サカヒレは一〇頭余りの部下とともに、血の臭いを振り撒きながら遁走するザトウクジラの後を追いました。久方ぶりのヒゲクジラの獲物はいま、モノ・セティを中心に半径一〇マイルの範囲に及ぶ〈園〉の外縁を出かかっていました。でたらめに突き進んでいるわりには、意外に早く視界も視界≠燉かない白い闇の海域から脱出するのに成功しつつあるその逃亡者を、それでもシャチたちは焦って追う必要はありませんでした。哀れなザトウにとっては、かえって白濁した海の中で迷っていたほうがまだ余命を延ばすことができたでしょう。というのは、この〈園〉の領内ではシャチたちも長距離ソナーを使用できなかったからです。彼らが三頭のヒゲクジラを捕縛できたのは、付近の海況と海底地形を頭の中にたたきこんであるのと、相手に知られず接近する方法を心得ていたからでした。
この〈モノ・セティの園〉は、彼らの神とその祭司がいる海溝深部三マイルの〈神殿〉、その真上からちょっと外れたところに位置する〈御所〉を軸に、親衛隊の作戦指令室、訓練室、食堂兼遊戯℃コ、食糧貯蔵庫(いちばんの大口は神官のペットでした)、〈御所〉に隣接し明かりを供給する動力源かつ〈死のエクスタシー〉の供与場でもある〈炉心〉から成り立っています。この統制され、組織だてられた〈死の王国〉の中でも、全住鯨の動きを的確に把握することができたのは、ソナーも使わず空間と物体そのものを感知する能力を持つこの世界の二頭の上層階級者、王と神官のみでした。〈園〉の周辺警護には、殺しのテクニックにおいては秀でていても特殊能力を持たない親衛隊の二百頭のシャチたちがあたり、侵入者や脱走者がいないかどうか常時見張っていました。彼らは目と耳と勘に頼るしかありませんでしたが、どちらも一度たりと許したことはありませんでした。
ただ、〈沈まぬ岩〉に関しては慎重な配慮を怠ることはできませんでした。〈脂の樽殿下〉は、準備が整ってそのときが来るまで〈毛なしのアザラシ〉にだけは自分たちの存在を知られてはならぬと、〈園〉の兵士クジラたちにきつく言い渡していました。いままでのところ、外洋の深海に相当するこの海域に通りかかる〈岩〉は稀で、それもやり過ごせばすんでいました。
ところがこの夏、明らかに意図を持った一つの〈岩〉が、まさにモノ・セティの舎利殿の真上にやってきて静止しました。このときは〈モノ・セティの園〉創設以来の一大事と大騒ぎになり、新種族のシャチたちは潮吹きもこらえ、〈沈まぬ岩〉の動向を固唾を飲んで見守りました。海域中の水分子の蛍光照明はすべて消され、〈死の精霊〉のポンプも一時ストップせざるをえませんでした。が、〈落ちぬ岩〉を落っことしてから二十数年目に唐突に訪れた〈沈まぬ岩〉は、ほんのちょっと海水をすくっていっただけで、それきり二度と姿を現しませんでした。〈脂の樽殿下〉は大きな受け口に薄気味悪い笑いを浮かべ、「〈アザラシ〉どもの統治者もモノ・セティの存在を民に知られたくはないのだ」と、サカヒレには理解の及ばぬことをのたまい、警戒体制を解除させました。
とまれ、燐光に満ちた水域を離れてしまえば、あとは文字どおり丸見えです。四〇ノットのスピードで疾駆するシャチたちにとっては、どんなに頑張ってもその三分の一しか出せない鈍足のザトウに追い着くことなど造作もないことでした。ドクガンに早く行けと怒鳴られながらも、サカヒレが全力をあげて追跡する気になれなかった理由は、そればかりではありませんでした。彼は獲物に向けて頻々とソナーを発し、鼻のてっぺんから尾ビレの先までくまなく走査して、内部を通る音の減衰と反射から肉と脂肪の付き具合まで調べられる反響音を凝視≠オました(おかげで、チェロキーにとってはスリル満点の逃避行となりました)。
「ガリガリだ……」
聴ろ=Aヒレばかりやたら長いくせに身はイワシクジラほどもついてやしねえ。こいつに比べりゃ、あのシロナガスは倍以上ある大物だし、肉付きも並だったぞ。なんで同じ鯨数なのに、ドクガンの野郎は珍品のシロナガスをたっぷり頬張り、俺はこんな発育の悪い痩せっぽちを分けなきゃならんのだ? こんな不公平な話があるか! サカヒレはいくら耳を凝らし≠トも一向に肥える気配のない餌を聴続け≠ネがら、隣を泳ぐ部下に尋ねました。
「おい、長さが二倍あるとすると体積は何倍になる? 五倍だったか、六倍だったか?」
「二の三乗だと八倍ですね」
「八倍もか!? すると、六倍よりももっと多いな。おい、おめえ、うそついてやしねえだろうな。もし足りなかったら、てめえ自身の身で不足分を補ってもらうぜ」
「あ、いや、もしかしたら二の三乗は六だったかもしれません……」
「なんだ畜生。ううむ……しかし、それにしてもドクガンのやつらは六倍もたらふく食うんだぞ!? 俺より小せえくせしやがってだ!」
サカヒレはもう成熟したての小柄なザトウには見向きもせず、スピードを緩めて停止しました。
「どうしました、副隊長? 捕虜が逃げてしまいますよ」
「バカ! 親分と呼べ、親分と。俺はもう副でいるのはやめたぞ! あんな手負いのザトウは放っておけ。後でいくらでも拾いにいける。あの我慢のならぬ片目野郎にシロナガスを独り占めされてなるものか!」
サカヒレは吐き捨てるようにうなると、猛然と来た道を引き返しだしました。ドクガンめ、てめえが留守してる間、俺が何もせずにボケッと帰りを待っていたなどとは思うなよ──
地獄に最も近い暗黒の裂け目から、その得体の知れない生物は這い上がってきました。膨張したり縮んだりして流動する巨塊の形状は暗闇のせいでなかなかはっきりしません。とそのとき、銀色のイルミネーションがチラチラッと不規則に点滅したかと思うと、次にいっせいに輝いて怪物の正体をあらわにしました。それは巨大な、巨大なイカでした。全長は足の先まで含めると百メートルに達しようという、まさに生物の常識を逸脱したスケールでした。そして、岩肌をなめるようにして這い進んでくる足は、普通のイカ族の一〇本どころではなく、百本以上を数えました。直径一メートルの真丸い目の色は紅でした。
さしもの恐れ知らずのジャンセンも、この化けイカを見て隆起のある背筋が凍りつきました。〈沈まぬ巌〉でさえ恐いと思ったことは一度もなかったのに、ふだん口にしているイカを見て初めて真の恐怖を感じようとは、彼自身思いもよらなかったことでした。ちっ、クラークだってこいつに比べりゃよっぽど可愛げがあるぜ……。
「おいで、スージー。私のかわいいペットや」
化けダイオウイカは、主鯨のいる海溝の縁に足をかけました。それは押し寄せる津波のようにみるみる膨れあがり、四〇メートルを越える筒状の胴体を運んできました。
「胸糞の悪い化物を飼いやがって……」自らの恐怖心を抑えつけ、むりやり勇気を奮い立たせるようにジャンセンは低くうなると、吐き捨てるように言いました。
「さあ、スージー。ご飯をあげる時間だよ」
そう言ってディックU世はジャンセンのほうに流し目をくれると、薄ら笑いを浮かべました。リュウグウノツカイがイカの前に進みでました。目を潰された囚われのマッコウは最後の抵抗を示そうと、うめき声をあげながら死に物狂いでもがきました。イカの触手の一本がスルスルと伸びていき、彼の尾ビレをつかみます。給仕者の怪魚が去ると、餌はたちまち幾本もの白いゼラチン質の縄に巻きつかれて見えなくなりました。スージーはよほどかつえていたのか、久しぶりの大ご馳走にむしゃぶりつこうとして獲物を性急に引っ張ります。百本のうごめく足の中心に彼女はクジラを運んでいきました。そこには巨大な黒いくちばしが待ちかまえていました。肉に埋もれ、がっしりと組み合わされた切っ先鋭いカラストンビが上下に開きます。
「──!!」
うめき声は絶叫に変わりました。化けイカは哺乳動物の餌を生きたままかじりだしました。たくさんの吸盤の付いた腕で頭と尾をしっかりと押えつけ、クルクルと回すようにしながら肉をこそぎ取ります。食物連鎖の階梯を逆向きにさせたこの食事風景に、血を見慣れているはずのジャンセンも思わず目を背けずにはいられませんでした。
「フッフッ、おいしいかい、スージー? なにしろこの子は食欲が旺盛でね、餌が常時不足して困っているのだよ。五〇頭分あったマッコウクジラのストックをもう切らしてしまった。そろそろ補給しなくてはな。普段はイルカやヒゲクジラなども与えているんだが」
飼い主のクジラは、ペットのイカが餌のクジラを貪る様子を目を細めて眺めました。
「見たまえ、ジャンセン。これが〈死の精霊〉の力、モノ・セティの偉大さだよ」
ジャンセンは低くうなって白いクジラを鋭くにらみつけました。スージーはあっという間に食べ終わり、マッコウの生餌は四角い頭と尾ビレのみを残して骨になりました。彼女はまだおかわりが欲しいとねだってでもいるのか、体表に散らばる発光器を盛んに明滅させています。ディックU世はジャンセンを振り返って、勝ち誇ったように言いました。
「どうかね、これで気が変わったかな? 我々が必ず〈毛なしのアザラシ〉に、そしてメタ・セティに勝利するということがきみにもわかったろう。私の部下になりたまえ。それ以外に道はないよ」
しばらく声も出せずにいたジャンセンでしたが、おもむろにきっぱりと言いました。
「断る」
そして、噴気孔から侮蔑の徴の泡を吐きました。〈運命の告知者〉は血の色をした目でじっとジャンセンを見つめましたが、その白い顔から急速に笑みが消えていきました。
「……そうか。残念だな、優秀な参謀候補を失わなくてはならないとは」
白鯨は目をスージーに移し、また片意地な離れマッコウに戻しました。黒いクジラはとうていかないっこない巨大生物と戦うことも辞さないようでした。
「まあ、安心したまえ。きみをペットフード代わりにしてしまうのは失礼に当たるからね。私のヒレで丁重に葬ってあげよう」
二頭のオスは黒い目と紅い目で鋭くにらみ合いました。燐光が両雄の交わす視線の間で火花のようにきらめきます。
「そのほうが俺もせいせいするぜ。だが……あんた、大丈夫なのかよ? ケンカなんか一度もしたことねえんじゃねえのか? そればっかりか、お外にもろくに出してもらえなかったのと違うかい?」
二頭とも引き締まったたくましい体躯において相手に引けをとりませんでした。が、確かにジャンセンの言うとおり、体長ではわずかに上回っているディックU世の白い身体は、まるでいま生まれたばかりのようにまっさらで、一つの傷もついていませんでした。おとなのマッコウのオスならだれでも少しは勲章をもらっているはずですし、たとえケンカをしたことがなくとも、円いイカの吸盤の痕すらないというのはどう考えても変です。だいたい、後ろ前に進むイカたちは脇見運転とスピード違反の常習者ですから、図体の大きな生きものはもろに突っこまれて表皮にかすった痕をつけずにはいられません(マッコウクジラなら身柄を賠償に請求することもできますが)。
「フフ、心配は無用だ。私はもう五〇頭以上も強豪のオスを倒してきた。傷一つ負うことなくね。なぜ私の白い肌が滑らかな美しさを保っているのか、その秘訣を打ち明けようか。私には他鯨の運命を知ることができるのみでなく、その相手の精神をコントロールすることができるのだ。きみたちを攻撃したホオジロザメやオニイトマキエイは私が操っていたのだ。スージーも私が制御している。下等動物ばかりではない。シャチの心ですら支配できるのだよ。そしてもちろん、マッコウクジラもね。フフフ……」
〈告知者〉の深紅の瞳はにわかにギラギラと異様な輝きを放ちだしました。自分に向けられた妖しげな視線を、ジャンセンはひるむこともなく受け止めました。
「さあ、これできみは私の言いなりだ。きみはもうマッコウクジラではない。きみは一匹のイカだ」
「バカ言ってらあ。別になんともねえぜ」インチキ超能力者などにだまされやしないとばかり、被験者の黒いクジラは潮吹き孔でせせら笑いました。
「さて、それはどうかな? 自分のヒレを見てみたまえ」
「なんだと? ……うおっ!?」
ジャンセンが自分の胸ビレに目をやりますと、どうしたわけか、そこにあったのは黒いオール上のヒレではなく、吸盤の付いた鞭のような長細い触手でした。
「さて、我々マッコウクジラとイカとは契約を交わしているんだったね。イカであるきみは、クジラである私に食べられなくてはならない。きみは決して私には向かうことはできない。さあ、おいで。おいしそうな今夜のおかずくん」
〈運命の告知者〉は紅い目を向けたまま、細い下顎を開いて二列の歯を現し、胸ビレを差し出してイカに変身したジャンセンを招きました。ジャンセンは必死になって抵抗しようとふんばるのですが、身体のほうが言うことを聞きません。彼の視線は、ほのかに光って見える捕食者の白い歯、白い全身に釘付けにされました。その輝くばかりの白さからどうしても目を離すことができないのです。彼は一〇本の足をくねらせて、操り手の鋭い歯の並ぶ口元へと、吸い寄せられるようにゆっくりと泳いでいきました。
「さあ、おいで!」
ヒレが届かんばかりの距離にまで接近したとき、ジャンセンはいきなりディックU世に飛びかかって白い額に歯を突き立てました。不意をつかれた白クジラはすぐに敵の顎門から身を振りほどいたものの、攻撃不能なはずの獲物が予測外の反撃に出たことに対して、生涯に一度もあげたことのない狼狽の叫び声を発しました。
「な、なぜだっ!? イカにはクジラに抗うことは許されないはずだぞ!?」
顎と尻尾をうならせるように身震いして、暗示から解かれたジャンセンは不敵な笑みを浮かべました。
「ヘヘ、別に契約違反をしたわけじゃねえぜ。確かに、イカがクジラに歯向かうわけにゃいかねえだろうが、イカがイカに歯向かったって文句はあるめえ?」
「!?」
「なぁに、あんたのその生っ白い身体を見ていたら、つい歯ごたえのありそうなイカを思い浮かべちまったのよ。まあ実際のところ、てめえは食えねえ野郎だがな」
イカに変身しても、ジャンセンのケンカっ早い性格はどうやら変わらなかったようです。今度は白クジラのほうがうなる番でした。生まれて初めて付けられた額の傷口から、ジワジワと赤い血が染み一つなかった白い皮膚ににじんでいました。
「これであんたにも痛みってもんがちっとはわかったろう? ケンカに勝つにしろ獲物を捕まえるにしろ、傷一つなしにすまそうなんてのは虫が好すぎるぜ。さあ、どうしたい。もうおしまいなのか? だったら、こっちから行くぜ!」
すかさずジャンセンは突撃の態勢をとりました。と、無言で身を震わせ歯ぎしりしていたディックU世は、うなるのをやめ凄味のある笑みを満面に浮かべました。
「きみはとうとう私を本気で怒らせてしまったようだね……」
爛々と輝く瞳が一層紅味を増しました。彼が白い額にググッと力を込めた瞬間、ジャンセンの全身からは血が吹き出ていました。
「な、なんだ、いまのは──!?」
二六メートルの巨躯に秘めた怪力による必死の抵抗も空しく、ダグラスはとうとうシャチ親衛隊のヒレによって組み敷かれてしまいました。鼻先と両の胸ビレ、尾を鋭い牙で噛みつかれてしっかりと固定され、じっと目をつぶっている老鯨は、青白い身体の至るところに赤い血をにじませてなんとも痛々しい姿でした。
「おいおい、いい歳してまたずいぶんと張り切ってくれたもんだな。ヒゲクジラ相手にこんなにてこずったのは初めてだぞ。え、老いぼれシロナガスさんよ?」ドクガンはダグラスの顔のそばに自分の顔をぐいと近寄せ、飛び出た右目で相手の目をのぞきこみました。
「身体を張って異種族を逃がすたあ実に泣かせるねえ。だが、どうやらあんたの親切は裏目に出ちまったようだぞ。なにしろ、お前さんの相棒を追ってったのは親衛隊一のド阿呆だが、食い意地だけはえらく張ってやがるもんでよ。可哀相に、あんな痩せっぽちのザトウじゃ、きっと骨も残らんだろうなあ」
ダグラスはじっと黙したまま、陰湿な愉悦に浸るシャチの頭領を無表情に見つめました。
「すっかり観念したらしいな。これも年の功ってやつかい。どうだ、何か最後に言っておきたいことでもあるかね?」
「言い残すべきことは山ほどあるが、それはわしの同族たちに対してであって、お前さんにではない」
「ふん、そうかい。じゃあ、あきらめるこった。俺たちゃわざわざ遺言を伝えてやるほどお鯨好しじゃねえ。だが、俺たちの腹の中でなら、同族に聞かせる機会を持たせてやってもいいぜ」ドクガンは黒い上顎と白い下顎の間から鋭い牙と真っ赤な口腔をのぞかせて嗤笑しました。
続いて親衛隊長は、ミツマタ亡き後の彼の補佐役を務める、噴気孔の周囲に大きな白斑のあるシャチをそばに呼びました。
「おい、ハナジロ。俺はちょっくら用を済ませてくるから、適当にこいつをいたぶってろ。その間に銘々の取り分でも決めておけ。いいか、俺にいちばん上等なとこを残しとくんだぞ!」そう言いつけると、ドクガンはどこかへ姿を消しました。
上官が去った後、俎板に上がった大きなクジラを前に、さてどうやってこのご馳走を分配しようかとハナジロは思案しました。結局、赤肉は全員に配給し、残りは階級の高い順から選んでいくのが得策だろうと判断したのですが、隊長の分をどの部位にしたらいいか決めあぐねました(彼は決断力が鈍くてなかなか昇進できないタイプでした)。そこでハナジロは、ドクガンと同じように部下のオイシッポに意見を請いました。
「こら、伍長。一番上等な肉ってのはどこだ?」
「そりゃもちろん、クジラといやナガスの尾身に決まってますよ、隊長補佐殿」
「さっきからそればっかりじゃないか。こいつはナガスじゃなくてシロナガスだぞ?」
「え? ううん、まあ似たような名前なんだから同じじゃないですか?」
「ずいぶんいい加減だな。お前、本当にナガスの尾身なんて食ったことあんのか?」
上官に詰問されると、オイシッポ伍長はバツが悪そうに答えました。「えっとお、その……ないですけど、一応そういう話になってるから……」
あてにならないグルメシャチを隊長補佐は邪険にヒレを振って下がらせました。
「ふん、まあ仕方がない。ドクガン隊長にはとりあえず尾身を残しておくか。さて、じゃあ俺はサヤ(シャチたちのグルメ用語で舌をさします)にするかな」
それから、シャチたちは隊の序列に従って銘々自分の好きな部位を選んでいきました。
「俺はオバイケでいこう」
「俺はウネだ」
「俺、スノコ」
「百尋」
「豆ワタ」
「俺様はカブラよ」
「ウスだな」
「丁子」
「小ヒゲ」
「吹ワタがいい」
「イカワタにするか」
「大ワタ」
「ええっと、ううんと、ぼくは〜……デンヅル」
全員が選択し終わったところで、ハナジロが言いました。
「よし、決まったな。それじゃあ食前の準備運動といくか」
ここでシャチたちはそろってゲラゲラと下品な笑い声をあげました。宴の会席についた十数頭の列席者はダグラスの周りを円く取り巻きました。
「よし、始め!」
シャチたちは一頭一頭飛びだしてダグラスの皮に噛みついては戻り、次の者と交代しました。鋭い円錐形の歯が食いこむたびに、ダグラスは苦痛に身をよじりました。
「いいか、まだ肉にヒレをつけちゃいかんぞ」
大きな身体をなみなみと満たしていた血液が、次第に白い海水を紅く染めていきます。血の色を見て興奮したシャチの中には、上官の命令に逆らってちょっぴり皮の部分をかじっていく者もいました。身動きのとれぬ獲物を容赦なく痛めつけながら、彼らは野卑な罵声と嘲笑を浴びせました。
「ヘイ! ヘイ! ヘイ!」
「サヤ出せ! サヤ出せ!」
「早く出しやがれ!」
「ヘイ! ヘイ! サヤだ、サヤ!」
「食わせろ、サヤ!」
ダグラスはシャチの牙に苦しみながらも、断固として舌を見せまいと口を固く結びました。
「ムムム、大事な〈歴史家〉の商売道具をだれが取られてなるものか!」
「頑固なジジイだ。だが、果たしていつまでもつかな? あ、隊長!」
そこへドクガンが浮かない顔をして戻ってきました。彼は白と黒のマッコウクジラの対決の模様を探りにいっていたのです。視覚も聴覚も有用でないこの〈園〉にも、音の吹き抜ける穴場がありました。親衛隊随一の優れた聴力の持ち主であるドクガンは、深海にある〈神殿〉の上層の一角で聞き耳を立て、神官クジラの行動を密かにスパイしていたのです。風来坊の黒いマッコウが優勢なようなら、こっそり加担して鼻持ちならない白マッコウを陥れることもできましょうし、よしんば白いほうが勝ったとしても、彼の能力をゆっくりと観察できるというものです。ところが、計略家のシャチがそこで耳をすましたとき、最初に飛びこんできたのは、身の毛もよだつクジラの悲鳴でした。
「畜生、やつのグロテスクなペットのことを計算に入れてなかったな……」
ドクガンは仕方なく回れ右しました。道々彼は、あの化けダイオウイカを退治する手段はないものかと思案に暮れました。成熟したマッコウのオスをおやつにペロリとたいらげてしまう食欲と水脹れの塊は、史上最強の生物といってまず間違いないでしょう──生物を超越した〈脂の樽殿下〉を除いては。先にあの虫唾の走るゲソ公をなんとかしねえと。癪に触るが、宗教学と数学と生物学が専門の学者先生殿にイカの生態について一つご教授願って、弱点なりてなずける方法でも見つけださんことにゃ、やっぱ二進も三進もいかんわな……。だがまあ、そいつはとりあえず脇に置いといて、いまは飯に専念するか。
「おい、各自の分け前は決めたのか? 俺の分はどうなった?」
「は! ドクガン隊長には尾身を召し上がっていただき、私がサヤをいただくことにしました」
「バカ野郎、尾身もサヤも俺が食うんだよ」
「は、はあ……」隊長補佐はがっくりと胸ビレを落としましたが、気を取り直して言いました。「それでは、私は尾羽をもらうことに」
「俺はウネといこう」
「俺はスノコだ」
「俺、百尋」
「コロ」
「豆ワタだ、豆ワタ」
「カブラ」
「俺様はウスよ」
「丁子だな」
「小ヒゲ」
「吹ワタ」
「イカワタがいい」
「大ワタにするか」
「デンヅル」
「ええっと、ぼくは、ぼくはぁ〜〜……あと何が残ってるの? 吹ワタは?」
「もう取られたよ」
「あ、そうなんだ……。じゃあカラキモ」
「バカ、そりゃ食えねえよ」
「そ、そうだっけ……。それじゃあ、ええっと、ううんと、あのぉ〜……キンツー……」
獲物の再配分が終わったところで、ドクガンは目をぎらつかせている隊員たちを見回しました。
「お前ら、食前の礼拝はすましたか? 俺たちがこうして息をつないでられるのもモノ・セティのおかげだっつーことをきちんとわきまえろよ? 彼女のお恵みに感謝の気持ちをこめ、選りすぐりのエリート隊員として恥じないよう、食事のマナーに細心の注意を払うことだ。わかったか? え? んなこたどうでもいいからさっさと始めろ? やれやれ、しょうのない連中だな。よし、それじゃあ……いただきだ!」ホイッスルの合図と同時に全員が飛びだします。
「待ちな!!」
ドクガンが大きな右目で声の主のほうをギョロリと見やると、逆向きの背ビレを傲慢にそびやかした副隊長がそこにいました。彼の後ろには、獲物のクジラを取り巻いている十数名を除いた親衛隊員全員が控えていました。
「そのシロナガスは俺が食うのさ、ドクガン隊長。いや、元隊長──」