐり抜けてここまで到着できた者を王の候補とし、洗礼の儀式を通過させることにした。今年、百頭の当歳児のうち最終的に生き残ったのは二頭、その一頭が主の息子だ。もう一頭は小柄なメスだった。オスよりもメスのほうが生命力はあるものだから、別に不思議ではないがな。実験に成功すれば、王と妃として〈精霊〉の力を借りずとも後々まで王族の血統を残してくれるかもしれん。フフフ〕
 そこまで言って、彼はクレアを振り向きました。〔そこでお主に頼みたいのは、彼らの乳母となることだ。簡単な話であろう。自分の息子を育てるのだから。ただし、ミンククジラの凡庸なこどもとしてではなく、〈死の王国〉の王子としてだがな〕
「私、あなたの言っていることがよくわかりません。〈死の精霊〉っていうのはなに? 〈死の王国〉を築くって、あなたはいったい何をやるつもりなの!?」
〔新しい種族、新しい世界を創造するのだ。メタ・セティの生のくびきを離れたな〕
 まだいぶかって眉根をひそめているクレアに、〈脂の樽殿下〉は尋ねました。〔お主、ここへ来てから何かを感じておろう?〕
 クレアはこの海域に入ってから始終つきまとっていた不快感に改めて意識を向けました。恐怖と不安はいま対峙している巨大な化けクジラのせいでもあるのでしょうが、苦味≠フほうは始めのときよりもずっと強くなっていました。
〔それが〈死の精霊〉だ。〈精霊〉を感知する能力を持った者は滅多におらぬ。お主も新しい種族に加うる素質を持っているのか、あるいは、儀式中の息子の感覚に母親であるお主の身体が共鳴しているのか……。この〈死の精霊〉が余を創りだした。余に力を授けた。そして、お主の息子にも余と同じ力を与えようとしているのだ。これを見るがよい〕
 〈御所〉の白い水壁の一角がスーッと透明になりました。クレアはスクリーンの映像に注意を向けました。そこにはやはり燐光を放つ海が映っていましたが、もっと暗くて海底が視野に収まっていました。雪のように真っ白いマッコウとジャンセンと思しき黒いマッコウがチラリと画面をよぎりましたが、もう一つの対象に焦点が移ったので見えなくなりました。それは奇怪な形をした〈岩〉でした。斜度のきつい海底で身を傾けているその〈落ちぬ岩〉は、久しくそこに居座っているらしく塵を被っていました。
〔あれがモノ・セティ──死の神だ。〈毛なしのアザラシ〉の前肢()によって作りだされ、いまは我々のヒレ()の中にある。モノ・セティは〈死の精霊〉を産出している母体だ。〈死の精霊〉とは死と生を操作する力だ。そのエネルギーをして、我々は生きものの血を作り変え、より強い、より優れた種族を生みだすことができる。お主の息子をさらってきたシャチたちも、白いマッコウも、そして余も、そのようにして生まれた新しい種族なのだ〕
「よくないことだわ……」それ以上説明してもらうまでもなく、クレアは直感的に生命の絡繰りをいじくりまわそうとする企てに否定の感情を抱きました。「こんなことをするのはよくないことだわ!」
〔さっき見えた白いマッコウクジラは余の腹心で、いまお主の連れを説得しておるところだ。彼は弁舌をふるうのが好きなのだが、別の方法を採ったほうがお主には向いておろう。これからビジョンを観せてやる。それを観れば、お主にも納得がいくはずだ。我々がなぜ新たな世界を築こうとするのか。築かねばならぬのか──〕
 彼がそう言うと、場面が変わって別の光景が映りました。クレアのいままで見たことのない世界でした。それは陸上でした。眩しい太陽と青空の下、明るい緑が一面にわたって広がっていました。そこを何かの動物が浮魚のように群れて進んでいました。四本の肢を持つその生きものが哺乳類の一族らしいことは、クレアにもわかりましたが、大きさが感覚的につかめません。自分たちクジラよりはずっと小さいようです。海底を匍匐する水棲種族とは異なり、彼らは目まぐるしく動く四肢で軽やかに平面の上を動いています。画面もそれに合わせてついていきます。ふと気づくと、別の存在が視界に現れました。
「〈毛なしのアザラシ〉!?」
 瞼の裏にしっかり焼きついているそのひょろっとした小さな獣は、彼女を襲った〈偽イルカ食〉と違って毛皮をまとっていました。彼らが何をやらかしたのかはよく見えませんでしたが、不意に緑の平原に真っ赤な炎がパッと上がりました。それはなんらかの意志と計画性を持っているかのように線上を這い進んでいったと思うと、今度は風に吹かれて群棲の走行動物のいるほうへと進軍を開始しました。四足種族は火に追われて一つの方向に殺到しました。そして、彼らはいきなり画面から消えました。いえ、消えたと思ったのは間違いで、移動した画面に平原から落ちこんだ段丘上の地形が現れ、その下にうずたかく積み重なっている彼らの姿が目に入りました。数百頭の群れが崖の上から集団飛びこみ自殺を図ったのです。大半の者が首の骨を折って死んでいましたが、息のある者も足を折ってとうてい立てない状態でした。そこへ、自殺のお膳立てをした〈アザラシ〉がわらわらと群がってきました。
 食い入るように画面を見つめていたクレアは、続いて繰り広げられるであろう情景を直視したくなかったこともあり、スクリーンから目を離して〈脂の樽殿下〉を物問いたげに振り向きました。
〔あれはウマと呼ばれる草食有蹄類の一族だ。彼らにはいくつもの亜族と〈郡〉があったが、自立した種族はほとんど〈毛なしのアザラシ〉によって絶滅させられた。
〔およそ四百万年ほど前、亜熱帯地方の大陸の一角に〈ザッショクアザラシ〉と呼ばれる生物種が発生した。本来、植物と小型で鈍重な動物を捕食するのに適合した肉体を持ったこの種族は、肉体の能力を凌駕する捕食手段を前肢()にすることで餌生物のバリエーションを広げた。その手段とは種々の〈前肢の延長〉と火、それから罠を考案する知能だ。森林から草原に進出し後肢のみで歩行するようになったのが、器用な前肢と大容量の頭脳を獲得したきっかけだといわれるが、それは重要なことではない。大量殺戮の手法を会得したおかげで彼らは繁栄し、それと引き換えに多くの大型動物を滅ぼした。〈アザラシ〉たちは地峡や海をも越えて瞬く間に世界中に分布を広げた。それと同時に、進出した各地で従来生息していた大型の種族が次々と根絶やしにされていった。早期に絶滅した種族には、クジラと同様に、子が少なく成長するまで時間のかかるタイプのものが圧倒的に多かった。お主たちが〈原始アザラシ〉の歯牙を免れたのは、ひとえに海という当初の彼らが進出できない環境を住みかとしていたおかげだ。それが、後にこれら先行して絶滅した種族以上の不幸を迎える原因でもあったわけだがな。お主たちの物語の上では、彼らが〈毛なしのアザラシ〉に変名したのはクジラ族に前肢()をつけたからということになっているが、それより逸早く陸棲の種族の間に犠牲者が続出していたのだ〕
 〈脂の樽殿下〉が話している間にも、さまざまな姿形をした陸上種族たちが次から次へとスクリーンに登場していきます。長い鼻と牙を持ち全身を密な毛で覆われた巨躯の種族、上顎から立派な犬歯が伸びた獰猛そうな肉食種族、顔面に縦に並ぶ角の生えた重厚な身体つきの種族、図体は大きくてもスローモーな動きで木々の葉をつかんで食べるおっとりした種族、亀のような甲羅で身を装いどんな攻撃も寄せつけそうにない種族、首と足がすらっと長く伸びた飛べない鳥の種族──。それらの大きな種族が、〈毛なしのアザラシ〉の開発した罠や空飛ぶ〈延長〉でもって次々と狩られていきます。メタ・セティが想いをこめて送りだしたこれらの種族は、もう世界のどこを探してもいないんだ……。
〔多くの種族が絶滅したり、分布域を縮小させられたが、繁殖力の比較的高い中小型の種族は生き延び、しばらくは安定状態が続いた。それも、一万年ほど前に多くの〈毛なしのアザラシ〉がライフスタイルを刷新するまでの間だった。彼らは放浪しながらの狩猟採集生活にピリオドを打ち、一ヵ所に定住を始めた。そして、原生していた植生を破壊し、蹂躙していったのだ。海の自然になぞらえるなら、サンゴ礁やケルプの群落が根こそぎ剥ぎとられるに等しい。〈アザラシ〉たちはそこを、自らの食用にする植物を生産し、あるいは奴隷種族を養う場として囲いこんだ。彼らは生産物と生産手段を自然の恩恵ではなく、自己の所有物とみなしたのだ〕
 なんですって? 緑の種族も、獣や鳥の種族も、空も、大地も、海も、全部自分たちのものだと思ってるの? 私たち自身の肉体でさえ、本当はメタ・セティからの預かり物でしかないのに……。
 画面には別の、やはり見たことのない景色が映りました。それは地上の植物の群落のようで、海の中のように深い落ち着いた趣があり、丈高い植物の上部に茂る密生した葉の隙間からこぼれ落ちてくる陽光は、波間からの日差しにも似ていました。そこに、〈延長〉を前肢()にした〈アザラシ〉が分け入っていました。安らぎの空間はどんどん狭められていきました。後には、メタ・セティのではなく〈アザラシ〉自身によって大幅に変更された設計デザインに基づく不自然で単調な緑が、平坦な大地を覆っていました。もともとそこに住んでいた野生の獣たちは降って湧いた家主に強制的に立ち退きを迫られ、小さな虫や緑の種族はいくらしつこく居住権を主張しても認められず、撲滅という強硬な手段で排除されました。土の中の無数の微小な生命のコーラスも、か細いボソボソ声になってきました。〈アザラシ〉に世話を焼かれる緑や獣の種族も、野生の生きものたちとの間に良好な関係を結べなくなってしまい、なんだか寂しげでつまらなそうでした。
 陸上の世界は、自分の住む海の世界と比べて一層変化に富んでおり、地味な中にもひときわ華やかな彩りが施され、せっかく一味違う趣があって素敵だな、と思っていただけに、それがだんだん色褪せていってしまうのが、クレアには残念で仕方ありませんでした。
〔〈毛なしのアザラシ〉は集団で巨大な巣を築くようになった。それらの巣は外部の世界に依存してはいたが、循環の歯車がかなり食い違っていたのだ。彼らの初期の〈郡〉のいくつかは、自然を収奪しすぎて砂や水や塩に埋もれてしまった。先へ進もう〕
 次の画面で、〈アザラシ〉たちの住みかが出てきました。〈列島〉の沿岸でしばしば見かけたような奇妙な構造物が立ち並んでいます。次第に膨張していく彼らの営巣地には、〈アザラシ〉と〈沈まぬ岩〉に似た不可解な数々の物体があふれ返っていましたが、生きものの構成には恐ろしく欠けていました。生き残っている少数の種族は、自主独立の気性を失い〈アザラシ〉に面倒を見られているか、彼らに迫害されながらもしぶとく食い下がっている者だけでした。そこはまるで、〈メタ・セティの子〉の上ではないどこか別の惑星のようにも思われました。その異世界と異世界をつないで、〈地上を駆ける岩〉が行き来するための道が伸び広がっていき、生命の世界を分断していきました。
 長い間さまざまな生きものたちが調合し、彼らに元気≠与えてきた〈メタ・セティの子〉の呼気でしたが、〈毛なしのアザラシ〉の活動に伴って変な成分が混入してきました。彼らの巣の上空は灰色に濁り、〈アザラシ〉自身たくさんの個体が呼吸器の病に冒されていました。〈殿下〉の時間地帯はまだ効力を保っていましたが、観ているだけでクレアもなんだか胸が苦しくなってきました。恵みをもたらすはずの雨は、酸を帯びて岩も生命もただれさせ、森や湖を死に至らしめました。
 彼らの巣の一帯を通る川はみんな淀んで浮遊物が漂流していました。水面にはギラギラした虹色の脂や不透明な白色をした消えない泡が、邪な相談でもしているように寄り集まっています。川岸も海岸も真っ平らに塗り固められ、生きものと水や土──〈メタ・セティの子〉の肉体との協調関係が大幅に損なわれています。ほとんどの川が途中で水を塞き止められ、渓流と森のあった場所に巨大な水溜まりが出現していました。魚たちが交通路を封鎖されて右往左往しています。陸上の生命たちはどんどん吸い上げられていき、糞尿≠ェ水の世界へどんどん吐き出されていきます。
 起伏に富んだ高地の緑はごっそりと剥ぎとられ、平滑で黄緑一色に占拠された空間が、方々の土地でにわかに数を増しつつありました。これは自然のデザインの造り替えというには、もう斬新さの域を通り越していました。〈毛なしのアザラシ〉たちはその上で、何やらちっちゃな玉コロを細い棒切れで弾いたり転がしたりしています。さらに高所では、山肌をごっそり削りとった後の雪に覆われた斜面を、〈アザラシ〉たちが細い水掻きのようなものを後肢に付けてずり落ちています。これらも遊びの一種なのでしょうか? 〈サメごっこ〉のほうがよっぽどマシだわ。レックスは自然を切り崩して他の種族を困らせるようなゲームなんて決して考えださなかったもの……。そんなに雪滑りがしたけりゃ、白い大陸へ行ってペンギンさんたちの仲間入りをさせてもらえばいいのよ。
 続いて、一面の深い緑が映しだされました。かつてない多くの生命の歌声に満ちあふれていました。広大な常緑の森は、色鮮やかな鳥や樹上性の中型の獣が散発的にその静けさを破るほかは、暗くひっそりとした雰囲気を保っていましたが、数えきれない生きものたちの息づかいは苦もなく捉えることができました。心が和んだのも束の間、その緑の地平線に炎が延々と伸び広がり、猛烈な勢いで空に墨≠吐き出しているのが目に入ってきました。〈脂食の巌〉の事故があった〈豊沃の海〉での一夜、幻想的な光の揺らめきに幻惑されたときの心象が再びよみがえってきました。業火はあっという間に緑をなめ尽くしていきます。かつてない多くの生命が悲鳴をあげていました。
 〈毛なしのアザラシ〉の社会システムがクレアにはまったく理解できませんでした。彼らの〈郡〉はみるみる移り変わり、互いに侵食し合っていました。彼らの社会は次第にある一つの方向性を帯びるようになりました。地上の至るところに巣がはびこり、〈アザラシ〉の獣口(じんこう)も急速に伸びていきました。数がどんなに増えても、彼らは食物連鎖の頂上から一向に下りる気がないようです。異様な、大規模な、混み入ったネットワークが形成されつつありました。〈アザラシ〉が、〈岩〉が、彼らの食糧が、糞尿≠ェ、世界中を流れ動いていました。『白鯨』の話に出てきたような相互扶助の関係ははたから眺めているとほとんど目につかず、争いごとがあちこちで頻発していました(ミンク大王はひょっとして意図的に偏ったビジョンを放映しているのではないかと、クレアはそう思いたい気分でした)。たいていの〈郡〉で虐げる者と虐げられる者という構図が見られました。北の〈郡〉の〈アザラシ〉は肥え太っていますが、南の〈郡〉の〈アザラシ〉は痩せ細っています。クレアには両者が結び付いているのがわかりました。〈アザラシ〉の創造したネットワークがますます発展するにつれ、生命のネットワークのほうは日増しに活力を衰えさせ、他の種族はみんな困惑を深めています。ともに惑星スケールの複雑多岐なネットワークでありながら、同じつながりでありながら、どこかが決定的に違っていました。生命の世界の持つおもしろさ≠ニは別の何かを〈アザラシ〉たちは追い求めているのですが、前者がそこにある豊かさ≠ネのに対し、後者はどこにもない豊カサ≠フようでした。
 〈毛なしのアザラシ〉たちは生きものとしての自分たちの拠り所を見失っているんだわ……。それで時制が混乱してるのね。彼らが思い描く未来世界のイメージは……欲望を反映しただけにすぎない空しい希望と、目を背けることでリアリティを拭われている絶望とが錯綜してる。未来を拒むために現在に閉じ篭もり、現在を否定して未来に逃避してる……虚偽の悪循環なんだわ。過去はその虚偽を当然のように見せかけはしても、真実のほうはぼかして暗がりに追いやってしまう……。行き着く先に待ち受けているものは……なに? 空恐ろしい予感がするわ……。
〔彼らの所業を少し微視的に覗いてみよう〕
 青い空を無数の黒い点が移動していました。拡大してみると、それは虹色に光る美しい羽を持った鳥たちでした。イワシやシシャモのような大群を作り、すさまじい羽音とともに嵐のように空を飛び過ぎていきます。地上に目を移すと、これまた多数の〈アザラシ〉が何か細長い〈前肢の延長〉を空に向けていました。ガガーン! 耳を聾する音を立て、それらがいっせいに火を吹きました。バラバラとまるで雹のように鳥が落下します。
〔地上から消滅する生物種族は、〈毛なしのアザラシ〉の勢力が拡大するにつれて増加する一途をたどった。とくに四百年ほど前からそのペースは加速度的になった。いま見たのはリョコウバトという鳥類の種族だ。五十億羽いた彼らの個体数はわずか百年でゼロになった。現代では滅びゆく種類の数は一日に数種に上る。おそらく、今後十年から二十年の間に全生物種の五分の一が子孫を絶やすだろうという暗い予想がある〕
 そんなに!? せっかくメタ・セティが一所懸命織った生命のタペストリーが、バラバラにほどけちゃうじゃないの……。
 クレアの目の前で、たくさんの種族の動物が轟音とともに倒れる光景が繰り広げられます。草原で草を食んでいるモジャモジャの毛と角を生やした貫禄のある獣、険しい岩山を飄々と駆け抜けるりりしい獣、ポッド仲間で素晴らしいチームプレイを見せる友愛あふれる肉食獣、うっすらと朱がかかった白い羽で残照の中を羽ばたく顔の赤い鳥、両前足を広げて仁王立ちになり敵に虚しく立ち向かおうとする勇者、熱帯魚のようにきれいな紋様を毛皮に散りばめた肉食獣、立派な牙と大きな耳と穏やかな瞳を持つ陸上最大の獣(その種族は、家族の深い絆や低周波によるコミュニケーション、繁殖率の低さから彼らの見舞われた悲劇に至るまで、多くの点であまりにクジラたちと似通っていたため、クレアの印象に強く残りました)、水面で食事を終え危険な空へ帰ろうとする大勢の水鳥──。みんなみんな、一発の音と光で生命の線がプツリと切れます。獲物を屠る者との間でさえ、つながりは見えてきません。
〔〈毛なしのアザラシ〉どもはただ種族を滅ぼすだけではない。クレアよ、お主は余の配下のシャチたちがイルカを虐殺するといって心を痛めておるが、陸上の種族にとって〈アザラシ〉による虐殺は日常茶飯のこととして起こっているのだ。彼らが生命をどのように貪っているか、いかに血を好んでいるか、その目にとくと焼き付けるがよい〕
 それから、クレアの目の前で無数の凄惨な死の光景が繰り広げられました。行く場所もなく住みかを追われる鳥や獣や虫たち。それでも〈アザラシ〉の上手をいく知恵と才覚を発揮してしたたかに生き延びようとしたばかりに、大量虐殺の憂き目を見た愛嬌のある黒い鳥たち。〈岩〉に轢き殺される獣たち。〈チビゴースト〉に足をもがれて苦しむ川縁の鳥たち。遠い故郷の地からむりやり連れ去られ、檻に閉じこめられた獣たち。海の調べを知らぬまま、ヤラセの芸をさせられる幼児退行したイルカたち。透明な捕食者に追いかけられるみたいに、胃を痛めてまで競走させられるスマートな獣たち。タンパク生産機械として暗闇と汗と糞尿の世界に暮らす獣たち。狭いケージに詰めこまれて母の務めを無為に果たし続ける鳥たち。束の間の戯れを愛情と信じながらゴミのように捨てられ、窒息死させられる愛らしい獣たち。見栄と贅沢の影で美しい毛皮を奪われる獣たち。知のために血を捧げさせられる小さな生命たち。戦争のために犠牲となるおびただしい数の生命、生命、生命……。
 最後にやっと静かな情景が映しだされました。それも、クレアの通い慣れた世界にそっくりだったので、クレアはホッと安心しかけました……が、よく観察すると、そこは彼女の知る生命あふれる海とは決定的に異なるところがありました。水平線の彼方まで散らばる氷山の上には、まるでドライバレーのようにアザラシやペンギンのミイラがゴロゴロ転がっていました。さらに、浮氷に混じって波間に腹を浮かせていたのは、皮膚をただれさせたクジラの死体でした。水は黄色く濁って〈黒い脂〉のように渦巻いていました。無数の死んだプランクトンで埋め尽くされた海面を低い太陽が照らします。なぜか、その光は攻撃的で殺伐としているように思われました。この静寂は死の静寂でした。
〔これがどこだかわかるか。お主のよく知っている世界だ〕
「知らないわ。知るわけないじゃない!」クレアはヒステリックに答えました。
〔〈豊饒の海〉だ。ただし、未来のな。〈毛なしのアザラシ〉は海の塩の素と生命の素とを結び合わせることで、一千万を越す種々の物質を作り出した。それらの一部がお主たちの身体を蝕み、生まれくる子にまで毒を回らせている〈疫の精霊〉だ。〈アザラシ〉は己れらに利便をもたらすためだけに、それらの〈精霊〉を多量に生みだし、環境中にばら撒いたのだ。〈疫の精霊〉のある一群には毒性こそなかったが、上空に上って天に穴をあけるという、彼らの予見できなかった恐るべき性質があった。生物が数億年の歳月をかけて作りだした成層圏の防護膜を、それらはフナクイムシのように穿ってしまうのだ。〈アザラシ〉どもは自然界での作用をろくに調べもしないうちから、己れの造化の能力に酔い痴れて災いの種を撒き散らしてしまう。〈天の穴〉からは太陽の光のうちの〈死の精霊〉にも近い有害な成分が大量に降り注ぐようになる。この見えない光はそれを浴びた生物たちの皮膚をあぶり、目をつぶし、病を引き起こす。海の微小な種族はとりわけこの光に対する抵抗力がない。〈豊饒の海〉の上空には現に巨大な〈天の穴〉が存在しており、プランクトンの種族は減少の兆候を見せている。カタストロフィーはすでに始まっているのだ。いずれ、海で最も豊かな〈食堂〉は閉鎖を余儀なくされるであろう。この映像は、時間流がそこへ流れこむ可能性のある近い将来の〈豊饒の海〉、いや、〈墓所の海〉の姿だ。もはや手遅れでさえあるかもしれぬ〕
 クレアは無情な光景から目を引き離し、狂おしく何度も頭を振りながら叫びました。
「もうやめて!! こんなのはもうたくさん! これは全部嘘よ! みんな夢の中なんだわ! メタ・セティの見た夢の中の悪夢よ! こんな世界を彼女が創造するわけがないわ! 実現させるわけがないわ!!」
〔クレアよ、残念だかこれはすべて現実だ。これが現実の世界だ。メタ・セティは確かに望みはしなかったかもしれぬが、結局彼女の創りあげた世界はこのようなものになった。
〔なぜ、彼女の娘はこれほど惨憺たる様相を呈するに至ったのか? 〈毛なしのアザラシ〉が出現する以前、そこには絶滅などという事象は存在していなかった。そこにあるのは時の流れに沿った緩やかな遷移だ。種族の構成員たる一個一個の生命についても同様のことがいえる。生死と目に映るのは形態の移行であり、系内に取りこまれる循環の過程にほかならない。全体が動的な平衡状態を保つ一つの恒常システムなのだ。すべて存する生命は多様にして絶えず変化しながら、なおかつ分かちえぬもの。最大の時空的スケール──すなわちこの惑星全体と四六億年に及ぶ全履歴をとったときに初めて、一個のまとまった存在≠ニしての生の全容が明らかになる〕
〔だが、〈毛なしのアザラシ〉たちは自己と他者を切り離そうとした。己れらの種族と異種族とを峻別し、境界を設けようとした。そのときから真の絶滅が起こり始めたのだ。真の生命の断絶、真の虐殺が起こり始めたのだ。にもかかわらず、彼らは本質的に生物であることのくびきから逃れることなどできはしなかった。その分裂と矛盾が拡大していった帰結が、現在のこの星の姿だ。
〔〈毛なしのアザラシ〉の出現によって、生命のシステムは崩壊の危機に直面している。彼らはいまや、すべての異種族を道連れにして滅びの潮路を突き進んでいる。当の〈アザラシ〉一族は、自ら種を播いたシステムの変容に耐えることはできぬ。システムの完全抹消は果たされまい。だが、数千、数万年に及ぶ空白の時代がやってくるであろう。我々の時代のバイオームの残存部分が再び機能をし始めたとしても、それは自然な生物進化の流れに委ねた場合とはまったくかけ離れたものとなるであろう。今日と同じ生態学的法則が通用するのか、今日に似た生命特性と多様性が見られるのかどうか、余は知らぬ。数十億年続いた歴史の系譜はともかくも切れる。メタ・セティは一からやり直す羽目になるのだ。
〔では、クジラ族はいかなる運命をたどるか? 無論、早期滅亡組に入れられる。〈沈まぬ岩〉が、〈ゴースト〉が、お主らミンククジラ族をも追いつめるであろう。現在鳴りをひそめている〈クジラ食〉は、復活の契機が訪れるのを油断なくうかがっている。システムの破綻が兆したとき、彼らは全〈アザラシ〉類の生存維持のためと詐称して大規模にクジラ族を狩りたてるであろう。そうなった暁には、かつての大乱獲時代が再現するのは火を見るより明らかだ。今度という今度は、辛くも滅びの憂き目を見ずにすんでいたミンク一族とて無事ではおられまい。彼らは結局、ほんのいくばくかごく一部の者の余命を延ばすためだけに、全鯨類を寸時に滅亡へと追いやるであろう。たとえ〈クジラ食〉が再開されることがなくとも、〈天の穴〉と〈疫の精霊〉という重大な脅威が待ち受けている。
〔我々はどうすればよいのかね、クレアよ? 海面に浮かんで滅びを待つのか? 〈アザラシ〉どもの一時凌ぎの延命のために葬り去られるのか? 彼らの絶滅の水先案内鯨(みずさきあんないにん)となるのか? 余は別の道を択る。よいか、生は死には勝てぬ。現在すでにきわめて劣勢に追いこまれている。死に勝つには死をもってするしかないのだ! 〈毛なしのアザラシ〉どもは自らを死の勢力と認めようとはしなかった。彼らはそんなことをおくびにも出しはしないが、それは彼らが死を生と偽って受け入れることに何の矛盾も躊躇も感じないからだ。彼らは影でコソコソと隠れるようにして、己れらの生をも欺きながら、モノ・セティに(こうべ)を垂れているのだ。余は堂々と死をおろがもう。彼らのように曲がった心根を持つことは、余にはできぬ。余は生のくびきを断った。完全な存在だ。彼らに勝てる。そして、余が勝つならば、愚かな彼らの轍は踏まぬ。生の世界に慈悲を垂れ、存続を許そう。そして、無能な〈アザラシ〉どもとは違い、自然を過つことなく管理し、コントロールしてみせよう。彼らには不可能だが、余の力をもってすれば可能だ。だが、もはやメタ・セティは二度と介入することはない。彼女は死んだ。彼らに殺されたのだ!
〔わかったか、クレアよ。余に仕えるのだ! 世界を護るのだ! すくなくとも、メタ・セティの偉大なる御業が無に帰することはないのだぞ!?〕
 クレアはあまりに多くの理解と想像を越えたビジョンを見せつけられ、〈脂の樽殿下〉の長い話を聞かされ、頭の中がすっかり混乱してしまいました。
「……あなたはどなた?」
 表情を示さない、藻の生した巨大な醜い風貌を抱くミンク大王は、視力の失せた目を細めていぶかるようにクレアを見つめました。
〔神経が参ったらしいな……。もう一度言おう。余は王だ〕
「違うわ! そういうんじゃなくて、あなたはだれかって訊いてるのよ!! 何をしたいか、何を考えてるかはもうたくさんよ。あなたはやっぱり私と同じミンククジラ族なんでしょ? あなたの名前は? どこの〈郡〉の出身なの? お母さんは? 兄弟は? あなたのこども時代はどんなだったの?」
 大王は冷たい笑みを浮かべて答えました。〔親衛隊長が説明したはずだ。余は超生物、ミュータントだ。世界に一頭しかおらぬ〕
「そんなのおかしいわ! だれだって産みの親がいるはずよ! 自分の属する種族があるはずよ! 幼き日々があるはずよ! つながりがあるはずよ!!」
〔ないのだ〕クレアと同じ種族の特徴をかすかに残した超生物は、やや語気を強めて言い放ちました。〔ないのだ〕
王を名乗る巨鯨の頑なな否定に、クレアは疲れたようにうなだれると、やがて弱々しい声でつぶやきました。
「……私には、あなたに見せてもらった世界も、あなたの話も、とても遠いことに思えます……。現実だと言われても、やっぱり私にはどうしようもないことだわ。私は一頭のクジラにすぎない。夏が来れば〈豊饒の海〉でオキアミを食べ、冬になれば〈抱擁の海で〉子を産み育てる、ただの一頭のメスクジラ。私にはそうやって生きることしかできないんですもの……。坊やを返してください……」
 〈脂の樽殿下〉はしばし沈黙しました。が、またヒゲの狭間から白い歯を見せる不気味な笑い方をして言いました。
〔よかろう。お主の説得はそれにふさわしい、お主と近しい者たちに任せよう〕
 謁見者を恐怖させる薄笑いとともに、ミンク大王の姿は白い霞の中に消えました。巨大な化けクジラがいったいどこへ行ったのかと、クレアはキョロキョロと周囲を見回しましたが、彼はまるで存在自体この世からかき消えてしまったかのようでした。と、不安に駆られる彼女の目の前、ちょうど王のクジラの背後にあたる位置で白い燐光の壁が取り除けられ、外の世界へ通じました。でも、三マイルを越える深みの上にいるはずなのに、眼下には海底が広がっています。これもまた別のビジョンなのでしょうか?
 クレアはその海底に目を凝らしてハッと息を呑みました。
 折り重なるように横たわっていたのはクジラの屍でした。屍の列は海底を文字どおり埋め尽くし、遠く水霞との境目もつかなくなる辺りにまで延々と続いていました。そして、その中に意外なものを発見し、クレアは思わず驚愕の叫び声を上げました。
「アン!! リリッ!!」
 屍の中にあったのはクレアの娘と友鯨(ゆうじん)のものだけではありませんでした。モーリスやマーゴリアや〈小郡〉の仲間たち、旅の道中で出会ったイルカやクジラたち、〈表〉の同族、バンクーバー〈ウロコ派〉のシャチまで……。そして──
「チェロキー!! ダグラス!! ジャンセン!!」

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